*1 二十九歳、ヒーローです
「もう来なくていいよ」
聞き慣れたセリフに、翔子はまたかと肩を落とした。
コンビニバイトを週一で抜け出す生活を初めて、早二ヶ月。まあ、長く続いた方ではある。酷い時には最初抜け出して戻ってきたらクビになっていた。
これで何件目だろうか。もう数えることすら億劫だ。
まあ、仕方がない。普通に考えれば、抜け出す自分が悪いのだから。また履歴書を書いて、一からやり直そう。幸い、貯蓄はあった。
翔子は更衣室に向かい、帰り支度を整える。最初の説明で、辞めるときには制服をそのままロッカーに入れておいてくれと言われた。それに倣い、制服はきちんと脱いでハンガーに掛ける。
もう一方のハンガーに掛かっているのは、赤みを帯びた黒をベースにしたライダースーツだ。翔子の私物で、まだ会社で働いていた頃に買ったものだった。ロクな装飾もない安物の下着の上に、それを着る。ボディラインが浮くのだが、幸いな事に翔子の体は未だ人に見せられるレベルを保っていた。
チャックを股から喉元まで上げて、着替え完了。耐久性、防寒性能共にかなりのレベルを誇っていて、着心地も最高。夏は少し蒸れるのが弱点だが、それぐらいは仕方がない。
小物が入ったカバンを提げ、翔子は更衣室を出る。ここへ来ることは、もう二度と無いだろう。たった二ヶ月しか通っていないので、そこまで感慨深くもなかった。
店を出て、少し見えにくいところにある従業員用駐車場に赴く。停めてあるのは中型バイクだ。流石にちょっとした移動に大型バイクを使うのは、見栄え的にも経済的にもあまりよろしくない。
栗色のロングストレートをヘアゴムで纏め、グローブを嵌めてヘルメットをかぶる。我ながら綺麗で自慢の髪なのだが、こんな時は邪魔だった。
バイクに跨って、エンジンを掛ける。ドゥルルルという心地のいい音と共に、機体が振動した。翔子は地を蹴り、バイクを発進させる。
公道をバイクで気持よく進む。翔子は、バイクに乗っているこの瞬間が大好きだ。どんなに気分が落ちていても、バイクに乗れば前向きになれた。
わざわざ人通りの少ない道を選び、ストレートをガンガン飛ばす。風を切って走るのは、本当に気持ちがいい。
翔子が気持ちよく走っていると、不意に第六感に反応があった。箱庭に異物を見つけたような感覚。これは間違いなく、怪物の出現だ。
場所は、ここから少し戻ったところを曲がった先にある山の麓。女子高生ぐらいの少女が襲われている。
翔子は地面に左足を突き立ててハンドルを切った。頑丈な体を酷使した、強引な転身だ。常人がやれば足が折れてしまいそうなほどの力が足にかかるが、翔子の頑強な足はビクともしない。
グルリと方向転換し、再び加速する。足を使った転身は元々のスピードをあまり殺さずに曲がることができるので、常識外の初速を誇った。
交差点をドリフトで曲がり、山への道を進む。細い道でスピードを出すのは少々憚られるが、人命救助を考えればある程度は致し方ない。幸い、この道は人通りがほとんどなかった。
現場に到着。翔子は急いでバイクを止める。視界を狭めるヘルメットを脱ぎ、怪物を探し――見つけた。怪物は転んだ少女のすぐ後ろに迫っており、今にも襲いかかりそうだ。
怪物の姿は、亀を模したもの。このタイプは動きが鈍重であるが、その代わりに防御力と攻撃力が高かった。
まず被害者の安全を確保するために、この場から遠ざけたい。翔子は走って、怪物に突進を仕掛けた。翔子の体は身体能力増強と耐久力の強化により、鎧を纏っていなくとも常人を遥かに凌ぐ戦闘力を持つ。この程度、造作も無い。
怪物はバランスを崩し、後退した。その隙に翔子は被害者の少女を助け起こす。
「ここは危ないから、今すぐ逃げて!」
「は、はい」
少女は怪物に怯えながらも、翔子の指示に従うようにこの場から駆け出していった。怪物がそれを追いかけようとするので、翔子はそれを妨害する。
少女が、十分に遠く離れた。翔子は渾身の力で怪物を押しのけ、右手を天高く掲げる。
「融装!」
これは翔子が大学生時代に考えたもので、鎧を纏う――変身する際の掛け声だ。いちいち 「力よ来い」 だとか 「私の力!」 だとか毎回考えて言っているのでは効率が悪いので、わかりやすい掛け声を決めた。由来は融合装着の略である。
掛け声とともに、鎧が翔子の体を包んだ。包んだ鎧は翔子の体と一体化し、翔子の体の一部となる。
――融合完了。
体感時間は数秒だが、実際には一秒もかかっていない。これは、翔子の感覚が引き伸ばされていることを意味する。簡単に言うと、今の翔子は常人の数倍の速度で五感で感じた情報を処理できるということだ。
ここへ更に第六感が追加されることで、翔子の圧倒的な優位性を確立する。
「かかってきなさい!」
翔子はファイティングポーズで相手を迎え撃つ。因みに格闘技に関してはズブの素人なので、このポーズになんの意味があるのかは理解していない。
奇声を発し、怪物が鈍重な足取りでこちらに歩いてきた。短めの足が地面を叩く度に、辺りを地響きが揺らす。
翔子は相手の肩を掴んだ。亀を模したこのタイプの弱点は、動きの遅さ以外にもう一つある。
「んぐ……えぇい!」
しっかり土地を踏みしめて踏ん張りをきかせ、翔子は怪物を押し倒した。背中から転んだ怪物は手足をジタバタとさせ、起き上がろうと必死にもがいている。だが、無駄だ。甲羅の形状的に、この怪物が自力で起き上がるには相当の力が必要になる。もがく程度では、起き上がることはできなかった。
こうなってしまえば後は楽だ。とどめを刺すべく、翔子が拳を構えたその時――翔子の聴覚が、あるものを捉える。
「――これは!?」
どこからともなく響く謎の旋律――いや、これは人間の可聴域を遥かに超えた、超音波だ。特定の周波数帯を行き来しているようで、徐々に耳が痛くなってくる。
「音源はどこ!?」
翔子は耳を塞ぎ、第六感で空気の振動を観測し音の出ている方向を探った。方向は右だ。振り返った翔子は、空気の振動を観測しつつ、目を凝らして超音波の発生源を探す。
耳を塞いでも、超音波は翔子の耳を蝕む。耳が痛い。早く対処しなければ、頭まで痛くなりそうだ。
耳の痛さで徐々に悪くなるコンディションの中、翔子は遂に出処の目処を立てる。どうやら、山の中数キロ先にある何か――木が邪魔でよく見えない――が、この超音波を発しているようだ。
こんな音波を発するようなものを、翔子は知らない。どんどん状況が悪くなる上に何か嫌な予感がするので、早く始末に行こうと足を踏み出した、その瞬間。
突然、翔子を背後から強い衝撃が襲った。何かとてつもなく強い力で殴られたような感覚。脳を揺さぶられて危うく意識が飛びかけたが、翔子の並外れた耐久力が辛うじて意識を繋ぎ止める。
ふらつく足取りで後退しつつ、翔子は振り返った。目の前に立っていたのは、その体長を二点五メートルほどまでに巨大化させた、亀の怪物だ。体のあちこちが歪に肥大化し、甲羅の縁も刺々しくなっている。興奮しているのか、息が荒々しい。
突然の巨大化。恐らく、原因は先程から流れるこの超音波だろう。
これはピンチだ。翔子は超音波と殴打のせいでコンディションが悪化している。殴られた感じから鑑みるに、怪物のパワーは間違いなく増していた。
怪物は、その末端を異常に肥大化させた右腕を大きく振りかぶる。殴られたダメージと超音波で、翔子の足取りはおぼつかない。ロクな回避も防御もできず、そのまま横殴りの衝撃に吹き飛ばされた。
ゴムボールのようにボテボテゴロゴロと地面を転がり、近くの岩に激突する。岩がミシミシと大きく揺れた時は流石に死ぬかとも思ったが、特に岩が崩れることはなかった。
だが、ピンチは終わっていない。全身の痛みで起き上がることすらできず、翔子は悶えながら怪物に目をやる。怪物は重々しい動きで、翔子のすぐそばまで迫っていた。
このままではまずいことがわかっているのに、逃げることができない。殴られた痛みと叩きつけられた痛みによる同時攻撃は強烈だ。いくら融装した翔子が頑丈だとはいえ、そう簡単に痛みは治まらない。
怪物の魔手が翔子に迫る。腕を捻り上げられ、簡単に持ち上げられた。宙ぶらりんにされたまま、抵抗もできない。
(もう……やば……頭が……)
超音波による頭痛も既に限界レベルまで達している。もう限界だ。翔子は意識を手放しかける――が、怪物のある異変に気づく。
怪物が、白目をむいていた。それだけでなく、荒々しい息も絶え絶えで、苦しそうである。まるで、内から溢れるエネルギーに、このままでは耐えられないと体が悲鳴を上げているようだ。
翔子の腕をつかむ手から力が抜ける。ボトリと落とされ、地面に腰を打ち付けてしまった。だが、この程度の痛みなら大したことはない。
へたり込んだまま、翔子は怪物を見上げる。
怪物は頭を抱え、悲鳴を上げて苦しそうに悶えた。怪物の体に、一体何が起こったのだろうか? 激しく痛む頭では、ロクに考えることもできない。
よく見れば、怪物の体が肥大化しているような気がする。いや、気のせいかも……頭痛が酷く、意識が朦朧としてきた。怪物の形が変わっているのか、視界が歪んでいるのか、判断がつかない。
なんとなく、第六感が何かを告げている気もするが――最早、翔子にそれを処理するだけの余裕はなかった。
(あ……もう駄目……無理……)
これまで必死に掴んでいた意識を、遂に手放してしまう。後ろに倒れこむ体。視界が徐々に暗くなっていく。怪物の喘ぎ声も、徐々に小さくなっていった。
翔子が目を覚ました時には、超音波も怪物の喘ぎ声も消えていた。全身の痛みも収まっている。
辺りを見渡すと、怪物の肉片が辺りに散らばっていた。肉片は、普通に倒した時と同じように蒸発しようとしている。なんとか撃退できたようだ。立ち上がろうとすると、体に何かがくっついているような違和感を感じる。
翔子は自分の体に視線を移して――絶句した。
「うわぁ!?」
既に融装が解けた体――ライダースーツが、肉片と血にまみれていたのだ。
「あちゃー……落ちるかな、これ」
翔子は肉片を払いつつ、汚れ具合を確かめる。女の子座りの状態から後ろに寝転がっていたので、幸いにも背中と膝下の汚れはない。汚れの酷い腹から下の部分に関しても、思いっきり血がかかったと言うよりは、血飛沫が飛んできたような汚れ方だ。
まあ、スーツの色と血の色が似ているので、多少残っていても誰も気にしないだろう。だが、それは生理的に受け付けない。
革製品も扱っている行きつけのクリーニング店に出そうかとも思ったが、言い訳のしにくい汚れなので憚られる。まあ、言いにくそうな顔をすればあまり詮索はしてこないだろうが――いい顔はされないだろう。
買い替えという選択肢は、最初から無かった。お気に入りな上になかなか高級な品なので、手放すのが惜しいのだ。
「あぁ……もう帰ろ」
まだ昼前だが、今日は疲れた。帰ってスーツを綺麗にしてご飯を食べたら、少し寝よう。
翔子はバイクに跨り、帰路についた。
※
アパートの共用駐車場にバイクを停め、鍵を締める。ここの住民は誰もバイクに乗らないようなので、バイクスペースは事実上の翔子専用となっていた。
尤も、翔子も二台しか持っていないのでガラガラなのだが。
二重にしっかりとロックしたことを確認し、駐車場を離れる。翔子の部屋は二階だ。ヘルメットを脇に抱えて外階段を上がり、三番目。二○三号室である。
懐から部屋の鍵を取り出し、解錠。
「ただいまー」
一人暮らしなので応える人間は居ない。だが女の一人暮らしは狙われやすいとテレビで見たので、 「いってきます」 と 「ただいま」 だけはきちんと言うようにしている。……まあ、痴漢でもストーカーでも強盗でも、翔子の手にかかれば簡単に撃退できるのだが。
と、足元に小さな影が忍び寄ってくる。飼い猫である三毛猫のミケだ。とある雨の日にアパートの近くで偶然見つけ、どうしても見捨てられなかったので拾った。幸いこのアパートはペットOKで、少し出費が増えた以外に問題はない。
「出迎えごくろーさん」
翔子はそう言ってドアを閉めて下駄箱の上にヘルメットを置き、ミケを抱え上げる。ミケは捨て猫だったのだが、翔子に対しては特に怯えることもなく、最初から懐いていた。だが人懐っこいのかと言われればそういうわけでもなく、客人が来るとすぐに隠れてしまう。初対面ではない、よく訪ねて来る友人に対しても隠れるのだ。不思議な猫である。
そのままリビングまでミケを運んでいき、椅子の上に降ろした。ちょこんと座って耳の後ろをかくミケを少し眺めてから、寝室に移動する。
さて、ライダースーツをどうしたものか。
スーツを脱ぎながら色々考えるも、良い手段が浮かばない。脱いだスーツをハンガーにかけてうーんと唸っていると――あることに気づいた。
「あ、あれ? 汚れ落ちてる……?」
怪物の血痕が、残っていないのだ。色が近いので見落としているだけかとも思ったが、そんなこともない。隅々まで見渡しても、血の汚れは一切ついていなかった。
怪現象……なのだが、よく考えれば当然のことなのかもしれない。そもそも、怪物は倒せば蒸発するのだ。その血液が蒸発しても、おかしなことではないだろう。
一件落着。
安心したら、腹が減ってきた。腹の虫がだらしない鳴き声を奏でる。時計を見れば、もう十二時だ。
翔子はカップ麺の山からおもむろに一個を掴み取り、キッチンまで持っていく。野菜は朝摂ったので、昼はこれで十分だろう。ポットに残っていたお湯を注ぎ、蓋を閉めて三分間。その間に、ミケの餌皿にキャットフードを盛った。水皿にも水を注ぐ。
カップラーメンを汁まで飲み干し、翔子は満足した。少し塩気が多い気がしたので、水をコップ一杯飲んで中和する。尤も、実際には薄めているだけなのだが。
ただ、翔子にはあまり健康に気を使う必要がない。というのも、融装の能力を手に入れてから、いくら不摂生な生活を送っても体調が全くと言っていいほど崩れないのだ。
更に、その影響は翔子の容姿にも影響している。数ヶ月前二十九歳になった翔子だが、未だ外見年齢は二十代前半。よくひきつった笑顔をするせいで顔に少し小皺が刻まれているものの、それも薄化粧で完全に隠蔽できた。
原理はよくわからないのだが、とりあえず怪物退治の対価ということにして、ありがたく活用している。食費を安く済ませることができたり、バイトで無茶なシフトを入れられたりと、今の生活に無くてはならない要素だ。
だが、いくら無茶ができると言っても、三大欲求はあった。飯を抜けばお腹がすくし、寝不足なら眠くなるし、溜まっていれば……改造乗馬マシンのお世話になることもある。
だから、昼寝をしよう。翔子は縛っていた髪を解くと再び寝室へと戻り、敷きっぱなしの布団に寝転がった。因みに、ライダースーツを脱いでからはずっと下着姿である。こんな時間に訪ねて来る人も居ないし、夏は暑いので問題ない。
ゴロゴロしていると、食事を終えたミケもこちらにやってきた。
「おー……一緒に寝るか……?」
丸くなったミケの背を撫でつつ、翔子も目を閉じる。色々と問題は残っているが、それは起きてから考えよう。
暑い夏の昼下がり、翔子は眠りに落ちた。
※
突如耳元に響いた衝突音で、翔子は目を覚ました。
慌てて音のした方向をみて目を開けると、荷物を満載したエコバッグが置かれている。これは確か、妹が愛用していたものだ。
ということは、つまり。
「翔子姉、そんなんだからいつまで経っても彼氏できないんだよ」
見上げると、そこに立っていたのは、翔子と同じ栗色をショートヘアにした可愛らしい印象の女性。妹の菅山 清香だった。既に結婚しているため "中田" 姓ではなく、 "菅山" 姓になっている。イケメン高学歴の旦那を捕まえた勝ち組だ。
「んぐ……別に、まだ大丈夫だし」
翔子は上半身を起こしながら、妹に言い返す。
ただし、これは強がりだった。
先月行った高校の同窓会では、特に仲の良かった友人が全員結婚していた。そのうち一人は二児の母で、子供の写真を見せてもらっている。他にも、実にクラスの三割が既婚者で、彼氏すら居ないのは翔子を含めて三人だけ。その内一人は一応彼氏が居たが、年明けに破局したらしい。もう一人はいかにも仕事のできそうなキャリアウーマンで、しばらく彼氏はいらないと言っていた。
正直まだ二十代なので行き遅れというには少し早い気もするが、そろそろ手を打たないと本当に行き遅れる時期だろう。仕事のできる女などの逃げ道があればまだいいのだが、翔子はただのフリーターである。正義の味方は職業ではない。
だから妹の心配は的を射ている。事実、親と電話する際にも、毎回言われているのだ。
……とは言うものの、翔子的にはどうでもよかった。めんどくさいし。
今は街の平和と自分のことだけで忙しく、恋愛だとか婚活だとかにかまけている余裕はない。尤も、この調子で行けば一生余裕を持てないのだが。
「見た目まだ若いからそう思うのかもしれないけど、老けるときは一気に老けるからね?」
勿論清香にも融装のことは話していないので、彼女は翔子が彼氏を作らない本当の理由を知らない。だから彼女は彼女なりに翔子が彼氏を作らない理由を考えているのだろう。
「だいじょーぶ、まだまだ余裕」
「もう……」
相手が納得しているのなら、わざわざ本当の理由を話す必要もなかった。
会話が途切れると、清香は思い出したように言う。
「あ、そういえば猫は?」
「ん、ミケのこと?」
翔子は質問に質問で返した。わかりきっていることなのだが、一応聞いておく。すれ違いでお互いの真意が見えないまま平行線をたどるのは、とても不毛だ。
「そうそう。今日はこれ買ってきたんだ~」
ミケの名前を聞いた清香は、急に子供のような声を出す。ゴソゴソと、エコバッグから何やら高そうな缶詰を一つ取り出した。
「じゃーん、ネコプチプチ~」
それは缶を見ただけで高級品だとわかる逸品。畜生の飯一回分とはとても思えない重厚な黒色に、絢爛豪華なメッキカラーのライン。翔子がよく食べるサンマの缶詰よりも小さいくせに、サンマ缶の二倍ぐらいはしそうな代物だった。
「なにそれ……」
普段からあまりいいものを食べていない翔子は、それを見ただけで生気を失ってしまう。なんでこいつはこんなもの買ってきているんだ、と。
「知らないの? 今巷で大人気のキャットフード。プロの料理人が選び抜いた食材から作ってるんだって」
清香は得意気に語る。なぜここまで詳しいかというと、彼女は猫好きなのだ。だが実家に住んでいた頃は両親が許可を出さず、現在住んでいるマンションもペットの飼育が禁止である。そのために、溜まった欲望を時々ここに晴らしに来ていた。今日訪ねてきた理由もそれだろう。
「さーてミケちゃんはどこかな~」
だがミケは翔子以外に懐かないので、当然清香にも懐かない。だが彼女は諦めず、こうしてミケのご機嫌をとってなんとか懐いてもらおうとしているのだ。
因みに、翔子の勘だとミケは現在押入れの中にいる。押入れの戸が少しだけ開いていたので、そこから入ったのだろう。
「ほら、ミーケ、この人は怖くないよ」
押し入れを開けると、中でミケが毛繕いをしていた。予想通りだ。それを見た清香は目を輝かせ、一目散に押し入れへと向かう。
「ミケちゅわぁ~ん! 美味しいご飯だよ~!!」
しかしミケは押入れの更に奥。卑猥な改造を施した乗馬マシンの陰まで引っ込んでしまった。清香はその様子に、肩を落とす。
「やっぱりダメか……」
「何連敗?」
「数えてない……」
そう言うと清香は立ち上がり、缶詰を差し出してくる。
「これ、翔子姉からミケちゃんにあげといて」
翔子は苦笑しつつそれを受け取った。指の裏でコンコンと小突いてから、冗談交じりに言う。
「どうせ何回やってもダメなのわかってるんだから、この金でダンナに良い物食べさせてあげたら?」
すると清香は自嘲気味に溜息を吐いてから、こう言った。
「うちのダンナは安物の焼きタラが大好きだから。……ほら」
ゴソゴソとエコバッグを漁り、一つの袋を取り出す。近所のスーパーでも売っているような、お徳用の焼きタラだった。
「これでお酒飲むのが好きなんだって。男の人の感覚ってなんだかわからないや」
「そういうものかなぁ」
姉妹揃って焼きタラを眺めながら、うんうん唸ること数分。清香が立ち上がり、焼きタラをエコバッグに入れて持ち上げる。
「じゃ、私そろそろ帰るね」
「うん、また今後」
栗色の毛をなびかせ、手を振りながら部屋を出て行った。
清香が出て行くと、ミケが押し入れの奥からぬるりと這い出てくる。本当に翔子以外の人間が苦手なのだろう。だが、清香も清香で不憫だ。
「少しぐらい懐いたらどう?」
頭を撫でながらミケにそう訊ねても、帰ってくるのはニャァという鳴き声だけだった。
※
台所にキャベツが半玉放置されていた。恐らく清香の仕業だろう。日も暮れてきた頃、台所で翔子は独りごちる。
「半玉って一人だと結構掛かるんだけどなぁ」
数日間、野菜はキャベツだけで十分事足りそうだ。栄養素の偏りは、この際目を瞑ることにしよう。
さて、夕食の準備をだ。――と言っても、キャベツを千切りにするだけなのだが。まあ、キャベツがなければ冷凍庫からフリーズドライ野菜を取り出して茹でるだけだったので、大分マシになったと言える。
三日ぶりに使う包丁とまな板。三日前何に使ったのかは思い出せない。とりあえず軽く水洗いしてから布巾で拭く。正直今の翔子は腐ったものを食べても体を壊しそうにないのだが、やはり汚い食事は生理的に受け付けない。
キャベツを一枚もぎ取り、残りを冷菜室に入れる。もぎ取ったキャベツをまな板に置き、そこまで切れ味の良くない包丁でザックザックと千切った。
キャベツだけでは物足りないので、冷蔵庫からレトルトハンバーグを取り出す。安売りの日にまとめ買いしたものだ。水を入れた鍋に日をかけ、沸騰するまで待機。沸騰したらハンバーグをぶち込み、お皿の用意に移る。
千切りキャベツを少し大きめの更に盛り、更に茹で上がったハンバーグを袋から取り出す。美味しそうな匂いが周囲に漂う。
コメの欲しくなるメニューだが、生憎アルファ化米も冷凍ご飯も切らしていた。今から炊くには時間がかかりすぎるので、今日は我慢する。
食パンに挟んで食べるというのも考えたが、もう皿に盛ってしまったのでやめた。
だが、食卓に並べてみるとやはりまだ物足りない。ちょうどいいものを探して冷蔵庫を漁ると、切り餅の袋が出てきた。最後の一つだ。そう言えば、数カ月前に安売りしていたものを買った記憶がある。まだ残っていたとは。
運命を感じた翔子は、切り餅を今晩の主食とすることにした。
しかし餅一つで電子レンジを動かすのは勿体無いし、洗い物を増やすのは癪である。そこで翔子は先程までハンバーグを茹でていた鍋のお湯を捨てて、切り餅を放り込んだ。多分鍋でも焼けるだろう。
結果、少し張り付いてしまったが、コロコロと転がしていたことが功を奏したか無事に餅を焼くことができた。人類の勝利である。
焼き餅をハンバーグの横に置き、夕食の完成。ハンバーグが少し冷めてしまったが、まあいいだろう。
「いただきます」
餅とハンバーグと千切りキャベツという妙な夕食は、なかなか美味しかった。
「ごちそうさま」
完食。想像以上にボリュームのある夕食だった。
満足したところで食器を洗っていると、ミケがノコノコ台所までやってくる。足元をウロウロするので何事かと思っていたら、まだ夜の餌をあげていないことを思い出した。とりあえず、まずは洗い物だ。
最後に皿を洗い終え、食器棚に戻す。これでようやくミケに餌をあげられる。
折角なので、清香にもらった高級品をあげることにした。いつもの餌皿に、ウェットで美味しそうなミンチっぽい塊が投下される。恐らく今日の翔子の夕食よりも豪華だ。水皿に水も注いでおくが、餌が湿っているのでいらないかもしれない。
「はい、おたべ」
餌皿をミケに差し出すと、ミケはまず匂いを嗅いだ。初めてあげる餌なので、警戒しているのかもしれない。
ひとしきり嗅いでから、ミケは餌にかぶりついた。もちゃもちゃと咀嚼する姿は、なかなかに愛らしい。折角なので、ケータイで写真を撮って清香にメールで送る。彼女は大興奮していた。
飼い主よりも高価な餌を平らげたミケは、満足そうに喉を鳴らす。頭を撫でると、にゃぁと鳴いて寝室へと歩いて行った。
さて――翔子は考え事に耽る。今日戦った、亀の怪物。あれが巨大化した原因と、対策。それを考えなければ、この先危ないかもしれない。
……まあ、原因は十中八九あの超音波だろう。
だとして、あの超音波の対策をしないといけない。敵は強くなるし頭も痛くなるしで、あれがあるとまともに戦えないのだ。
だが、耳を塞いでも聞こえるということは、恐らく耳栓でも無駄だろう。対策など、施しようがなかった。
やりようがあるとすれば、超音波が聞こえてきても無視して怪物を倒すぐらいだろう。
ただ問題はやはり超音波の出処だ。あんなものが自然に発生するとは思えない。そして怪物が強化された以上、怪物と無関係というわけではないだろう。
そこで出てくる推測が、怪物を放出している組織の存在だ。今まで、翔子は現れた怪物を倒すだけで、その根源を絶とうとはしてこなかった。というのも、そもそもなぜ出現するのかがわからなかったからだ。
だが、もし原因となる組織があるのなら。それを潰せば、もう怪物が現れることはなくなるだろう。
問題を根絶できるのならば、それは急務だ。
難しいことを考えていたら、眠くなってきた。昼間あれだけ寝たというのに、まだ疲れているのだろうか。
明日からは新しいバイトを探さないといけないし、疲れが残っていては堪らない。今日は、早く寝よう。
翔子はささっとシャワーを浴びてから、寝室へ向かい、眠りに就いた。