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役儀納め  作者: 犬槙リサ
2/6

 最近は書斎に籠もる事の多くなった当主は、忠信の差し出した小酒杯リキュールグラスを空けてから、

「近頃、屋敷は少し賑やかなようだな。それに私も歳を取ったのか、食事はさっぱりとした家庭的なものがいいようだ」と言う。世間話のように聞こえもするが、忠信が厨房を仕切る女中頭にそのままを伝えたところ、また蟹眼鏡の奥からぎろりと睨まれた。

「かしこまりました。では、あなたにも厨房の仕事を覚えていただかないと」と言ったきり、目を合わせようともしない。しばらく経つと、召使いの部屋から女中二人の姿は消えていた。

——俺よりも、女中たちを残したかったんだろうな——

 女中頭がどんなに悔しがっても、主が命じたのは屋敷を守る執事にである。運転手と車夫は当主一家の足となっているから辞めさせる事は出来ない。そうすると、影で仕事をしていた庭師や女中が不要とされたのである。

 今や、屋敷の手入れの他にも庭仕事が加わり、料理は女中頭と二人で仕入れから片付けまで全てをこなさなければならないので、一日を終えて振り返れば、「いってらっしゃいませ」と「お帰りなさいませ」の二言しか喜代乃と話していない。たまに向こうから声をかけられる事はあるが、愚図愚図していると女中頭から後になってたっぷりと嫌みを言われる事が何度かあったので、適当に切り上げるうちに、喜代乃も以前のような無理難題を押し付ける事は無くなった。これまで、屋敷の仕事は寝る間もなく忙しいものと思っていたが、こうして人手が何人も減ると、今までの苦労など取るに足らないものだったと認めざるを得ない。

 だが、回りきらない仕事は段々と手の平から零れ落ちていく。甘味を好む喜代乃のためにと出される蒸し団子(ダンプフヌーデルン)だが、西洋スモモ(プルーン)ジャム入り小麦団子(クヌーデル)は茹でただけの白玉団子となり、馬來(マレー)半島の華陀爾拉(ヴァニラ)で作っていたソースもアイスクリンを溶かしたものとなっている。味はともかく見た目だけは以前と変わらないので、女中頭も気にせず給仕をしたようだ。

 段々と食事がおろそかになって来るうちに喜代乃は体調を崩し、医者を呼ぶ事となった。人力車に乗ってやって来た医者は髭をいじり、ずれた丸眼鏡を直しながら、

「目に見えない細菌が悪さをしているに違いない」と言うわりに、のらりくらりと病名を言おうとはしない。聴診器片手にドイツ語の医学書を開いては、あれこれと呟いて溜め息を吐く。これでは埒が明かないと、仕方なく忠信は幼い頃から慣れ親しんだ民間療法に頼る事とした。万病に効くと言われる正露丸を生薬屋(きぐすりや)で買い求めたのだ。

 その帰り、近くを通ったついでと実家へと寄ってみたのだが、久々に会った母親は情けないものでも見たように頭を抱え、

「あんた、それは脚気じゃないのかい? 馬鹿だねえ、そんなもん効きゃあしないよ」と呆れたように言う。毎年、何万人も脚気で亡くなっているのだが、正しい治療法を探し続けて後手に回る国の医療と違って、この世代の女たちは自分たちの経験に基づいて世話を焼きたがる。

「そういや最近、甘藍(キャベジ)を買ってねえなぁ」

「何やってるんだい、あんたの他にもお女中さんだっているんだろ、それに奥方様はどこに行っちまったんだよ?」

 女中頭が聞けば腹を立てそうな言葉だが、出来上がりまで一週間もかかる甘藍の酢漬け(ザワークラウト)はついつい後回しになってしまったに違いない。

「そんなもんよりさ、麦飯にあったかい大根の味噌汁と焼き魚でも食べさしてやんなよ」

 ドイツ料理にこだわり続ける藤家では、母親の言うような当たり前の食事を出すわけにはいかなかったが、この一言で甘藍の酢漬けは再び皿に置かれるようになり、馬鈴薯も、田舎くさくなると取り除いていた皮をつけたまま、茹でて出されるようになった。

 藤家夫婦も随分と忙しいらしく、当主が戻らない夜が続き、喜代乃の母までもが一度出て行くとしばらく戻らないようになっている。ひと気の少なくなった屋敷はひっそりとしてしまったが、屋敷付きの召使い二人はますます慌ただしくなっていった。喜代乃は医者の勧めで女学校を休んで休養を続けている。これも元を正せば、忙しさから食事が手抜きとなり、これ見よがしの節約を始めた事によるものなのだ。それでも、忠信だけでなく屋敷の誰もがこの苦難を黙って耐えているのは、もうしばらくの辛抱で昔のような賑わいを取り戻すだろうと信じるものがあったからである。


 少し経つと段々と体調が戻ってきたのか、まだ女学校には通えないものの、随分と顔色が良くなった喜代乃は退屈しのぎに忠信に話しかけるようになってきた。

「ねえ藤下、少しこれを見てちょうだい」

そう言って喜代乃は寝床の上に少女雑誌を広げてみせるのだ。臥せってからというもの、部屋には常に布団が敷かれていた。最初の頃は立ち上がっただけで目眩がするというので、用足しに部屋を出た隙に掃除をし、干す間もないので別の部屋の布団と差し替えていたが、最近になってようやく歩き回るようになって来たので、女中頭もそれなりに部屋の手入れをできるようになった。喜代乃は昼間から布団の敷かれた部屋に居ると気が滅入るらしく、時間によって日当りのいい場所を探し、転々としている姿はまるで猫のようだ。ちょうど洋室の居間を通りがかった忠信は、開け放たれたドアの向こうから声をかけられ、神棚への供え物の酒や塩を抱えたまま、運悪く捕まってしまったのである。

 喜代乃の話は他愛無く、脈絡の無いものが多かった。

「冬の日よけにはパラソルとショールどちらがエレガントか」だの、

「横浜のフランス料理店が実に本格的だ」だのと、少女雑誌に書かれている女同士で語りあうような話を延々と聞かされたところで、忠信には何も答えようが無い。布団の上に散らばる雑誌は、洋装と言うよりも仏蘭西風の服と街並みを表紙に描き、外国の映画や宝塚少女歌劇団の写真や、今風な服装帖などが載っている。他愛もない女学生向けの雑誌とは思うのだが、少女小説として掲載されている人気作家の幾人かは、喜代乃の母の書棚で名を見かける事もある。それは、女性の覚醒を促そうとして何度も発禁扱いとなり、やがて休刊となってしまった『青鞜(せいとう)』などで筆を執っていた執筆家たちであった。たかが少女小説、しかし忠信は、喜代乃が母親の影響を知らず知らずと受けているような気がして仕方ない。ひととおり話を聞いた後、

「では、喜代乃様、他に用事はおありでしょうか。無ければ、私は夕食の準備をして参ります」と言ったところで、

「それじゃあ藤下は帝劇のシェークスピヤは見に行った? ガードルードの女優は毒婦のごとく、って新聞に書いてあったけど、本当はどうなのかしら?」と放す素振りも無く話し続ける。

——帝劇に行けるほどの甲斐性があるものか。そんな暇あったら、いや、暇でも行かねえな。まずはステン所前の飲み屋でウエスケ一杯、それから浅草六区でビール片手に活動写真でも見に行くか、十二階下の新聞縦覧所(しんぶんじゅうらんじょ)にでも行くだろうなあ——

 しかし、嘘つきな口は、

「いえ、ハムレットはまだ見ておりません」と答えるのだ。元気な時は傍若無人に振る舞っていた喜代乃も、この頃は話す相手が医者と忠信だけとなり、猫をかぶったように大人しくなっているので、忠信は笑いそうになる。

「藤下は演劇好き? よく見に行くの?」

 まだ、と言う言葉に無駄な期待をさせてしまったか、と少しばかりの後悔をした。

 喜代乃は知る筈も無いだろうが、縦覧所は雇われ女と部屋に籠るか、女が忙しければ、銘酒屋(めいしや)射場(いば)から適当な女を見繕ってくれる斡旋所となっているので、下町の魚屋の親父も東京に来たばかりの田舎者でも気軽に遊ぶ事ができる。

「ええ、浅草の芝居でしたら何度か。以前はよくオペラに行っておりました」

「まあ、藤下はペラゴロだったのね。田谷さんは? 田谷力三さんって帝劇にいらしたテノールでしょ、見に行った?」

 小さく頷くと、喜代乃は途端に大喜びをして浅草まで一緒に行くと言い出した。まさか病床の喜代乃を、あんな猥雑な街に連れて行けるわけが無い。

「お体にさわります」と、やんわりと断ってみると、

「それじゃぁ元気になったら六区に連れて行って。それならいいでしょう」と袖を掴んで訴えかけて来るのだ。

——無理に決まってんだろ、帝劇と違って車で待ってるわけにもいかねえ。浅草の劇場に女学生一人放り込んだりすれば、ろくでもない貧乏学生のタカリに狙われるだけだ——

「信さん、ねえ、信さん」

 忠信は一瞬驚いたが、やがて観念したように目を閉じた。女学校に行きだしてからというもの、藤下、と呼び捨てにされつづけてきたが、まさか小学に通っていた頃のように、信さん、と強請られるとは思いもしなかったからである。溜まって行く一方の仕事に焦っていた事もあり、ついに根負けした忠信は当主から説得してもらおうと、この場だけでも承知せざるを得なかった。

「約束よ、信さん」

 嬉しそうに言われれば、この忙しいのに面倒ごとを起こさないでくれ、とは思っていても、嘘つきな口元は喜代乃に釣られたように笑みを浮かべていた。

 夕食後、忠信は久しぶりに戻った主の書斎まで事情を話しに行ったのだが、

「ああ、それもいいんじゃないかね。ただし、君がずっと喜代乃に付いてくれるなら、別に構わないよ」と言われ、面食らった。畳座敷に絨毯を敷いた上には引き出し付きの書斎机(ライティングテーブル)肘掛け椅子(アームチェア)があり、当主はそこでドイツから取り寄せた雑誌を読んでいたが、ロイド眼鏡を外して忠信をちらりと見た。

「それは勿論、私が喜代乃様のお荷物を運びますので」

 浅草六区は花の街である。貧民窟の危険こそ無いものの、女の一人歩きに向く筈も無い。目を離して危なっかしい通りにでも行かれたら、取り返しのつかない事になってしまう。

「君は銀座や浅草に詳しいんだったね」

 この屋敷で働く以前、自由気ままに暮らしてしていた事は既に父から聞いていたようである。何も知らないのは喜代乃だけなのかもしれない。

「以前の職場から近かったもので、何度か買物に行った程度ですが」

 確かに銀座と浅草はそれほど遠くない。仕事帰り、ほんの少し夕涼み気分で勝鬨橋(かちどきばし)まで歩いただけで、あとは一銭蒸気に乗れば楽に隅田川を行き来できるので、汽船で両国を越え、そのまま浅草までよく夜遊びに出たものだ。

「藤下も忙しいようだが、もう間もなく新しい仕事が入ってくる。それまで喜代乃の事を頼むよ」

 屋敷の住人が待ち望んでいるもの、それが、この新しい仕事である。貿易を生業とするものにとって、いつの時代も戦争は己の道を分かつ大きな分岐点である。明治以来、ドイツ帝国との商売で材を築いてきた藤家は、日独戦争の煽りを大いに食らった。重要な商品であったライン川周辺(ラインラント)の重要な機械部品は日本に届かず、ザクセン王国のマイセン陶器など、戦前は舶来最高峰の磁器として茶会の席までも飾られていたものが、敵国の粗悪品と罵られ価値は地に落ちた。世界中を巻き込んだ戦争は昨年終結を向かえたが、偉大なドイツ帝国はヴァイマール共和国となり、金を生む地とされた工業地帯のライン川周辺は、領土を狙うフランスに取り上げられたまま暴動の嵐が吹き荒れて一年たっても未だ混乱のさなかにある。

「向こうもようやく輸出入の禁止が解かれて落ち着きそうだよ。今、人を遣っていてね、戻り次第、また商売を始めるつもりだ」

 自慢げに話す当主とは反対に忠信は、いくらドイツ帝国が亡国となったとは言え、一番の取引相手である筈の陸軍需品本廠(りくぐんじゅひんほんしょう)が昨年までの敵国から商品を買ってくれるのだろうか、と不安に駆られてしまう。世間では戦争景気で誰もが浮かれているが、正直、この藤家にはしばらくの食い扶持程度しか余裕がないように思われた。だからこそ、こうして庭師や女中の首を切り、残った忠信と女中頭が一日中ずっと働き続けているのではないか。当主の貿易会社もまた同じで、少なくなった社員はこの屋敷の使用人と同じ目に遭っていると聞く。

 それに加え、奥方、つまり喜代乃の母は鬱々としたこの状況を憂えているのか、屋敷を留守にしがちである。一旦外出をすると、そのまま何日も戻って来ない日が続いていた。藤家の運転手が言うには、軽井沢方面に送る事もあるが、多いのは、インテリ層の男女がよく集う郊外の洋館だそうだ。

——どこで何をしてようが俺には関係ないがなぁ。お忙しいのは結構だが、自分の生んだ娘が脚気にかかってもお構いなしか。どんな女だよ——

 社長夫人と呼ばれる事を嫌う奥方は、自らを女性詩人だと言う。短めの断髪に縁無し帽を被り、仏蘭西縮緬(クレープデシン)の洋服を着て町を闊歩する。堂々としているのは娘と同じだが、猫のように音もなく歩くので、エナメルの靴音を聞く事は滅多にない。屋敷の中でも、どこにいるのかさっぱり分からない人物だった。

 しばらく考えに耽っていた忠信に、再び主より声が掛かった。

「それと藤下、少し時間が取れるようになってからでいいんだが」

主は顎をさすり、薄い髭を確かめるように撫でてから忠信に向き合った。

「縁談の件はどうだい、藤下。悪い話じゃない。お前は長男だが、実家には商売を継いだ弟がいる。相手と同居と言ったって、何も姓が変わるわけじゃない。家庭を持ってからも、このままずっと我が家の仕事を続けてもらえばいいんだ」

 ほんの一瞬、忠信の顔が引き攣った。以前から誘われている話だったが、これまでは執事としての未熟さを理由にうやむやにして来たのだ。

「一度、実家と相談しましてから、返答を申し上げます」

 忠信は、執事として深々と頭を下げて主人への礼をとるが、心の内では一度として屋敷に義理を立てた事は無い。

——勘弁してくれ。俺は、結婚まで屋敷の言いなりにされるのか。しかも、向こうの家に食わせてもらいながら、ここで働けだと? 何をふざけてやがる——

「私はお前たちを、三代の藤下を知っているが、皆よくやってくれている」

「ありがとうございます。主君からのお言葉、亡き先祖も喜びます」

——主君か、そう思ってたのは親父までだろうな——

「ああ、そうだな。しかし藤下、今はもう御一新の時代ではないし、戦時でもない。ようやくまた商売ができるようになったんだ。慌ただしくなる前に、お前も細君を貰って幸せになるべきだろう?」

 当主の書斎を後にした忠信は、召使いの部屋へと戻りながらも、胸がざわついて仕方が無かった。御息女である喜代乃の将来を当主が決めるなら納得できるが、召使いの縁談まで勝手に決められては甚だ不本意であるし、断りづらい立場と言う事もあって、忠信にとっては迷惑以外の何ものでもない。しかし、この屋敷にいれば忠信が好むモダーンな女性との出会いなど滅多に無いのも事実である。当主の貿易会社で働く秘書や事務員の女性になら面識はあるが、自由意志で主の会社に働く職業婦人と、屋敷に代々と勤める召使いとでは立場が違うのだ。

——押し付けられた縁談が悪いとは思わない。確かに、親父とお袋はうまくいってたし、うちの家庭だって悪くなかったじゃないか——

 先代の執事であった父も、やはり藤家の勧めで家庭を得たのだ。藤家の会社員が通った市谷駅近くのうどん屋には、一人娘がいた。年若い執事見習いの男を夫に迎えた一人娘は、家の商売を手伝いながら、やがて生まれた二人の息子を育て上げ、屋敷勤めで滅多に帰らない夫をずっと待っていた。今また藤下家の長男は、藤下の姓のまま、藤家馴染みの商売人の娘のところへ、まるで入り婿のように押し込められようとしている。

「ご先祖さんを恨むわけじゃねえが、家に戻ったって仏壇に線香あげようとは思えないねえ」

 執事の燕尾から寝間着に着替え、ひと心地ついた忠信は、がらんとした召使いの男部屋に他は誰もいないのをいい事に、愚痴をこぼしながら溜め息を吐く。

「藤下を三代も知ってるってか。知ってるも何も、うちは三代しか経ってねえんだ。大体、あんたらが付けたんだろうが、この苗字をさ」

 忌々しげに、毒を吐くように重く口にする。それから持っていた湯呑みをごろりと畳に転がし、最近、干す事が少なくなって薄くなったカビくさい煎餅布団を頭からかぶって寝転がった。

「うちの家は運が無い。それもこれも、こんな名前を付けられたからじゃないか。俺は絶対に息子に忠の字なんか付けやしねえ」

 藤下家の男は皆、名前に忠の字を持つ。これは御一新のあと、平民でも苗字を名乗ってよいとお達しがあった頃からの慣習となっている。それ以前、徳川の時代にも藤家に仕えてきたとは言え、姓を持たない卑しい走卒だった祖父は、働きを認められて主君より藤下という姓を賜ったのだ。これを栄誉として一生涯どころか子々孫々、末代まで藤家に忠義を尽くしますと、子、孫に「忠」の字をつけたのである。忠信が藤下の姓をひどく嫌う理由もここにある。

——爺様は、頭の悪い馬鹿野郎だ。身分の無い使いっ走りだったくせに、御一新で家臣に取り立てようなんぞ言われて一丁前に真に受けちまったんだからな。人が足りなかっただけじゃねえか。藤下なんざ、藤家の下男だってからかわれてんのに気づかないのかよ。おぎゃあと生まれたその日から死んで墓に入ってまでも、苗字で下部(しもべ)扱いされる孫の気にもなってみろ。俺らは藤家の奴隷じゃねえだろうが——

 屋敷に雇われはしても、忠信は藤の家臣になったつもりは無く、ましてや忠心などこれっぽっちも持っていない。五十年ほど前に与えられた姓を屈辱とし、腹の底では憎んできた。主人から与えられた苗字を祖父が純粋に喜び、終世、父が家臣気取りで仕えたのは、十歳やそこらで奉公を始めた無学のせいだと蔑んでいる。だからこそ忠信は、教養を付けなければならなかった。

「なんでこんな屋敷に来ちまったかなぁ」

 大学で学問を修めたほど志は高かった筈である。しかし、明治半ばに生まれた忠信も、大正になって新しい時代の息吹を感じ、そして飲み込まれてしまった。毎夜、銀座浅草と練り歩き、ハイカラなカフェーで女の尻を追いかけ回し、夜更かしで疲れていたのか仕事が出来ない無能だったのかは分からないが、サラリーマンに愛想が尽きた。挙げ句に父のあとを継いだのだ。あれほど嫌っていた藤家への出仕と分かっていながら、である。そして尊大な藤家は今、父と忠信、二代に渡って自分たちに都合の良い縁談を勧めてきた。

「親父は十八、俺は三十手前か」

 このまま屋敷に勤めるなら、そう簡単に縁談を断るわけにはいかないだろう。藤家の下部を次の世代まで残すためか、種馬のように女を宛てがわれるのは腹に据えかねるが、実際、自分で見繕うにはあまりにも狭い世界に生きている。

——まぁ、こんな薄っぺらな布団で一人夜を過ごすより、あったかい女の乳でも喰らいながら寝た方がましかも知れねぇけどな——

 御一新から続く主従関係を断ち切ろうと思っていた。しかし、もう既に忠信は父に旗を巻き、執事となる事で藤家に承服したのだ。自ら藤と言う名の檻に入り、藤の下である事を認め、奴隷のように頭を下げてしまった。この五年弱、何度も自分を責め立て罵ってみたが、いつか必ずと心に秘めていたのは最初の二年程度で、未だに屋敷を出る事は出来ずにいる。喜代乃が当主の真似をして「藤下」と馬鹿にするように召使いを呼ぶ事を、咎める事は出来ないし、いつか見返してやりたいという思いも、段々と薄れて来ているのだ。これを、分別を弁えたというべきか、それとも、意思を放棄したと言うべきなのだろうか。

「構わねえんだ、別に嫁に貰ったって。だがなぁ、それじゃあ親父や爺さんどもと、まるで変わらねぇんだよ」

 それでいいのか、と自問する。ここで藤家の言いなりになるのは妥協に過ぎないだろう。召使いの血を残すためだけに嫁を宛てがわれるのは、次の世代まで不幸となるに違いない。忠信は断わる理由を探したが、どうにも思いつかなかった。今日はもう休もうと考えたが、眠りは一向に訪れようとはしない。仕方なくランタンで手元を照らし、先ほど枕元に転がした湯呑みを手に取って布団の上で胡座をかき、見た事も無い女房を夢想しながら、陶栓の一升瓶に詰めた清酒をちびりちびりと飲み始める。ほろ酔い気分となり、これで今夜はぐっすりと寝られるだろうと考えたが、ふと、まだ面倒な仕事が残っている事に気がついた。

——そういや、嫁入り前の娘を浅草に連れてかなきゃいけないな——

「約束よ、信さん」

 喜代乃の言葉が蘇る。藤下ではなく、信さんと呼ばれたのは何年ぶりだろう。

「まったく、面倒な女だな」

 召使いとして付き従うべきだとは分かっていたが、久しぶりに見た喜代乃の笑顔を思い浮かべるうちに、どうせ、いかがわしい街の安っぽい貴賓席で浅草オペラを見るなら、逢い引き(ランデヴー)気分で楽しませるのも悪くない、などと大それた事を考え始めていた。

用語

ステン所:駅。ステーションが訛った言葉。

ウエスケ:ウイスキーの通称

浅草六区:浅草オペラ、見世物、私娼窟が並ぶ日本一の歓楽街。

ペラゴロ:浅草オペラ好きのゴロツキ。

一銭蒸気:乗客を蒸気船で運んだ川の交通網。

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