29.扉の向こう、変わらぬ声
魔界・王帝の屋敷にて、静寂の夜はひたすらに長い。
どれだけの時間を無駄に過ごしていたのだろう。
責めるものすら消え失せたと思える頃になりようやく、白雪は顔を上げた。
「……、……」
同じようなことを、遠い過去にも経験したではないか。
そう、冷静になったところで自身に囁きかける。あの頃は、最愛の人を亡くし、その悲しさと虚しさから彼の関係者を全てこの手に掛けてしまった。だから今世を掛けて彼女は責を背負っているのだし、この事実は時がどれほど過ぎ去ろうと変えられない。
――愛しきものの裏切りがあろうとも、変わらないものが確かにあるのだ。
「……そう、であったな……」
不思議と、迷いや後悔が薄れていく。
褥の脇には、彼女が今まで纏っていた袴と小袿が綺麗に畳まれて置かれていた。
今は衣一枚だけの彼女であったが、それに目をやった後は姿見へと視線をやった後、ゆらりと立ち上がった。
「ふ……ひどい顔をしておる……」
鏡に映った自分の姿に、自嘲した。
そうして、静かに紐をほどき、衣を肩から降ろす。その際に背中を鏡に向け、素肌に傷があることを確認する。
かつての主、賀茂浅葱に記してもらった、『空』の文字が削られている。それは、かの者――そして、現在の主である土御門浅葱の式神としての資格を失った何よりの証拠でもあった。
愚かな女の、愚かな末路――そんな言葉が、一番しっくり来てしまう。
(もう戻れぬ、などと……厚かましい)
己の身勝手さに、またもや苦笑した。
だが、そこにはもう数日前まで泣き暮らしていた彼女の姿は無い。
「壊れた井戸の水は……もう枯れ果てた故な……」
自身の腫れた瞼に触れて、小さくそう言った。
流す涙などもう無い。
後悔も、迷いも涙と共に流し切ってしまった。
だからこそ、彼女は前を向かなくてはならないのだ。
「……白雪?」
「賽貴殿か」
塗籠の壁の向こうに、気配を感じた。
この屋敷の主でもある、賽貴のものだ。
「動けるようになったようだな」
「すまぬな、扉を開けて挨拶をしたいところなのだが――身を整えておらぬ故に、このままで」
「ああ、それはかまわない。浅葱さまから、貴女に手紙を預かってきている。読めるようなら、読んでくれ」
「承知した。……そなたにも面倒をかけてしまいすまぬな」
扉下の隙間から差し出された封筒は、簡素で温かみがある筆跡の主のものだった。
白雪は静かにそれを受け取ると、手の中の紙が微かに震えた。
『白雪へ。
もしあなたが、まだ僕のことを思い出してくれるなら。
もし、あなたが自分を責めすぎていないなら。
僕は――ここで待っています。
いつでも、迎える準備をしているから。
土御門浅葱』
――それだけであった。
命令でも赦しでも、言い訳でもない。
ただ、白雪自身がどうしたいのかを問うことすらしない、信頼だけが綴られていた。
白雪は封を胸に当て、そっと目を伏せる。――まだ、希望はあると感じさせてくれることが、何より嬉しいと思った。
「……あの方らしい文だ。変わってはおらぬな……」
「貴方が望むなら、こちらからも手筈は整えられるが……」
「いいや、こうして世話をしてもらえただけで十分だ。あとは己で立たねば」
白雪はそこで深呼吸をし、決意を固める。
そして目元に残る涙を指で払い、扉の向こうへ向かってゆっくりと語った。
「王帝・賽貴殿。……妾は再び主のもとへ帰る。門番として、土御門浅葱の式として」
「わかった」
「……妾が選んだ『今の主』として、浅葱どのが契約を結んでくれるとよいのだが」
「それは、杞憂するところではないだろう」
扉の向こうで賽貴が小さく苦笑したのを感じた。つられるようにして、白雪も同じように笑う。
それは、祝福にも似た音だった。
◆
一方、その頃。
浅葱は自室内でふと制服のポケットに違和感を覚えた。
「……ん?」
学園のほうは妖魔の襲撃の関係で修復作業に時間がかかり、休校している。
浅葱も身体共に整える時間が必要となり、その先で制服の上着を壁に掛けていなかったと慌ててハンガーに掛けているところだった。手で埃を払っているところで、妙な膨らみを指先が捉えてポケットの中身を探る。
――そこには、先の千切れた白藍色の房紐がひっそりと収められていたのだ。
「これ……白雪の……?」
かつて白雪が扇に携えていたものと酷似している。
おそらくは、あの鈴と一緒に括りつけられていたものだろう。
もしかすると、賽貴が現場から拾い上げ、浅葱へと届けてくれたのかもしれない。
「……うん、じゃあ……これを媒体にしよう」
浅葱は息を呑み、それを手のひらに乗せて、もう片方の手のひらを重ねた。
隙間から息を吹きかけ、己の霊力を房紐へと注ぎ込む。
かつての鈴はここにはない。
賀茂浅葱のようなセンスはない。だからこそ、賽貴が繋いでくれたこの縁を、活かしたいと思ったのだろう。
「……いつでも、戻ってこられるように」
誰に言うでもない言葉が、自然と唇から漏れた。
手のひらの中の房紐に変化が訪れた。ふわっと淡い光を放った後、千切れていたはずの紐の先が修復され、元の形へと戻っていったのだ。
あとは、浅葱自身が白雪に契約を施すだけ。――繋がりは、まだ完全に途切れたわけではなく、細い糸のように繋がっている。
彼女は、自分の元へ帰ってくるつもりであると、それだけで確信できた。
浅葱はそっとその房紐を胸元にしまい、目を閉じる。
「待ってるよ」
再び、式神と主として向き合えるように。
その時をただ静かに待とうと、そう思えたのだった。




