遠い兄弟
「学校休学してるんだって?」
昨日、クラウスのことで俺をからかっていたハンスが、そんなことも知らないのか? と、得意そうに教えてくれた。そのおかげで平日にもかかわらず、朝から晩まで俺をカフェで待ち伏せ出来たわけだ。
「お前がいちいちフリードリッヒの世話を焼かなくても、病院で面倒見てくれるだろう?」
クラウスが受付をすませるのを待って、フリードリッヒの病室に歩き出した。あいかわらず、白くて静かな廊下だ。
「もちろん基本的なことはやってくれますよ。だけどほっとけなくて。長い間離れて暮らしていたからでしょうね。僕が兄さんと一緒にいたいんだと思う」
なくした時間を彼なりに取り戻そうとしているのだろう。
ドアを開くと、フリードリッヒはパジャマではなく普段着を着て、背もたれのある椅子に深く腰をおろしていた。どうやら今日は、俺が来ることを事前に知らせてあったらしい。ズボンの裾からちらりとのぞいた足首は、驚くほど細く、やせていた。
「おはよう。ヴァルター」
穏やかな笑顔で迎えてくれる。
「よく来てくれたね」
フリードリッヒの反応を心配そうに見守っていたクラウスは、これなら大丈夫だと安心し、部屋の隅に置かれていた丸椅子に腰かけた。
「悪いけど、ヴァルターと二人きりにしてくれないか? 用がある時は、ナースコールをするから」
ナースコール? いったいクラウスを何だと思ってるんだ。
彼のことが気になって、そちらに視線を向けた。特に珍しいことではないらしく、驚いた様子はない。ただ、俺と目が合うと、きまり悪げに顔をそむけ、部屋の外に出て行った。
「最近よく面倒を見てくれる看護師、それとも見習の子かな。親切なんだ」
「何言ってるんだよ。弟のクラウスだろう?」
フリードリッヒは不可解そうに首を傾ける。
「クラウスはまだ子供だよ。西ベルリンにいる。祖父母と住んでるんだ。元気になったって写真をもらった。見るかい?」
俺は狐につままれたような気持ちで頷いた。
「サイドテーブルの一番上の引き出しに入っているよ」
言われるままに引出しを開けると、大きな屋敷の中庭らしい場所で子犬とじゃれあっている、小さなクラウスの写真があった。
「かわいいだろう? 僕がいなくても幸せそうだ。ヴァルターと会わせたかったな。きっといい友達になれただろう。同い年なんだ」
そう認識しているのに、フリードリッヒの心の中ではいつまでたってもクラウスは子供のまま、けして成長しない。彼は本当に、クラウスが誰なのか理解できていないのだ。
報われないじゃないか。あんなにフリードリッヒのことを思っているのに。クラウスがカフェで突然感情的になったのも、わかる気がした。部屋を出て行く時の切なそうな眼差しが思い浮かぶ。こんなに近くにいるのに、なんて遠い兄弟だろう。
フリードリッヒは何も知らず、ただ無邪気にクラウスの自慢をしている。クラウスは、フリードリッヒと俺を会わせれば、少しは正気に戻るかもしれないと期待していたのかもしれない。だからあんなに必死になっていたんだ。彼はさぞかしがっかりしただろう。結局フリードリッヒはわからなかった。優しく、なんて残酷な人なんだ。無邪気さが、時に人の心を打ち崩す。あまりに無垢すぎて、受けた悲しみをぶつけることもできない。そうしてしまったら、逆にうしろめたさを感じてしまいそうだから。
「ねえヴァルター。この前僕が言ったこと、考えて来てくれたかい? 僕は、どうすればいい?」
フリードリッヒは曇りのない澄んだ目で俺に聞く。まるで罪のない顔をして。
こだわりを持ち続ける俺の方が、逆に攻められている気がする。
卑怯者。
どうして俺が、そんな気持ちにならないといけないんだ。
「じゃあ死ねよ」
あまりの理不尽さに、無性に腹が立った。これ以上俺を苦しめるな。
「あんたなんかもう必要ない。俺にとって、あんたは過去の産物なんだ。確かに昔は、俺のことを守ってくれる人だと思っていたかもしれない。父以上に親しい人だって。だけどもう、子供じゃないんだ。あんたに踏みつけにされて、置いて行かれて、たった一人で立っていられるようになったんだ。もうあんたは、墓場に入った死人と同じなんだよ。今さら生き返られても困る。死人なら死人らしく、死んでいてくれよ]
今さら目の前に現れないでくれ。フリードリッヒを目の前にしていると、ざわざわと胸が鳴る。低く低く耳鳴りのように、神経をかきむしる。今まで自分を形作っていたものが粉々になってしまいそうで。
「ヴァルターそれはだめだよ」
フリードリッヒは困り顔で、淋しそうに笑った。
「君の願いにならない。せっかく勇気を出してここにいるのに、誘惑しないでくれないか」
誘惑?
「どうせ願うなら、別のものにしなよ。わざわざ君が願わなくても、近いうちに叶うのだから。そんなの、つまらないだろう」
「つまらないって……選り好み出来る立場かよ。あんたがやったことの罪滅ぼしのために、俺の願いを聞いているんだろう? だったら俺の言うことは、何でも聞くべきじゃないか?」
「君の望みどおり死ぬのは簡単だよ。弱い心のままで逃げ出すのも。でもそれじゃあ、今までと何も変わらない。僕の願いを叶えたって仕方がないんだ。他にはないのかい? ヴァルター」
「ないって言ってるだろう!」
話は堂々巡りするだけだ。
大体、願いなんか持ってどうするんだ? サンタクロースを信じる子供じゃないんだ。そんな無駄なことをするのは、とっくの昔にやめた。今どき本気で願いが叶うなんて信じている馬鹿な大人が、いったいどこにいるんだと、フリードリッヒの頭のおめでたさにムカついていると、ふっとクラウスの横顔が、脳裏に浮かんだ。
いるか。そういう奴も。
思わず俺はため息をつく。
クラウスは、今にも消えてしまいそうなかすかな希望を両手の中に包みこみ、切実に願っている。
フリードリッヒの願いが叶うことを。
フリードリッヒが抱いている罪悪感が、少しでも軽くなることを。
そして、苦しみから抜け出すこと。
そうできれば、自分を弟のクラウスだと認めてくれるかもしれない。
彼の本来の願いは、実にささやかなものだ。
俺は余計にむかつく。
何やってるんだ、フリードリッヒ。せっかく命を助けたんなら、最後まできっちり面倒見ろよ。
くそがっ!
俺はフリードリッヒに背中をむけてドアに歩み寄り、ノブを回した。病室から半歩踏み出し外を見た。寒々とした長い廊下に人影はなく、しんと静まり返っていた。
見事なぼけっぷりのフリードリッヒです。
あんなにいろいろやってるのに、報われない。
ひどすぎです。




