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役儀納め  作者: 犬槙リサ
4/6

 幼い頃の記憶では、昼間の店はいつも慌ただしく、真冬でも水で締めた葱添えのうどんを慌ててかき込んで行くようなせっかちな江戸っ子であふれかえっていた。市谷の駅前と言う事もあり、電車の時間までに手軽に食べられるものが好まれたからであろう。夜になると、暖を求めて帰りに一杯ひっかけていく背広姿の会社員や、市谷周辺に点在する陸軍の士官学校や詰め所から制服姿の男たちがやってきた。小鉢に入った肴を摘みながら、

「いつ来ても代りばえのしねえ味だなあ」と文句を垂れながら、それでも無心に頬張る姿があった筈だ。それが今や、年の暮れも迫って慌ただしい昼間の繁盛時だというのに、店の中には客が二、三人しか居やしない。

「おい、勘定頼むぞ」

 皿を洗っていた忠信は常連の声に気づき、濡れた手を前掛けで拭いながら慌てて表へと出て行く。馴染み客は台の上に一銭硬貨をじゃらじゃらと取り出し、丁度、十銭を一列に並べて得意そうに待っている。落語の時蕎麦よろしく、一銭硬貨を一枚ずつ見せびらかすように支払った。

——粋な客なんて来やしねえなぁ——

 それでも愛想笑いを浮かべながら「毎度あり」と、小さな声で口にした。下町育ちにとっては当たり前な、しかし忠信にとって、とっくの昔に忘れてしまった言葉でもある。気さくな挨拶の筈だが、慣れない言葉は不安げで消えていきそうだった。客の出て行った扉を閉めると、麺打ち場を兼ねた奥の物置から小麦粉まみれの弟が顔を出し、

「もうちょっと威勢良く言えねえもんかよ」と愚痴をこぼす。厨房にいた母親もその意見には賛成のようで、溜まっていたらしい小言を繰り出すのだ。

「ちょいと、あんたがしっかりしないと子供達が真似しちまうじゃないか。四代目があんたみたいになよなよし始めたらどうしてくれるんだい。世も末だよ」

 忠信の父と籍を入れながらも生家のうどん屋を守り続けた母の関心ごとと言えば、店を継いだ次男とその子供たちの事でしかない。

「悪いな。気をつけるよ」

「いいかい、忠信。こうも景気が悪いんじゃねぇ、せめて威勢ってもんが必要だろ? それでなくともあんたは、ろくにうどんも打てないんだし。このまあじゃあ店もあんたも腐っちまうよ」

 家族であるのだから、小言でさえも心配しての言葉だとは理解できるのだ。しかし忠信は、母と弟に目を合わせる事もできずに済まなそうにうなだれて、流しに山積みとなっている洗い物を片づけに行こうとした。

「ああ、もう。鬱陶しいったらありゃしない」

「兄貴、昼飯食ったら仕込み初めてくんねえか」

 後ろから声をかけた弟に、ああ、と頷いて忠信は厨房へと戻った。

 長い屋敷勤めを終えてから実家へ戻った忠信は、不景気な世間と同様に、かつての賑わいを失ってしまった店を見た。戦後恐慌が招いた物価の上昇で、安くて手軽な筈のうどんまでもが高騰し続けている。

——いくら働いても、ここに長くいれば厄介もんだよなぁ——

 家族からは邪険に扱われているが、夕方からの営業では洋食を作るのが忠信の重要な仕事である。とは言っても、屋敷で必要に迫られて覚えたドイツ料理ではなく、コロッケやソースライスのようにサラリーマンが帰りがけに食べる安価なものや、カツレツやライスカレーのように女子供が好きなミルクホールでも供される物がほとんどだった。それでも忠信は本格的なドイツ式豚のカツレツシュバイネシュニッツェルを作ってきた経験から、叩き棒で肉を広く薄く大きく伸ばして揚げるのだ。そうすると客は驚き、

「こんなに大きなカツレツを食べられるのはこの店だけだ」と評判になった。 

 しかし、どんな良い噂が立とうが母親は容赦なく文句を言う。否、忠信の洋食が好評を得れば得るほど母の愚痴は続いていくようだ。

「ちょっと、あんた。弟が苦労して稼いでるのになんだい。ボーッとして突っ立ってないでさぁ、少しは頭んなか切り替えたらどうだい」

 いくら洗練された接客に自信があっても、小さなうどん屋で役に立つ筈もない。経験のない麺打ちなど到底出来る筈もなく、余りの居づらさに仕方なく始めた洋食であったが、これが意外と評判になってしまった。店の者からすれば、うどん屋はうどん屋らしくである筈が、この大不況をなんとか支えているのは夕方からの洋食、という有様である。

 母は店を出て勝手にサラリーマンになった挙げ句、父と同じく執事の道を選んだ忠信に、自慢の店を継がせるつもりは毛頭無い。そんな気持ちなどこれっぽっちも無いのだが、弟夫婦からすれば疑心暗鬼にもなるのだろう。兄にあたるばかりで少しも洋食を覚えようとはしなかった。これでは疎まれながらも仕込みを続ける忠信も、立つ瀬がないと言うものだ。

 

 そんなある日の事である。夕刻前から厨房で慌ただしくしていた忠信を訪ね、やってきた客がいる。身についた習性か、前掛けを外し、居住まいを正してから応対した。

「これはこれは。久方ぶりにございます」

「しばらくぶりだなあ」

 屋敷に長くつとめた庭師の八十吉(やそきち)である。父が執事として働いていた頃から藤家の庭を守ってきた。執事長と庭師では立場は違うが、長いつきあいであるが故に、八十吉は忠信に対して敢えて気安く話すのだ。昔は庭木同様、短く刈り込んだ髪に威勢の良さが特徴だったが、女房を喪ってからと言うもの、着る物も皺だらけで白髪交じりの頭を伸び放題にしていた。頭の手入れに興味を失うと同じくして、藤家の庭も雑草があちこち方々に生え放題となってしまったので、可哀想に、屋敷の主人から真っ先に暇を出されたのかもしれない。

「おまえさんは、なかなか商売上手じゃないか。お屋敷の料理を出すなんざ、結構なこって」

「いいえ、家族揃ってどうにか毎日をやり過ごしているだけでございます」

 うどん屋は精魂傾ける仕事でもなし、気迫どころか最低限の気の張りまで失っている状況を思い返し、苦く笑う。久々に会った八十吉は、さすがに身なりの不味さにばつが悪そうにしながらも、愛想ばかりを口にして、なかなか本題を言おうとしないのだ。もぞもぞと言い籠もるばかりで焦らしに焦らされる忠信は、何事かと待つ間に、手のひらが汗で湿ってくる。

——これは、もしかすると金貸してくれってんじゃぁないだろうか。勘弁してくれ——

 八十吉は、頭を掻いたり顎に手をやったりして随分と言いにくそうにしていたが、夜のうどん屋、或いは夜だけの洋食屋と言ってもいいかもしれないが、店の忙しさを見て、やがて腹を括ったように話しだした。

「お前さん、あれから喜代乃様に会ったかい」

——おや、意外な話じゃねぇか。まさか喜代乃様の話とは。でもなんでそんなに話しにくそうなんだ?——

 久しぶりに聞いた名に妙な郷愁さえ感じたのは、忠信の中で藤の屋敷はもう過去の残滓となってしまったのだろうか。

——気にはなってたんだがな。それにしてもこの態度、金の無心に来たかと思った——

「ちょっとよう、豊多摩(とよたま)のほうで見かけてな」

「豊多摩? そうですか、お元気そうでいらっしゃいましたか?」

 豊多摩郡は、最近つとに活気に溢れて来た郊外地区である。しかし、喜代乃を見かけるほどには良い治安というわけでもなく、新宿・淀橋町の浄水場貯水池には時おり土左衛門が浮かんでいるなど耳にする。同じ東京であっても水を供給するのは市内ばかりで、市外である地元は浄水場のせいで物騒であるにも関わらず、水道の恩恵などこれっぽっちも有りはしない。そのせいか淀橋近くの人間は、見えないところで何が起こっているのか分かっていない東京市の人間を、

「有楽町や銀座のお偉い人は、漬け物汁がお好みらしい」などと揶揄している。他にも、つい数年前までは酪農が盛んだったという事もある。臭いが非道いと言う事で、電車沿いの土地は綺麗に区画整理をしてしまったが。

 無論、こんな田舎めいた豊多摩にも煌びやかな話がないわけでもない。五月になって(つつじ)が咲くと辺り一帯が祭り気分になり、花に負けじと派手な柄物で着飾った者たちが東京中から集まってくる。藤家が愛した洋菓子の花村屋もこの辺りにある。しかし、喜代乃に関して言うならば、自ら片田舎の新宿まで買い物に行くとは思いづらいし、花の季節はまだ遠すぎる。

「それで、どちらでお見かけしたのですか?」

 ここで八十吉は目を逸らし、気まずそうに言い籠もる。後ろを向いてから腕を組み、しばらく経ってから妙な力を込めて、誰に話しているのか分からないが言い放つ。

「おう、新宿の花園だ」

「なるほど、花園神社でございますか」

 忠信は頷いた。あの辺りは昨年四月に市内の四谷区に編入されたばかりだが、確かにそれまでは豊多摩郡であったのだ。八十吉が豊多摩と言うのも仕方ない事だ。新宿の花園神社は、十一月の酉の市が有名で、多くの人が縁起物の熊手を買い求めに行く。そこに十八の喜代乃が綺麗に着飾って居てもなんの不思議もない。忠信の明るい口調に、八十吉は怪訝そうな顔をしながら振り返った。

「なあ、お前さん何か勘違いしてねえか? 酉の日でもなぁんでもねえ日だ。ついでに言うなら、同じ神社だが三光町の花園じゃねえ。花園町の秋葉の方よ。梅干しみたいな婆さんと、なんだか派手なべべ着た女達と歩いてたぞ。言っちゃなんだが、ありゃあ……」

 花園と聞いて神社と思ったが、八十吉はどうやら町名を口にしていたらしい。

——秋葉神社だって? 皇室御料地(ごろち)のほうか。なんだってそんなところに。ああ、まさか——

 八十吉は辛そうに項垂れて、これ以上話を続けようとしなかった。しかし忠信は、たったこれだけで充分に、充分すぎるほど理解をしたのだ。聞いて、ぐらぐらと目眩を起こしそうになった。まるで心の臓を鷲掴みにされたような気になった。いきなりの痛みに立っていられないかと思った。八十吉の言葉を心の内で何度も反復するうちに、小さな耳鳴りが起こって段々と太鼓を叩くような大きな耳鳴りとなり、立っているのも億劫になってきた。

——まさか、そんな筈は——

 見間違いであってほしい。あり得ない、と胸の内で何度も叫んだ。しかし、長年、喜代乃を見続けてきた八十吉の事だ。本人なのか、よく似た女なのか、松葉の剪定をする時のように鋭い眼光で見極めたに違いない。

——あっちゃいけない事だ。喜代乃様は叔父の元へ行った筈。あの野郎は、ちゃんと迎えに来たんじゃねえのか。どっか良いとこに嫁がせたんじゃなかったのかよ——

 忠信は、かつて出会った光景を思い起こすと、先程までの熱はどこかへと過ぎ去って、寒気が襲い、心臓は一瞬で凍りついてしまった。

 それは内藤新宿の女郎達だった。週に一度、水曜か木曜には、普段、表に出る事の出来ない女郎達が、ぞろぞろと行列を作って表に出ていく。否。元々、宿場町だった内藤新宿には、気位の高い吉原と違って、ぐるりを囲む塀など有りはしない。両方とも色街、遊女の町ではあるが、吉原とは格が違う。宿場ゆえの気安さからか女郎達も蔑まれ、いくら豪奢な装いをしても、花魁と呼んで持ち上げるのは贔屓客くらいなものである。苦界の外からは飯盛女(めしもりおんな)女衒などと言われていた。

 内藤新宿での女達の扱いは、あまり誉められるものではないが、吉原の公娼たちと同様に、感染症予防を徹底するように義務づけられている。秋葉神社の隣には警察が管理する病院がある。女たちは法に従って、病気を持っていないか検査に出かけるのだ。けばけばしい着物に、お太鼓にした帯、立兵庫に結って大きく見せた髪の女郎たちが列をなして行進していく。その様子は気高い吉原の花魁道中とは違って、狐か狸どもが化けているような、何か奇妙奇天烈なものを思わせた。検査場となっている病院前の広場では、その日、合格した女たちが大きく股を広げて日光消毒をしていると聞く。勿論、少しでも覗こうものなら、同行している年増の遣り手に蹴散らされるだろうが。

「何かの間違いではありませんか?」

 八十吉は忠信の方に向き直り、黙って首を振った。残念ながら、間違いではないのだろう。そもそも喜代乃だと確信していなければ、ここに来る筈もないのだ。

「どこにいらっしゃるかご存じありませんか?」

 沈黙が流れた。じっと見つめられて、居心地の悪さを感じた。冷遇された屋敷勤めですっかりと澱んでしまっていた筈の八十吉の目は、先程までと違ってぎらりと輝き、忠信の奥底まで見透かすようだ。

「お前さん、まさか探すつもりじゃぁねえだろうな」

「当然でしょう。そんなところに居る方ではございません。事情は分かりませんが、それが本当なら、すぐにでも連れ戻すべきでしょう。まずは叔父君の元へ行って参ります」

 八十吉は目を閉じ、少し口を尖らせながら、納得のいかないと言った風に話し始めた。

「俺は喜代乃様の叔父ってぇのは知らねえからなあ。あの眼鏡の女中頭に聞いて訪ねたんだよ。そしたら、仕事場の建物には誰もいねえし、屋敷は売りに出されちまってたんだ。あちこち聞いたんだけどな、そいつがどこに行ったかは、ご近所さんも分からねえらしい」

——なんだって? どういう事なんだ?——

 先程まで凍り付いていた心臓は、今度はどくどくと音を立て、張り裂けそうになった。頭に血が逆流し、今にも何かが飛び出しそうなほど破裂寸前である。八十吉の話が真実か、すぐにでも確かめに飛び出したくなる。

——あの野郎、喜代乃様を売ったってのか! ちくしょう、どこに行きやがった——

 心の赴くまま吠えたくなるのを抑えるのには、必死で我慢しなければならなかった。喜代乃を迎えに来たあの日、てらてらと嫌らしく光る腕時計が、男の腕にはめられていたのを思い出す。金無垢ではなく、あれはきっと鍍金であったのだろう。

——引き取ってすぐに売っちまうなんて。借金の形に差し出したか、それとも前から藤家を恨んでいやがったか——

「藤下よ、黙っちまったままだが、今更その叔父貴とやらを探しても無駄じゃあねえか? とっつかまえたところで、どうにか出来るわけじゃねえ」

 もっともな言葉である。あの男は会社も家も処分し、喜代乃をまるで自分の所有物のように扱った。確かに、妾の子なら尊大な藤家を恨んでいてもおかしくはないが、血縁である姪を自らの手で貶めるなど余りに酷すぎる。

「では、せめて警察に」

「ああ、そりゃ無理だ。連れ去りで遊郭に入れられたってんなら話は別だけどな。借金のカタにされたんなら、どうしようもねえ。こんな身動きのとれない状態で、お前さんに話すか迷ったんだけどよ」

 想像するに、喜代乃は内藤新宿のどこかに売られたのだろう。男が直接売ったか、間に女衒(ぜげん)を挟んだかは分からない。ただ一つ、はっきりと分かるのは、誘拐されて苦界に連れて行かれたわけでは無いという事だ。警察の力を借りる事が出来ないとすると、何をどうすればいいのか全く分からない。だが、いくら主従関係は失われたと言っても、放っておける問題ではない筈だ。

「どこの妓廊か、おわかりでしょうか」

 何かをしなければならない。救う手立てはどこにあるのだろう。これは、藤家執事として責務を感じているのか、それとも、罪もない御息女が苦界に落ちた事で徳義心を駆り立てられているのか、忠信には判断は出来そうにない。

「いや、俺も内藤新宿には庭の手入れで行くだけで、詳しくねえからさっぱりだ。って、おまえさん、探しに行くつもりか?」

 ただ、このままにしておけなかった。

「四年前に規制されてから、今の張見世には写真しか無いと聞きます。だからこそ、本当に喜代乃様がいらっしゃるなら、お姿を見つける事も出来るかもしれません」

 八十吉は呆れたように溜息を吐く。 

「見つけてどうすんだよ?」

 このたった一言が、焦る気持ちに冷や水を浴びせた。そう、見つけたところでどうすればいいのだろうか。

「分かりません。ですが、打てる手を考えます」

 忠信は自分の言葉が、どこか上滑りをしているような気になった。探そうとする気持ちに嘘はない。だが、気持ちだけではどうにもならないのだ。

——分かっているさ。どう考えたって、俺じゃぁ連れ戻す事なんか出来やしないって事——

 どうにかするには金が要る。しかし、屋敷勤めでの蓄えは、主が亡くなってからの藤家、つまりは喜代乃が苦労せずに生活できるよう、とうに持ち出してしまっていた。実家のうどん屋に戻ったときには、ほとんど文無しの状態だったのである。

——取り戻す事の出来ない喜代乃様に会ってどうする。見つけたところで、俺に出来る事と言っちゃぁ、毎度、高い金を払っても話し相手になるかどうかだろう——

「お前さんに話して良かったよ、藤下」

 八十吉は笑みを浮かべながら口にするが、それは喜代乃を思ってというようなものには見えなかった。むしろ、こんな重い事実を一人で抱えるよりも、忠信に話して責任の所在から逃れられた事に安堵したのだろう。

——そもそも、話し相手どころか、俺に会うのも嫌がるんじゃないだろうか。あんな野郎に引き渡しちまったんだ、恨まれたって不思議じゃねえ——

「やっぱり藤の家には、お前達が必要だな。何かあったら教えとくれ、すぐにでも手を貸しにいくぞ」

 八十吉は先ほどまでの憂いた顔を捨て、勢い良く喋りだす。喜代乃の事をていよく押しつけられた感は否めないが、忠信が藤下の姓である以上、どうやらまわりはいつまでも藤一族と関連づけているようである。五年間、葛藤を続けた忠信からすれば悩ましい話だが、このしがらみからは、なかなか逃れられないのかもしれない。

「ああ、そうだ。俺が見たときなぁ、泣き顔なんかしてなかったぞ。きりっと前向いてまわりを睨みつけながら、女郎とは思えねえくらい大股でまっすぐ歩いてた。ほら、いつもお前さんが溢してたじゃねえか、まるであれみてぇな」

 大股で歩く喜代乃を表す言葉は、ただ一つしかない。思い出せば、懐かしさに顔がほころんだ。

「豪傑ですか」

 可憐や繊細さなど、ごく普通の令嬢らしさをまるで少しも必要としない姿である。

「そうそう、その豪傑な女だったよ」

 喜代乃の姿が目に浮かんだ。それは、屋敷で最後に見た項垂れた様子ではなく、信玄袋の鞄を召使いに放り投げ、腕を振り、大地を踏みしめるように歩く豪傑だ。

——豪傑な女、どんな女郎だよ——

 不謹慎だと知りつつも苦界で暮らす喜代乃を思い浮かべたが、あのきつい目で客をぎろりと睨みつけ、伝え聞く高尾太夫のように振る舞って、少しも泣いていなかった。

用語

皇室御料地:現・新宿御苑

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