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神様には救えない事例  作者: 相良胡春
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裏切りの理由

フリードリッヒのことを他人の耳に触れさせたくなかったので、ちょっとした惣菜と赤ワインを買ってアパートに戻った。

「ずいぶんさっぱりした部屋ですね」

 ワンルームに小さな調理スペースと、バストイレがついたシンプルな部屋だ。不要品の山からみつけだした木製のテーブルと椅子が一脚、簡易ベッドが唯一の家具類で、服やこまごまとしたものはクローゼット代わりのトランクと作り付けの棚に入れてある。

 椅子が一脚しかないので、ベッドの前にテーブルを運んだ。

「それで?」

 半分ほどワインがなくなった頃、俺はベッドに腰かけているクラウスに顔を向けた。クラウスは手に持っていたパンを皿の上に置いて、改まった顔になる。

「兄に会って欲しいんです」

 クラウスは朝言ったのと同じ言葉を繰り返した。

「こんなことをお願い出来る立場じゃないことはわかっています。でも、あのままじゃ兄がかわいそうで見ていられなくて」

「かわいそう?」

 俺はクラウスの言葉を鼻で笑い飛ばした。胸の奥から黒々とした得体の知れない感情が湧きあがってくる。

「あいつが俺と俺の親父に何をしたか知っているか?」

「ええ、一通りのことは。ずっとそのことで苦しんでいるんです。あなたに会いたがっています」

 クラウスは、痛みに耐えるように胸元に片手を置き、熱心に訴えた。その真っ直ぐさが癇に障る。

「今さらなんだって言うんだ。どうしてあいつが直接来ない?」

 哀れっぽく土下座の一つでもしたら、視線くらい向けてやる。思いっきり見下して、大笑いしてやる。

「入院しているんです」

 俺は唇の端をゆがめた。

「いい気味だ。そのままのたれ死ねばいい」

 天罰が下ったのだと小気味いいはずなのに、それほど気持ちはすっとしない。クラウスは俺の言葉をとがめるように眉を寄せた。

「不満か? でもそう言われても仕方ないよな」

 父は優しい人だった。フリードリッヒが勉強を続けられるよう、いつだって援助の手を惜しまなかった。奴はそんな父を平気で売ったんだ。殺しても殺し足りない。

「確かに兄は取り返しのつかないひどいことをしたかもしれない。でも、あれから十年も経つんですよ。許すか許さないかは別にして、謝罪の言葉くらい聞いてくれてもいいんじゃないですか?」

 深い緑色の瞳は真っ直ぐ俺を捕らえて揺らがない。フリードリッヒの弟のくせに何を言いやがる。理不尽さに怒りが込み上げてきた。加害者側の人間が何をえらそうに。こいつに上から目線で諌められる覚えはない。

「あの後俺が、どんな気持ちで生きてきたかお前にわかるか? 十年も経ったって? それがなんだ。俺の中では何も終わっちゃいない。何十年経とうと元に戻せはしないんだ」

 クラウスの瞳に浮かんでいた光が、戸惑いで弱まる。

「それだけのことをしたんだよ。あいつは、俺たちに」

 のうのうと生きられていることだけでも感謝しろ。フリードリッヒのせいで父は死んだんだ。

「やっと気持ちを押しこめて、静かに暮らせるようになったんだ。今さら蒸し返したりしないでくれ。これ以上俺にかまうな!」

 気がつくと右手の甲に、きつく爪をたてていた。その痛みが俺の正気をどうにか保ってくれていた。

「すみません。あなたを怒らせるつもりはなかったんです。兄さんのことで頭がいっぱいで、ついこちらの事情ばかり押し付けてしまいました」

 勝手なことを言い過ぎたとクラウスは頭を下げた。彼を謝らせても、とても勝ち誇った気持ちにはなれなかった。同情されたのだ。飼い主に打たれた犬を見るような目で。いったい何様のつもりだ。

「僕のせいなんです」

 クラウスは声を詰まらせた。罪悪感にうち震えるように。とんだ役者だ。従順さを装っても騙されはしないぞ。俺は腹に力を入れて身構える。

「僕が足かせになったりしなければ、けして兄はあんなことをしなかった。たとえ自分が殺されたとしても」

「どういうことだ?」

 クラウスがあの事件について、俺の知らない事実を知っていることが気に入らなかった。

「シュタージと取引したんです。あなたの家に入りこんでお父さんの情報を流す代わりに、僕の命を助けると」

「お前のため?」

クラウスは頷いた。

「僕は生まれつき心臓が弱かった。学校に行く年頃にはまともに歩けないほど悪化していた。その時僕は知らなかったけれど、今すぐ手術をしなければ、いつ死んでもおかしくないと宣告されていた。兄は一人でどうにかしようとあせっていた。手術は長い順番待ちで、まともに待っていたらその年の誕生日も迎えられなかった。あなたも東側にいたから判るでしょう? 何かを手に入れるためには常に順番待ちだ。それが嫌ならまとまった金を用意するしかない。少しでもリストの順番を上げてもらうために。でも、僕たち兄弟にそんな金はなかった。両親はすでに亡く、食べていくのがやっとだった。そんな時、話をもちかけられた。申し出を受ければ、僕を西ドイツにいる祖父母の家に送り届けて手術が受けられるように取り計らうと。父方の祖父は、大学病院の外科部長で豊かな暮らしをしていた。兄は断わることなどできなかった。そうしたら僕が死ぬのが判っていたから。あなたたちを騙したかったわけじゃない。仕方なく、彼らに従ったんです」

「どんなに取り繕うとも、お前を助けるために俺たちを騙すことを選んだ。その事実は変わらない」

「その通りです。でも、罪を犯させたのは僕だ。全ての元凶を作ったのは、兄ではなく僕なんです。罰を受けるべきなのも僕。だから、兄のことを許してやってください。僕があなたに償います。兄の代わりに。たとえ一生かかったとしても」

 だからお願いします、とクラウスは深く頭を下げた。

 フリードリッヒはこんな奴のために裏切ったのか? 彼の純粋さが鼻について仕方がなかった。


いろいろわからないことだらけなのですが、歴史書を書いているわけじゃないんだしと、ひらき直ってずうずうしく書いてます。


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