*42 リラックス・ポイント
響子には大見得切ったが、正直なところ久雄を一人で殺せるかは微妙なところである。
一時的に無力化するぐらいなら、いい。現に一度久雄を無力化している。
――だが、死には至らなかった。
トランセンデンターは、言うなれば群れたゴキブリのようなものだ。末端だけでも残せばいずれ復活するし、そう簡単には死なないうえに死にそうになれば過激に抵抗する。八重子の最期はあっさりしていたと聞くが、それは何らかの薬物の効果だろう。
紛れも無いバケモノだ。
大切な人を、こんなバケモノに貶めたくはない。そのためには、久雄の野望をここで絶たねばならない。
彼のような頭の逝かれた人間が説得に応じるとは思えないので、やはり、殺すしか無いだろう。
……本当にそれでいいのだろうか?
そんな困難な暴力的解決に頼らなくても、もっと平和的な解決があるのではないだろうか?
弥月の要求を一部聞き入れたように、彼の思想と協調する道があるのではないだろうか?
そもそも久雄の野望を挫きたいのは翔子の勝手な望みであって、それが正しいかはわからない。実は、久雄の方が正しいことを言っているのではないだろうか?
悩んでいると、そんな、考えもしなかったようなことが浮かんでくる。
精神に余裕があれば世迷言と切り捨てていたであろうそれも、心が弱っていると強く否定できない。
「……駄目だ、一人で考えてても」
大きく息を吸い、充電器に繋ぎっぱなしの携帯電話を手に取る。こんな時は、誰かに頼るのがいい。彼女なら、きっとそう言う。 『私に頼れ』 とも言うだろう。
履歴の一番上。何度もかけているが、いつも履歴からかけているので、一向に覚えないその番号。
コールすると、三回で相手の声が聞こえてくる。電話越しですら、聞き慣れた声だ。
「……響子? うん、私。……あのさ、ちょっと、相談があるんだけど……」
※
「じゃ、お邪魔させてもらうよ」
仕事が終わってすぐに来てくれた響子は、珍しくラフな格好だった。柄物のタンクトップにショートパンツという、見慣れない衣装。無地のTシャツ (安物) とデニム (清香と一緒に買ったもの) という翔子の服装と比べて、幾分お洒落してきたような印象を受ける。
「今日は白衣じゃないんだね」
訊ねると、響子は苦笑しながら言う。
「私服だよ。随分久しぶりに着たと思う」
つまり彼女は、翔子の家に来るためにわざわざ私服を引っ張り出してきた、ということだ。
これが意味することと言えば……明確なプライベートでの訪問、だろうか。確かに、個人的な用件で響子が訪ねてきた (呼んだのは翔子の方だが) のは、初めてかもしれない。
「それで、相談ってなんだい?」
なるたけ重苦しさを排したような態度で、響子は言う。……もしかすると、服装も含め、彼女なりの気遣いなのかもしれない。
沈んでいた気分が、少しだけ引き上げられた気がする。
「いや、その、くだらないことなんだけどね」
できた余裕を前置きに回しつつ、響子に椅子を勧めた。テーブルを挟んだ向かい側に翔子も座り、話し始める。
「響子に、私は一人で大丈夫って言ったけど……あれ、半分ぐらい嘘なんだ。本当は、本当に久雄が殺せるかわからない」
響子は、ただただ黙って話を聞いていた。それがありがたいような、そうでもないような。
「確かに、私は一人でも戦える。それに、久雄に手が届くのも私だけだと思う。でも、私でも、殺せるかはわからない」
話している内に、また気分が下向きになってきた。
「それで……悩んでたら、本当に私が正しいのかもわからなくなってきて……」
テーブルの下で、拳をグッと握る。
「私、身勝手な理由で動いてないかって……本当は、久雄の方が正しいんじゃないかって……」
テーブルのシミを見ながら、最後に言う。
「でも、こんなんじゃいけないと、思って……だから、響子に、相談しようかなって……思ったの。駄目だよね、こんなんじゃ」
話し終え、響子に上目遣いで視線をやる。
響子は、なんだそんなことかとでも言わんばかりに、まるで当たり前のことを語るような調子でこう言った。
「できるさ、君なら」
「できるかな……」
「ああ、できる。賭けてもいい」
「根拠は……」
響子があまりにも自信を持って言うものだから、柄にもなくそんなことを訊いてしまう。が、響子はそんなこと意に介さず、あっさりと答える。
「私の勘だ」
およそ根拠とは言い難いものを持ちだしたので、翔子は少しだけ眉をひそめた。それを見て取ってか、取り繕うように響子は言う。
「昔読んだ本に書いてあってね、私は、よっぽど自信のある時にしか賭けてもいいとは言わないんだ。前に使ったのは、多分十年以上昔のことかな」
その本なら、翔子も読んだことがあるような気がする。自信はないから、賭けてもいいとは言わないが。
「まあ、そうだな……強いて挙げるなら、これまでずっと翔子君を見てきたから、かな……」
「ま、またいきなりそんなこと言う……」
ずっと見ていただなんて言われると、なんだか恥ずかしくなってしまう。確かに響子にはこの二ヶ月ぐらいの間にいろいろ見られてしまったが……それが果たして根拠足りえるのだろうか。
「ずっと見てたから、わかる。君なら久雄だってなんだって、やれるさ」
裏付けも根拠もないが、その言葉は自信に満ち溢れていた。
こうも自信たっぷりに言われると、思わず信用してしまう。
だが、問題はそれだけではない。
「でも、それでいいのかな……正しいの、かな……」
自分のしていることは、果たして本当に正しいことなのか。久雄の行動は、間違っているのか。
しかしそれに関しても、響子が深く考える様子はなかった。
「そんなこと、関係ないさ」
立ち上がり、翔子の隣の椅子に座る。
「人の――いや、生物の成すことに正しいも間違いもない。あるのは、結果として起きた事実だけだ」
言いながら、響子は身を乗り出す。急に鼻の先が触れそうなほど顔が近づいて、翔子は少しだけ身を引いてしまった。
その反応を見た響子はフッと笑い、もっと顔を寄る。唇と唇が、触れた。唇の柔らかさが、翔子の思考を溶かす。
たっぷり一秒そうしていたところで、翔子は正気に戻った。
「な――ななななにやってんの!?」
グイッと身を引き思い切り取り乱していると、響子はいたずらっぽく笑う。
「今のくちづけは、間違っていたかな?」
ちょっとどう答えればいいのかわからない。
「ま、間違いとか、そんなんじゃなくて……こ、こういう場でするのは、どうかなっていうか……」
「どこならいいのかな?」
「うっ……」
なんだか追い詰められた気がする。
「うー……」
たじたじになった翔子を見て、響子は腹を抱えて笑う。ムッとなった翔子を放置して散々笑った後、絞り出すように言った。
「……君のそういうところ好きだよ」
「誤魔化さないでよ」
「ああ、そうだった。まあ……そうだな、君はどんな未来になるのが正しいと思う?」
「正しい未来?」
「そう。理想の世界か、それとも今とあまり変わらない世界か、それとも……今より酷い世界か」
正しい未来。
響子に言われるがままにいろいろと考え、一つの問に辿り着く。
そもそも、正しいとはどういう意味か。
理想の意味での正しさか、現状維持のことか、あるいは、今現在から発展しうる現実的な――最悪の可能性か。
「わからない、かなあ」
「だろうよ。私だってわからん」
響子は瞑目し、腕を組む。
「一口に正しいと言っても、その基準は曖昧でわからない。科学的観点から見て正しい、人道的に正しい、生物的に正しい……どれも間違ってはいないだろう」
「うん……そうだね」
「人道的な正しさだって、誰を尊重するかで違う。友人か、弱者か、家族か、隣人か。まあ、私からすれば、友人や家族を見捨てて浮浪者に手を差し伸べるような人間は信用できないがな。ただ、そうでない人も居るだろう」
一度閉じた瞳を、再び開ける。翔子に向けられた視線は、確かに問いかけていた。
「私とその人、どちらが正しい?」
翔子の感性で同意できるのは、響子の意見だ。だが、そうでない人が間違っているとは思えない。
「……どっちも、間違ってはいない……かな」
「そう。みんなちがって、みんないい……というやつだ。どんな感じ方にも間違いなんてない。なら、正しさなんて無いのと同じだろう」
「確かに……そうなのかも……」
翔子が同意しかけたところで、水を指すように響子が言葉を挟む。
「でも実際そうは行かないだろ。世の中には、腸が煮えくり返るほどむかっ腹が立つような、存在するのも許せないような奴だって居る。そいつにもいいところはあるのかもしれないが、そんなものは関係ない」
組んでいた腕を解いて、右手の人差指を立てる。
「だから重要なのは、自分がどうしたいかと、事実だ」
「なんとなく、わかるような……わからないような」
「何が正しいかわからないなら、自分の好きな様にやるしか無い。だがそれだけじゃ都合の悪いこともある。例えば、いきなり誰かを殴ったら、その誰かは怒るだろう。それが事実だ。だから事実を見て吟味した上で、どうしたいか考える」
「でも、その予想した現実が間違ってたら……」
翔子がポツリと言うと、響子は 「いいところに気づいた」 と一言置いてから、続けた。
「それはもう自分を信じるしかない。未来はどうなるかわからない。自分の経験や、他人の発言……材料はいくらでもあるだろう。その中から好きなモノを選べ」
それから一呼吸置き、優しい声音で締めた
「君の信じたもの、それだけが真実だ。……前にも言ったことだがね」
※
「遅くなっちゃったね、ごめん。夕飯はご馳走するよ」
始まったのが十七時過ぎだったので、相談と雑談を終えた頃には既に十八時を過ぎていた。
「ああ、ありがとう……ところで、今度は私から頼みがあるんだが……」
珍しく殊勝な響子に、翔子は疑問符を浮かべる。
「何? どうしたの?」
「しばらくここに泊めてくれないかな……。キャサリンが帰省中で家に誰も居ないんだ。食費は、出すから……」
「いいよ」
もしかしたら彼女は寂しがりやなところがあるのかもしれないな――などと思いつつ、二つ返事で承諾した。
「食費もいらない……いややっぱり貰う」
続けてカッコつけようと思ったが、バイト先のトイレが壊れたせいで少し時給が下がったのを思い出してやめた。
夕食はご馳走すると言ったが、どうにもご馳走とは言い難いラインナップになりそうだ。
冷蔵庫の中身を見て、翔子は溜息を吐いた。
その溜息を聞きつけてか、響子が冷蔵庫を覗きこむ。
「ゴミ箱かな?」
とても他人の家の冷蔵庫の評価とは思えない散々な言いようだが、的確である。
野菜の切れ端と、弁当についてくるような調味料。それと、中途半端に残った具材が少々。
お百姓さんには悪いが、恐らくこのラインナップをゴミ箱に放り込む人間は一定数居るだろう。
そう言えば、最近はインスタント食品プラスアルファで済ませていた。中途半端に具材が残っているのは、そのためだ。
これではまともな料理ができない。だが、今から買い物に行くような時間でもなかった。
「……インスタントで、いいかなあ」
自分でもあまりに情けなさすぎて涙が出そうだ。大見得きってこれなので、面目ロードローラーである。
「いいよ。泊めてくれるだけでありがたいんだから、気にしないでくれ」
苦笑しつつ頷く響子。彼女に対しては、こんなことばかりだ。
「カップ麺なら沢山あるから、好きなの選んで」
せめてこれぐらいは大盤振る舞いできないと立場がない。戸棚をガバっと開き、中身を見せる。
……こちらも思ったより少なかった。まあ、選ぶ余地はあるのでいいだろう。
※
「お風呂借りるよ」
「はーい」
この前響子とキャサリンが泊まった時は入浴中に侵入されたが、今回は何も起こらなかった。
彼女らといい清香といい、なぜ翔子の周囲の女性は翔子と一緒に入浴したがるのだろうか。
冗談交じりに 「女心はわからない……」 などと呟いてみたが、虚しくなったので再び呟くことはなかった。
押し入れから出てきたミケをゴロゴロして遊びつつ、響子の入浴が終わるのを待つ。着替えについては、一度響子が帰宅して持ってきているので問題ない。
しばらくミケで遊んでいると、バスローブに身を包んだ響子が風呂から出てきた。彼女は風呂が短いタイプだと思っていたが、思ったよりも時間がかかっている。意外な側面だ。
響子が出てきたことで、ミケは再び押入れに帰ってしまった。それを見て苦笑しつつ、響子は翔子の隣に腰を下ろしてあぐらをかく。
「こうして二人になる機会はなかなかないね」
確かに、響子と二人きりになることは少ない。基本的にキャサリンが一緒だし、そうでなくともインセクサイドの社員が居たりする。
こうして家に誘う機会もなかなかないしで、こういった二人の時間は貴重だ。
(二人の時間ってなんだかいかがわしい響き……)
自分で考えて赤くなる。頬の染まりを、響子は見逃してくれなかった。
「おや、翔子君。なんで赤くなっているのかな?」
目を細め、したり顔で、追い詰めるような声音を放つ。
「い、いや、別に……お風呂入ったからかな……」
顔を寄せてくる響子から少し離れて、視線を逸らす。この空気はマズイ。
視線を戻す代わりに話を逸らすべく、無理矢理に違う話題を投げつける。
「そういえば! ウチは布団が一枚しかないから、響子が使っていいよ! 私は床で寝るから!」
前に響子達が泊まった時には、布団が布団としての役割を果たしていなかった。今回は、清香を泊めた時と同じように、翔子は床で寝るつもりだ。
が、響子は何言ってんだこいつとでも言いたげに翔子を見ると、さもあたりまえのことのように言った。
「? 私と翔子君で同じ布団を使うんだろう?」
「え!」
「いいじゃないか。知らない仲じゃないんだから」
その "知らない" は何を意味するのだろうか。
気がついたら響子がバスローブ半脱ぎだし、その下何も着てないし、軽く押し倒されかけてるし。




