33.贄と器
朝の光が差し込む中、浅葱は自室の窓をわずかに開けて、庭の風を感じていた。
静かであった。
賽貴が魔界へ戻り、白雪も式神として再契約を結び、紅炎や颯悦もそれぞれの持ち場に戻った。騒がしく慌ただしい数日のあとの静けさは、妙に胸の奥を落ち着かせる。
(けれど、なんだか……)
どこか、物足りなさ――否、焦りがある。
浅葱は、机の引き出しに手を掛けた。そこには、一冊の手帳が入っていた。それは、従兄の匠が留学前に置いていった私物のひとつで、『必要になる時まで見なくていい』とだけ言い残していたものだった。
「……そろそろ、見てもいいのかな」
そう独りごちて手に取ろうとしたとき、ふいにドアの外に気配を感じた。
「浅葱どの、よろしいか?」
声の主は、紅炎であった。颯悦と共に夜間を通しての見回りをしていたのだが、何かを掴んできたのだろうか。声には少々焦りの色みある。
「入っていいよ、どうしたの?」
「朝早くに申し訳ない。……白雪と颯悦が……月梅と再び接触しました」
「……っ」
浅葱の表情がこわばった。
紅炎を含め、式神たちには何らかの障害が発した時、それが危険と判断できたなら自分の命を待たずに行動してもいいと伝えてある。
だからこそ起こった事なのだろうが、落ち着かない気配はこれだったのかと感じた。
「場所は、旧校舎跡地。大きな戦闘には至りませんでしたが……奴は再び白雪に執着を示していた」
「……そう。うん、知らせてくれてありがとう」
白雪はきっともう大丈夫――そう思っている。
だが、やはり……まだ、全部は終わっていないのだ。
門があり、閉じられていたとしても――空間転移が出来るものが存在する以上、脅威は無くならない。
「僕も……そろそろ、本当に向き合わなきゃいけないね」
浅葱は、ようやく先ほどの手帳を開く決意をした。
真ん中に挟まれていたものは、封印された古文書の写しだった。匠の注意書きもある。
『こいつは不必要に発動させるなよ。琳と藍が触れちまったものでもあるからな』
土御門――賀茂家が、かつて禁忌とした呪具、死反玉に関する記録。蘆屋が管理していたものだが、匠はすでにこれを知っていたのだろう。
浅葱の記憶にはない文様が並ぶ中、その最後にこう記されていた。
――『名を継ぐ者が、魂を招かんと欲すれば、器は記憶に応じて開かれる。』
(これは……)
震える指先で文書を閉じ、浅葱は顔を上げた。
「賀茂浅葱の魂が、まだここに残っているとしたら――」
再び、あの人に声を届けるために。この名を継いだ者として――だがそれが、許されるべき行いなのだろうか?
浅葱は静かに顔を上げ、傍で控えていた紅炎を見た。
「……紅炎。ひとつ、聞いてもいい?」
「なんでしょう?」
浅葱は手帳をそっと机に置き、正面に座った紅炎に向き直る。
その眼差しはどこか静かで、でも何かを決意した者のそれだった。
「もし、魂を呼び戻すことができるとしたら――あなたは、それをどう思う?」
問いかけに、紅炎の瞳が鋭くなった。
浅葱の意図を、既に読めているようだ。
「……誰のこと指しているのか、敢えてお聞きしても?」
「かつてのあなた達の主……賀茂浅葱だよ」
「――……」
一瞬、室内の空気が揺れたような気がした。紅炎は静かに息を吐く。
「以前……匠どのから四神を引き継がれた時、賀茂浅葱の意識と遭遇したと仰っていましたね」
「あ、うん……」
「彼はどう映っていましたか? ハッキリとは見えなかったでしょう」
「四神の……青龍かな。彼に協力してもらって、ようやくっていう感じだったよ」
――私は、賽貴との時間を願っただけなのに……。
あの時の記憶がよみがえった。
寂しそうに笑いながら、自分の気持ちを吐露した賀茂浅葱。己の運命に逆らえなかったことを悔いているのか、それとも――受け入れてしまっているのか、判断はし難かった。
それでも、飲み込まれたらダメだ、とぶつけたのは浅葱本人だ。
負の感情に流されてしまってはいけない。それこそ蘆屋の思う壺だ。
だが――今こうしている間にも、賀茂浅葱の魂はどうなっているのだろう?
この世に戻すという事は、決して単純なことではないのだと浅葱は改めて感じた。
「……その手帳は、匠どののものですか。先ほど読み上げられていた『器』とは、おそらくあなたのことを指しています」
「うん、そうなんだろうね。僕は贄だって、前にも伯父さんから言われてた」
「でしたら、この話がどれほど危険なものなのか、お分かりですね」
「うん、わかってるよ」
浅葱はしっかりと頷いた。
「僕がこの名を継いで、色んなことから逃げて、全部を諦めそうになった時、ずっと背中を押してくれたのは、賀茂浅葱だった。だからあなた達がいてくれるのだろうし、その存在があったから僕は……」
「仰りたいことはわかります」
浅葱は一拍置いて、紅炎の言葉をかみ締めるように小さく頷く。
「単純に、戻ってほしい。生き返ってほしい……そういうことじゃなくて。ただ僕は、彼の意思を……もう一度だけ聞いて、受け取ってみたい」
「…………」
その言葉には、誰の代弁でもない、土御門浅葱自身の想いが込められていた。
紅炎はしばし目を伏せ、黙って考え込む。
――そして、ようやく口を開いた。
「一つだけ、試す価値がある方法があります」
「……!」
浅葱が顔を上げた。
「白雪が不在だったあの頃、門の存在すら曖昧でした。魔界から這い出てきたモノ、死したものの魂すら、彷徨い始めていた。それらはすべて我々で排除しましたが……白雪との再契約が行われたあの瞬間、彼女の決意に触れた魂がありました」
「……っ、それ、って……」
「おそらくは、賀茂浅葱の魂です」
紅炎の言葉に、浅葱はそっと目を閉じた。これを幸運と呼ばずにして、どうするのだろう。もしかすると、これが最後になるかもしれない。
心のどこかで、答えは出ていた。彼はもう、迷っていなかった。
「その魂が、どこにいるのかはわかる?」
「……白雪が、門の手前で留めております」
紅炎が静かにそう言う。おそらく、彼女もその魂に既に触れているのだろう。
彼女らのかつての主は、まだ清いままでいるだろうか。
「僕がその場に行くのは、大丈夫かな?」
浅葱がそう口にしたとき、紅炎はわずかに考えるように目を伏せ――そして、静かに頷いた。
「それでしたら、朔羅を伴わせてください」
「紅炎……」
「今も、近くでやきもきしているでしょう。浅葱どのの一番の存在なのですから、共に在ったほうがよろしいかと」
「うん、そうしてみる。ありがとう」
そしてその夜――白雪の手引きにより訪れた一つの門にて、『賀茂浅葱』の魂に呼びかけを行った。
その声はまだ届かない。だが、確かに何かが、微かに遠くで――応えた気がした。
◆
その頃、月梅は再び蘆屋会の拠点に姿を見せていた。
白雪との接触で感情が揺れたままの彼を、誰も咎める者はいない。
だが、その背後では新たな歪みが形を成そうとしていた。
「月梅よ、次の指示だ。『器』の在り処が、ほぼ特定された……いや、あの贄が、器そのものであったというべきか」
「贄……? あぁ、白雪の今の主のことか」
「『彼』を呼び戻すための核。これが動けば、賀茂の魂は否応なく――現れる」
「ふぅん……」
月梅の顔に、再び歪な笑みが浮かんだ。
賀茂家の因縁の話など、やはり彼にとってはどうでもいい。だが、土台としては十分に使える。
「……だったら、おれの『白雪』も、きっと逢いに来てくれるだろうね」
彼の中で、過去と現在がまた混ざり合い始めていた。
終わらぬ執着。終わらせなければならない連鎖が、今――確実に動き出していた。




