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アラサー戦士中田翔子  作者: あざらし
正義の味方、中田翔子!
6/46

*5 ナイトバトル

「ところで、スーツはどの辺りまで進んでいるんですか?」

 興味本位で、翔子は訊ねた。よく考えたら企業秘密な可能性もあるのだが、協力したのである程度は教えてくれるかもしれない。

『ああ、それなんだがね――』

 電話越しに響子が口にしようとした瞬間、翔子の第六感が反応した。

「――あ、やっぱり後にしてくださいその話」

 緊迫した翔子の声で察したのか、響子も声に緊張を滲ませる。

『ベクターズが、出たのかな?』

「そのようです。行ってきます」

『武運を……。ああ、そうだ。レヴァンテインのテストも頼むよ』

「はいはい。じゃ」

 翔子は電話を切り、携帯を放り投げた。急いでライダースーツを着こみ、件のアタッシュケースとヘルメットを持って部屋を出る。外階段を駆け下り、駐車場のバイクに乗り込む。後ろにアタッシュケースを括りつけ、急いで出発。

 髪を結っている余裕がなかったので、長髪は無理やりヘルメットに押し込めている。若干はみ出たりもしているのだが、今はそんなことを気にしている余裕などなかった。

 ベクターズが出現したのは、ここからかなり遠い公園の近く。清香の住んでいるマンションへ行く時に通るので、よく覚えている道だ。

 とても人通りが少ない道なので、余裕が有るように思えるが――実際にはそうではない。その道には、間違いなく清香が通るのだ。

 周囲に人が居ないからか、怪物は公園の周辺をウロウロしている。早くしないと、清香とかちあい、彼女が襲われてしまう。

 制限速度を気にしている余裕はなかった。自分の持てるテクニックの全てを駆使し、近道を通って、現場へと急行する。

 直線の道を駆け抜ける道中で、翔子はふと思う。

 自分は、身内だからといって贔屓するつもりはなかった。清香や両親が襲われていても、見ず知らずの他人が襲われていても、平等に助けるつもりだったのだ。

 だが、実際に清香が襲われるかもしれないとなると、そんな余裕は微塵もなかった。

 今の翔子は、他人が襲われそうになった時よりも、遥かに焦っている。もしこの瞬間、目の前で知らない誰かがベクターズに襲われていたら――自分がどうするのか、まったく予想できない。

 普段なら、急ぎつつも助けるだろう。だが、清香が危険な今なら……見捨ててしまうかもしれない。後で戻ってくるなりはするだろうが、やはり清香を優先してしまう可能性は否めなかった。

 本当にそれでいいのだろうか。

 そんな懸念が生まれたが、すぐに焦りの中へと掻き消えてしまった。



 ベクターズの近くに、清香の存在を感じた。清香はベクターズに気づいたのか、立ち止まって何やら様子を窺っているようだ。

 しかし、翔子ももう少しで現場につく。ギリギリで間に合うだろう。ほんの少しだけ安堵し、息を吐く。

 だが、その瞬間に異変が起こった。

「……二匹、居る?」

 既に居たベクターズの反対側、清香の後ろに、もう一体の個体が出現したのだ。

 その個体は、清香の背後に少しずつ近づいている。清香はまだ気づいていない。極めて危険な状態だ。

 清香の身もそうだが、これは翔子の危機でもある。

 ベクターズが二体同時に現れたのは、これが初めてだった。翔子にとって、これが初めての多対一だ。

 尤も、普段の弱い姿のままなら、二体でも三体でも同時に相手に出来るだろう。だが、今は別の可能性がある。謎の超音波による強化だ。

 アレがあると、一体でも相手にするのがきつくなる。と言うか、未だ翔子一人で勝てた試しがない。

 今から響子に増援を求めるにも、携帯は部屋に置いてきてしまった。

 この状況を打破するには、どうしたらいいのだろうか?

 考えた末、翔子は一つの結論へと至る。とにかく、先に一体倒してしまえばいいのだ。不意打ちの一撃で倒せれば、超音波強化を防げるだろう。幸い、今回は一撃で倒せそうな武器も持っていた。

 時間短縮のために、翔子は危険を顧みず背後のアタッシュケースに手を伸ばす。片手でハンドルを握り、片手でケースから中の物を取り出した。

 響子から預かった品物、それは複合兵装システム "レヴァンデイン" だ。折りたたまれた状態から変形させることによって、ガンモードとブレードモードになる……らしい。

「そ、そんな……やだ……やめて……こないで……」

 微かに、清香の悲鳴が聞こえた。翔子はバイクを強引に止め、レヴァンテインを抱えて飛び降りる。視界が狭くなるので、着地と同時にヘルメットも脱ぎ捨ててしまう。

 二体目のベクターズが、目指できる位置まで来た。カマキリ型だ。どうやらまだこちらには気づいていないらしい。翔子は融装する暇もなく、走りながらレヴァンテインをブレードモードへと変形させる。走りながら行う慣れない操作には、どうしても手間取ってしまう。

「誰か……助けて……や……いや……嫌ぁあああああああ!」

 清香がへたり込んで悲鳴を上げる。

 ようやく、変形が完了した。シンプルな変形なので、慣れれば数秒で済むだろう。

 レヴァンテインのブレードが、人間では認識できないレベルに細かい振動を始める。詳しい原理はよくわからないが、響子の話ではベクターズの装甲も切り裂けるらしい。

 カマキリのベクターズは、もう目前まで迫っていた。見たことのあるタイプだ。確か、こいつの胴は細さ故に脆い。

 翔子がレヴァンテインを振りかぶったところで、ようやくこちらに気づいたらしく振り返るベクターズ。だが、もう遅かった。

「ふんっ!」

 斜めに振り下ろされたレヴァンテインによって、カマキリのベクターズは真っ二つに別れる。鈍い音とともに、周囲に血液が舞った。

「……よし」

 問題の一つを解決。翔子はレヴァンテインを構え直し、清香の元へと駆け寄る。

「ここは危ないから、すぐに逃げて!」

 一度レヴァンテインを地面において、清香を抱え起こす。彼女は翔子の姿を見て、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「しょ、翔子姉。どうして……」

 ……もう、彼女には隠し通せないだろう。近いうちに、全て打ち明けなければならない。

 だが、今はその時ではなかった。

「……詳しいことは後で話すから、今は逃げて」

 清香は少し考えたあと、首を縦に振る。

「……わかった。でも、無理はしないでね?」

「うん。約束する」

 翔子が言うと、清香は少し頼りない歩調で歩き出す。ショックが大きかったのだろう。

 翔子は目の前のカマキリ怪人を睨みつける。

「私の可愛い妹に手を出そうとしたらどうなるか……教えてあげる」

 翔子は天高く右手をかざし、叫んだ。

「融装!」

 翔子の体が、ワインレッドの鎧を纏う。腕、足、胴、頭、全てが人ではない異形のモノへと変化していく。

 五感は研ぎ澄まされ、数キロ先の物体まではっきりと視認できる。背後からは、走って逃げる清香の足音も聞こえてきた。

 カマキリ野郎は変わらぬ歩調のままこちらに近づいている。翔子はレヴァンテインを拾い上げ、走りだした。

 同時に、あの聞き覚えのある超音波が聞こえてくる。超音波の出処は――後で探そう。

 ベクターズの体が、少しずつ膨らんでいく。筋肉が盛り上がり、鎌は更に鋭利に。大顎も凶悪な形状を象る。

 しかし、翔子はお構いなしに突撃した。先手必勝だ。強化が終わる前に一撃でも入れることができれば、かなり有利になるだろう。

 レヴァンテインを振り下ろしたままの位置で構え、走る。見立てでは、強化にもう少し時間がかかるはずだ。急接近の勢いのまま、肉薄してレヴァンテインを振り上げる。

 しかし刃は敵を切り裂くこと無く、二本の鎌で受け止められていた。しかし筋肉の変形はまだ終わっていない。どうやら、ベクターズは強化の途中でも動けるようだ。

 翔子は一歩退き、突きの体勢で仕掛ける。剣術の心得は無いのだが、まあなんとかなるだろう。

 翔子の放った直線的な攻撃を、ベクターズは後ろへ流すようにいなす。翔子はバランスを崩しそうになったので、倒れるついでにベクターズの腹部にタックルした。

 絡みあうように倒れる翔子とベクターズ。なんとかマウントポジションを確保した。

 鎌に邪魔されないよう、両腕をしっかりと地面に押し付ける。両手が塞がってしまったので、その三角頭に頭突きをお見舞いした。頭の角が、ベクターズの大きな目を刺す。

 痛みを訴えているのか、頭を振り乱すベクターズ。今のうちに両手を切り落としておこうかとも思ったが、ここでレヴァンテインを使うと地面ごと切り裂きかねない。街を壊すのは本意ではないので、別の方向を模索することにした。

 一度ベクターズから離れる。レヴァンテインを構え直し、突撃。力任せに振り回し、剣戟を繰り広げる。

 なんだかんだ言って、翔子でもそれなりに剣で戦えていた。恐らく、相手も剣術的なものを心得ては居ないのだろう。所詮はカマキリだ。

 しかしそのカマキリの胴を安々と切り裂いたレヴァンテインでも、鎌を切り裂くことはできない。力を受け流されているわけでもないので、原理は不明だが鎌には効かないのだろう。

 そもそも、レヴァンテインの刃は特別鋭いわけではない。響子曰く、振動によってものを切り裂くようだ。

 よく見ると、ベクターズの鎌も同じように振動していた。恐らく、これで振動を打ち消していたのだろう。そして、あの鎌はレヴァンテインと同様に恐ろしい切れ味を誇る。迂闊に触れば、翔子の装甲も引き裂かれてしまうかもしれない。装甲は翔子の皮膚も同然なので、傷がついたらきっと痛いのだろう。

 痛いのは嫌だ。

 翔子は後退し、レヴァンテインを変形させる。レヴァンテインが複合兵装システムたる所以、ブレードモードにつぐ第二の形態ガンモード。

 響子曰く、試作のプラズマガンらしい。貫通力が極めて低く、周囲に被害を与えにくいそうだ。尤も、翔子に原理はわからないのだが。

 グイングインガシャンと変形させ、腰だめに構える。ブレードモードの時も思ったが、なかなか大きく重い武装だ。パワーがなければ上手く扱えないだろう。

 ノソノソと歩いてくる――カマキリを立たせたような姿をしているので、歩みが遅い――ベクターズに狙いを定め、引き金を引いた。ボディビルダーですら腕がちぎれ飛びそうなほどの反動に、翔子は少し後ずさる。

 銃口から放たれたのは、透明な球状の物体。大きさは、ソフトボールと同程度だ。材質は不明だが、中ではプラズマが光り輝いていた。

 翔子の視覚ですら、認識できたのは一瞬。常人ならば、弾が放たれたことすら認識できないだろう。その短い間に、プラズマ弾はベクターズの腹部に直撃していた。

 当たった瞬間、球状の物体は霧のように消え去り、同時にプラズマが激しい光と熱を放つ。一瞬の発火。

 炎は瞬く間に消え去り、残されたのは面食らったベクターズのみ。その腹部は、黒く焼け焦げていた。

 痛むのか、ベクターズは腹部を押さえて後ずさる。その隙を、翔子は見逃さない。

 プラズマ弾をもう一発、今度は頭部にお見舞いしてやった。次いで、ブレードモードに変形させたレヴァンテインを構え、走る。

「せぇい!」

 頭を抱えて悶えるカマキリに、最早刃を防ぐ余裕は残っていない。気合の入った翔子の掛け声と共に、肉を切る鈍い音が周囲に響き渡った。

 戦闘終了。

 真っ二つになったカマキリのベクターズは、早々に蒸発を始める。最早お馴染みの光景だ。

 翔子はレヴァンテインを折りたたむ。何度か動かしているうちにコツを掴んだようで、スイスイと変形できた。

 融装を解除し、レヴァンテインをアタッシュケースに戻す。清香に連絡を入れようとしてポケットを探るが、生憎携帯は家においてきてしまった。

 仕方がないので、バイクに跨って清香が逃げた方向へと向かう。六感では特定の人物をピンポイントで探すようなことはできないので、普通に探すしか無い。これは時間がかかりそうだ。

 ――だが、意外なことに、捜索はすぐに終わった。

 バイクで少し走った辺り、清香を助けた場所から、翔子が目を凝らせば見つかっていたような距離で、清香は待っていたのだ。一応、街灯で身を隠していたようだが。

「……待ってたの?」

 ヘルメットを小脇に抱え、翔子は訊ねる。

「それもあるけど……色々考えてたら、腰、抜けちゃって」

 塀にもたれかかった清香は、自嘲気味に笑った。

「もう……」

 翔子は軽く溜息を吐き、清香を助け起こす。翔子より小さな清香の体は、今の翔子の力にかかれば軽々と持ち上げられる。

「帰りどうしよ……歩けないかも……」

 不安げに、清香は言った。翔子は少し考えてから、仕方がないので彼女の膝を抱え上げ、お姫様抱っこの体勢になる。

「……じゃあ、私が家まで送ってあげる。話は、それから。ね?」

「う、うん……」

 突然持ち上げられて驚いたのか、清香は戸惑ったような頷きを見せた。……確かに、普通翔子の体格では清香を軽々と持ち上げることは不可能だろう。お姫様抱っこというのは、あまり効率が良くないのだ。

 清香をタンデムシートに座らせてから、道端に放置されたエコバッグの存在に気づく。タイミング的に、あの中に入っているのは食事の材料だろう。あれを放置してしまっては、彼女らの家系に打撃を与えるどころか今晩は飯抜きの可能性すらある。拾い上げて、清香の肩にかけた。

「さて……」

 ヘルメットを抱え上げて、気づく。よく考えると、ヘルメットが一つしか無い。清香は翔子と違って普通の人間なので、ヘルメット無しで乗せるのは気が引けた。

 仕方がないので、ヘルメットは清香に渡す。いろいろあるので普段からヘルメットを使用している翔子だが、実際のところ事故を起こして怪我をするような体ではないのだ。運転技術にもそれなりの自信はあるので、きっと大丈夫。

「翔子姉……運転手はちゃんとヘルメットしなきゃ……」

「大丈夫」

 言いながら、翔子はヘアゴムで髪を纏める。レヴァンテインのアタッシュケースは、清香の後ろのスペースにギリギリで縛り付けることができた。

 準備完了だ。

「しっかり掴まっててね」

 翔子はバイクに跨り、清香に自分の胴を掴むように促す。胴に回される細腕の感触を確認。

 翔子はバイクを発進させ、清香の家へと向かった。



 来客用の駐車場にバイクを停めて、マンションに入る。翔子のライダースーツはそれなりに高級な品なのだが、やはりこのようなマンションには不似合いだ。

 その点、清香は凄い。あまり高い服には思えないのだが、周囲の光景としっかりマッチしている。溢れ出る気品だとか、そんな感じだ。……自分には品が足りていないのだなと、翔子は内心で納得した。

 やたら高そうなエレベーターで上階まで上がり、清香の部屋へと向かう。毎度のことだが、廊下の隅から隅まで高そうで、なんだか不安になる。

「おじゃましま~す」

 玄関で靴を脱いで、部屋の中へ。リビング、ダイニングは高そうな家具、キッチンには実用性一点張りな家具と、相変わらず極端な構成である。因みに、清香の夫はこのたくましさに惚れたらしい。数年前に街で偶然会った彼と二人で食事をした時に言っていた。

 二人で買ったものを仕分けしていると、清香がふと思いついたように言う。

「そうだ。翔子姉、お夕飯まだでしょ? うちで食べてかない?」

「いいの?」

「うん」

 だが、妹だけに飯を作らせるのも忍びない。

「じゃあ、私も手伝うよ」



 こうして姉妹揃って台所に並ぶのは、何年ぶりだろうか。

 中学生時代、夏休みに出た 『家の家事を手伝ってみよう』 的な家庭科の課題で、一緒にその日の夕食を作ったのは覚えている。高校ではそんな課題が出なかったので、恐らくそれが最後だろう。

 翔子が中学三年生の時――十五の夏なので、今の年齢から引き算して、十四年ぶり。なかなか昔の話だ。

 ただし、一人でも家事はしているので、手際は当時よりも何倍もいい。というか清香の料理スキルが高すぎる。じゃがいもをあんなに素早く切れるのは凄いと思う。これが主婦とフリーターの差か……。

 昔は、翔子のほうが上手かった気がするのだが。よく、お姉ちゃんお姉ちゃんと頼られた覚えがある。

 因みに、今の翔子はライダースーツではないく、清香からTシャツとスカートを借りている。スカートはまあなんとかなるのだが、Tシャツは身長とバストの関係で丈が短く、どうしてもヘソが出てしまう。清香も小さいわけではないのだが、翔子が平均を超えているのだ。

「……そういえば、怪物の噂には続きがあったんだよね」

 人参を切りながら、清香が口を開く。

「襲われた人は、皆誰かに助けられたんだって」

「……」

 翔子は玉ねぎの皮を剥く手を止めて、清香の話に耳を傾ける。

「その誰かって……翔子姉なのかな」

 人を襲う怪物。そして、その魔の手から人を救う存在。

 それは間違いなく、中田翔子だ。

「……うん、そうだよ」

「……そっか」

 清香は、それ以上のことを訊ねては来なかった。それはありがたい反面、気遣いが心に痛い。

 内心では、全てをさらけ出したいのかもしれない。知っていることを全部話して、楽になりたいのかもしれない。響子のような知り合ったばかりの人間ではなく、清香のような親しい人間に、だ。

 これまでそれを避けてきたのは、心配をかけさせないためである。親しい人間が日夜得体のしれない化け物と戦っている――それも、謎の能力を使って――と知れば、普通は心配するだろう。

 それでも。

 何かを隠しているという負い目は、例え相手のことを考えてのことでも、苦しいものだ。

 結局、清香は最後までこちらの事情に踏み込んでくることはなかった。



「ただいまー」

 いざカレーを煮込もうかと言うタイミングで、清香の夫が帰宅した。

「おかえりー」

「お邪魔してるよ」

 夫――菅山 賢治(すがやま けんじ)は、翔子の声を聞くなり意外そうな声を出す。

「ああ、お義姉さん。来てたんですか」

「うん。ちょっといろいろあってね。お夕飯、ご馳走になるから」

「どうぞうどうぞ」

 賢治は翔子に向けてニコッと微笑んだ後、清香に向けて言う。

「じゃあ、僕は先にお風呂入ってるから」

 ネクタイを緩めながら風呂場へ向かう賢治を見てから、翔子は清香へ茶化すように言った。

「一緒に入らないの?」

「そんなの最初だけだよー」

 清香は特に気に留める様子もなく、ごく自然に返す。

 最初だけなのか……。

 生々しい夫婦生活の実態に、少し期待はずれのようなものを覚える。自分は一体何を期待していたのだろうか。妹に欲情するような趣味は、無いのだが。



 シャワーも貸そうかと言われたが、帰りはかなりの距離を走ることになるので、自分の部屋で浴びることにした。

 逆に借りたTシャツとスカートは普通に洗濯カゴに放り込む。持ち帰って洗濯して返すのも双方にとって面倒なので、夕食の分と一緒に礼を述べるだけにとどめた。

「じゃあ、また今度」

「うん。気をつけてね」

 駐車場まで見送りに来た菅山夫婦に軽く手を振って、翔子は帰宅する。

 清香が襲われたことについて、賢治には何も話していない。清香が言おうとしていなかったことに加え、そもそも彼が知ったところでどうにもならないからだ。あれは常人がどうにかできるものではない。

 何もできないのなら、きっと知らないほうがいいのだろう。

 清香が何を思って黙っていたのかは知らないが、少なくとも翔子はそう思った。

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