13.鈴の音
リン、と鈴を鳴らした。
古く小さなそれは、未だに音色を変えずにいる。
「……先ほどはすまぬな」
指で掴んで鈴をぶら下げているところに、白雪の声が近づいてきた。
あれほどの怒りを湛えていた彼女であったが、もう落ち着いているようであった。
「いや、逆にああやって言ってくれる人がいないと、僕の感覚も鈍るからさ」
「そなたは今まで……そういう部分の支えが賽貴どのであったからな」
白雪は朔羅の隣に腰を下ろした。
ここは、浅葱の式神符の中――過去に匠が構築してくれた、式神たちが自由に出入りが出来る空間内だ。
浅葱に命じられるまでは、彼らは基本的にはこの場所で好きな時間を過ごしていることが多い。もちろん、表に出ることも『自由』だ。それは、歴代の主がそうしてくれたように、今の浅葱もそれを良しとしてくれている為だ。
――リン。
朔羅がまた、鈴を鳴らした。
すると白雪も、彼女の武器でもある衵扇を取り出し、端に括り付けられている鈴を揺らす。
同じ音色が響いた。
「……賽貴どのの鈴は、そなたが受け取ったのか」
「そうだね。それが今の僕の示しにもなる。でも、二つあるとうるさいから、仕舞ってあるよ」
そんな言葉を交わすと、二人はどちらともなく小さく笑った。
彼らの持つ鈴は、代々の主が贈ってくれたものであった。彼の式神となる証として、遠い昔に手渡され、触れた瞬間から体に彼の血を受けた。
賽貴と朔羅は瀞から、紅炎は桜姫からではあったが、浅葱の祖父と母であった以上、何も変わりはない。
「……そう言えば、諷貴さんは鈴じゃないんだっけ?」
「ああ……そういえばそんな事を言っておったな。妾も、静柯どのが何を贈ったのかは見ておらぬゆえ、分からぬが」
「結局は、形は何であってもいいんだよねぇ……」
朔羅はしみじみとそう言った。視線は自分の指先に収まっている鈴だ。上部の穴には小さな赤い布、下部には同色の房紐がぶら下がり、そこから無限の鋼糸が伸びるようになっている。
「……古くなった。そなたのも、妾のも……」
「そうだね」
互いが互いのそれを見て、苦笑する。
色も褪せて、草臥れている。だがそれでも、そこにある限りは、彼らは浅葱の式神であるのだ。
「一の『位』は、辛いか?」
「……いや? って、言いたいところだけど……重いよ、やっぱり」
「妾はそんなそなたの顔が見られて、満足じゃ」
「白雪」
白雪は優雅に扇を広げて、口元を隠して笑って見せた。
年長者である彼女には、朔羅であっても叶わない。
「物はついでだから、言うけど……。僕はどうやら、浅葱さんに好かれてしまったみたいだ」
「……おや、そうであったか。良いのではないか?」
朔羅の告白に、白雪はまた楽しそうに笑いながらそう言ってきた。
傍から見れば問題も多いはずの事でも、彼女にとっては『好い事』であるらしい。
「それでなくとも、今代の浅葱どのは哀れな方じゃ。精一杯生きる中で、そなたを好くのであれば幸甚と言えよう」
「僕の気持ちは無視なの?」
「……そんなもの、ふふ……っ」
「ちょっと、白雪……」
月白の美姫は、いつになく楽しそうに笑っている。
嬉しいのだろう。関わる者たちの変化と、想いを感じられることが。
対する朔羅は、僅かに照れを見せつつも、面白くなさそうな表情をしていた。
「そなたはもう、何も遠慮はせずとも良いだろう。賽貴どのは、それすらも見越して還ったのだと……妾は思うておる」
「……もしかしてそれ、他の全員もそういう考え?」
「まぁ、そうであろうな」
「はぁ……わかった。僕の負けだよ」
朔羅はかっくりと肩を落としながら、そう言った。
「そなたは今度こそ、我侭を通すがよい。誰も邪魔はせぬ」
パチン、と白雪の扇が再び閉じられる音がした。その際、彼女の鈴が桜のそれとは違う音色で空間に鳴り響く。
しばらくすると、眼前の風景が変化した。
暗闇となり、目の前には赤い鳥居が現れる。そこが白雪の『居場所』だ。
「様々な事が待ち受けておる。機を逃して後悔せぬようにな」
「……そうだね」
白雪は衣擦れの音を優雅に残しながら、鳥居を潜っていった。ちなみに、その向こうは別空間となっている。
そんな白雪の姿を見送った朔羅は、一人残された空間内で、幾度目かの鈴の音を響かせていた。
土御門家を示す『揚羽蝶』が、夜の闇に浮かんだ。
浅葱が着ている千早の裾が、風で浮いたのだ。
平安神宮前、昼間は各社のタクシーでひしめき合ってる道路は、今は一台すらも見かけない。
「……結界強化してる?」
「まぁ、そうだな。って言っても、一五分程度だけどな」
浅葱の目の前には、従兄の匠が立っている。浅葱と同じ千早を着て、それでも今日は、いつもとは少しだけ違う面持ちでもあった。
「どうして平安神宮なのかなって思ってたんだけど、『中央』だから……だよね?」
「そうだな。麒麟は不在だけど、それでもここは重要なんだとさ」
匠の言葉を聞いて、浅葱は表情を引き締めた。
重要な場所――。
浅葱はこの場で、匠から四神を預かり受ける。
その為に、彼らはここに立っているのだ。
「さて、ちゃちゃっと終わらすか。見回りもあるしな」
「う、うん……」
「ああ、そうだ。四神を下ろすと、ちょいと負荷がかかるから、そこだけ注意な」
「分かってる」
始めるか、と続けたのは匠だ。
そして数秒だけ、二人の間に静寂が訪れる。
「――集え四神。北に玄武、東に青龍、南の朱雀、西の白虎。主たる声を聞き入れ、顕現せよ」
匠の声が響き渡った。
数秒後、ざわ、と周囲の木々が揺れ――足元の砂利が小刻みに踊りだす。
その変化に神経を尖らせていると、浅葱と匠を囲むかのように大きな個体が四体、姿を見せた。
四神であった。
「浅葱」
匠が言葉を促してくる。
浅葱はそれに静かに頷いてから、右腕を前に差し出した。
「土御門浅葱がここに布令する。土地を守り、方角を守る汝ら四神を束ね、また守ることを」
『承伏しよう。若き土御門の核なる者よ』
「――――」
頭に直接響いてくる言葉に、浅葱は瞠目した。
四神のうち、誰がそれを発したのかは解らないが、重要な事を言われた気がするのだ。
だがしかし、今はそれを反復する時間は許されなかった。
「……っ!」
全身に重力が落ちてきた――そういう感覚に陥る。
膝が曲がりそうになり、浅葱は慌ててその場でふんばりを見せた。
匠が言っていた『負荷』が、思っていた以上に重い。
「っ、あ、あぁぁぁ……ッ!」
思わず自分を抱きしめる形となった浅葱は、その場でかろうじて立ちながら、叫びをあげていた。
匠はそれを見ても、声もかけず手も差し出さない。
これが『受け渡しの儀式』であるからだ。
「……、くっ、……あぁ……っ」
重力と共に浅葱の体に押し掛けたのは、鮮明な光景――記憶としての映像であった。
おそらくは四神それぞれの見てきた歴史や感情――そういうものが、心にねじ込まれてくる。
『耐えて見せよ、浅葱の名を継ぐ者よ』
「あああぁぁぁぁ!」
こんな――こんなものを、匠は今まで背負ってきたのか。
浅葱は、そんな事を考えていた。
匠だけではない、伯父の寛匡や、その前の代――当主たる者たちは、これを視てきた。
綺麗なものではない。
どちらかと言えば全て、汚れた感情だ。
絶望。悲愴。憎悪。怨恨。
苦しみ、憤り、嘆き、多くの涙――。
それは、四神から見たヒトへの感情。潤う部分はほぼ無く、守るというだけの役目の中、ひたすらに広がる虚しさを、一握りの人の祈りのみで誤魔化していく、長い歴史。
――それを、ただ悲しいとだけで受け止めてはダメだよ。
「!」
脳内に流れてくる声。
浅葱はそれに、目を見開く。
聞いたことは無い。知らない声。
だがそれは――間違いなく。
――賀茂浅葱の声音であると、確信できた。