31.静水の座、揺らぐ声
幸徳井家の客間には、早朝の静けさがまだ色濃く漂っていた。
静柯の隣にいた紅子は浅葱に一礼すると、視線を軽く逸らしてから、座の一角に静かに腰を下ろす。
静柯は妹の所作を横目で確認した後に軽く一礼し、場を整えるように間を取ってから口を開いた。
「初めまして、ですね。土御門の浅葱どの」
「は、はい……このような突然の訪問、申し訳ありません」
「いえ。朔羅が一緒であれば、それなりの事情があると察しておりましたので」
静かな応対であった。丁寧な言葉遣いの中に、どこか張り詰めた線が一本走っている。
浅葱はそれに気づきながらも、背筋を正し、深く頭を下げた。
「……白雪が戻られたとの話、伺っています。まずは何より」
「ありがとうございます。……ほんの少し前に、戻ってきてくれました」
「門が揺らいだ時、こちらにも僅かながら反応がありました。何かが移動した、そんな痕跡です」
「……移動?」
「表立っては話せない内容ですね。いずれ貴方も関わるであろうことなので、あえて伏せておきましょう」
浅葱は言葉を詰まらせ、隣にいた朔羅だけが表情を僅かに引き締めた。
静柯の言葉は遠回しだが、それでもただの警告ではない何かを含んでいた。
すると、その張りつめた空気の中で、紅子がふと顔を上げる。
「……あの、土御門さんの傷は、もう大丈夫ですか?」
「あ、うん。……おかげさまで。あのとき、助けてくれてありがとう」
「べ、別に、助けたつもりは……でも、そう言ってもらえるなら……」
小さな声で、言葉を濁すように。それでも彼女の表情は、以前よりもずっと和らいでいるかのように見えた。
その紅子の視線が一瞬だけ、ふすまの奥をそっと伺うように動く。
(……誰か、いる?)
その仕草に浅葱が気づいたときには、静柯が片手を横に出し、微笑をたたえながら口を開いた。
「今は、まだ。こちらでは」
「……は、はい」
浅葱はすぐにそう返した。場の空気が徐々に軟らかくなりつつあるのを感じながら、深く一礼する。
「いまの僕に出来ることは、皆の力を借りながら、それでも前に進むことです。白雪のことも、今後の門番の在り方も、僕一人では対処しきれないと……そう思っています」
「……貴方のような方が、素直にそう言えるとは驚きですね。……その姿勢は、評価に値しますよ」
静柯の瞳がほんの少しだけ和らいだ。
それは、当主としての面ではなく、一個人として浅葱を見た上での言葉だった。
「『浅葱』の名を……彼の力を継いで以降、貴方の歩みには注目していました。ですが、ようやく『らしく』なったようですね」
「……ありがとうございます」
「もっとも、それは同時に厳しさを増すことにもなります。誰もが味方というわけにはいきません」
その一言に、朔羅がちらりと浅葱を見る。
浅葱もまた、今の言葉の重みを理解しながら、小さく頷いた。
「承知しています。だからこそ、こうしてお願いに上がりました」
「なるほど。それでは紅子――」
名を呼ばれて、少女が静かに顔を上げる。
だが、静柯は何も命じず、ただ視線だけをそのままに重ねた。
そこから少しの間を置き、口を開く。
「貴女にはもう、見極める目があると、私は思っています。……だからこそ、いずれ『然るべき時』には、力を貸してやりなさい」
「……はい、わかりました」
「大事に至る場合は、すぐに私に知らせること」
「はい」
兄の言葉に、紅子は静かに頷いた。
その瞳の奥には、いまだ揺れる戸惑いと、芽生え始めた何かが淡く光っているようだった。
「それから、藍のことですが……」
「……はい」
静柯の言葉がそこで一瞬止まる。
その名を出された浅葱の表情がわずかに動いた。やはり、先ほど感じた気配は――。
「……まだしばらく、こちらに預けて頂いても大丈夫でしょうか。決して悪いようには致しませんので」
「僕はそれでも構いません。……なんとなくですが、気配も感じられますし、大丈夫だと思っています」
「ふむ……」
それ以上、浅葱は何も言わなかった。静柯はその反応を見て、僅かに目を細めてから微笑む。
何も見えてないわけではない、今この瞬間も彼は様々な事を感じて理解をしている。
『――土御門の浅葱とやらは、とんだ傀儡だわ。お話にもならないくらい、お粗末な子よ。匠さんはまだ利発だけれど、どちらもうちの静柯さんや紅子さんに比べたら……』
かつて、自分の母親がそんなことを言っていたのを思い出した。
名門『土御門』にひどく固執した後、その後を継げなかったことに怒りを表しに、静柯にも紅子にも『土御門だけには劣らぬように』と繰り返している『愚かな母』だ。
(さて、お粗末なのはどちらでしょうね)
静柯とて、前世の記憶が無ければ、母の思惑通りに『幸徳井家の傀儡』として動かされていただろう。それを思うだけでも、今のこの状況は幸いでしかない。
土御門家は静かに戦っている。だからこそ幸徳井家も――くだらない『お家事情』に、静かに立ち向かうしかないのだ。
「……じゃあ、今回はこの辺でお暇しようかな」
「おや、朔羅からは何も無いのですか?」
「僕の性格くらい知ってるでしょ、静柯さん。僕はこの状況と浅葱さんの身の回りを固められればそれでいいだけだよ」
「……やれやれ、相変わらずですね。まぁ昔からの仲でもありますし、良しとしましょう」
言葉通りの呆れたような姿を見た浅葱は、その光景を五日に見たかのような感覚に陥った。
おそらくは、賀茂浅葱が見た記憶――それを、微かに感じ取ってしまったのだろう。
気の遠くなるほど昔の話、こんな会話をしていたのかもしれない。
(今まではこんな気配は感じることもなかったのに……幸徳井さん……静柯さんの、力なのかな)
そう思いつつも、今この場では問えないことだと浅葱は察した。
静柯の力だというのであれば、彼の居る『この場』でしかその神聖さは感じられないからだ。
「あの……紅子さん、これからも、よろしく」
「……、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
浅葱と紅子は、そこでようやく互いに頭を下げて表情を和らげた。
そうして彼らは、静柯に幸徳井家を後にする。
――その一部始終を気配のみで追っていた諷貴は、口元にわずかな笑みを刻む。
彼にとって重要なのは、静柯の意思だけ。
世がどう転ぼうと守るべき主が明確なら、それで十分なのだが――事が事なだけに、あまり楽観視も出来ないと感じているようだ。
「さて……どうしたもんかな」
小さなつぶやきは、誰の耳にも届かぬまま、虚空に吸い込まれていった。




