28.触れ得ざるもの
――ただ、ひたすらの空虚であった。
どうしようもない後悔と、身からあふれ出る思慕。そのどちらにも割り振れない感情が、白雪の心を静かに、確実に蝕んでいる。
「……愚かな」
魔界にて、王帝・賽貴の所有する屋敷の一室。
人間界で言うところの塗籠に近い空間の中で、白雪は身を小さく丸めていた。意識を取り戻してからというもの、彼女は誰とも顔を合わせようとせずに、用意された食事にも手をつけず、膝を抱えて己を罵り続けるだけの時が過ぎていく。
「愚かな、愚かな……なんと浅ましき女よ……」
思い返すたびに、体が火照る。
あのときの温もり。唇と唇が触れた感触。指先が肌をなぞった感覚。それらが鮮烈に記憶へ刻まれて、否応なく悦びの感情が滲み出してくる。
――だがそれでも、心は叫んでいた。あれは、決してあってはならぬことだと。
幾星霜、何百年も待ち続けた再会だった。自分の誇りを支えていた最後の願いが、あの一瞬にして壊れてしまった。
彼の手は誰よりも優しかった。その声も、まるで昔のままの響きを持っていた。
それが、どれだけ恐ろしいことだったか。
「……あれは、もはや月梅ではない」
自分に言い聞かせるように、また呟く。
いつかまた、どこかで巡り合えることだけを願ってきた。同じヒトでも良い、白雪にとっては種族などには拘らず、普通に転生をしてくれれば、それだけで良かったのだ。例え逢えなくとも、命が繋がっていくのであれば、それだけで――。
「……、う……っ」
心が毒に侵されたかのような気分だ。『彼』に触れられたことには悦びを感じているのに、心では完全に否定している。その相反する感情が悪阻のようなものに繋がり、何度もえずく。
面影を重ねてしまう存在を目の前にして、冷静でいられるはずがない。
そんな彼女の手元に、何か触る感触があった。
ゆっくりとそちらに視線を向ければ、白藍色の房飾りが視界に入る。それは、自身の武器として持ち歩いていたあの扇の先に飾り花と一緒につけられていたものであり、遠い昔に賀茂浅葱が鈴と一緒に授けてくれた組み紐の片割れだった。
千切られて見えるのは、月梅の君に抱き込まれた際の影響か。どこにも見当たらないとなると、深淵の門の場に扇ごと落ちたままなのかもしれない。
「妾は……いったい、何のために……」
白雪はその房紐を手繰り寄せて、しっかりと握り込んだ。
思わず、唇を噛む。いくら耐えていても耐えきることのできない嗚咽と、あふれる涙を止めることはできなかった。
あの男――月梅の君の転生体――は、己のすべてを欲すると言った。
かつての優しき君の面影は、彼の中にあるにはあった。だがそれ以上に、彼は『何か』に侵されているようにも見えた。
「愛しさと、忌まわしさが……同じ顔をして笑っているとは……酷な話よの……」
いつかまた、もう一度――それがこんな形で実現するとは思わなかった。
胸に抱えた恋情が、そのまま檻となって彼女を閉じ込めていくこの現状を、誰も救うことが出来ないのだ。
◆
明くる日の、夜の話だ。
賽貴が浅葱の元へと再び膝を折り、静かに頭を下げてきた。
彼は、もう『あちら側』へと戻らねばならないらしい。
そうして、詫びの言葉を添えてきた。
「……そう。やっぱり僕は、迎えに行けないんだね……」
「ご期待に沿えず申し訳ございません……いくつかの方法を探ったのですが、やはり浅葱さまへのご負担を考えると危険だと判断しました」
「ううん。……なんとなくだけど、わかってたよ。だって僕は、ただのヒトだからね」
「浅葱さま……」
声に出すと、それは想像していたよりずっと重かった。
ヒトであるがゆえに、瘴気に適応できる体ではない。前に進もうとする気持ちはあっても、魔界という世界そのものが、浅葱という存在を受け入れないのだと、理解もする。
――だが。
「うん、でも……やっぱり、悔しいな。白雪はきっと、……すごく、苦しんでいるのに」
この無力感は、何度目だろう。自分の足で『退魔師』として立つことを決めて、向き合い始めてからずっとのような気もする。
でも今回は、自分がただ『人間である』ということが、越えられない壁として突きつけられている。
――おそらくは、彼女が自分から戻ってくるしかない。
だから、自分ができるのは、待つこと。
信じて、彼女を迎えられる場所を守ること。
「賽貴は、ここで戻ったら……もう、……しばらくは会えないかな?」
「……そうですね。今回こちらに来られたのも、白雪の守る門が一瞬だけ崩れたためでしたので」
「うん、わかった。……僕に出来ることは少ないかもしれないけど、賀茂浅葱が残してくれたものやルールは、僕なりにちゃんと守ってみせるよ」
「それを聞いて安心いたしました。白雪のことは身の安全だけは必ず保障いたします。……私の部下をこちらに残してきますので、何かありましたら託を頂ければ。『鴉』と呼べば、姿を見せますので」
「……うん、ありがとう。それから、もし可能だったら……これを、白雪に渡してもらえる?」
「手紙、ですね。わかりました、お任せください」
浅葱はシンプルな封筒に入った手紙を賽貴へと差し出す。
こうなることを予測していて、昼間のうちに書いていたらしい。
本当に、随分と主らしくなった――と賽貴は胸の内で喜びながら、その手紙を受け取った。
そうして彼は、はそこでまた深々と頭を下げて、浅葱の元を離れていった。
「……頼むぞ」
「うん」
部屋の外には朔羅がいたが、彼とは短い言葉を交わすのみで、彼は土御門家を後にする。
大きな局面を迎えているその渦中で、浅葱も朔羅も――そのほかの式神たちも、それぞれに向き合わなくてはならない現実を傍近くに感じていた。
二章・終
更新再開いたします。次章で終章となります。




