*7 ヴィディス
インセクサイドの研究施設に着くなり、出迎えに来ていた響子が駆け寄ってきた。
「おはよう。早速だが、私についてきてくれ」
挨拶もそこそこに翔子の腕を引っ張る響子は、目の下に濃いクマを浮かべている。恐らく、あまり寝ていないのだろう。アイスも、脳に糖分を補給するためのものなのかもしれない。
「急ぎの突貫制作だが、性能は保証するよ。手間とコストがかかるから量産には向かないが……」
言っていることは普通なのだが、声のトーンがいつもより高かった。普段の声が低めな部類に入るので、なんだか普通の女の子のような声だ。
「……さて、ここだ」
通されたのは、いつもと違う部屋だった。壁の一面に取り付けられた無数のモニターと大きな窓で、隣の部屋の様子が確認できる。モニターの数の割に、職員は翔子を含めて五人しか居ない。
「ここは、隣にあるテストルームでとれたデータを確認する部屋だ」
そう言ってから、響子は窓の向こう――テストルームを指差す。
「これから、あそこで "ヴィディスⅡ" のテストを行う。後でデータは見せるが、百聞は一見にしかずだ。よく、見ておくといい」
響子の言葉と同時に、テストルームに人影が現れた。それは翔子の鎧をメカメカしくしたようなデザインだ。塗装が成されていないのか、色は鋼のような黒っぽいシルバーが主である。
同時に、テストルームの床からサンドバッグが二つせり上がってきた。響子が説明する。
「あのサンドバッグは表面に糸状の鉄が編み込まれていて、かなり頑丈だ」
「へぇ……」
翔子がサンドバッグとヴィディスを交互に見ていると、モニターの前でなにやら操作していた職員の一人が振り返った。
「それでは、ヴィディスの性能テストを開始します」
※
その光景に、翔子は絶句した。
鋭く、正確に打ち込まれた拳は、まるでスポンジに包丁を突き立てるような滑らかさでサンドバッグを "貫いていた" 。
そう、貫いていたのだ。
その拳の軌跡を、翔子は目で追いきれていない。翔子の常人とは一線を画した動体視力でさえも、その拳は捉えきれなかった。
「驚くのはまだ早いぞ」
不敵に笑う響子。ヴィディスは貫いたサンドバッグから離れ、次のサンドバッグと対峙する。わずかな沈黙の後、その右足を、一歩引いた。
あれは一体なんの予備動作なのだろうか。それを考えたその時、閃光と共に衝撃が走る。次の瞬間には、サンドバッグが真っ二つに切断されていた。
衝撃で破裂したわけではない。切断されたサンドバッグの片割れが、その形状を留めたまま地面に激突するのを、翔子はきちんと確認したのだ。
翔子が驚愕している間に、ヴィディスは振り上げていた右足を下ろす。どうやら、あの切断は蹴りで行われていたらしい。
ヴィディスの脚部を観察。部分的に角張っているとこもあるが、とても鋭利とは言えない。これであのサンドバッグが切断できるとは思えなかった。
だが、目の前で起こった出来事は事実だ。翔子は自分の五感を信用している。この目で見たのだから、いくら考えにくいことでもそれは覆らない。
「……すごい性能ですね」
翔子は、心の底から称賛した。これは本当にすごいと思う。ともすれば、翔子より強いかもしれない。
「だろう? 私の自信作だ。……尤も――」
が、響子は肩をすくめ、自嘲するような苦笑を浮かべる。
「――基本スペックでは、君よりも劣る。現状の人工筋肉ではこれが限界だ」
「……なら、なぜあんな動きが……?」
翔子は頭に疑問符を浮かべた。自分よりもスペックが劣るのに、自分よりもキレのある動きをする。それは一見すると奇妙だが、しかしよく考えれば――。
翔子の予想は、当たっていた。
「オペレーターの技量の差だよ」
「あんな動きができる人が居るんですね」
敗北感からくる嫌味などではなく、翔子は素直にそう思う。それに、あれほどの手練が味方につくのはとても頼もしい。
……のだが、その正体については少々予想外だった。
「ちなみにアレはキャシーだ」
「……え?」
翔子の知る中で、キャシーと呼ばれる人物は一人しか居ない。そう、キャサリン――そういえば、名前しか聞いていなかった――ただ一人だ。
翔子の知るキャサリンという人間は、決してドン臭いわけではないが、とても強そうには見えない人間である。スタイルもよく、パワードスーツの動作テストを担当しているあたり、確かに要素はあるのだが……普段の言動からは、おおよそ見当もつかない結果だった。
響子の発言を裏付けるように、ヴィディスのオペレーターは自らのヘルメットに手をかけた。こぼれる金髪は、邪魔になるからか一つ結びに纏めてある。ヘルメットを脱いで少し頭を振るその顔は、間違いなくキャサリンのものだった。
※
「ドウだった?」
いつものチーフルームに移動するなり、キャサリンは得意気に訊ねてきた。世間的に言う、ドヤ顔なるものだろう。
「すごかった。まさかキャサリンにあんな動きができるとは思わなかったよ」
関心したように翔子が言うと、いつもの椅子に座ってやりとりを見ていた響子が、コーヒー――よく見ると、パソコンの横にインスタントコーヒーの瓶がある――を流し込んでから悪戯っぽい笑みを見せる。まるで、自分だけが知っている秘密を話す時の子供のようだ。
「キャシーは文武両道だからね。高校時代は総合格闘技を嗜んでいたようだし、大学はオックスフォードを出ている」
オックスフォード大学……詳しくは知らないが、存在ぐらいなら知っている。確かイギリスあたりの高名な大学だ。無論、実物を見たことは一度もない。
「総合格闘技……オックスフォード……へ、へぇ……」
半信半疑でキャサリンの顔を見ると、彼女は不敵な笑みを浮かべていた。
「フフ。アルバム、見る?」
この態度は、他人を騙してからかっている時の態度ではない。事実を以ってして、他人を驚かしている時の態度だ。悟ってしまった翔子は、認めるしかなかった。
だがここまで強いのなら、とても頼りになりそうだ――そう思った矢先、残念そうに響子が言う。
「まあ、まだ実戦には持ち込めないがね……」
「え、なんでです?」
翔子が訊ねると、響子は憂鬱そうな溜息を吐いた。
「整備性が悪すぎるんだ。少し動かすだけで干渉した装甲が歪むし、重量もあるから人工筋肉への負荷が大きい。少なくとも、金属部分はカーボンファイバーに変えたほうがいいな。設計もある程度の改良が必要だ。……所詮は突貫作業の急造品だな」
確かに、現在のヴィディスはかなり急ぎで開発されたものだ。調整不足による不具合が多いのも理解できる。
「で、詳しいスペックだが――と、その前に」
響子はパソコンに手を伸ばそうとしてから、何か思い出したようにその手を引っ込めた。
その手を再び伸ばすと、その先にあるのは小さな白い箱だ。彼女は、その中から小ぶりのミルクアイスを三本取り出す。
「君の目当てはこれだろうからね」
その内の一本をキャサリンに、もう一本を翔子に手渡してくる。建物の中が涼しかったので、すっかり忘れていた。翔子は受け取り、袋から取り出す。これは昔親戚の家で食べた覚えがある。確かに、翔子がコンビニで買おうとしていたアイスより高い――が、小さい。貰った側なので、あまり文句は言えないのだが。
取り出したアイスを、口に含む。高いだけあって、とても美味しい。糖分たっぷりで脳にやさしい。咥えた状態で舐めるという贅沢な食べ方をしていると、響子がこちらをジーっと見つめていることに気づいた。
「? ろうひまひた?」
「……目の保養だよ。気にしないでくれ」
翔子が訊ねると、響子はふいっとそっぽを向いてしまう。一体何をどう保養にするのだろうか。腑に落ちないが、追求したところで答えてはくれないだろう。
不毛な質問で場の空気を悪くするのは愚策だ。処世術として、大学時代の友人がよく言っていた……ような気がする。
とにかく、翔子はそれ以上追求すること無く、代わりに、パソコンの画面に目をやった。
それだけで察したのか、響子は自身もアイスを食べ始めながら、パソコンをいじり始める。
「詳しいスペックだが……まあ、数字を見てもよくわからないだろうから、簡単にまとめておいた」
表示されたのは、最初に翔子がスペックを測定した時にも見た五角形のレーダチャートだ。今回のものは、赤いラインと青いラインが一緒に表示されている。青いラインは、赤いラインよりもテクニックを除いて二回り程度小さかった。
「察しはつくと思うが、赤が君で青がヴィディスだ。正確に言うと、ヴィディスを装着したキャシーか。他の人間――例えば私が装着しても、こんなに良い記録は出ないだろうからね」
どうやら、キャサリン本人のスペックは、特筆するほどのものらしい。大量の職員の中から、ヴィディスのテスターに選ばれただけのことはある。
「見ての通り、現状の性能では君に劣る。テクニックも、キャシーの実力が特に秀でているだけだ。もう少し性能を上げるよう努力はするが……君に追い付くことは、まず無いだろう。君のように、四次元の力を直接的に利用できないからね」
そう言うと、響子は新しい画像を開く。それは何かの図面らしい。
「今回我々が発見したのは、四次元に物体を格納する術だ。詳しい話は長くなるしわからないだろうから省略させてもらう」
言いながら、響子は図面を拡大した。タイトルは "ヴィディスⅡ" とある。
「この "ヴィディスⅡ" は、発電機関を四次元に格納することで、このスッキリとしたフォルムを獲得した。それにより、あの機敏さを手に入れたんだ。……そもそもこの発電機関は、背負ったら身動きがとれなくなるレベルの代物だからね。だが、性能は本物だ」
更にもう一つの図面を開く。今度は "改丁型タキオンリアクター" などと書いてある。これはちょっと意味がわからない。
「こいつは一辺が二メートルの立方体。だが、これ一つで大型火力発電所と同等の電力を供給することができる。ヴィディスを動かすには十分すぎる性能だ。だがこれ以上に小型化できないのと、発電中は周囲に放射線をばらまくのが欠点だ。四次元にでも隔離しないと、まともに使えない」
大型火力発電所と同等――この技術さえ確立すれば、世界のエネルギー問題はかなり改善されるのではないかと思った。が、発電するだけで放射線をばらまくようでは、それもまだまだ遠い話だろう。
翔子は響子の話を自分なりにまとめ、口にする。
「ということは、四次元に隔離する術が手に入ったから、今回の研究は飛躍的に進んだ……ということですか」
「そういうことだ」
アイスの棒をゴミ箱に放り投げ、響子は首肯した。アイスの棒は回転しながら美しい放物線を描き、ゴミ箱のド真ん中へと吸い込まれる。
それで気分をよくしたのか、響子は上機嫌でウィンドウにもう一つの図面を表示させた。
「ついでだ。レヴァンテインについても、教えておこう」
レヴァンテイン――インセクサイド、と言うよりも響子個人から性能テストを依頼された武装だ。先日、清香が襲われた際には、とても重要な役割を果たしている。因みに、データは定期的に響子のパソコンに送られるらしい。
「複合兵装システムレヴァンテイン。君は使ったからわかるだろうが、振動剣とプラズマガンの機能を備えたものだ。こういった変形する武装は、実のところ効率が悪いんだが……できそうだから、作ってみた」
「……それ、適当すぎません?」
翔子が言うと、響子はきょとんと首を傾げた。
「だが、役に立っただろう?」
そういう問題では無いと思う。が、それ以上言うのはやめておいた。恐らく、今の響子は睡眠不足で判断力が少しズレているのだろう。しかし顔には出ていたのか、響子は翔子の顔を少しの間ムッと見つめてきた。
「……まあいい」
翔子が何も言わないでいると、響子は話を戻す。
「まず、振動剣だが……実は、この刃は振動させないと豆腐ぐらいしか切れないんだ。だから、多分銃刀法的には問題ない。仮に引っかかっていたとしても、私がなんとかしておくよ」
話を聞いていて、思った。今日の響子は話し始めると長い。普段から彼女の話は長い部類に入るが、今日のそれは更に長く思える。
「次にプラズマガンだ。これは、プラズマ化させた水素を次元のズレで包み込んで射出する。次元のズレは空気以外のものに触れたら解消されるようになっていて、そこで大量の熱エネルギーを放出……対象にダメージを与える」
よく観察すると話の合間にうつらうつらとしているので、何か喋っていないと眠ってしまうのだろう。
「因みに弾丸が金属でないため、多分銃刀法には引っかからない。まあ、引っかかっても私がなんとかするが……」
そこまで言って、響子は大きなあくびをした。口元をおさえていた手で、目に浮かんだ涙を拭う。
「流石に眠くなってきた……最後に電源についてだけ話して終わりにしよう」
そう言って、新たな図面を表示する。
「この "試作丙型次元伝送発電機" だが……実はだな、永久機関なんだよ、これ」
「……永久機関、ですか?」
永久機関とは、外部からのエネルギー供給なしで外部に仕事を行い続ける装置だ。しかしこれは、エネルギー保存の法則に真っ向から勝負を挑んで負けている。故に、未だこの世に存在しないし、今後も現れることはない……と、昔読んだ本に書いてあった気がする。
それぐらいは響子も知っているだろうが、しかし彼女がこんな嘘を吐く理由がない。
「形式としては、ワームホールの入り口の上に出口を設置するという、簡単なものだ。多次元の研究中に偶然出来たが狭かったから、そこに発電機と水を入れてから、地面と並行を保つようにした。で、発電量が振動剣とプラズマガンを動かすのにちょうどいい感じだったから、組み込んで作った」
なんだか行き当りばったりな制作経緯である。
「この件については特許を取ろうかとも思ったが、再現性が皆無だったからやめた。恐らく私でももう作れないだろう。……だから、壊すなよ?」
最後に念を押し、響子の話は終わった。
正直なところ、内容は半分ぐらいしか理解できていない。響子がそれを承知しているかは知らないが、翔子が理解していないことで起こる不具合というのはほとんど無いだろう。
「それじゃあ、私は帰りますね」
「ああ。私は一眠りしてから、仕事の続きに移るよ。……久々に、布団で寝られる」
布団で眠れない生活――考えただけで悪寒がする。挫けなかった響子の根性に感心しつつ、翔子は部屋を出た。
その日、翔子は初めてベクターズ出現の瞬間を目撃した。
施設の建物を出た翔子の目の前に現れた "歪み" 。それは視覚こそできないが、確かにそこに存在している。
見えないだけではなく、音も臭いもない。触れることもできず、恐らく舐めても味はしないだろう。五感のすべてが、その存在を否定する。
しかし、翔子特有の第六感――それだけは、 "歪み" の存在を確かに肯定していた。
そして。
「――!? 来る!?」
この世界を俯瞰する第六感が告げる。異物が、目の前の空間に干渉している。
この気配は。
「融装!」
ベクターズが眼前に現れるのとほぼ同時に、翔子は鎧を身に纏った。
次の瞬間には、既にお互いがお互いを認識し、組み合っている。翔子の頭よりも高い位置で両手を掴み合い、力任せにギリギリと押し合う。
現れたベクターズの姿は、亀タイプが超音波強化されたもの――翔子が初めて戦った超音波強化個体であり、事実上の敗北を喫した個体と同タイプだ。
最初から強化された状態で現れた個体は、これが初めてである。ベクターズをこちらに送り込んでいる組織が存在すると仮定するならば、音沙汰のなかったここ数日の間に何かの進歩があったと推測できた。
手強い相手だ。
今回は、レヴァンテインを持ってきていない。素手で強化形態に勝ったことは一度もないので、今回勝てるかどうかはわからなかった。
とりあえずは、人の居ない所へ移動したい。ここはまだ施設の高い塀の中なので、出勤中の施設の人間がやってくる可能性が高いのだ。強敵相手に、周囲の人間を守って戦うのは非常に困難だろう。
「ふん……んぐ……んぁああああああ!」
気合で押し通す。幸いなことに、全力を出せばほんの少しだけ相手を後ずさらせることができた。
もう少し効率のいい方法はないものか。足払いでも仕掛けてからゴロゴロ転がしてやるという手も考えたが、あの太い足を蹴ったところで逆にこちらが足を痛めてしまいそうなのでやめた。そもそも、足払いなんか仕掛ける隙がない。少しでも力を抜けば、押し負けてしまいそうだ。
ならば、正攻法で行くしか無い。
腰を低くし、力の入れやすい体勢に持っていく。腕の力をフルに使えるよう、組み合った手の位置を肩の所まで持っていく。相手はニメートル半。身長の違いから、ベクターズは力の入りにくい体勢となる。
ベクターズもベクターズで、力を入れやすい体勢にしたいらしく、腕に力を込めてきた。ここからが腕 (力) の見せ所だ。こちらに有利な状況を維持しつつ、徐々に徐々にと相手を押しやる。
一歩一歩に力を込めて、全身の筋肉を総動員させ、押して押して押し続ける。
そこで、一筋の光明が差した。
ベクターズが、少しだけよろけたのだ。
それはほんの一瞬。コンマ単位の隙でしかない。だが、それすらも翔子の感覚は逃さなかった。
力のバランスが崩れた腕を、力任せに捻り下ろす。ベクターズが苦痛に悲鳴を上げる。これを好機と、翔子は畳み掛けるように全身を使ってベクターズに体当りした。
渾身の体当たりはベクターズを大きく吹き飛ばし、塀の外まで追いやる。第一目標達成。
相手が起き上がらないうちに、一気に距離を詰める。今回は、大ジャンプだ。
空中で攻撃の構えを取る。キックかパンチ――今日はキックの気分だ。右足を突き出し、左足も添えて、今にも起き上がろうとしているベクターズに狙いを定めた。
慣性と重力に身を任せ、外部からの加速は一切なしに、今この瞬間に翔子が持ちうるエネルギーだけを叩き込む。
起き上がりかけたベクターズに、足の裏で一撃を叩きつけた。
そのままグルリとバク転し、華麗に着地。
ベクターズは――顔面の半分が崩れていた。
「やったかな?」
ふうと一息つき、ベクターズに目をやる。ベクターズは、ピクピクと震えていた。――だが、蒸発は始めていない。
これはまさか、まだ死んでいないのではないか。胴体真っ二つぐらいはしないといけないのか?
追撃をかけるか、身構えるか、そのどちらかで迷っているうちに、ベクターズは再び動き出した。
翔子は咄嗟に身構えるも、相手が起き上がりとほぼ同時に放たれた大質量の突進に弾かれてしまう。ゴロゴロと地面を転がり、施設の塀に勢い良くぶつかった。流石に塀は頑丈だったようで、大した傷はついていない。無論、鎧は無傷だ。
背中がかなり痛いのだが、我慢して起き上がる。グっと耐えれば、痛みが引いていくような気がした。
再び駆け寄り、組み合う。だが、今度は相手を押しやる必要がない。右手を放して握り拳を作り、ベクターズの胴体に打ち込む。拳は固い装甲に阻まれ、イマイチ手応えがなかった。
一度飛び退いて、体勢を立て直す。打撃は効率が悪い。有効な一撃を狙うなら……先程キックで崩した顔面だろう。
だが、頭だけをもう一度狙うには大きな隙が必要だ。相手はダメージを負った部分を守るだろうし、一筋縄ではいかない。
ひとまず、迫り来るベクターズをもう一度受け止める。
どうやって隙を作ろうか。全力で組み合っていたせいか、そろそろ腕に疲労が溜まってきた。長丁場になると、逆転される可能性がある。オタオタしていられない、緊迫した状況だ。
頭のなかをこねくり回して打開策を探る。しかし一向に良策は思い浮かばず、そうしている間にも肉体的疲労は確実に翔子の肉体を蝕んでいた。
そろそろ限界が近づいてきている。
組み合う腕から力が抜けていく。
もう駄目かもしれない。
翔子はそう思っていた。
「諦めたらオシマイだよ!」
その声が届くまでは。