彼を二つに引き裂いたもの
目を覚ますと、空気が凍りついていた。
窓ガラスの端が白く曇っている。
吐く息が白い。
枕元の時計を見あげる。
出かける時間。
一人で立ち上がれ。
俺は自分に言い聞かせる。
身支度を整え部屋を出た。
階段を降りて地上にたどり着くと、すでに見慣れた後ろ姿が見えた。
「クラウス」
名前を呼ぶと、小さな背中が振り返った。
夏の深い緑色の瞳が俺を見あげる。
凍えそうな寒さが心なしか和らいだ気がする。
「迎えはいらないって言ったよな」
内心ほっと息をつきながら、高飛車に見おろした。
「ええ。でも、気がついたらアパートに足が向いていて。勝手に押しかけるのも悪いのでここで待っていました」
「いったいどれだけ待っていたんだ?」
「さあ……たぶん、四、五十分くらいかな」
クラウスは考えながらそう答えた。
「そんなに? お前馬鹿か。今さらそんな遠慮はいらんだろう。夜明け前に押しかけてきて、ドアを叩きまくった奴が」
「……あの時は、」
クラウスは目を伏せて身を縮めた。
「まあそれは済んだことだ。」
そう言ってバス停に向かって歩き出すと、クラウスも後を追って歩き出した。
「なあクラウス。俺は自分勝手な人間だから、お前やフリードリッヒや他の人間のことなんてかまっていられない」
俺は、不安そうなクラウスの目をはたとみつめる。
「好きにするぞ」
何かするのかと、クラウスが視線で訴えてくる。
「その後どうなるかは解らない。何か起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。とにかくお前がどうにかしろ。一時休戦で同盟関係を結んだんだ。話を持ちかけてきたお前が、最後は責任を取れ」
「どういうことですか? ちゃんと順を追って説明してください」
説明か。
思わず俺は息を吐き出す。
どう思っているかでさえ、いまだに未消化のままごちゃごちゃとしている。無理やり言葉にしようとすれば、その途中で自分の都合のいい方向に、すり替わってしまう気がする。元の形をとどめたままフリードリッヒにぶつけるには、俺の中にあるものを全て持ち込み、その場で俺の本当の気持ちを掴みだすしかない。
「悪いが今はできない。面倒くさいし、とにかくぶっつけ本番でいく」
「面倒くさいってなんですか。僕は、突発的な問題の対処には向かないんです。やめてください」
足を止めようとしない俺を、クラウスは腕を掴んで引きとめようとした。
ちょうどその時、病院行のバスが、いいタイミングで角を曲がって走ってくるのが見えた。
「急げ! バスが来てる」
クラウスは質問するのをやめ、バス停に向かって早足になる。
何も話をしたくなかった俺は、バスの中で何もしゃべらず、腕を組んで目をつぶっていた。
尋きたいことがいろいろあったと思うが、クラウスはあたりさわりのない話をするだけで、それ以上踏み込んで聞こうとはしなかった。
病院に着き受付に行くと、俺たちを病室から追い出した看護婦が、うさん臭そうに俺のことをにらみつけてきた。
どうやらクラウスは、彼女の疑念を晴らし終わっているようだ。
「この前のようなことになったら困りますから、気をつけてください」
そう釘は刺されたものの、面会は許してくれるようだ。
俺は黙って会釈し、フリードリッヒの病室に向かった。
この前俺たちが病室を出て行った後、フリードリッヒは手がつけられないほど暴れ、自傷の危険性があったのでベッドに拘束された。その後発作を起こし、どうにか落ちついた後は、食事もとれないほど鬱状態になっていたと、クラウスが話してくれた。
あの看護婦が敵意むき出しでやけにピリピリしていたのは、そのせいだったのだろう。
結局フリードリッヒは、クラウスのことをわからないまま、元に戻っただけだった。
「ヴァルター。お願いですから、これ以上兄を傷つけないで」
クラウスは俺のコートの袖をぎゅっと握りしめ、不安そうな目で懇願した。
「そんなこと俺に頼むなよ」
とにかくフリードリッヒの様子を見て来いと、クラウスをせかした。
クラウスは俺の目をじっとみつめ、背中を向けると病室のドアを叩いた。
ほんの数分間が、永遠に思える。
白い廊下がいつも以上に白々としているように感じる。
どうにかその場で立ちすくんでいると、ドアが開いた。
クラウスの白い顔がのぞく。
俺は、クラウスのあとについて中に入った。
最後に見たフリードリッヒよりもさらに面やつれした彼が、ベッドに上半身を起こし座っていた。
彼はじっと目を閉じ、うつむいていた。
「兄さん」
クラウスが優しい手つきで、フリードリッヒの肩を叩いた。
フリードリッヒが目を開ける。
「ああごめん。薬のせいで、少し頭がぼんやりしているんだ。やあ、ヴァルター」
フリードリッヒは何ごともなかったように、のんびりとした声で俺を迎えた。
「また来たよ、フリードリッヒ」
俺は手近な椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「クラウスにもいてもらう。いいよな?」
クラウスが落ち着かない表情で、フリードリッヒの答えを待っている。
「そうだね。どうやら僕は暴れたらしいんだ。時々そうなる。頭がおかしくなって、我を忘れてしまう。よく覚えていないのだけど。誰かいた方が安心かもしれない」
「そういう意味じゃない。大体こいつの細腕で、何が出来るというんだよ? それに今のあんたなら、俺一人で十分取り押さえられるさ」
フリードリッヒは俺をみあげ、
「うん。そうだね」
と、眩しそうに目を細めた。
「今の君は、君のお父さんにそっくりだ」
そんなこと、考えたこともなかった。
俺が似てる?
父さんと?
ずっと鏡を見るのが苦手だった。
鏡の奥に映った父に、いつ無念を晴らすのかと責められる気がしていたたまれなかったからなのか、俺の姿の中にある父の面影を無意識に感じ取って淋しかったのか。
「声もよく似てる。目を閉じればどちらかわからないくらいに」
そうだろうか。
自分にはわからないが。
「優しい人だったね。見ず知らずの僕を居候させてくれて、本当によくしてくれた。僕は、君のお父さんのことが好きだった。実の父親よりも。僕の父親は悪い人ではなかったけれど、お酒を飲むと人が変わったように暴れてね。四六時中母のことを殴りつけていた。僕は無力だった。どうにか止めようとしたけれど、子供の腕力ではまるでかなわなかった。早く大人になりたいと、僕はずっと願っていた。母のことを守れる力を手に入れたいと。でも、その願いはかなわなかった。クラウスがお腹の中にいる時、酔った父が階段の上から母を突き飛ばした。僕はそれを、目の前で見ていた。見ていただけで、助けることはできなかった。母は階段を転げ落ちて、頭をひどく打った。床の上に、たくさんの血が流れおちていった。クラウスは予定より早く生まれた。弱くて、小さくて、今にも死んでしまいそうだった。母は、クラウスのことを頼むと言い残して死んだ。まるで、クラウスと入れ替わるように。僕は、今度こそしくじらないと誓った。何があっても守り切って見せると。母の件は事故としてかたずけられ、父がとがめられることはなかった。さすがに母の死が堪えたのか、その後父は一滴も酒を飲もうとはしなかった。でも僕は、母が父に殺されたことを知っていた。どれほど父が心を入れかえ、いい父親になったとしても、僕は認められなかった。ハイネスさんと接するようになってはじめて、父親というものはこういうものなのかと知った気がした。温かくて、そこにいるだけで安心出来た。反政府運動をしている証拠を見つけ出し、陥れなければいけない相手だというのに、僕は、どんどんひかれていった。僕にとって、理想の父親だった。実の父親以上に本当の父親だった。そんな人を僕は売ったんだ。シュタージに。でも僕は、子供の時にたてた誓いを守った。何があっても守る。もう二度と、死なせはしない。誰にも傷つけさせやしないと」
親への愛情が、彼を真っ二つに引き裂いていた。
母親を助けられなかった罪悪感は、クラウスを助けることで払拭出来た。でもそのかわりに、本当の父親のような存在を、自分の手で死に追いやった。
罪悪感のループは止められなかった。
父が死んで一番悲しんでいたのは、フリードリッヒかもしれない。
フリードリッヒのお父さんのエピソードは、話を書きなおしたときにふっと浮かんできて、つけたしました。
こんな重い過去を背負わすつもりはなかったのですが。




