*22 後の祭り、始まる祭り
清香が帰ってから、ずっと押入れにこもっていたミケがひょっこりと顔を出した。
「お前は本当に他人に馴れないねー」
頭を撫でながら言うと、ミケはにゃおんと鳴く。因みに清香が居る間の餌やりは、餌皿と水皿を押入れに入れることで解決していた。
それにしても、ここまで馴れないとなると何か別の原因があるように思えてくる。翔子には懐いているので、人間そのものが駄目というのはあまり考えられないのだが……。
布団に背中をこすりつけるミケを眺め、記憶を回想する。
ミケを見つけたのは、とある雨の日のことだ。
それはまだ、翔子が会社勤めだった頃。アパートの近くで、猫の入ったダンボールが捨ててあった。書いてあるのは 『拾ってください』 というベッタベタな文句。
雨に濡れた子猫は、寒さに震えていた。ダンボールが傘の圏内に入るまで近づくと、子猫はこちらを見てにゃあと鳴く。どういうわけか、翔子のことを警戒しているわけではないらしい。
しゃがみ込んで、観察する。どこか怪我をしているわけでも、衰弱しているわけでもない。多分、放置してもしばらくは生きているだろう。
だが、いずれは死んでしまうし、そうでなくても保健所に回収されてしまうかもしれない。
翔子の住んでいるアパートは、ペットの飼育が可能だ。事前に声をかけてくれとは言われたが、きっと即日対応もしてくれるだろう。
正直、迷った。
生活費には、結構な余裕がある。猫一匹飼うぐらいなら余裕だ。
しかし果たして、ここで拾っても最後まで育てることができるのだろうか? 飼い主として責任をとることができるのだろうか?
以前の飼い主のように、捨ててしまうのではないだろうか?
猫と見つめ合うこと、五分。
「あ~、もうっ!」
翔子は片手でダンボールを抱え、立ち上がった。スーツが汚れたが、致し方あるまい。捨てた奴が、悪いのだ。
この時は、まだ人に馴れていると思っていた。だが大家さんに声をかけに行くときついでに連れて行ったのだが、そこでやたらと大家さんを警戒していたのだ。大家さんは苦笑していたが、翔子は驚いていた。
一体なぜそこまで人を警戒するのか……という疑問は、前の飼い主に捨てられたから、で説明がつく。だが、なぜ翔子には懐いているのか?
数年経った今でも、わからなかった。
※
花火大会は楽しかったが、それだけではない。予想外の大きな収穫があった。
翔子が覚醒した弾道予測もそうだが、それ以外にももうひとつある。
月極 弥月の存在そのものだ。
彼女の射撃テクニックは、筆舌に尽くしがたい。花火大会の射的程度ではかれる器ではなかった。なんとかして機会を作り、彼女をスカウトしたい。
しかし問題はある。
彼女は未成年なので、迂闊に声をかけられないのだ。
多分、高校在学中で、一人暮らしもしていない。どんな形であれ、雇うとなれば両親の介入は避けられないだろう。こんな危険なことを、愛娘――それもまだ高校生だ――にやらせたい親など居ない。
それでも、弥月は是非ともヴィディスⅣのオペレーターとして欲しい人材だ。多少身体能力が足りなくても、それを補って余りあるまでのエイミング能力。美少女であることも、ポイントが高い。
あんな純真無垢な少女を危険な戦場に放り込むことに関して、罪悪感を感じないわけではなかった。だが、それでも、欲しい。
まあ、なにはともあれまずは本人の意思確認だ。
無理強いした戦いは、死に直結する。響子としても美少女をおめおめ犬死にさせるわけには行かないので、弥月が拒否するのであれば、素直に諦めるつもりだった。
だが、彼女が賛同してくれた場合は?
無論、計画の実行に移る。両親の説得は困難なので、どうにか両親の目を盗む方法を考えなければならない。シフトの少ないバイト形式……というのが、現状の有力候補だ。時給は三千五百円である。学生の小遣いには、過ぎた額だ。それを勝手に作った口座に振込み、彼女の成人式にでも通帳をプレゼントすればいいだろう。
一方、肝心のヴィディスⅣに関しては、既に最終段階に入っていた。
ベクターズの調査と言っても、後手に回ってしまった以上あまりできることはない。先日壊滅させた施設の廃墟を調べても、大したものは出てこなかった。結果として、ヴィディスⅣばかりが進む。
ベクターズとその背景については、もう受け身的な対応をせざるを得ないのだ。
だからこそ、ヴィディスⅣが欲しいというのもある。
迎え撃つしかないのなら、貧弱な装備で蹂躙されるよりも豪華な装備で叩き潰したい。
そのために他の計画も進めている。
ヴィディスⅢの改造案だ。
ヴィディスⅣはⅢの設計から、射撃型に向けた改造を施す他に、問題点をいくつか潰している。よって、基本スペックはⅢよりも一部高くなっているのだ。
その改良点をフィードバックし、ヴィディスⅢを改造する。本当はヴィディスⅤを作るのが一番いいのだが、これ以上予算が下りないので仕方がない。これでもかなり頑張ったのだ。
因みに、最も大きな変更点として装着方法の変更が挙げられる。
これまでは指定されたポイントの座標にダイレクトで転送する形式だったが、現在のバージョンでは違う。展開した本体がオペレーターの背後に現れ、包み込むように装着するのだ。この方法なら、型崩れはするが服と本体がめり込むことはない。欠点は、出現ポイントに障害物があるとめり込んでしまう点だ。一応ある程度の規模ならそれを避けるようプログラミングされているが、巨大なもので回避不可能と判断されればそもそも出現シークエンスが行われなくなる。
これは、キャサリンが持っていた脳が壊れたり親父を殺したり巨大化したりする漫画から着想を得たものだ。実物は背後に障害物があった場合は破壊するのだが、響子の技術力ではうまく再現できなかった。あと実際に破壊すると上に怒られる。
閑話休題。はてさて、どうやって弥月をスカウトしたものか。
そもそもの問題として、響子から弥月に直接連絡を取る手段がない。なら、翔子にスカウトを依頼して……いや待て、いたいけな少女を戦場に叩きこむという酷い仕事を頼んだら、彼女に嫌われてしまうのではないか?
というか、そもそも弥月をスカウトするという事実自体で嫌われそうな気もする。杞憂かもしれないが、でも気になる。
ここに来て、致命的な問題点が浮き彫りとなってしまった。
これは不味い。非常に不味い。
いや、弥月に断られたら頓挫するという時点でかなり無理のある話だっただが、それはそれ。実戦が断られても、時給据え置きでデータ取りに協力してもらうという手もある。彼女の技術を元に補正プログラムを組めば、そこそこ上手い程度でも動く的に当てられるようになるだろう。
だが、そもそも翔子に嫌われる可能性があるとなると……。
優しい優しい彼女のことだから、理由を話せばわかってくれるかもしれないが……案を話すだけでも嫌われてしまうかもしれない。
かと言って、彼女に秘密で進めるのは憚られるし、そもそも彼女の協力なしに実行するのは困難を極める。こちらから弥月に直接接触する手段がない以上、どうしてもコネクションである翔子を介する必要があった。
どうしたものか。
肘掛けに肘をつき、頭を抱える。前頭葉の辺りを人差し指でトントンと叩きながら、深々と溜息を吐いた。
悩んでいても仕方がないので、弾道予測の方に考えを切り替える。
翔子からの報告からして、これは夏祭りの際に急に覚醒した能力だ。なんの前触れもなくいきなり能力に目覚めるというのは考え難いので、恐らくはなにかしらのきっかけがあったのだと思われる。
彼女の能力を高めるきっかけ的な出来事があったとすれば――それは間違いなく、 "同類" であるトランセンデンターとの接触だろう。
トランセンデンターについては、未だに謎が多い。というか、ほとんどわかっていない。手がかりといえば、高い次元干渉能力と、久雄の言っていた 『人類の進化』 などという漠然とした単語ぐらいのもの。
それと翔子の異常な身体能力を鑑みるに、トランセンデンターとは、恐らく人類の 『意図的な進化』 を可能にしたものだ。
そもそも進化とは、世間一般でイメージされているような "意図的な変化" ではなく、 "偶発した変化が偶然その環境に適応し、生き残ること" である。つまりゾウの鼻が長いのはより鼻の長いゾウが生き残ったからであり、キリンの首が長いのもより首の長いキリンが生き残ったからなのだ。多分、象牙の縮小もそのうち進化として扱われるようになる。
しかし、もしも意図的にその形態を変化させられたとしたら……?
ゾウが意図的に鼻を伸ばし、キリンが意図的に首を伸ばした場合、それは大きなアドバンテージとなる。
気の遠くなるような偶然の変化と世代交代を重ねてやっとモノにした特性を、単一個体で手に入れるのだ。それも、望んで。
弾道予測の原因について、実はもう一つ心当たりがある。先日の施設襲撃の帰りの車で翔子は爆睡していたのだが、その際に 『弾がどこに飛ぶかわかればいいのに……』 と寝言を漏らしていた。多分、無意識化で彼女はそれを望んでいたのだろう。そこに同類との接触による本能の焦りが合わさって、今回の弾道予測に覚醒した……というのが響子の考察である。
尤も、単一個体で行われているという点で言えば、それは進化とは大きく異なる概念なのかもしれない。そもそも 『意図的な進化』 という言葉自体が 『働くニート』 のようなある種の矛盾を孕んだものであり、単語のチョイスが不適切な気がする。
それでも、久雄がわざわざ "進化" という単語を用いた事実は変わりなく、ならその開発思想もそれに準じた内容になるだろう。久雄がなぜ "進化" という単語を使ったのかについては不明である。わざとなのか、単に進化の概念を理解していなかっただけなのかは、わからない。
まあ、意味さえ通じれば単語の選択などどうでもいい。
重要なのは、その内容だ。意図的に形態を変化させることができるのなら、今後翔子の身体には何が起こるのか。
トランセンデンターと接触したことで、進化の速度が段違いになった。なら今後、翔子はさらなる進化を遂げていくのだろう。彼女がどんな進化を望むのかは不明だが、彼女の性格的に安易なことを望んでとんでもないことになりそうだ。悪い結果には、ならないだろうが……。
それと、もう一つ。
同種であるトランセンデンターとの接触により、翔子の進化が促進されているのなら。
久雄や、もう一人のトランセンデンターの進化も、促進されているのではないか?
翔子の報告では、トランセンデンターは二体とも始末したらしい。だが、その後の調査では死体が発見されなかった。ベクターズと同様に、蒸発した可能性もあるが……万が一の可能性も、ある。
もしそうだとすれば、トランセンデンターに詳しい久雄側は、翔子を上回る進化をしてくるかもしれない。
今のところ推測の域を出ない話だが、実際に起った場合のことを考えると、頭の片隅に留めておく価値のある話だ。
事態は、静観する他ないが決して油断できる状況ではない。
とりあえず翔子には 『意図的な進化』 についていずれ話しておくとして、こちらはヴィディスの件を早急に進める必要がある。
「弥月君、どうしよっかなー」
いつの間にか机の上に載せていた足をおろし、響子は溜息を吐いた。
※
CODE-T2MのMとは、MildとMonsterのダブルミーニングである。
CODE-T2との違いは、文字通り、効果をマイルドにして、よりモンスターとして制御しやすくしたことだ。CODE-T2をそのまま投与した場合、こちらの指示を一切受け付けなくなる。躾ができないので、どうにも扱いづらいのだ。
そしてこれは、爽香の本来の目的とも合致する。
爽香の目的は、人類の進化などというわけのわからん野望ではない。もっと簡潔で、わかりやすいものだ。
精神の物理的支配による、世界の征服。要するに、洗脳による世界征服だ。
人間に限らず、脳というものは単純な物質の集まりでしかない。精神も、心も、全ては脳内の物質が外界からの刺激に対して物理的に引き起こしたもので、その点では現象と言えないこともないだろう。
だから、その仕組を完全に解析すれば、人間だって操ることができる。それも、マインドコントロールや催眠術などというチャチなものではなく、本気で相手の思考を奪う、本格的な洗脳だ。
爽香は以前から、その研究を秘密裏に行ってきた。超音波強化も、その研究の一環である。そしてこの隠れ家に来てからの数日で、やっと形にすることができた。
形になったとはいえ、まだ人間を完全に操るまでには至らない。相手の思考を奪うことはできるが、操るとなると怪物 (昨日、機密無線をほんの少しだけ傍受した結果、ベクターズと呼ばれていることがわかった。怪物ではわかりにくいので、こちらも今後はそれで統一する) 程度の知能を持った相手が限度だ。
ただ、所詮ベクターズとは言え、完全に制御することができるなら、使いどころはいくらでもある。これまでは臨機応変な対応ができないがために、トランセンデンターに大きく後れを取っていた。人と野獣とでは、対応力に雲泥の差があるからだ。しかしその頭脳が人であるなら、対応力の面では互角――複数体の連携を完璧に取れることを考えると、こちらが有利かもしれない。個体の能力差を、数で埋める。そうすることで、トランセンデンターをも排除できる可能性があった。
この隠れ家――と言うには過ぎた施設である――には、CODE-T2Mを生産できるシステムが、小規模ながらも存在する。投与対象はその辺の森で狩ってくればいいので、ベクターズはいくらでも作れる。洗脳装置も、コストを削ぎ落とすことでそれなりに量産できる代物になりそうだった。
問題となるのは、どうやって相手に悟られずにベクターズを放つかだ。
トランセデンターは、ベクターズを転送した際の次元干渉で、こちらの施設を発見したと予測される。となると、転送装置を使うのはこちらの居場所を相手にさらしているということになる。
しかしトランセンデンターを野放しにしておくのも、今後転送装置が一切使えなくなるという点で非常に厄介だ。アレが使えないと、物流も移動も不便極まりない。せめて次元ゲートが開ければ、他は妥協できるのだが。
ベクターズを送り込むにあたって、現在最も有効な手段が、陸路だ。
輸送用車両などはないので、作ったベクターズをてくてく現地まで歩いて向かわせる。適当に人の多い区画にぶち込めば、トランセンデンターは現れるだろう。完璧に操ることができるので、野獣を扱うよりは容易い。
だが問題は、途中で発見されないかどうかだ。図体のでかいベクターズに、奇襲は向かない。夜中暴れさせるのは地味なので、できれば昼間がいいのだが……昼間なら、容易に発見されてしまうのではないか?
そのことについて、爽香は数時間考えていた。
机の上に足を載せて、腕を頭の後ろで組み、背もたれに限界まで体重を預ける。とても真面目とは言えないその格好で、爽香は大真面目に思考する。
(身体の大きなベクターズを直接動かすと、クッソ目立つ……なら、小さなベクターズを……いや、それじゃ能力が……)
そこで、あることを思いついた。
「そうか、ならその場で作ればいいんだ」
理屈は簡単だ。ベクターズの元になるのはCODE-T2Mと、その辺に居る生物。そして、洗脳装置だ。この内、CODE-T2Mと洗脳装置はコンパクトに収まる。そして生物は、種類にこだわらなければどこにでも居る。
CODE-T2Mを薬品輸送用の巨大蚊に運ばせて、洗脳装置もラジコンヘリ辺りを作って運ぶ。適当な場所で原生生物にCODE-T2Mを投与し、洗脳装置を植え付ければ――忠実なる下僕の完成だ。
洗脳装置は余分な機能さえオミットすれば一円玉以下の大きさにできる。小型のラジコンヘリと蚊なら、隠れるのは容易いだろう。
これで後は、実際に洗脳装置を完成させ、CODE-T2Mと輸送用の蚊を量産し、ラジコンヘリを開発するだけだ。
邪魔なトランセンデンターを排除したら、その後は、とりあえず研究に専念。人間が操れるようになったら、各国の首脳陣をドンドン洗脳して傀儡として扱う。――まあ、すぐに終わるだろう。
これで勝ちは確定だ。
爽香はほくそ笑む。あの屈辱は、今でも忘れていない。
世界は、自分達がガキだの幼稚だのと蔑んだ相手に、蔑んだ理論で支配されるのだ。
※
数日間構ってやれなかった分、今日は丸一日ミケと遊ぶ。まあ、途中で夕食の食材を買い足しに行かないといけないのだが。
新しく買ってきてやった猫じゃらし (税込百十五円) を目の前で振ってやると、それはもうじゃれるじゃれる。
普段動かない餌ばかりで鬱憤が溜まっているのか、無機物の猫じゃらしに向かって獣の目を向けていた。
高く上げれば翔子を踏み台に飛び跳ねるし、動きを止めれば猫パンチで様子を見る。可愛い。
が、五分ぐらい遊ぶと飽きたのか、猫じゃらしに興味を示さなくなった。
布団の上に寝転がり、 「撫でろ」 と言わんばかりに腹を見せてくる。
「ふ、ふてぶてしい……」
一瞬腹を撫でてやろうかと思ったが、少し前清香に 「猫はお腹よりも他の場所撫でたほうがいいんだって」 と言われたのを思い出す。理由は確か、腹には内臓があるから云々だったはずだ。
まあ、今まで腹を触って嫌がられたことはないので、多分大丈夫だとは思うが……しかしもっといいなでなでポイントがあるのなら、そこを撫でるべきだろう。
清香曰く、上半身を重点的に撫でるのがいいとか。因みに清香は頭を撫でると喜ぶ。賢治にも教えたので、きっといろいろなところで活用されているだろう。
前足の付け根辺りを撫でると、ミケは気持ちよさそうにぐでんとなる。可愛い。
ミケの毛はとてもやわらかいので、撫でているこちらも気持ちよくなる。精神的にも肉体的にも癒やされ、眠気が襲ってきた。
よく見ると、ミケもくぁとあくびをしている。お昼はさっき食べたので、お昼寝タイムでもいいだろう。
布団の上でぐでぐでしながら、ミケを撫でたり転がしたりする。徐々にまぶたが重くなり、意識が朦朧としてきた。
「……おやすみ」
「…………んなぁ」
何か大事なことを忘れている気がするのだが、まあいいだろう。きっとなんとかなる。
呼応するように聞こえた声を最後に、翔子の意識は静寂に落ちた。
目が覚めたのは、数時間後のことだ。
既に日が傾いていて、もうそろそろ夕飯の支度がしたくなる。
立ち上がり、体中の筋肉を伸ばす。足に何かやわらかいものが当たったので目をやると、足元でミケも伸びをしていた。尻尾の先が、足首を撫でる。
その後足の近くをぐるぐる回り始めたので、翔子は落ちていた猫じゃらしを放り投げた。しゃがんで目線を合わせてから、布団の端にボテッと落ちた猫じゃらしを指さし、言う。
「ほら、私はご飯作ってくるから、あんたは一人で遊んでな」
ミケは猫じゃらしを無視して、翔子の足に座った。
いい度胸だ。
ミケを持ち上げ、左右に揺する。
「遊んでないと~ご飯にしちゃうぞ~」
言いながらぶーらぶらと左右に振り、そのまま台所まで歩く。ノリと勢いだけでこんなことをしてから、毛が抜けるという事実に気づいた。
(後で掃除しないと……)
別に猫の毛を食べても翔子は死なないのだが、汚い台所というのはいざという時に不便だ。たとえば、突然清香が訪ねてきた時など。
ミケをリビングの床に置くと、とててててっと寝室に向かった。これでなんとか夕食の準備ができる。
さて今日は何を食べようか。鼻歌交じりに冷蔵庫を開ける。
何もなかった。
いや、何もない、というのには語弊がある。本当に何も入っていない空っぽの冷蔵庫というのは、なかなかない。今回も、小袋の醤油やソースがポケットに入っていた。
野菜の切れ端ぐらいはあると思ったのだが、何もなかったようだ。
「買い物、忘れてた……」
夕食の買い出しに行く予定だったが、ミケと寝ていたせいですっかり忘れていた。しかしミケを責めるわけにも行かない。
さて困った。
食材がなければ買い物に行けばいいのだが、既に日が傾いていて、買い物に行くのは億劫に感じる時間帯だ。買いに行くだけならいいが、それから調理という手間があることを考えると……やはり、買い物は避けたい。半額弁当も、売り切れているだろう。
なら今あるもので食いつなぐしかないのだが、ソースと醤油ではよくわからないソースしか作れない。
この際、お菓子でもいい。戸棚の奥に、射的で取ったお菓子があったはずだ。
確か、二つ――あると思ったのだが、戸棚の奥には一箱しかなかった。
そういえば、片方は清香にあげていたのだった。己の軽率さを後悔する。
流石にお菓子一箱だけなら……食べないほうがいい気がした。別に一食抜かしても死ぬわけではないし、別にいいような気がする。
「……あ」
気がした、が、一つ思い出した。
入口近くの小さな押入れ。その床に、安置された段ボール箱。
安売りされていた時に買った、カップ麺だ。
山積みしていた分が無くなったので、忘れていたのだが……なんとか、食い扶持を確保することができた。
多分、半年かそれ以上前に買った代物だ。所詮はカップ麺なので、腐っていたりカビていたりはしないだろう。大丈夫大丈夫いけるいける。
カップ麺があれば、とりあえず今日は大丈夫だ。ただし連続で食べると飽きるので、明日は今度こそ買い物に行かなければならない。
手前の一個を取り出し、リビングに持っていく。
そして蓋を開けてから、気づいた。
「しまった。お湯が沸いてない」
お湯がなければ、美味しいカップラーメンを食べることはできない。いや、一度だけお湯なしで食べたことがあるのだが……粉が凄かった。掃除が大変なので、もう沢山だ。
「この際シャワーでいいかなあ」
今からお湯を沸かすのは面倒なので、シャワーのお湯でもいいのではないか。不意にそんなことを思いついた。
が、シャワーのお湯の温度を思い出す。ぬるい。
結局、お湯を沸かすことにした。
やかんに水を注ぎ、コンロに掛ける。強火で、しばらく待機。
笛吹きケトルなのだが、笛部分が壊れていてうまく音が鳴らない。だいたいこれぐらい、というのは体感で覚えているので、支障はなかった。
その間、ミケのご飯を用意する。
キャットフードと、水。ミケのご飯は、楽でいい。
ミケの食事を眺めつつ、そろそろお湯が沸く頃だ。
沸いたお湯をカップ麺に入れて、残りはポットに入れておく。明日の朝のカップ麺用だ。
お湯を入れて、三分。
(待ってばっかりだな……)
じっと眺めているだけだと、時間はゆっくりと流れる。まだかなまだかなと時計を見るも、残り一分三十二秒。
「いいや、食べちゃえ」
待ちきれなくなって、翔子は蓋を剥がして箸を入れる。
硬めのカップ麺も、悪くはなかった。