生物の進化・発展から観る“戦争と平和”に関する考察
それは散歩に出掛けて直ぐの事だった。空は曇天模様で、太陽電池の発電具合はあまり芳しくなさそうだと、僕は、そんな事を思っていたような気がする。
そしてその時、自然に口を開くと、僕はいつの間にか歌を口ずさんでいたのだ。自分でも無意識の内に発せられたそれは、やり切れなさを誤魔化さずに受け入れながら、それでも上を見ようというような、前向きなのか後向きなのかよく分からないそんな雰囲気の歌詞で、メロディまでセットだった。
『絶望を語るあのヒマワリが、
いつの間にか微笑んでたんだ
顔を向けるお日様は何処にも、
見つからないのは分かっていたのに』
もしかしたら、何処かで聞いたメロディが記憶の片隅に残っていて、無自覚の内にそれに歌詞をつけてしまったのかとも思ったけど、思い付かなかったので、多分、オリジナルのメロディだろうと思う。
ただ、問題はメロディじゃなくて、歌詞の方だった。なんで僕は、こんな歌詞を思い付いたのだろう? しかも、何も考えずに。歌おうとすら思っていなかったのに。
僕が憂鬱な気分になっていたのは、確かだった。そしてそれは曇天模様の所為でも、それによって太陽電池の発電量が少なくなっているだろう所為でもなかった。僕はこの人間社会の、これから先について憂いていたのだ。ほぼ間違いなく今社会は悪い方へ向けて転がっている。しかも、まだ大きな不安材料が、いくつも埋まったままになっている。それらが顔を出して、これから先暴れ出す危険性はかなり高いと見て、まず間違いはなかった。しかも明るい材料はあまりない。むしろ、時を経る毎に減っていっている。
もう少し前は、まだ希望を持っていたような気がする。確かに、その頃にだって不安材料はたくさんあって、そのうちの幾つかは実際に大きな問題となって表面化したりもしたけれど、それでも良い兆候のようなものはあった。ところが、いつの間にか、それら良い兆候のほとんどは胡散霧消し、ほんの少しの残滓が見える程度になってしまった。
どうして、こんな事になってしまったのか。
ヨーロッパ共同体を経てのヨーロッパ連合の成立。その事実は、経済で繋がれば、たくさんある社会が一つになる事を証明しているかのように僕には感じられていた。中国は共産主義経済(正確に言えば、共産主義経済理論などというものは提唱されてすらいないので、統制経済)を捨て、資本主義経済を受け入れ、民主・資本主義国家に歩み寄っているに思えたし、実際、経済で深い繋がりを持つようになっていった。韓国と北朝鮮は親交を深め、ひょっとしたら統一すら可能じゃないかという雰囲気すらも漂わせていた。
思考錯誤、悲惨な数多くの歴史を経過した後で、人間社会は遂に戦争を捨て、一つになる手段と道筋を得たかのように、僕には思えていた。このまま、この流れが発展していけば、ユートピアとは言わないが、人間社会はもっとずっと良くなるのじゃないか。そんな期待を抱いていた。
ところが、それからヨーロッパ連合は数々の問題に直面をし、多数の社会が一つになる事の難しさを証明してしまった。中国は資本主義経済の導入で経済発展をし力を付け始めると、周辺諸国への圧力を強めるようになり、実質的な領土侵略とも取れる行動を頻繁に執るようになってしまった。韓国と北朝鮮の仲は険悪になり、一時あった友好ムードは消え、反対に戦争が起こる想定すらリアリティを持つようになってしまった。
近年、特に僕が衝撃的だったのは、2012年の中国による大規模な反日暴動だった。日本による尖閣諸島の国有化に端を発するこの暴動は、経済的利益を考えるのならおよそ有り得ない行動で、経済で深く繋がった日本と中国との戦争はもう起こらないだろうと、そう予想していた僕は、それで自分の甘さを思い知ったのだった。
繰り返すが、経済を通して、日本と中国は既に深いところで繋がっている。だから日本を攻撃すれば、中国が傷つく事になるし、逆もまたしかりだ。打算的に考えるのならば、それが愚かな行為である点は少し経済について知っている人ならば、誰でも分かる。少なくとも“利益を優先させる”という行動原理を中国が執るのなら、日中間での戦争は起こらないはずで、つまりは戦争に繋がるような行動だって自粛するはずだった。
しかし、実際に大規模な反日暴動は起こってしまった。正直言って、それで僕には中国が何を考えているのか分からなくなった。国内経済をボロボロにしてでも、領土を拡張するという宗教のような信念を持っているのか、或いは、現在の経済状況を分かっていないのか。暴動が起こってからしばらく、僕は不安を感じ続けた。
ただし、この不安は徐々に和らいでいった。もし中国の行動原理が先に挙げた利益を考えないものならどうにもならないところだけど、幸いにして、どうやら経済の状況を分かっていなかっただけである可能性が大きいようだったからだ。それから中国は経済にダメージを与えるような行動はあまり執らなくなっていったのだ。それどころか、日本へ中国への投資を積極的に呼びかけすらするようになった。恐らくは、中国にも知識を持たない権力者が一部にはいて、愚かな行動を執りはしたけど、想定外の経済ダメージに仰天をし、それで行動を改めたのだろう。もちろん、憶測でしかないけれど。
もっとも、だからといって、これで安心できるのかといえば、そうとも言えない。この件での日本側の反発も大変に強く、互いの行動が互いの攻撃行動を加速させるという、発火現象のような事を起こしつつあるようにすら思えるからだ。
アメリカが、何とかそれを仲裁しようとしている訳だけど、果たして、どうなるか……。
と。
――中学校の教室。
どんな会話の流れで、そんな発言に繋がったのかは分からないが、男生徒の一人が、こんな事を言った。
「戦争が世の中からなくなるはずがないよ。人間は戦いを好む生き物なんだから。人間社会の歴史を観てみろよ、ほとんど殺戮の歴史だと言っても良い。今だって大量破壊兵器が世の中には溢れているんだぜ」
したり顔。
それを聞いているもう一人の男生徒は、それに言い返しはしなかったけれど、その言葉に何かしらの反感のようなものは感じていた。それは、ドライな自分に酔っているような、ニヒルな自分を演じているような、何故か妙にえらぶっている、その男生徒のそんな態度に多少の苛立ちを覚えた事も原因の一つではあった訳だけれど、そんな感情的な面ばかりが原因ではなく、もっと根本的な純粋に理屈上の話で、何かしらおかしな点に、彼が漠然とではあるが、気が付いていたからだった。
違和感。
そして、彼はその違和感の正体が分からず、しばらく頭を悩ませ続けた結果、ある時に明確な形を得るに至ったのだった。
「あっ そうか! 実際に、世の中から、戦争は減っているんだ」
その昔、日本は国内で戦争をしまくっていた。ヨーロッパでもそれは同じで、アメリカだってそうだ。かつては激しい戦争を繰り広げていた土地から戦争がなくなり、もう戦争なんて考えられなくなってすらいる状態にある歴史的事実を観るのは、それほど珍しい事ではない。ならば、どうして、戦争がなくならないなどと断言できるのだろう?
ね。
――対立を乗り越え、協調行動に至る。
「なに、綺麗事を言ってるんだ?」
なんて、どっかの誰かから、ツッコミを入れられそうな、そんな言葉を書きましたが、実を言うのなら、そんな事例を我々は常に目にしている、どころか常に触れ、体現すらもしているのです。もう、息をしたり、眠ったり、パソコン画面を見つめたりするだけで、体現をしている。何故なら、何を隠そう、我々がここにこうして存在をしているのは、協調行動の結果だと言っても過言ではないからです。
さっきの人間社会の歴史の話かって? 戦争が減ったという。ノンノン。違いますね。関西弁で言うのなら、「ちゃいますね」です(なんだ、これ?)。あ、僕、実は生まれが関西なんですよ。三歳の頃に、関東に来ているので、ぶっちゃけ、ほとんど覚えてはいませんがね。
……すいません。どうでもいい話をしました。
もしあなたが、この“我々がここにこうして存在をしているのは、協調行動の結果だ”という言葉の意味を分かっていなかったのなら、僕はあなたを指差しながら、こう言いましょう(失礼な奴ですね。人を指差したら駄目だと教わらなかったのでしょうか?!)。
『人間社会なんて持ち出さなくても、あなた一人だけで充分に“対立を乗り越えた協調行動”を執っている、と言えるのです。何故ならあなたは、“多細胞生物”である人間だからです!!』
……どうか、「なに言っているんだ、こいつ?」とかは思わないでください。ちゃんと説明をしますから。
と。
抽象概念。事象の本質を捉え、一般的なそれを抽出したもの。例えば、“Y=2X”という計算式。これは三角形も、速度2の物体が進む速度と距離の関係も、一度で2つずつ生産できる装置の時間と生産量の関係も、その他、数多に存在する無数の事象の関係性を同時に表現している。これらにとって、計算式“Y=2X”は、抽象概念だからだ。
さて。これと同じ事を、“協調行動”についても当て嵌めてみよう。協調行動を抽象概念と捉えるのであれば、仮に人間ではなくても、協調行動を執る何かを観察する事で、その性質を理解する事が可能であるはずだ。
もしかしたら、感情を持たない存在に協調行動が観られるなどと思ってはいない人もいるかもしれない。しかしそれは間違っている。協力し合って行動をする事は、感情を持たないものにも観察される。例えば、プログラムで協調行動を執る因子を、コンピュータの中に創り上げる事だって可能だ。更に、対立し合う因子と混在させ、シミュレーションし、何が起こるかを観察するといった試みだって実際に為されている。
もちろん、それらは実在する人間とはかけ離れた存在だ。だから、そこで観られた性質をそのまま人間社会に適応させる訳にはいかない。しかし、だからといって、そこから何も学べない訳ではない。そこに存在する類推性は、役に立つ。
もちろんこれは、コンピューターでのシミュレーションに限らない。現実世界に存在する協調行動を観察し、その性質を見極める事だってできる。そして先に述べた通り、それは感情を持たないものでも可能だ。いや、むしろ、感情を持たないものを観察する方が、協調行動のメリットデメリット、対立行動のメリットデメリットを、より捉え易くなるかもしれない。
の。
太古の昔。
奇跡的な偶然か、または蓋然的な必然かは分からないが、高分子化合物が泡のように膜を創り出し、そこに生命が生まれた。初期の生命は、もちろん、今の生命に比べれば極めて単純な単細胞生物だった。
やがて、その単純な生物達は、複数集まって、それぞれ作業を分化させる事で、一つの生物となる行動を観せた。ミトコンドリアは呼吸を、大きな膜のある生物は防御と行動を、べん毛を持つ生物は移動を。真核生物の誕生。つまりこれは協調行動である。
もちろんここで終わりではない。やがて、これら生物達は同じ種類で群れ始める。これが細胞群体だ。この集まった生物達は、やがて先と同じ様に作業の分化を行い、一つの生物となっていった。そしてこれが多細胞生物の誕生。これでも終わりではない。その多細胞生物達も群れ始める。そして、初めは単なる群だったが、やがては作業を分化し始めた。早い話が、“社会の誕生”である。アリや蜂などの社会性昆虫が分かり易いが、働きアリ、兵隊アリ、生殖を担当する女王アリと作業を分化している。
つまり、
『単細生物が集まり細胞群体へ。細胞群体が作業を分化した上で一つになり、多細胞生物へ。多細胞生物が集まり、群に。群の中で作業分化が起こり社会へ』
こういった経緯で、生物は進化・発展をし続けて来たのである。そしてそこには、協調行動で一つになるという経緯が必ず存在していた。
もちろん、今現在人間は、分化を行う事で一つとなった社会を創り上げている。農業を担当する者達、雑貨などを創り上げる者達、嗜好品生産を行う者達。無数にある職業がその証拠になっている。
そしてこのように考えたならば、当然、このような疑問が出てくるだろう。
「果たして、この次はないのだろうか? 社会の次の発展は?」
と。
僕が、“人間社会全体に協調行動が起こる可能性”に対して希望を抱いていた頃、既に僕は生物における“協調行動の進化”の存在を知っていた。いや、むしろ、その数多くの事例を知っていたからこそ、人間社会にだってそれが起こるだろうと考えていたのだ。
地衣類は独立した生物ではなく、菌類と藻類からなる共生生物で、互いに助け合う事でその生存圏を大幅に広げる事に成功をした。下等白アリの身体の中には、微生物が共生し、それが植物セルロースの分解を行っている。牛などの草食動物もそれは同じで、胃の中の微生物が植物の消化を助けている。もちろん、人間にだって共生関係は存在する。牛などと似ているが、腸内細菌が消化を助けているし、口内細菌や表皮在住菌は病原菌の侵入を防いでいる。一応断っておくが、菌類との間ばかりに協調行動が観られる訳ではない。ある種のアリはイモムシを育て、代わりに蜜を貰う、イソギンチャクは毒でクマノミを護り、クマノミはイソギンチャクに餌を運ぶ。その他、数多くの植物と受粉を行う動物達など、多細胞生物でも、その事例は枚挙に暇がない(人間が家畜を飼うのも共生だと言える)。
ならば、人間社会同士にだって、似たような事が起こっても不思議ではないはずだ。しかし、社会はその通りには進まなかった。一時あった社会と社会の協調への歩みは、今(2014年4月現在)は、大きく後退してしまったと考えるべきだろう。
やはり、僕の考えは間違っていたのだろうか? 人間社会全体が協調行動を執り始めるなど、起こり得ない事なのだろうか。
だが、そう結論を出すのには、まだ早過ぎだろうと僕は思う。この件に関して、僕らはもっとよく考えてみるべきなのだ。
と。
攻撃する方略を執る因子。協調する方略を執る因子。
それらをプログラムで作成し、そしてコンピュータの中に作った仮想世界に放り込んでみましょう。
さて。
何が起こると思いますか?
初期には、攻撃する因子が優勢になるのだそうです。ところが、時間が経つと変わっていきます。協調する因子達の方が優勢になり、そして遂には逆転をしてしまうのだとか。
もちろん、環境条件にも因るのでしょうが、この原因は簡単に説明ができます。
攻撃するって事は、つまりは互いに邪魔し合っているという事です。それに対して、協調する方略ではそれがない。どころか、補い合ってプラスになりさえする。攻撃し合ってお互いを傷つけあっている連中が、繁栄できないのは、簡単に理解できます。
実際、人間社会の歴史でもこれと同様の事が起こっています。紛争地帯にある社会のほとんどは、あまり発展できていません。反対に、成長に成功している先進国は、戦争をほとんどしていない。
実は、方略として、攻撃するのと協調し合うのとでは、協調する方がより高度で、優れている事が分かっているのです。
よ。
森。
当然の事ながら、森の生物の主役は樹木、比較的大きな植物達だ。木々がなければ、そこは森ではない。その木々達は、光の奪い合いを行い、より多くの光を浴びる為に、上へ上へと伸びていく。その競争に敗れた木は、光合成ができず、つまりは、栄養もエネルギーも作れず、やがては枯死していく。
しかしでは、その植物達の関係は、冷酷なだけのものなのだろうか?
実は最近では、そうではない事が分かっている。森の木々達は、その地面の下、微生物達を介して栄養を互いに与え合っている可能性が示唆されているのだ。
これが事実だとするのなら、疑問が出てくる。どうして植物達は、協調行動を観せるのだろう?
(或いは、微生物達が勝手にやっているだけなのかもしれないが)
植物個体にだけ着目をするのなら、その利点が直ぐにはあまり思い浮かばない。しかし、これを森全体にまで範囲を広げてみると、そこに大きなメリットがある事に気が付く。
木々が助け合いをする“協調し合う森”は、“協調し合わない森”よりも成長が速いだろう事が推測される。ならば、当然、生存競争でも有利になる。遺伝的アルゴリズムで考えても“協調し合う森”が、優勢になるだろう事は簡単に予想できるのだ。
と。
協調行動を執る事には、明らかにメリットがあります。だからこそ、多くの生物達に協調行動が観られる訳ですが。もちろん、協調行動を執らない生物達もたくさんいます。恐らく、協調行動を執るか執らないかのその差は、その生物達にどんな性質があるか、また、どんな環境に在るかに因るのでしょう。
しかし、いくらメリットがあったとしても、それができるかどうかはまた別の話です。協調行動を執る為には、様々な壁を乗り越えなければいけません。そしてそれは、中々に困難なのです。
仮にそこにメリットがあると分かっていても、その性質を有していなければ、どうにもなりませんからね。
さて。
ここでちょっと話を変えてみたいと思います。
生物の誕生が、実は比較的早いと言われているのを知っていますか? なんと、海ができてから最大でも五億年程しかかっていないのだそうです。
と言っても、これが短いのか長いのか、実を言うのなら僕にもよく分かっていないのですが(ヲイ)。
ただ、しかし、多細胞生物の誕生は、真核生物ができてから十五億年もかかっているのだそうで、これと比較すると、大変に短いと言えるのじゃないでしょうか(一応、断っておくと、これは現在の説です。こういう話は、よく変わるので、もしかしたらいずれ変わるかもしれません)。
なーてん、とかなんとか述べちゃいましたが、実を言うのなら、これも違うのかもしれないのですよね(またか)。
むしろ、“多細胞生物の誕生の方が遅過ぎる”とも考えられるのです。
でもって、“多細胞生物の誕生”には、単細胞生物同士の協調行動が関わっています。つまりは、この生物の歴史は、そのまま“協調行動を執る事”の難しさを物語っているのではないかと思えるのです。
子供の頃に僕は思っていたのですよ。白血球とか血小板とかは、病原菌が入って来たり傷が出来た時に、身体全体の為に自らを犠牲にしていますよね? なら、
「やってらんねー! どうして俺らが犠牲にならなくちゃならないんだ!」
って、文句を言いたいのじゃないかって。
ま、これは、僕がなんかおかしい子共だったってだけの話なのかもしれませんが、少なくとも、身体の細胞の中には、自己犠牲で、全体に尽くす存在がいる事は確かです。
こういう存在は、何も多細胞生物だけに観られる訳じゃありません。例えば、ミツバチなんかは、針を刺すとそれで死んじゃう訳ですが、巣全体を護る為に自己を犠牲にし、それを決行しちゃいます。
つまりは、これは、集団の為に犠牲となる個がいるって事を意味しています。
で、協調行動で一つになり、分化すると、ほぼ確実にそういう損な役割が生まれる事になるのじゃないかとも僕は思うのですよ。
……人間社会にも、こんな人はいますね。核廃棄の仕事をやらされている人達とか、驚く程の低賃金で働かされているケースワーカーとか。
そして、
「ああ、本当に、そんな立場にだけはなりたくない」
って、普通は思って当然な訳です。単細胞生物達だって同じでしょう。いや、思いはしないでしょうが、それでもそれを避ける傾向にあるのは事実だろうと思われます。損な立場になる事は避け、できるだけ得する立場になろうとする。彼らは、生きる為のライバル同士でもある訳ですし。そして、そういう行動を皆が執ってしまうと、当然、協調行動は生まれ難くなります。
ま、こういう風に考えるとですね。大きなメリットがあったとしても、“協調行動への道のり”が長く険しいのも当然だと思えるのです。
よ。
少し前まで、僕は、日本の経済における国際競争力の向上に貢献して来たのは、主に技術者達で、他の職にある人達は、並みか、それ以下だろうと思っていた。日本のマーケティングの能力が低い点はよく指摘をされているし、リーダシップ能力にも疑問の声が上がっているからだ。そして、それにも拘らず、日本の技術者達への報酬は低い(それでも日本は、比較的公平に報酬を支払っている社会ではある訳だけど)。
だが、つい最近、ネットで中国の掲示板の翻訳サイトを眺めていて、その認識を改めた。その中国人は、日本社会を高く評価していて、その中にこのようなものがあったのだ。
『日本では詐欺が少ない。お互いを信頼し合って取引を行っている。お蔭で、コストが少なくて済み、取引がスムーズに行われている』
なるほど。
詐欺が横行している社会では、ビジネスが成り立ち難いのだ。真面目な日本人達は、実はそれだけで経済競争に有利な社会を創り上げていたという事になる。
犯罪の少なさは、経済発展にとって重要だというのは、よく言われている事だから、この点に気付けていなかったのは、僕の反省すべき事だろう。ただこれは、ミクロな視点では中々気付けない事でもあると思う。誠実な対応を受けても、
『いい人達だ』
くらいにしか普通は感じられないのじゃないだろうか。中国は嘘が多い社会だから(仕事で中国人達に関わった事があると、それがよく分かる。統計的な資料を見た事がある訳じゃないけど、これは当の中国人達も認めている声をよく聞くから、事実だと思っていいだろう)、彼らの客観的な立場から日本を観ると、その利点がよく理解できるのじゃないだろうか。
それでも技術者達に支払われる報酬が低い点は変わらないかもしれないが、少なくとも技術職以外の日本人も、ビジネスに好適な環境を創り出しているという点において、日本の国際競争力の向上に貢献しているとは言えるはずだ。
もちろんこれは、“協調行動”が、方略として有利に働いている好例でもある。
ね。
自然淘汰。
それにより、より優秀な方略が生き残り、繁栄していく。つまりは、これが遺伝的アルゴリズムの発想だ。
この原理は、思考能力があろうがなかろうが効果を発揮する。どんな理由であるにせよ、優秀な方略が生き残るのだから当然だ。もちろん、思考が存在しなければ、その進化は遅いかもしれないが、それでも進化は起こる。不適切な行動を執るモノ達は衰えていき、優秀な方略がやがては繁栄する事になる。
つまり、“戦争をしたがる方略”が、劣った方略であるのなら、仮にそれを当人達が理解していなくても、長い時間はかかるが、やがては消失していく、という事が言えるのだ。もっとも、これは、どんな環境においても、成り立つ理屈という訳ではないのだが。
が。
テレビ。
中国のお偉いさんが、国家主義的な安倍政権の方針を批判していた。武器輸出とか、なんやらかんやら。
ま、確かに、今の安倍政権が怖いのは分かる。特定秘密保護法に、数々の問題発言に、軍事に関わる挑戦的態度。
でも、
「中国がそれを言うな」
とは思ってしまう。はっきり言って、日本がこうなってしまったのは、中国の動きに反応してという要因が大きい。
だけど、それからのその中国のお偉いさんの発言に、僕は目を大きくしたのだった。それは、
「ただし、これは日本一般に対しての言葉ではない。経済などの分野では、協調していきたい」
なんて感じの内容だった。
それを受けて、「やっぱり反日暴動での、中国の経済ダメージは大きかったのだな」などと僕は思った。日中会談が行われたというニュースも流れたし、これは少しは良い兆候が見えて来たと判断するべきかもしれない。
ただ、軍事面、というか、領土争い、いや、ま、尖閣諸島問題で、中国が譲歩する可能性が低いのは明らかで、これから先、日中関係がどうなるのかはやはり不透明と言うべきだろう。
「中国じゃなく、日本が互いにとって損になる、誤った行動を執ってしまう危険性も捨て切れないし」
ね。
――停戦の合意が為された。
と、ある日、ニュースで発表された。しかし、中国では「我が国が勝利した」という報道がされ、日本でも実質的には敗戦だと判断している人がほとんどだった。
僕はそのニュースを聞いて、ため息を漏らした。そしてその息には、二割ほどの安堵と、八割ほどの憂鬱な気持ちが込められていた。
“まぁ、まだマシな方だったのかもしれない。もっと酷い事になっていた可能性だってあったんだ”
と、僕はその後でそう思う。
日本が実質的に敗戦した原因は簡単。要するに、自滅したのだ。主な要因は原子力発電所。特に、核高速増殖炉だった。これを普及させてしまった事が、一番の失敗だった。
高速増殖炉は、通常の原子力発電所よりも遥かに事故を起こし易く、事故が起こった時の危険性も非常に大きい。そんなものを国内に多数所持していて、戦争なんてできるはずがないのだ。戦争の気配が強まって来ると、不安に駆られた大金持ち達は、資産を持って国外へと逃げてしまった。残されたのは、逃げる事のできない貧乏人達だけ。そして、金持ちが資産を国外に移動すると、莫大に膨れ上がっていた国の借金を賄う事ができず、人件費やその他のコストの向上で、ただでさえピンチに陥っていた財政は更に追い込まれ、結果として日本はアメリカに泣きつき、なんとか中国との停戦の合意を取り付けたのだ。日本は戦わずして敗れた、という事になる。
『完全に想定外だった』
と、原子力を推進して来た与党の代表、つまりは総理大臣は言ったが、国民の多くはそれに冷淡な目を向けていた。何故なら、それは明らかな嘘だったからだ。何しろ、戦争の気配を敏感に察知し、真っ先に逃げ出したのは、他ならぬ原子力産業のお偉いさん方だったのだ。
「ま、プライドが高いだけで、頭の回転の悪い一部の権力者は、分かっていなかったかもしれないけどね」
僕は散歩をしながら、そんな独り言を言う。空はどんよりと曇っていた。
これから恐らく、何らかの交渉が行われ、尖閣諸島は中国へ渡される事になるのだろう。そして、アメリカは自分達にとって有利な貿易協定を日本と結ぶ。敗戦した日本は、それらを受け入れるしかない。日本は経済で大損害を被る事になる。
TPP交渉をやっていた頃から、中国と喧嘩した状態で、日本にとって有利な貿易ルールをアメリカとの間に設定できるはずがないとは思っていたが、これから結ばされる不利な貿易協定はその比ではないだろう。生活は更に苦しくなるはずだ。
それらの動きを受けて、一部の国粋主義者達は、原発推進は中国やアメリカの罠だったのではないかと主張し始めた。「はは」と僕はそれを聞いた時、乾いた笑い声を思わず上げてしまった。彼らの多くは原発を推進していたのだ。今更、何を言っているのだろう?
こんな主張も聞いた。
『日本はもう少し粘るべきだったのだ。そうすれば、音を上げたのは、中国の方だったかもしれない』
これは事実である可能性がある。
中国の国内事情もボロボロで、日本と戦争する事の不安や経済ダメージは、開戦する前から深刻だったからだ。早い話が、日中間の戦争は、日本にとっても中国にとっても致命的なダメージになったという事だ。だから双方、何としても避けたかった。日本は「チキンレースに負けた」と言えるかもしれない。
ただ、もしそのまま戦争に突入すれば、核高速増殖炉が狙われ、核爆弾を投下されたに近いに被害を受ける危険性があった訳で、それを考えるのなら、日本がその恐怖に耐えられなかったという点には納得ができるのだけど。
日本が敗戦を宣言しても、アメリカが中国の台頭を恐れてそれを認めず、日本を戦場ににして戦いを続けるなんて、最悪の状況になっていたかもしれないのだし。
さ。
なんて、ちょっと悪い方向へ想像力を働かせて、こんな状況を想像してみました。飽くまで想像で、もちろんフィクションですが、こうなってしまう可能性も皆無ではないのではないかとも思うのですよ。
だって、原子力発電所を抱える国で戦争が起こるって、実質的には“準核戦争”と言える訳ですよね? しかも、その原発が核高速増殖炉で、更に多数あったのなら、日本の何処に逃げても無駄という可能性すらある。なら、それに恐怖した国民達が、海外に逃げ出すだろう事は、想像に難しくないはずです。
因みに、過去、「1981年にイスラエルがイラクの研究用原子炉施設を爆撃した」なんて事件も実際に起こっているそうです。中には狙われない、なんて楽観的な主張をしている人もいますが、原発が狙われる危険性は高いと考えるべきでしょう。
いえ、そもそも、その不安だけで充分にパニックを引き起こす危険性があります。
中国は確かに脅威だと僕も思います。単に巨大な国というだけじゃなく、何をするか分からないという不安感がある。ただ、それじゃ、軍備を強化して張り合えば良いのかというと、それも違うと僕は思うのです。
では、どうするか?
僕は、『北風と太陽』的な発想を執るべきだと、そう提案します。
よ。
“均衡予算乗数の定理”
と呼ばれる経済の概念がある。
これは国民から金を徴収し、それを全額使えば、使った分だけ生産量が増加し、波及効果はプラスにもマイナスにもならない、ということをいう。
もっと平易に表現すると、“国民から国が金を奪い、その分だけ使えば、使った分だけ、経済発展をする”という事だ。増税は経済に対してマイナスの効果だが、国が何かしら金を使えば経済にプラスの効果。波及効果に関してはプラスマイナスゼロで、国が金を使った分だけ、国内総生産が上昇するのだ。
もっともこれは理論上の話で、実際には、国外に逃げてしまう資産もあるし、国が何かを消費した事で、民間から資源を奪ってしまいもするので、それらを加味するのであれば、実質的にはマイナスの波及効果があると考えるべきだろう。
この具体的な例を探すのなら、公務員制度はこの“均衡予算乗数の定理”で成り立っていると表現できるし、増税による公共事業の類も当て嵌る。
ただし、一つ付け加えておくと、この方法は労働力も含めた供給能力に余剰がなければ使用する事ができない。また、この点は“均衡予算乗数の定理”を用いず、借金に資金源を頼った場合でも同様である。
2014年度。日本では大規模な公共事業が行われようとしているが、土木作業員の類に関しては、復興需要もあって、労働力が不足している状態にあるため、苦しい状況にあるのが実際だ。その為、外国人労働者の活用の拡大や、女性の社会進出などの方法が執られようとしている。
しかし、外国人労働者の活用は、仮に直ぐに外国人労働者達が帰国し、稼いだ労働賃金を自国に持ち帰ってしまった場合、経済効果に対してマイナスに働く。つまり、もしそれが無視できない金額になれば、公共事業の一時的な効果すら怪しくなってくるのだ。
国はもっと“労働力の確保”や“通貨の循環”という観点に立ち、経済政策を実行するべきだろう。
と。
――通貨の循環について。
世間でよく言われていますよね。人々が消費活動を行えば、景気が回復し経済は成長をする。
これ、表現を変えれば、“通貨の循環量”を増やすという事です。
だって、あなたが何かを買えば、それがお米であろうが、車であろうが、ゲームであろうが、店に対してお金が支払われ、色々な場所を巡って、最終的には、労働賃金としてあなたに戻って来て、“通貨の循環”が成立するからです。
でもですよ。もし、仮に、お金が余っていても、それが使われなかったのなら、どうなるのでしょう? 生活者が欲しがる生産物が存在しなくて、お金を使わないようになってしまったのなら。
つまりは、“死蔵された通貨”の発生ですね。
“死蔵された通貨”があると、通貨の循環は失われてしまいます。そうなれば、通貨の循環量が減るので、それはそのまま経済の停滞を意味します。不景気ですね。でもって、通貨を使用しない事は、そのまま労働力を使わない事を意味します。
つまりは、労働力が余っちゃうのですね。
この問題を解決する為には、新たな生産物の誕生が必要になります。そうすれば、その生産物に関して、通貨の循環が生まれ、経済成長が起こせます。
これは、経済の成長と共に、車やパソコンや携帯電話と次々と新生産物が誕生して来た歴史的事実が、その証拠になります。
よ。
なんて長々と経済に関する説明をしちゃいましたが、そろそろ“『北風と太陽』的な発想”の説明をしろよってなツッコミが入りそうなので、一応、断っておきます。ちゃんとこの“均衡予算乗数の定理”と“通貨の循環”の話は、その説明に関わっています。
まぁ、予備知識として必要なのですね。
では、そろそろ本題の説明を始めますか。
“通貨の循環”の話を頭に入れたまま、“均衡予算乗数の定理”を思い浮かべてください(と言っても、難しいですかね?)。“均衡予算乗数の定理”とは、早い話が国が増税して、その通貨で何か生産物を買うって事です。
つまり、国が買ったその生産物に関して、“通貨の循環”が増えているのですね。だから労働力が余っている状況下なら、それは経済政策になるのです(ただし、長期間の効果を期待するのであれば、それを継続しなくてはならない)。
ここで、この考えを更に一歩進めてみます。
“均衡予算乗数の定理”を継続的に用いれば、“通貨の循環量”が増えます。という事は、その“通貨の循環量”が増える分に関しては、『通貨の増刷』が可能、という事になりはしないでしょうか。
通貨の増刷に因る悪性の物価上昇はこの場合は起きません(景気回復に伴う健康的な物価上昇ならば起こる)。何故なら、通貨需要が増える分だけ通貨供給量を増やすからですね。
普通、“均衡予算乗数の定理”を使う場合、まず初めに増税が必要です。しかし、この発想でいくのなら、その増税が必要ない、上に、波及効果さえもあります。また、“通貨の循環”を、何かが阻害してしまわない限り、ほぼ確実に上手くいきます。
例えばだから、太陽電池や風力発電や地熱発電といった再生可能エネルギーの設備を整える為に、この方法が使えるはずなのですね。そしてそれで経済成長を起こせる。
公共事業は特定の企業にしか、仕事が増えませんが、再生可能エネルギーの場合は、その裾野が広いので、現段階(2014年4月現在)では、労働力不足の心配はあまりいらないと思われます。ただし、それでも調査及びに確保の努力は必要でしょうが。
因みに、再生可能エネルギーを用いれば、ガスや石油などを買う為に、海外に流れていた通貨が、日本国内で回るようになるので、その分でも国内総生産量が上がります。つまり“均衡予算乗数の定理”とその波及効果以上の経済効果があるのです。しかも、その浮いたエネルギー代を、中小企業などの支援に当てれば、経済発展による人件費の上昇が起こっても、あまり国際競争力を下げないで済みます(断っておきますが、アベノミクスがもし上手くいっても、人件費の上昇による国際競争力の低下は起こります)。
ただし。
この方法、“通貨の循環”をスムーズに起こす事が条件になります。が、一部に通貨を集中させ過ぎてしまうと、それが上手く行かなくなる可能性があります。
例えば、一人に一千万円与えても、それを一年で使い切る可能性は低いですが、十人に百万円ずつ与えれば、一年あれば大部分を使い切るだろうと予想できます。
つまりは“消費”に注目するのなら、平等に労働賃金は支払った方が良いと言えるのですね。もっとも、生産面に着目した場合は、実力主義的観点からも差は必要です。これをまとめると、「公正に労働賃金を支払う必要がある」といった表現が妥当になるでしょう(また、国内でほとんどの労働力を賄う必要もあります)。
要するに、今まで説明して来た方法を用いるのには、「公正に労働賃金を支払う必要がある」のですね。
もちろん日本でも、ちゃんと「公正に労働賃金が支払われている」か注意し、監視する必要はあるでしょうが、それでも、日本社会なら充分にこれは可能だと僕は思っています。ですが、果たして、中国のような社会で、これは可能なのでしょうか?
ね。
(血液と通貨のアナロジー)。
知らない人が多いが、科学にとって重要なのは慎重かつ謙虚な態度だ。確りと調査や実験を行い情報を集め、それらを整理した上で結論を出す。そしてその結論すら、常に疑わなくてはならない。
だから、仮に類推性がそこに認められたとしても、安易に“それが正しい”としてはいけない。
しかし、それを踏まえた上で、敢えて、こんな主張をさせてもらおう。
「多細胞生物の“血液”は、人間社会の“通貨”に当たるのではないだろうか?」
多数の要素を結びつける際に重要になる、栄養やエネルギーを運ぶ役割。そういう意味では、この二つは似通っている。
血液を循環させなければ、器官の存続は不可能だ。動物が水中から陸に上がる時、新たに生じた肺や足といった器官に、血液を巡らせなければ、成功はしなかった。これと同じで、人間社会でも新たに生じた機関に、通貨を巡らせなければ、何かしらの機能を得る事はできない。
通貨を巡らせる。つまりはこれは、通貨をその労働に対し、公正に支払うという事だ。人間社会の健康な発展の為には、ある程度の公正さが必要という事になるだろう。
な。
――不平等な社会、中国。
不勉強で、詳しく調べた訳ではないのですが、それでも中国が不平等社会であるという話は、よく伝わって来ます。
生活が苦しい為に、シェアハウスによって生活費を節約する“蟻族”と呼ばれる若者達。この若者達は、まだマシな方で、より部屋代の安い地下で暮らす“鼠族”と呼ばれる若者達までいるといいます。また、地方の生活も悲惨で、環境破壊によって汚染された土地で暮らす農村の中には、ガンでの死者が急増しているケースもあると言われています。もちろん、少数民族などへの差別も激しいそうです。
その一方で、富裕層は豪勢な生活を送っているのだそうで。海外の土地などの資産を買い漁り、汚職で莫大な資産を手に入れていたりしているのですね。
そして更に、その不平等な構造が、社会そのものを不安定にしているという声もよく耳にします。また、バブル経済の影響も深刻。果たして、これから大きな矛盾を抱えたこの巨大な社会は、どう転がっていくのでしょう?
か。
――日本で、世界初の試みである経済政策が成功を収めた。
初めの一回は、通貨を増刷し、その分で太陽電池等の再生可能エネルギーの設備を買う。当然、その効果で経済成長が起こり、景気は回復をする。その波及効果を充分に確かめたタイミングで増税を行い、その増税分で再び太陽電池等の再生可能エネルギーの設備を買い、以降は、その税により、これを行い続ける。
つまり、国を通して、再生可能エネルギーに関しての“通貨の循環”が生まれるような経済政策を、日本は執ったのだ。
これは“均衡予算乗数の定理”の発展系であり、近似した事例は、主には公務員制度で世界中で実績があるが、“通貨の増刷”というアプローチから入り、経済政策としてもこれを行うケースは存在しなかった。
施行される前には、保守的な経済学者などからの強い反発があったが、他に有効な経済政策もなかったために、結局は実行されるに至った。
細かな問題点は散見されたが、それも時間が経てば乗り越える事ができ、致命的と言える程の問題は発生しなかった。もちろん、長期間を経なければ、本当に大きな問題が発生しないと言えるのかは分からないが、今のところは、順調に制度は運行されていた。協調行動を執る文化を持った日本だからこそ、実現できたとも言えるだろう。
「社会主義的発想ではないか?」
という指摘もあったが、それには反論があった。“太陽電池等を買う”という点は確定されるが、その太陽電池を何処の企業が買うかまでは確定されていない。自由競争原理を用い、優秀な企業の再生可能エネルギー設備が買われ、また、もちろん、それら再生可能エネルギーを生産する工場等は、企業が資本を投下し造る。制度のこういった点を観る限り、変形してはいるが、資本主義的発想の亜種と見做すべきだろう(もちろん、この点に関しては、まだ議論の余地はあるだろうが)。
この日本での成功は注目を集め、似たような制度を世界中の国々が採用し始めた。技術力があり、労働力が余っていて、かつ、公正に労働賃金を支払う文化を持った社会ならば、どんな社会でも類似の制度を実施する事が可能だからだ。欧米やアメリカでも活用され始めたし、東南アジア、西アジア、アフリカなどの地域でも少しずつ広まっている。
まるでそれは、協調行動を執るシステムの強さを物語っているように思えた。
遺伝的アルゴリズム。
優秀な方略が繁栄をし、劣った方略は衰退していく。協調行動が“優秀な方略”ならば、当然、それが起こる。“殺し合う森”よりも、“協力し合う森”の方が成長速度が速く、生存競争に有利なのだ。
しかし、中国ではこの制度の活用は難しかった。格差社会が根付いてしまっているから、公正に労働賃金を支払う事ができない。そして、その経済力には陰りが如実に見えるようになっていった。人口が多いので、その経済規模はそれでも馬鹿にはできないがしかし、国内経済の成長だけでなく、国際競争力という面でも、その力は衰えていた。
“国を通して通貨循環を起こす”
という発想を各国が執るようになっていた為、中国製品の消費に占める割合が減ってしまった為だ。
力の衰えと共に、外交での中国の態度は徐々に軟化していった。圧力をかけるような事が少なくなり、逆に友好的な対応を求めるようにまでなったのだ。
な。
なーんて、事になるかもしれない、と僕はまぁ、予想しているのです。もちろん、理想的なケースで、実際はどうなるか分かりませんけどね(ただ、この点は、他の方法でも同じ、というか、もっと悪い事になるかも)。
これ、要は“協調行動の方が有利になる”要素を、より強くし、中国が苦手な“公正に労働賃金を支払う”事の問題点をより際立たせてやるってものです。
世界中が、そんな状況になれば、当然、中国のような社会は弱っていきます(つまり、中国以外の公正さのない社会にもダメージを与えられるのですね。でもって、そんな社会を少なくできます)。
もし、“公正に労働賃金を支払う”事が、中国にもできたらどうなるかって?
それはそれで問題ありません。だって、それはそのまま、“虐げられていた中国の貧困層に力が付く”事を意味するからです。そしてそうなれば、今の中国の支配体制に強い影響を与えるでしょう。早い話が、どちらでも今の中国の支配層に、深刻なダメージを与えられるのです。そして、追い込まれた結果、自らその方略を変化させるしかない状況に至る(か、或いは、もっと別の何かが起こるかも)。
どうです? 「北風と太陽」的な発想でしょう?
ま、上手く行った場合の話ですが。
て。
ここで少し視点を変えます。戦争とは、極論を言ってしまうのであれば、とどのつまりは“資源の奪い合い”です。
ならば、“資源の奪い合い”が起こらない状況下を作ってやれば、それを減らす事ができるはずです。
つまりは“協調行動が有利”な状況下を作る事とは、そのまま戦争を減らす目的で使えるのですね。
ただし、けっこう前に説明した通り、どんな環境においても、“協調行動が有利”になるとは限りません。協調行動が不利、いえ、できない状況下も存在するのです。それは“資源不足”の状況下。
資源が不足し、分け合う事ができない場合、どうしても“資源の奪い合い”に至ります。そして、今現在、世界中の資源が少しずつ枯渇に向かっています。その中で、もっとも重要な資源はエネルギー資源だという事は分かり切っています。
他の物質に関しては再利用の道がありますが(まだ、技術的に再利用が困難な資源もたくさんありますが、少なくとも技術発展による実現は期待できます)、“熱力学第二法則”が乗り越えられない以上、エネルギーだけはどうにもならない。
もう気付いた人もいるかもしれませんが、再生可能エネルギーを広めるという事は、そのままこのエネルギー資源の枯渇対策になるのです。
因みに、太陽電池はシリコン系ならば、資源の枯渇がほぼ心配いらず、再利用効率も高い。風力発電は耐用年数が百年以上で、地熱に関しても、今のところの実績では、やはり枯渇の心配はないそうです(因みに、ウランも枯渇する資源なので、原子力発電所に頼り続ける事はできません。だから、まだ労働力が余っている間で、エネルギー変換を行っておくことが有効だと考えられます)。
植物にも、“他者との競争”という要因はありますが、それでも動物に比べれば、随分と低いでしょう。
そして、再生可能エネルギーを中心に用いる事は、“植物的な方略を執る”という事を意味します。
飽くまで可能性の話ですが、そういう意味でも戦争を減らす事が可能かもしれない。
平和を本気で実現したいのなら、僕には、人間社会が執るべき道は、この“通貨の循環”を活かして、再生可能エネルギーを普及させる方向しかないように思うのです。
冒頭の鼻歌で、曲を作りました。
クオリティは、保証しません。
↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23466628
参考文献は、
「波紋と螺旋とフィボナッチ 著者・近藤滋 秀潤社」
「ミクロの森 著者・D.G.ハスケル 築地書館」
他、ネットの記事など…