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神様には救えない事例  作者: 相良胡春
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家族の元に戻る

 俺は父のことが大好きだったが、恨んでもいた。

 どうしていつもそばにいてくれないのだろうかと。

 仕事が忙しいことはわかっていた。でも、そう思わずにはいられなかった。

「あんたの言うとおりだよ。父は優しい人だった。誰かを恨むなんてことをしない人だった。あんたのことを、本当の息子のように愛していた。不幸になって欲しいだなんて思ってもいなかった。たとえ騙されていたとしても。復讐なんてはじめから、望んでなんていやしなかったんだ」

 今頃になってやっと、本当の父の気持ちを見たような気がした。

 少し考えればわかることじゃないか。

 ずっと俺の前に現れていた父の亡霊は、俺自身が作りだした妄想だ。フリードリッヒを憎むための口実でしかない。

 俺は、俺自身に嘘をついていた。

 俺がフリードリッヒを許すか許さないかを決める決定権は、はじめから父が持っていたのではない。俺だ。俺の意思で決めてよかったんだ。父がどうかなんて関係ない。だから俺は。

「あんたを許すことにする。きっと父は、そうすることを望んでいるだろう。もしあんたがしたことを知っていたとしたら、冷たい牢獄の中で思っただろう。フリードリッヒが抱えることになる苦しみを。心配すらしたはずだ。不幸にならないようにと祈ったはずだ。あんたは自分が犯してしまった罪の大きさに怯え、罰を受けることばかり考えていた。真の父の願いに耳を傾けようともしなかった。俺と同じで、父を裏切り続けていた。だから俺は、ずいぶん時間がかかってしまったが、父の意思を尊重して、あんたを許すことにする。あんたはもう、自由になっていいんだ。好きに生きて。見ないふりをしていた家族のもとに戻っていい。クラウスのもとに」

 病室の隅で身を縮めていたクラウスが、びくりと肩を揺らした。

 彼の存在にたった今気がついたかのように、フリードリッヒの視線が彼をとらえる。今までの特に感情のこもらない他人を見る目ではなく、その人だと認識した強いまなざしで。自分自身にかけていた呪いがとけ、目の前でくすぶっていた白いもやが、ぱっと消え失せたように感じた。

「兄さん?」

 不意にわき起こってきた希望を必死に押えこみながら、クラウスがフリードリッヒを呼んだ。

 フリードリッヒは耐えるように両目をつぶり、力なく首を横に振った。

「どうして? どうしてクラウスを拒むんだ」

 自分に注がれているクラウスの真っ直ぐな視線から逃れるように、フリードリッヒは顔をそむけた。

「こんな死にぞこないの廃人なんか、クラウスには必要ない。お互い関わり合いにならず、離れているのが一番だ。お前は僕がやった暗い仕事など、知らなくていい。無理に手をのばして、黒く染まったりするんじゃない。罪にまみれるのは、僕一人で十分だ。僕だけでいい。僕自身が決めてやったことだ。悔いなんかない。お前はけして汚れてはならない。そんなことは許されない。僕が全てを注ぎこんで守ったのだから。僕の人生をささげて生かしたのだから。お前はかかわってはいけない。一点の曇りもなく、真っ白でいなければいけない」

 フリードリッヒは低くかすれた、しかし否定を許さないきっぱりとした口調で言った。

 フリードリッヒが作りだした目に見えない深い溝が、二人の間には存在している。

 しかしクラウスは、何の躊躇もなくその溝を越えてきた。

「でも、そんなの無理だよ」

 クラウスの声が、凛として響く。

「だって僕は、すでに全てを知ってしまったのだから」

 重い空気をすぱりと切り裂いて。

 クラウスはフリードリッヒに歩み寄って、彼の頭を自分の肩にもたれかかれせた。

「ずっと僕は、兄さんに捨てられたんだと思っていた。僕の世話に疲れて、嫌気がさしたんじゃないかって。兄さんは僕の命を救うために西側に送って、厄介払いが出来たと喜んでいるんじゃないかって、疑っていた。そうじゃないって自分の気持ちを打ち消しながら、いつか兄さんが迎えに来てくれるんじゃないかって期待して、ずっと待っていた。僕は、兄さんのおかげで死なずにすんで、何不自由なく好きなことが出来て、幸せに暮らしているけれど、心の片隅ではいつも不幸だった。久しぶりに会った兄さんは、僕を見ても僕だとわからなかった。歩み寄って行くのはいつも僕の方。兄さんは何も僕に話してくれない。兄さんが何を考えているのか教えてくれない。だから僕は不安になる。兄さんの気持ちがわからなくて。辛くて仕方がなくなる。僕は、兄さんと離れていたいだなんて思ったことなど一度もない。そんなこと、望んだこともない。どんな兄さんでもよかったんだ。僕はただ、兄さんのそばにいたかっただけ。いろんな話をしてわかりあいたかった。それだけ。だからもう、どこにもいかないで。兄さんの隣にいさせてください」

 クラウスの言葉を聞きながら、俺は、今までフリードリッヒに言いたくても言えずにいた言葉をクラウスを通して言っているような気がした。彼は、俺の気持ちを代弁していた。

 クラウスのこと知れば知るほど、彼が前へ進んでいく手助けをすればするほど、俺自身も前へ進んでいけているような気がする。

 今の俺には、そんな言葉は口にできない。変なこだわりやプライドが邪魔して、素直になんかなれない。そうするにはまだ、時間がかかる。

 俺がクラウスではないことは十分わかっているけれど、でも、彼のおかげで俺の片隅にある何かが弾け、曇っていた視界が開けた。憎しみだけに囚われていた心が、和らいでいく。

 クラウスは着ていたシャツの前をめくりあげ、フリードリッヒの右手を取った。その手を自分の左胸の上に押し当て、自分の手の平をその上に重ねた。

「感じる? 僕の鼓動を。兄さんが守ってくれた、僕の心臓が動いているのを。規則正しい速度で、とどまることなくうちつづけているのを。僕は生きている。兄さんがいてくれたおかげで、子供のまま死なずにすんだ。今こうやって兄さんの目の前に立って、兄さんの言葉を聞いて、僕の気持ちを自分の口から伝えられるのも、兄さんが僕にそう出来る時間をくれたからだ。ありがとう兄さん。僕は、今幸せなんだ。心の底から。今までいっぱい辛い思いをさせてごめんね。そして僕たち、もっといっぱい話をしよう。兄さんの心の中の、いろんな想いを知りたいし、僕の話も聞いてもらいたい」

 フリードリッヒはクラウスの肩にもたれかかったまま、彼の鼓動を感じ、幼子のように安らいでいた。

 俺はそっと病室を出た。

 あとはクラウスがどうにかするだろう。

 人気のない、長い廊下を一人歩いて外に出た。

 これでやっと、今までの静かな生活に戻れる。

 テロリストのように押しかけられ、ドアを叩かれることも、ストーカーのように職場で待ち伏せされることも、もうないだろう。

「さよなら。クラウス」

 呟いた声は跡形もなく、木立の中へ吸い込まれていった。可能な限りコートの襟を引っ張ってかき合わせた。脳裏に、マフラーの中に埋もれていたクラウスの顔がちらついた。もう一度会いたい気がしたが、俺は首を振ってその残像を追い払った。


クラウスが、フリードリッヒに僕の心臓動いているよアピールをしている場面を書いている時、キャプテン翼の三杉君が頭の中にちらついて仕方がなかったです(どうでもいいことなのですが)



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