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役儀納め  作者: 犬槙リサ
3/6

 年が明けて皆が一様に歳を取っても、喜代乃は休学したまま女学校に戻らなかった。一年前、屋敷の庭で語り合った御学友たちが、間もなく卒業していくのを気にしているのだろう。青い顔で時おり咳き込みながら、屋敷の中をふらふらと彷徨って疲れてはソファに倒れ込み、痛そうに足を擦っている。それでも一時に比べれば随分と楽になったのか、御学友がたが訪ねて来た時は楽しそうに話しながら庭を散策していたので、おそらくは神経に寄るところも大きいのだろう、と新しい医者は見立てている。

 いっその事、伊豆か箱根にでも静養に行ったらどうかとも勧められたが、別荘を借りるかホテルに逗留するためには、それ相応のものが必要となる。どうにか捻出しようと試みたが藤家の屋敷にはほとんど余裕がないように思われた。箱根行きを召使い二人に反対された喜代乃は、じっとしていられない気性もあって、それならば、と浅草行きを思い出し、口約束のままで終わらせないよう騒ぎ立てたのだ。

「喜代乃様、あまりお体にさわるといけませんから、花屋敷はお止め下さいまし」

 女中頭がそう言うと、癇癪を起こした喜代乃の矛先は立場の弱い者へと向けられる。夕食中であったのが災いしたのか、忠信は手元にあったフォークを投げつけられた。無難にやり過ごそうと一瞬目を閉じたが、すぐ側に心強い味方が居るので、ここぞとばかり注文を付け加える。

「この時期、十二階は寒さが堪えます。木馬などはいかがですか?」

 今度はスプーンを投げつけられるかと思ったが、口をへの字に曲げた喜代乃は皿からスープを掬って何度も忠信に浴びせ始めた。

「十二階にはエレベートルがあるでしょう? それならわざわざ階段を登らなくてもいいじゃない」

「あれはしょっちゅう故障をいたします。一度、中に閉じ込められると半日は出て来られません。大人も子供も皆、冷たい石の階段を登っているのは、そのせいでしょう」

 浅草十二階は半世紀ほど前に、日本初のエレベートル付き、と鳴りもの入りで建てられた。しかし、あまりに故障が多いため、僅か半年ほどでエレベートルは使用禁止になったのだ。その後も手直しと再開を何度も繰り返すうち、あれはどうも危ないのではないかと階段で登るのが普通となった。底冷えのする石階段、途中で配られる甘酒でひと心地をつき、音が響く吹き抜けの螺旋階段を息を切らせながら登っているようだ。

「代わりにオペラはいかがでしょう? 浅草オペラのほとんどは短い一幕ものばかりですが、一度の公演でオペラに新劇、少女舞台と色々ございます。全て見れば四、五時間はかかりましょう。中には退屈なものもあるかもしれませんので、その時は近くの電気館にヂオラマでも見に行きましょうか」

 忠信の言葉に、スープをかけようと構えていた匙が止まる。

「ヂオラマ! 少女舞台はあまり興味ないけど、ねえ、トーダンスもある?」

「探せば、どこかの劇場で見つかるかもしれません」

 途端に気を良くした喜代乃は、先ほどまで嫌々食べていた夕食を勢い良く終わらせる。食欲が少し戻ってきたのか、食後の林檎まで口にした。久しぶりに林檎の薄皮パイアプフェルシュトゥルーデルが食べたいとまで言うので、女中頭までもが気を良くして、

「ずいぶんとお元気になられて嬉しゅうございます。お天気さえ良ければ、ぜひ近いうちに浅草へお出かけください。旦那様には、お戻りになりましたら私の方から伝えましょう」などと言う。おかげで忠信が一言も挟む間もなく、翌日に出かける事と決まってしまった。


 浅草寺でお参りを済ませ、伝法院前の通りを抜けて六区へと向かった。喜代乃は大柄の着物に羽織を掛け、贅沢な狐の襟巻きを見せびらかすように歩いてる。通りすがりの男たちが振り返るので、ようやく機嫌を直したようである。屋敷を出る前、

「どう、服装帖よりもっと素敵でしょ?」と問われたので、まだ梅も開かない季節ではあったが、

「木蓮の蕾の柄がとてもお美しいですよ。庭に咲くお屋敷の春のようです」と答えると、どうにもお気に召さなかったようで靴を思い切り踏みつけられた。浅草の通りには、名物人形焼の店や煎餅を焼く店、派手派手しくも愛らしい柄を売る反物屋、メリヤスや流感よけのマスクなどを置いた唐物屋(とうぶつや)が立ち並び、店先に派手な(のぼり)を立てて客引きをしている。この道を真っすぐ行くと六区に出るせいか、幾つもある浅草オペラの劇場に向かう客が多いようで、歌劇概況などと書かれた本を小脇に抱える若者たちが、あちらこちらにいた。周りの土産物屋を冷やかす者や、辻で集まって団子になっている者もいる。

「あれは何を歌っているの? どこかで聞いた事あるような気もするんだけど」

 通りに集まった一団を指差し、喜代乃は訪ねた。浅草に着いてからというもの、あちらこちらでバイオリン代わりの三味線を持った男が流行の曲を歌っているのを見かけたからだ。元の楽曲があるのだろうが、短い歌詞を無理に引き延ばして曲にあわしているので、やたらアァアァアァ、ヤァヤァヤァと無理にコブシを回し、三味線も適当にベンベンベンと鳴らしているので何の曲なのか、じっと聞き入ってみなければ分からない。

《髪苅りにも、髭剃りにも、衛生が第一》

 忠信はしばらく立ち止まって耳を澄まし、笑顔で答えた。

「あれは、『町の何でも屋』ですね」

《幾度でも、怪我しても、お客さんは大人しい》

「それって、ロッシニの『セビルの床屋』?」

《お客さんはラランララ、大人しいラランラララ》

「彼らは流行り唄を劇場で覚えて、あちこちで歌うんですよ。ですが、この辺りの演歌師は劇場の者かもしれませんね」

《ほがらかだよ、楽しいよ、楽しいよ、床屋さんの名人》

 かつて演歌師は自由民権運動の演説をおもしろおかしく歌っていたが、近頃では、浅草で流行るオペラの曲をソプラノからバリトンまで男女お構いなしに歌って東京中を歩くようになった。片田舎の駅員から蕎麦屋の亭主までもが仕事の合間にオペラの曲を口ずさんでいるのは、演歌師のおかげだろう。

 浅草では何でもない当たり前の事だが、喜代乃には珍しく映ったのかもしれない。あちこちに立つ演歌師の前で必ず立ち止まり、曲当てをし始めた。

「これは、もしかして『トラヴィアタ(椿姫)』かしら。帝劇に来たロシア歌劇団の公演で聴いた気がするの。あの時はイタリーの言葉だったけど」

 さも面白そうにけらけらと笑う喜代乃を見て、忠信は肩の力を抜く。未だ調子の戻らない喜代乃を連れ出すのは反対だったが、確かに医者の言うように脚気の煩いと言うよりも、両親がお互い会わずにすれ違いを続けている事や、長く休んだ事で女学校の勉学への不安があって、気の病を引き起こしているのかもしれないと胸の内で考えた。

「浅草まで来た甲斐がありました」

 喜代乃は訳が分からないと言う顔をしてから、忠信が着るツイードジャケットの袖を二、三度引っ張ってから、次の辻まで小走りに駆けていった。忠信は僅かに苦笑を浮かべて鳥打帽(ハンチング)をかぶり直し、後を着いていく。

《怪しやな、かく我が胸は振るう》

 忠信の後ろでは、がりがりの演歌師が寒さに凍えて声を震わせながら、『トラヴィアタ』の『怪しやな、花より花を訪ねて』を歌っていた。

 六区はオペラや芝居、見世物、活動写真が立ち並ぶ歓楽街である。大通りに面した大きな劇場二つと活動写真館が二階の廊下で繋がって、その下を多くの人が通っていく。他にも大小のオペラ劇場が立ち並び、中には細い木柱を壁代わりので巻いた掘建て小屋から歌声が聞こえてくる所まであった。忠信は二階建ての大きな劇場を幾つか見渡し、演目を確認してから裏の方へと回っていく。

「藤下、どこへ行くの? 切符を買わなくていいの?」

 忠信は少々意地が悪そうに、にたりと笑って答えた。

「どこの劇場がいいか、確かめに行くんですよ。途中で芝居が止まったりしたら、興醒めでしょう?」

 屋敷での言葉遣いが少し崩れて、素に近い物言いになっている事に自分では気づいていない。燕尾を脱ぎ、よく知った町を普段出歩く格好で歩いているので、少しばかり気が大きくなっているのかもしれない。忠信の水を得た魚のような振る舞いに、喜代乃はいつものように言い返さずに黙って頷き、ただ着いていった。

 劇場が連なる通りの裏を歩き、二階の窓を眺めていると、何人かの人が集まっている場所があった。彼らは忠信と揃えたように同じ杉綾織り(ヘリンボーン)のズボンと揃えのチョッキ、上から厚手のツイードジャケットを着込み、毛糸の襟巻きをして鳥打帽を被っている。皆、手をジャケットのポケットに突っ込み、寒そうにがたがたと震え、足踏みをしながら何かを待っていた。

「何をしているのかしら?」

 歌劇役者を待っているにしては、劇場の裏口は遠すぎるのだ。何より、こんなひっそりした場所で震えながらも物音を立てないようにじっとしている必用が無い。

「あそこは、そろそろ出てきそうですね」

 忠信が声を潜めながら言うと、間もなくして二階の窓がそっと開き、するすると何かが下ろされた。薄汚れたような砂色や赤の大きな布を何枚も結んだ紐の先には、紫の風呂敷包みがくくられている。寒そうに待っていた若者たちは、下ろされた荷物を大事そうに受け取り、荷物が無くなった紐の先を二、三度、引っ張った。それを合図にするすると紐が上がり、窓の中へと消えていく。

「ねえ、なんの荷物なの?」

 忠信はにたりと笑って、紐の消えていった窓を指差した。すると今度はじっくりと時間をかけて、腰に紐を巻き付けた女が降りて来たのだ。下にいた男たちは皆、手を伸ばして女を抱きとめようとしている。途中、強い風が吹いて女の着物の裾がめくれあがり、襦袢もびらびらと靡き始めた。女が暴れる度に紐がゆらゆらと揺れるので、男たちは慌てて真下に移動するのだ。

「あら、まあ、まあ」

 白い剥き出しの太腿が男たちの真上で揺れる様を見て、真っ赤になった喜代乃は何も言えなくなってしまった。

「あの劇場は『リゴレット』をやるんですけどね、今日が初日の筈ですが、どうも大荒れになりそうです。それじゃあ行きましょうか。なに、大丈夫です。田谷は出てきませんが、他の劇場で『カルメン』がありますから」

 再び、表通りに向かって歩き出した忠信に、喜代乃は小走りに着いていく。

「大荒れって? なぜ女の人が降りて来たの?」

「浅草も売れっ子女優じゃなければ、なかなか苦しいようで。公演前に前金だけ貰って、裏からこっそり逃げ出すのを、ペラゴロ達に手伝わせているんですよ。勿論、主演でなくとも女優に逃げられた公演なんて、代役を立てても碌なもんじゃありませんからね、そういうオペラは避けるに越した事はないですよ」

 意味が伝わっているのかどうか分からないが、喜代乃はただ、こくこくと頷き、忠信が切符を買っている間も大人しく待っていた。

 二階にある貴賓席の一番前に二人は腰掛けた。一応、一脚ずつの椅子になっていたものの、座面の天鵞絨(ビロード)は半ば剥げ落ち、緑の色がどうにか分かる程度にしか残っていない。一階席を見下ろすと、下には木製の長椅子に申しわけ程度の座布団が並べられ、男も女も身動きできないほどたくさんの人が座っている。立ち見席用の後ろの通路は若い男たちばかりで、少しでも前に行こうと小競り合いが始まった。

「ねえ、藤下。どうして、あんなに小さな子供たちが多いの? そういえば通りにもたくさんいたようだけど、学校を休んで来ているのかしら」

 一階席で前の方を陣取っていたのは、(かすり)の着物に前掛けをして、小さな帽子を被った小憎たちである。ひと目で住み込みの丁稚とわかるのだが、喜代乃は高等小学校に通う子らと間違えたようだ。忠信は屋敷でのいつもの口調で答えた。

「普段は子供が紛れ込まないか警察が見回っているのですが、宿入り(やどり)の日だけは特別に許されます。休みを戴いた奉公人は、家が近くにある者は郷里に帰りますが、遠方から奉公に来た者はすぐに戻れませんので、こうして浅草で楽しんでおります」

「まあ、それで。あんなに小さければ、後ろでは見えないでしょうね」

 感心したように頷いた喜代乃を、忠信は胸の内で苦く笑う。宿入りはたった二日ほどの休みで、暮れ正月も働き続ける住み込みの奉公人にとって年に二度しかない休暇だと言うのに、藤家の屋敷では与えられた試しがないからだ。四、五年ほど前、まだ使用人が多くいた頃には、女中頭は若い女中たちに盆と宿入りの休みを与えていた。だが他に人手のない料理人や執事は仕事を代わって貰う相手がいないと言う理由で、一年中休みなく働き続ける。商家では丁稚だけでなく、店を仕切る番頭までもが休むと言うのに、藤家の屋敷ではいつもと同じ一日が過ぎていくだけだった。

——まあそれでも、今年の宿入りは珍しく悪くないかもな。お供とは言え、浅草でのんびりやってんだから、あの屋敷としちゃあ贅沢なほうだ——

 開演の時刻となり、指揮者がやって来た。帝劇やローヤル館と違い、浅草では法被を着た男が指揮棒を振るので、何も知らない喜代乃は驚いて椅子から飛び上がりそうになっている。軽快なカルメン前奏曲が始まると、ますます驚いた喜代乃が椅子から転げ落ちそうになったので、忠信はしっかりと抱えて落下を防いでやった。

《チャンチャラオカシヤ、チャンチャラオカシヤ、チャンチャラオカシヤ、エヘヘヘヘ》

 劇場裏で先ほど見かけたようなジャケット姿の若い男たちが、拳をあげて歌いだしたからである。軽快なカルメン前奏曲の馴染みの節に付けられた歌詞はとても滑稽で、同じ言葉をずっと繰り返し、怒鳴るように歌っている。それを他の客も、やんややんやと手を叩いて喜ぶので、気を良くした指揮者はまた同じ節を繰り返す。このままではオペラは始まらないのではないか、と思ったその時、赤や黄色、スペイン風の民族衣装を着た女たちがやって来て、舞台の中央で踊りだした。足には衣装と揃えたトーシューズを履き、爪先(ポワント)で立つダンサーを見て、喜代乃は小声で呟いた。

「やっぱり浅草はトーダンスもあるのね」

 本場イタリアやドイツと同様の西欧グランドオペラを原語上演する帝劇と違って、浅草は歌詞も日本語で、歌あり踊りありの歌舞劇(ミュージカルプレー)とアメリカで呼ばれる舞台も取り込んでいる。四幕も五幕もある台本を無理に短くした一幕ものは、内容が随分と端折られて元のオペラとは似ても似つかないのかもしれない。洋行帰りの音楽家たちはこれを偽物と罵るが、本物よりも楽しく見られる事だけは間違いないだろう。その証拠に、演目も笑いが起こるオペレッタが好まれている。悲劇の人気はそれほどでもないが、『リゴレット』の『女心の唄』や、序曲の替え歌で盛り上がる『カルメン』などは観客も一緒になって歌えるので、よく上演されているようだ。

 劇中では幾つもの有名なアリアが歌われたが、その度に役者やダンサーが大げさな礼をとるので話は何度も中断されて少しずつ進んで行く。途中、偉そうにふんぞり返った闘牛士(エスカミーリョ)役のバリトン歌手が闘牛士の唄(トレアドール)を朗々と歌って大喝采をあびると、気持ちよくなったのか、伴奏も無いのにそのままもう一度同じ唄を歌いだした。慌てた指揮者が舞台横の楽団席(オーケストラボックス)から飛び出して、胸の前でバツ印を作って止めたので、また話は進み始めるのだ。この頃になると喜代乃も浅草の流儀に慣れて来たのか楽しそうに笑うようになってきた。

 話が進むうち、気の弱そうなテノール歌手が女工(カルメン)を抱きしめようとすると、

「おいおい、抱き合うのは人前でするもんじゃぁねえなあ、お二人さんよぉ」と大きな野次が飛ぶ。

「そうだ、そうだ」と合いの手が入り、内気な伍長(ドン・ホセ)はどうしたらいいのかおろおろとしているようだ。

「ねえ、あれでいいの? 大丈夫なの?」

 心配そうな喜代乃が聞いて来るので、忠信は微笑んで、

「これくらいで公演が止まるなら、浅草じゃあやっていけませんよ」と答えた。前の方に座った丁稚の小憎は、後ろから飛んで来る蜜柑の皮やキャラメルの箱を避けようと、小さな鳥打帽をぎゅっと引っ張って深く被ろうとしている。女工は、劇場内が充分すぎるほど盛り上がったのを見てから順番とは違う『恋は野の鳥』を歌いだし、楽団も伴奏しようと楽譜をめくって譜面を探した。

《恋なんて気まぐれなもの》と、歌い終わるまでに間に合った楽器はチェロと打楽器だけだったので、伴奏は有って無いようなものだったが、歌いきった女優(カルメン)の粋と度胸に観客達は喝采を送ったのだ。

「大丈夫でしたね」

 忠信の言葉に、喜代乃はしばらく呆然としていたが、やがて大きな声で嬉しそうに笑いだした。

「そう、そうね。これが浅草なのね」 

 喜代乃の笑い声は、観客の大きな拍手とペラゴロどもの粗野な野次に飲み込まれていく。上演されているとても短い一幕ものの浅草オペラでは、本来伍長からナイフで襲われる筈の女工であるのに、不思議な事に大きな銃声が何度も響いて次々にと倒れてしまっては、誰が誰を狙い、死んだのは結局女工なのか伍長なのか、それとも闘牛士なのか、観客も話をよく知ってる筈の喜代乃でさえも分からないようだった。とにもかくにも、しばらくは随分と悲壮な気配が漂っていたものの、ばたばたと倒れていった役者たちは最後に全員で起き上がり、手をつないで挨拶しながら終演となったので、劇場にいる誰もが幸せな気分になっている。

 演目はカルメンの他に新劇や、宝塚少女歌劇団を真似た少女舞台があったが、疲れて顔色の良く無い喜代乃を気遣って、劇場を出た。

「ねえ、ヂオラマを見て行きましょうよ」

 二人は雪の振る大通りをしばらく歩き、滑らないように電気館へと向かった。映写幕(スクリーン)に映し出される活動写真のパリの光景にあわせて、霧のような雨が劇場内に降り、稲光りが電気で再現される。やがて雨は上がり、雲の隙間から月が出て煌煌と夜空を照らし、星が瞬いた。

「藤下、今日はありがとう」

 呟くような小さな声が聞こえた。忠信は驚いて喜代乃を見る。劇場裏でしたように、喜代乃は俯きながらジャケットの裾を掴んで、先ほどよりもっと小さな声で、

「ありがとう、信さん」と口にする。

 その時、電気仕掛けの星空に小さな流れ星が見えた。


 浅草から戻り、しばらく経った頃の事である。段々と暖かくなってはきたが、春の気配とは裏腹に世間は真冬のように凍り付いていった。戦争景気で何もかも上手くいっていた筈の金融は、このところ立ち行かなくなっている。本土での戦争がなかった日本は、西欧各国が戦地となった隙に、ここぞとばかりに物作りに励み、輸出を奨励したのである。しかし、海の向こうも落ち着いたようで、極東から仕入れる必要は無くなった。輸出入の均衡が崩れると物価は上がり、ついに戦後恐慌を引き起こしたのである。

 忠信は相変わらず仕事に追われていたが、このところ屋敷と喜代乃の世話だけで手一杯となり、もう半月ほど当主の姿は見ていない。当主は会社には毎日顔を出すようだが、金策に走り回っているので忙しいのだろう。資金を借りようにも全国規模で銀行が合併や倒産と成り、暴落した株価はあらゆる会社の価値を紙切れ以下に貶めた。

 喜代乃は電話がかかる度、父親に、

「今日もお帰りにならないの?」と聞いていたが、項垂れて悲しそうに部屋へと戻る毎日が続いている。

 もう一つ、喜代乃の心を重くさせる原因があった。奥方の事だが、このところ屋敷ではまるで見かける事がない。主の友人でお節介な事業主に言わせると、パーティなどで会うたび、青い顔のひょろひょろとした、それでいて目つきだけはぎらぎらとさせている若い男を連れているらしい。しかし、面白おかしく語っていたので、どこまでが本当か、それとも友人とは建て前だけで、藤家の当主を馬鹿にしているのか見当がつかない。どちらにしても、喜代乃の心に負担を与えている事だけは間違いなかった。

 女中頭はなんとか明るさを取り戻してもらおうと就寝前に慰めているうちに、まるで子供相手のように本を読んで聞かせるようになった。忠信は、癇癪を起こした喜代乃に花瓶やコップの水を掛けられる事が多くなったが、それでも笑顔だけは絶やさないようにしている。濡れた燕尾を手ぬぐいで拭いていると、女中頭がやって来た。

「お寂しいのでしょうね。奥さまから一度も連絡はございませんし、私と貴方で少しでもお慰めするべきでしょう」

 母親代わりとなった女中頭と違って、忠信の役目は物を投げつけられたり、当たり散らされたりするだけなので、どこか腹に据えかねる部分はあったが、喜代乃の心情を考えると頷くしか他にない。

 日独戦争の大戦景気から一転、大正八年から密かに噂になりつつあった不景気は、翌年三月に株式が大暴落を始めた。戦争が終わった期待感から膨大な物作り政策をとったためだ。国中に溢れた物資が不良在庫となり、四月に起こった増田ビルブローカー銀行の破綻、翌月には茂木財閥が崩壊し、国立銀行である七十四銀行までもが消えていった。日本経済の中心が倒産すると、あらゆる金融機関は吸収合併を繰り返し、戦後恐慌の闇に呑まれて行く。最初に慌てたのは政界、金融や大企業であったが、自分たちには関係ないと高を括っていた庶民たちまで、やがて恐ろしい不景気に巻き込まれていった。米騒動まで起きたが価格は一向に下がらずに、以前の三倍ほどの値で売られている。

 貿易商の藤家は、どうしても恐慌の影響を受けずにはいられなかった。株券が紙切れ同然となると金策に走る当主は戻らなくなり、多くの銀行が潰れて日本全体が沈没するかのように思われた夜、藤家の会社から社長が行方知れずになったと聞いた。屋敷では無事を祈る喜代乃を慰めるために、主の好きだったワーグナーの自鳴琴を一晩中、何度もかけ続けたのだ。忠信はどうにかして奥方に連絡を取ろうとしたが、軽井沢のホテルは数日前に出払った後だった。

——せめて、旦那様と奥方が共にいてくれればいいんだが。どうも気になる——

 奥方の御実家へと連絡しても返事はない。涙をこらえる喜代乃のために詳しい状況を問い合わせたが、フロント係は「海外に行く」と聞いていただけである。ドアマンがそっと声を潜めて言うには、

「あれは特別高等課の刑事がホテルに立ち寄った日の事です」と、若い男と逃れるようにホテルを出た事しか分からなかった。

 もう、喜代乃にはフォークを投げつける力すら残ってはいなかった。母は若い男といつ帰るか分からない洋行に、父は死出の旅路に着いたのである。


 喜代乃と女中頭が荷物を詰めている間、忠信は客人によく冷えたコーヒーを差し出していた。藤家の会社は倒産となり、今は僅かに残った社員が残務整理をしている。父親の死後もずっと生母と連絡の着かない喜代乃の事は、重役陣の勧めにより、当主の腹違いである別姓の弟が面倒を見る事になった。同じ貿易業でありながら、この御時世でも利益を出せる弟の腕を認めはするが、御世辞にも藤家と仲が良かったとは言い難い。このため、血縁とは言え、複雑な環境に喜代乃を送り出す事は、忠信も女中頭も猛反対した。しかし、他に親族が見つからないのでは、召使い二人が何を言っても決定が覆る事はなかったのだ。

——今日、送り出せば藤家を継ぐ者はもう誰もいない。いくら主人の弟でも、俺は他人にまで頭を下げる気は無いんだ。代々仕えて来た俺たちの役目は、これで終わる——

 間もなくして、梨地織り(ジョーゼット)仕立てで淡い緑の半袖ワンピースドレスと、広い鍔の帽子を着けた女が客間に入って来たので、一瞬、忠信は奥方が屋敷に戻って来たのかと身構えた。よくよく見れば、洋装をした喜代乃である。これまで薔薇や撫子といった少女趣味の着物ばかりを好んでいたので、洋装姿に化粧を施しただけで別人のように映り、痩せ細った腕も青ざめた顔も、以前の女学生と同じ人物だとは到底思えない。まるで儚く消える小説の乙女のようにも見えた。それでも気の強い目つきだけは翳りがなく、痩けた頬と対照的に、ぎょろりぎょろりと大きな瞳が左右に動く。おそらく叔父を名乗る男を値踏み、或いは喜代乃なりに警戒をしているのだろう。幼い頃を思い返してみると、あまり人に懐かない子供であった。学校へ行く事で人見知りは鳴りを潜めたが、それまでは新しい召使が来るたびに一旦は人の後ろに隠れ、次に顔を合わせた時には、気に入らなければ泣き出すか、悪戯を仕掛けていたからだ。洋装の喜代乃が女中頭に支えられ、なんとか無愛想なりに客人に挨拶をすると、叔父と名乗る男はこれ以上無く尊大に胸を張り、

「もう何も心配は要りませんぞ。貴女には幸せになる権利がおありだ」と、やたら大げさなカイゼル髭をいじりながら言う。

 叔父の自動車に乗り込む時、喜代乃は「信さん」と忠信を呼んだが、側に寄ろうとしても「では、後の事はよろしく」と、獅子の頭が付いたステッキで男に遮られたので、召使いでは近づく事は出来なかった。忠信はただ一言、

「お元気で、喜代乃様」と口にするのが精一杯だったのだ。男は空いた方の手で、さあさあと喜代乃を車の中へと誘っている。金カフスの付いた袖口からちらりと見えるのは、客間で自慢げに語っていたジラール・ペルゴの金無垢時計かもしれないが、忠信の目には、まるでのようにてらてらと光っているように見えた。

「さあ、行きますぞ」

 ゆっくりと走り出した自動車に頭を下げ、門の外まで見送った。忠信が頭を上げた頃には、神楽坂を降りていく車の姿は小さくなっていた。車はますます小さくなって、やがて坂の向こうに消えていった。

 もうこの屋敷には忠信と女中頭の二人しかいない。それも僅かな間だけだろう。整理が付き次第、二人ともそれぞれの家へと帰るのだ。開け放たれた玄関の戸を閉め、これまで勤めた屋敷を見渡した。かつて働いていた多くの使用人の声はとっくに消えている。主人を訪ねた多くの客は去り、ワグネルとドイツ帝国をこよなく愛した当主も既にこの世にはいない。元気に走り回っていたおてんば娘の影は薄れ、臥せりがちで高慢な御息女も屋敷を出て行ってしまった。

 この屋敷に君臨した藤の一族は絶えた。これからは忠の字を持つ男児が屋敷に出仕する事は無い。藤と藤下は、もう上でも下でもなくなったのだ。自らの手で断ち切ろうとした鎖はあっけなく崩れ落ち、間も無く忠信は、藤家最後の執事として屋敷を後にする。

——これで全てが終わった。半世紀、奴隷のように働いてきた俺たちは、ついに解放されたんだ——

 待ち望んでいた「その時」が来れば、嬉しさが込み上げるだろうと、ずっと思っていた。だが、何故こんなにも心の中が空っぽなのか分からない。ついさっきまで、胸には喜んだり悲しんだりする生き物のような何かがあった気がするのに、今はもう何も見つからない。何も無い、という事が解放された証なのだと、忠信はただひたすらに言い聞かせた。

「親父、終わったよ」

 この燕尾に袖を通す日は、二度と来ない。


 忠信は空を見上げた。気がつけば晴れ渡った青い空の向こうに、電気仕掛けのパリの夜空を思い出している。消え入るような喜代乃の言葉は、この先も忘れる事は出来ないのかもしれない。

用語

ロッシニ・セビルの床屋:ロッシーニ作曲「セヴィリアの理髪師」

トラヴィアタ:ヴェルディ作曲「ラ・トラヴィアータ」、別名「椿姫」

あやしやな、花より花を訪ねて:「ラ・トラヴィアータ」ヴィオレッタのアリア「不思議だわ、花から花へ」

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