*33 ショッキング・ピンク
新たな人類の可能性を見た、翌日。
弥十郎が使えなくなったので代わりに手配しておいた新しい右腕が、ようやく着任した。
会津 冴月――会津爽香の兄だ。
爽香はトラブルメーカーのきらいがあるが、冴月はとてもできた兄だった。早くに死んだ両親に代わり、昔から彼女の世話をしていたらしい。
そんな彼は、妹と違って科学者の類ではなかった。
爽香は、性格に難ありとは言えその実力は本物だ。業界でも指折りの人間と言ってもいい。
対する冴月は、違う意味で有能である。彼は、任された仕事を完璧にこなすのだ。
尤も、それは常識の範囲内での話で、生身で宇宙に行けだとか、一人で新薬を開発しろだとか、そのような無茶な仕事の場合は 「できない」 と断る。だが、常識の範囲内であれば、彼は掃除から調査までそつなくこなした。
性質上、上に立つのには向かないが……しかし、下で働かせる分には最高の人材だ。彼なら、弥十郎の抜けた穴を補って余りある働きをしてくれるだろう。
「よろしくお願いします」
柔和な笑みをたたえる冴月に、久雄は最初の指示を出す。
「君の最初の仕事は――」
「わかりました」
冴月は不平も不満も毛ほども見せず、部屋を出た。
※
トランセンデンター一号の殺害は中止。
久雄の新しい部下らしい男から伝えられた事実は、八重子の脳天を貫いた。
「そんな、どうして……」
「わからないが、社長にはお考えがあるんだろう」
フランクな口調で話す彼は、父――弥十郎の代わりに配備されたという男だ。ネームプレートには、『会津 冴月』 と書かれている。見た目からすると、三十手前といったところか。ニメートル近い長身を持つ久雄と比べれば小さいが、しかし痩せ型の体躯は百七十センチは超えているように思える。瞳はメガネのレンズに反射する光に遮られ、よく見えない。
「今は、社長の判断を信じるといい」
社長、というのは久雄のことだ。勧華製薬時代の名残だろうか、勧華製薬から完全に切り離されたこの施設内でも彼を社長と呼ぶ人間は、意外と多い。
「そんな、でも――」
父の仇――と口に出しそうになったが、押し留めた。極めて個人的な理由で戦っていることが周囲に知れたら、不利になるかもしれない。尤も、苗字で察する人間も居そうなものだが……しかし、口にするのとしないのとでは大きな違いを持つだろう。
だが、そんな八重子の目論見は看破済みとでも言うように、男――冴月は優しい、しかし熱のない、まるで誰か他人の言葉をスピーカーが発しているような声で言った。
「お父さんのことは残念だろうが、君も今は新しい生き方を探るといい」
それは受け取り方によっては、本当に親切で、優しい言葉だ。
その熱のない声音から、本気で言っていないようにもとれる。
だが、八重子からすれば、身内を踏みにじられるのにも等しい言葉だった。
「……っ、何がっ、何がわかるっ! あんたに、私の決意の何がっ」
いっそのこと、トランセンデンターの力でこいつを殺してやろうか――そんなことも考えた。だが、冴月の次の言葉で、怒りがスーっと退いていく。
「俺は "今は" と言っているんだ」
今は。
先ほどまでの優しげな声色から一変し、威圧的な、しかし熱のこもった、冴月という人間が初めて本気で言ったように思える言葉。
「俺はもう戻る。君もよく考えて行動することだ」
八重子が呆然としていると、冴月は家を出て行った。
なんなんだ、あれは。
得体の知れない不気味さに、八重子は身震いする。
敵……というわけではない。だが、味方なのだろうか? どうにも、信頼の置ける相手ではないように思える。
……この不安感は、よくない。
気分転換に、父に会いに行くことにしよう。
抜け殻となった父の肉体は、久雄の研究施設で管理されている。
八重子は自転車で独自のルートを通り、施設へと向かった。
父は、地下室の一角に安置されている。
外界から隔離されたその空間は音もなく……訂正。うるさい。
ガラスを叩くような音が、部屋に響く。一体何が起きているのだろうか。部屋の主である爽香に訊ねた。
「何が起きたんです?」
「ああ、頭を再起動してやったんだ」
わけがわからない。
それを見て取ってか、爽香は背後を指し示す。そこには、ガラス張りの壁と、その中で壁を叩く――父の姿があった。衣服をは身につけておらず、頭には謎の輪っかがはめられている。ガラスの向こうには、ベッドやダイニングテーブルなど、生活に必要な物が用意されていた。
「なっ!?」
「再起動したら動き出した。でも記憶や人格は戻らなかったから、猿と大して変わらない。起きて食べて暴れてナニして、寝る。それだけだよ」
「あ、あなた、お父さんに何を……」
「頼まれたことは調べたから、あたしがやりたいようにやってるんだよ」
短い黒髪を揺らし、爽香はフッと笑った。メガネのレンズに光が反射するさまは、見覚えがある。……冴月だ。
「そんな、動物じゃないんですよ!?」
非難すると、爽香は少し苛立ちを見せる。
「いいだろ、動くようにしたんだから」
光の反射が途切れ、鬱陶しげに細められた瞳が八重子を見据えた。
「だいたい親父なんてウザいだけだろ……それともお前、まさかファザコンか?」
今度は嘲るような視線を向けられる。コロコロと変わる表情に、八重子は苛立ちを覚えた。
「……っ、なんだっていいじゃないですか……!」
八重子が一歩踏み込むと、爽香はビクッと一瞬だが体を震わせた。怯んだ瞳は、すぐに光の反射で見えなくなる。
「あーわかったわかった。これはやめるよ」
爽香は、どこかからリモコンを取り出しポチッとボタンを押す。すると、父の動きが止まった。
「思考をジャックした。こちらのコントロールで好きな様に動かせる。まあ、電波が届くのはあの中だけだが」
爽香はそう言うと、自身も謎の輪っかをかぶる。
「思考のデジタル変換に手間取ったが、もう完璧だ」
彼女がそう言うと、突然弥十郎が逆立ちを始めた。
「!?」
「お前もやってみるか?」
戸惑う八重子に、爽香は謎の輪っかを差し出してくる。八重子はそれを受け取り、恐る恐る頭にかぶった。
瞬間、脳に信号が走る。記憶の改竄――ではない。知らないことを知っている。この輪っかはコントローラー。使い方は――。
八重子は念じた。
弥十郎が逆立ちをやめ、ガラス越しに八重子を見据える。
「八重子……すまなかった。お前の気持ちをわかってやれなくて……」
それは心から望んでいた言葉。半ば諦めていた、夢の様な言葉。
「お父さん……」
「うっわ気持ち悪……」
爽香の辟易したような声で、我に返った。
これは幻想だ。
八重子の願いが、そのまま、弥十郎を動かした。言わば、自作自演のようなもの。
願いなど、そう簡単に叶うはずがないのだ。
ドン引きしていた爽香だが、やがて咳払いしてからフランクに言う。
「まあいいや。これならいいだろ? 自由に使わせてやるよ。あたしはデータだけ使わせてもらう」
それは、まあまあ魅力的な提案だった。
父の意識が戻るわけではない。だが、父は思い通りに動かせる。意識が違うならそれはもう父ではないかもしれないが、だが、身体は父だ。
父をよくわからないデータ収集に使われる……その事実に抵抗はあったが、しかし、魅力に抗えるほどのものではなかった。
「……わかりました」
承諾の言葉と共に、八重子は頷く。すると、爽香はにまぁっと嫌な笑みを浮かべた。
「交渉成立だ。部屋の鍵をやる。この部屋も自由に使っていい」
放り投げられたキーホルダーには、鍵が二つついている。ホルダーに書かれている内容から察するに、この部屋の鍵と、ガラスの向こうへ行くための鍵らしい。
よく見れば、ガラスの向こうへ行くためであろうドアがすぐ近くにあった。
爽香はノートパソコンを一台抱えて、部屋を出ようと立ち上がる。扉の手前で一度止まって、こちらに振り返り言った。
「あたしはもう出る。データはあたしのパソコンに自動で送られてくるから気にするな」
言うだけ言うと、彼女は返事も待たずに部屋を出る。ドアの閉まる音が、無言の空間に響いた。
「……」
八重子は、ガラス越しに、立ち尽くす父の姿を見る。
「お父さん……」
八重子の足は、自然とそこへ向かっていた。
※
「お父さん、具合はどう?」
「ああ、八重子のおかげでいい具合だ」
「そう、よかった。ご飯はどう? 美味しい?」
「ああ。八重子の味噌汁はいつも美味しいな。毎日飲みたい」
「もぅ~お父さんったら、毎日飲んでるでしょ?」
「それもそうだったな。ははは」
「うふふ」
「……そうやって笑うと、母さんによく似ているな」
「そ~ぉ?」
「ああ。綺麗だ……」
「お父さん……」
「……いかんいかん。若い頃を思い出してどうもな」
「もしお父さんがよければ、私……」
「八重子……」
※
口元に違和感がある。なにかベッタリとしたものが付着しているような感覚。気になって鏡で確認すると、口紅がズレていた。見た目にもあまりよろしくないので、後で直しておこう。
しばらく寝ていたからか、疲れはだいぶ抜けていた。八重子はベッドの縁から立ち上がり、ひどく緩んだ全身の筋肉を伸ばした。軽い運動をした後のような心地よい刺激が、全身を駆け巡る。
腰や腿はあれだけ動かしたので筋肉痛を覚悟していたのだが、筋肉痛特有の重さは残っていない。トランセンデンターの回復力が作用しているのだろうか。便利な身体だ。
ベッドに投げ出された下着を身に着け、夏物のブラウスに袖を通す。既に乾いた身体は、なんの抵抗もなく衣服を受け入れた。
頭からコントローラーを外し、ベッドサイドのチェストに置く。
いい夢を見させてもらった。また来てやろう。データを取られるという事実には敗北感を覚えつつも、快感には抗えない。ボーっと、そんなことを考えた。
寝起きだからか、それとも慣れないことをしたからか、意識には靄がかかっている。冷静になってどう思うかは、未だわからない。
しかしこの一時の快楽は、麻薬にも似た――伝聞だけで実際に味わったことはないが――感覚だ。恐らく、冷静になっても逃れられないだろう。
現に、そこまで思考が至るほど冷静になっても、ここから離れるのが名残惜しいぐらいだ。
次に来るのはいつになるか――一年後、一ヶ月後、一週間後……いや、恐らく、明日だろう。
自分の心の弱さを情けなく思い、八重子はベッドに寝転がり溜息を吐いた。
施設から出る前に腕時計を確認すると、時刻は二十時を過ぎていた。もう遅い、今日はここに泊まろう……そんなことを考えながら、地下室へと戻る。
戻った先には、変わらず父が居た。
――もう一度、もう一度だけ。もう一度だけ、あの快楽に溺れたい。
不意に生じた誘惑。一度だけならと、八重子は本能に従ってしまった。
無論、抜け出せるはずもなく、気づけば日付が変わっていて、次に時計を見た時には既に日が昇っている時間だった。
だが、本当に困ったのはその事実ではない。
なんとも愚かしいことに、自分は、それだけでは飽きたらず、まだ懲りることもなく、この泥沼に足の先から頭の先まで浸かろうとしている。
どれだけ乱れても、どれだけ受け入れても、まだ満たされないから。
どこまでも、深く深く潜り続ける。
何を入れても満たされない器に、必死に泥を注ぐように。
※
ある時を境に、痛みを覚えるようになった。
器は未だ満たされていない。
ただ潜れば潜るほど、さながら水圧で耳が痛くなるように、心が締め付けられる。
父の口からこぼれ落ちるのは、八重子が思い描いた通りの台詞。
その一挙一投足が、八重子の思い描く弥十郎そのものの姿。
その事実が、心を締め付ける。
確かに、甘い言葉を掛けられれば理性は溶ける。その立派な腕で抱かれれば悦びを感じる。熱を受ければ、芯から温まる。
だが、決して満たされることはない。
願いを芯に、妄想で肉付けされた、仮初めの知性。八重子というレンズから発散されたイメージが、装置によって結ばれた虚像。
限りなく理想に近いが、決して本物にはなれない。
所詮は、偽物。
どれだけ模倣しても、どれだけ誤魔化しても、決して心を満たすことはできない。
溺れれば溺れるほど、その違いは浮き彫りになる。
頬に付着した白濁を指先に集め、舌で舐めとる。ペーハー八~十一の、弱アルカリ性に分類されるタンパク質は、独特の粘り気で喉に絡みつき、その苦味を撒き散らしながら食道へと流し込まれる。
モノは本物なのだ。
だが。
「八重子……もう一度、しようか」
「うん……」
中身は、偽物。
既に虜となった肉体は、乾ききらずにベッタリとした肌と肌を重ねあわせ、延々と求め続ける。熱に浮かされ、どこまでも堕ちていく。
それでも、心は冷えていた。
やがて、肉体的疲労が限界を迎える。
息を切らし、この数日で隅々まで使い込んだ乳房を上下させながら、天井を見上げる。
痛みは、怒りへと昇華されていた。
なぜ自分がこんな痛みを受け続けなければならないのか。
それは他ならぬ、父を殺した存在のせいだ。
絶対に、許さない。
「もう出るのか」
「うん。明日か、明後日か……もっと先かも。気が向いたら、また来るね」
「ああ。待っている」
空虚な言葉をニ、三交わしてから、八重子はコントローラーを外す。
もう二度と来ることはない……わけではないだろう。しばらくしたら、また快楽を享受しに来る。何しろ、肉体は隅から隅まで魅了されているのだ。ズブズブに嵌り込んだ身体は、薬物中毒患者のように、未だ求め続けている。
だが。
もう我慢の限界だ。
自分が戦うのは、なんのためか。
身内を、想い人を駄目にした、憎き仇敵を始末するため。
トランセンデンター一号。
絶対に許さない。
確実に、この手で息の根を止めてやる。
そのために。それだけのために、八重子は戦うのだ。
トランセンデンター一号を葬り去っても父が生き還るわけではないが、もうそれしか方法はないのだ。
この深く激しい怒りを収めるには。
もう、こうするしかない。




