父の亡霊
物言わぬ遺体となって戻ってきた父は、どこもかしこも傷だらけだった。つけられたあざで、元の顔の色がわからぬほどに。
手も足も、一枚の爪も残っていなかった。体の骨はあちこち折れてぼろぼろだった。
いったい、どんな拷問をされていたのか。
そう考えるだけで、吐きそうになった。
どうして父が、あんな目に合わされないといけなかったのか。
どれほど考えても俺にはわからなかった。
そんな報いを受けなければならないほどの人でなしだったのか?
神に背くような後ろ暗いことをしていたのか?
命を差し出さなければならないほどのひどいことを?
人畜無害だったあの父が、そんなことをするわけがない。
父は無実だったのだ。
知り合いに、反政府運動に興じている者が多かったというだけで。
秘密警察に追われ命を狙われている友人を、見殺しに出来るような人ではなかった。
ただ、公正な人だっただけだ。
あんな風に死ぬような人ではなかった。
社会も神様もみんな理不尽だ。
今すぐ殺されても仕方がない奴らが、のうのうと生きのびている。
何もなかったように口を拭って。
思い出せ。
あの時の父の死に顔を。
思い出せ。
父の無念を。
そして、するべきことをしろ! ヴァルター。
どろどろと湿った暗闇の中から、血だらけの父が足かせの鎖をずるずる鳴らしながら、俺の方へ這いよってくる。恨みがましそうに俺のことをみつめ、差し出した右手の指を直角に折り曲げる。
ここからいつ出してくれるのだ?
この無念を晴らしてくれと。
そんな夢を何度も何度も見た。
目を覚ましても、どろどろとした暗闇は俺にまとわりつき、生々しく残った。
けして忘れるな。呪いの言葉が紡がれる。
今、その敵の一人が手に届く場所にいる。
全ての根源をつくりだした男が。
父を死へと追いこんだ張本人が。
迷うことなんか何もない。
今すぐ、奴の心臓を引き裂くんだ!
息子の義務を果たせ!
死んだ父に代わって復讐しろ!
そう俺を急き立てる。
何度も何度も繰り返されるうち、俺の頭の中いっぱいにその声が幾重にも重なり、何万匹もの蜂がたてる羽音のように密度を増す。
裏切り者。どうして今すぐ殺しに行かない。
「おい、ヴァルター」
名前を呼ばれて正気に戻った。
視線をめぐらすと、緑の指の店内だった。
目の前にギャルソンエプロンをつけたハンスが立っていた。彼は、俺の肩を掴んで乱暴に揺さぶっていた。優男な見かけによらず、指の力が異様に強い。
「痛ッ」
思わずうめくとハンスは手の力を緩めた。
「目を開けて立ったまま気絶していたのか?」
自分が、仕事場にいるのだという意識もまるでなくなっていた。
最低最悪の覚醒だ。
「どうせ寝不足とか言うんだろう? 夜中中クラウスを鳴かせまくってさ。いったい何回いかせたんだ。この、色男」
ハンスはそう言って、曲げた肘の先で俺の脇腹をつついてくる。
「どうしてお前はそういう発想しかできないんだ。このさいはっきり言っておくけどなぁ、俺とクラウスはそういう関係じゃない。昨日はまっすぐ家に帰って、一人ベッドで清らかに眠ったよ。みだらな夢も見ずにぐっすりな」
ハンスは俺に向かってにやりとしてみせた。
「嘘つけ。ぐっすり寝たにしては目が赤すぎるだろう」
実際は、また病院に行くのかと考えていたら一睡もできなかった。
「クラウスと何かあったのか? 彼がここに最後に来た時、あのおとなしそうな子がお前にくってかかってただろう。あの後アパートでたっぷり可愛がって仲直りしたのかと思っていたが、違ったのか?」
「違う。だから俺たちは……」
「なんだかんだ言ったって、やりはしたよな」
「……」
思わず俺は口ごもる。
思わず職場で呆けてハンスにツッコみまくられる回です。




