*13 CODE-T3
長い間追い求めていたものが、遂に完成した。
地下研究所の一角で、勧華 久雄は満足気に微笑んだ。
人の肉体を改造し、人でありながら人を超えた存在――トランセンデンターに作り変えるための秘薬、CODE-T3。それが遂に、完成した。
……しかしこの表現には、少しばかりの語弊がある。
実際には、十一年前にも一度完成しているのだ。
だが十一年前に完成したCODE-T3は、別の研究で作っていた輸送用の蚊によって、外部に持ちだされてしまった。その薬によって生まれた最初のトランセンデンターは、久雄の機転によって別部門の実験生物のデータ収拾に利用されている。
だから久雄は、最初のトランセンデンターにはなれない。
だが、それでもいいのだ。
久雄の目的は、人類の頂点に立つことではないのだから。
※
冴え渡るこの感覚は、恐らくトランセンデンターになったが故に獲得したものだろう。
それだけではない。体中の組織が活性化し、老いが近づいていた久雄の身体を健全な状態へと導く。前日の食事でできた口内炎が消滅し、長年の悩みであったイボ痔が治った。
高次元へと昇華された感覚器官は、四次元から世界を俯瞰し知覚する。物質を構成する原子から、素粒子の流れまで――全てが手に取るようにわかった。万物の支配者。これが人の至るべき領域。
「見える……見えるぞ……」
やはり、久雄の研究は正しかった。
人間は、自らの手で進化の道を選ぶのだ。自然淘汰や突然変異に頼らない、全く新しい進化の道。神の領域とされていた力を、我がモノとする。
それこそが、超越した者。生物としての次のステージ、トランセンデンターだ。
と、この部屋に近づく者がある。久雄はつい先程手に入れた力を活かし、それが誰かを感じ取った。この雰囲気、そして容姿は――。
「失礼します」
ノックされたドア。声を聞いたことで、久雄の予想は確信へと変わる。
「遂に、完成したのですね」
現れたのは予想通りの人物、八重坂 弥十郎だった。久雄の右腕とも言える、腹心の部下だ。
「ああ……。あの事故から、十一年……。長い道のりだった」
十一年前に、薬が蚊によって外部へと持ちだされた事故。
事の発端は、実験生物の暴走。CODE-T3の前段階であるCODE-T2を投与したトカゲが、何らかの原因で脱走したのである。
そのトカゲは既にトカゲと言えるような生物ではなく、トカゲから強引に人間へと進化したような歪な外観をしていた。力も既存の生物とは一線を画し、二メートル程度の肉体にアフリカゾウを超えるパワーを秘めていたらしい。
暴走の原因と考えられているのは、CODE-T3の完成だ。
理由は不明だが、CODE-T2を投与したトカゲは、CODE-T3の完成と同時に興奮状態に突入。合金製の檻を突破し、CODE-T3のアンプルと薬物の輸送用に研究されていた蚊の入ったケージを破壊した。蚊は床にこぼれたCODE-T3を吸血の要領で腹に貯め、混乱の最中に研究所から脱走。トカゲもそれを追いかけて、研究所の外へと出て行ってしまった。
その後、蚊はとある少女にCODE-T3を投与し、そこで少女にすり潰されたらしい。脱走したトカゲも、トランセンデンターへと覚醒した少女に殺害されている。因みに死後の蒸発については、研究所の実験生物全てに成されている処置なので、CODE-T2とは何ら関係ない。
なぜ、CODE-T2を投与したトカゲが、CODE-T3にそこまで執着したのか。
久雄の予想は、こうだ。
不完全な薬であるCODE-T2を投与された生物は、本能的にCODE-T3が自分に投与された薬より優れていることを理解している。だから、より優れた力であるCODE-T3を求めるのだ。
事実、暴走したトカゲはCODE-T2を投与されトランセンデンターとなった少女に執着。追跡して、返り討ちに遭っている。
あるいは、自らより優れた力であるCODE-T3を排除しようとするのか――。どちらにせよ、CODE-T2とT3の間にある格差がこの執着を生んでいるのだろう。
現在、CODE-T2関連は別部門で扱っている。CODE-T2の暴走を少しだけ抑えたCODE-T2Mが現在の実験対象であり、超音波を用いた更なる強化の研究も進めているらしい。なんでも、特定の周波数によって闘争による生存本能を引き出し、より優れた肉体へと強制的に進化させているとか。
だが、人間以外の凡百の生物がどうなったところで久雄には関係なかった。
久雄が目指すのは、飽くまで人類の進歩だ。人間以外がどうなったところで、そんなことはどうでもいい。
人類は、自らの手で生物の枠を超えるのだ。
「では、CODE-T3の生産ラインの計画を進めましょう」
「それはお前に任せた。俺は、人の更なる可能性について模索する」
「はっ。仰せのままに」
CODE-T3は人類を新たなステージへと進めるが、それが終着点ではない。人類の進化は終わらず、いずれは個々が全能の力を手に入れるだろう。――尤も、その頃には、 "個" という概念は失われているのかもしれないのだが。
※
高みを目指すためには、まず己の力量を把握しておく必要がある。
生物の次のステージであるトランセンデンターであっても、全能ではない。世間一般で言う "超能力" なるものは使えず、未だ身体の四次元的な再構成とそれに伴う能力向上に留まっていた。四次元での生活については、まだ先の話だ。
一応、四次元に干渉するだけならトランセンデンターでなくても可能である。そのためのシステムが、既に出来上がっていた。しかしそれは大掛かりな装置を用いて、なおかつ壁を作るなどの単純なことしかできない。
四次元だけではなく、五次元――それ以上の次元もある。人類の伸びしろは、まだまだ沢山あった。
「準備はよろしいですか?」
頑強に作られた実験室に、職員の声が響く。
「ああ、いつでも来い」
久雄は余裕の表情で、カメラに挑発めいた手招きをしてみせた。
「――では、行きます」
職員の声と同時に、床の一角が開く。せり上がってくるのは、今にも襲いかかってきそうな化け物だ。
トランセンデンターの力量を把握するための、実験相手である。CODE-T2Mを投与され、超音波強化を施された亀形の怪物。最初のトランセンデンターが、最も苦戦した相手だという。
「トランセンデント!」
久雄は胸に手を当て、叫んだ。
トランセンデンターの最大の特徴である、肉体の四次元化。身体の大半を四次元的に再構築させることによって、体組織の活性化を促し、自らの身体能力を飛躍的に高める。その際に力は鎧として具現化し、服と入れ替わって身を包み同化するのだ。
鎧には、個人の心象が大きく反映される。
久雄の身体を包み込んだのは、人間の筋肉を極限まで強化したような漆黒の鎧。その姿はさながらボディビルダーであり、正に人の至る強さの境地と言えよう。兜は、強さの象徴である鬼の面を模していた。強さの象徴に先人の妄想を持ちだしてしまうあたり、まだまだ自分も想像力が足りていないのだろうと自嘲する。
「さあ……来い」
構えると、体中に力が漲った。まるで噴水のように生命力が滾ってくる。これが、トランセンデンター。
"亀" は雄叫びを上げ、突進してくる。その体重を活かした、シンプルな戦術だ。動きが直線的なので、かわすのは容易い。
しかし久雄は、あえてそれを受け止めた。
衝突ギリギリで相手の脇腹を掴み、下半身に力を入れて突進の勢いをその身に受ける。しかし大質量の突進は、その運動エネルギーの量も凄まじい。久雄は壁に叩きつけられ、そこでようやく止まった。
装甲にダメージはない。背中に痛みを感じる、無傷だ。その痛みも、一瞬で引いた。
相当な勢いで壁に叩きつけられたのだ。普通の人間なら、衝撃で破裂していただろう。
「これは……素晴らしい」
この防御力、耐久性、全てが素晴らしい。これこそまさに人が至るべきステージ。人類の新しい姿だ。
今の人の体は、あまりにも脆すぎる。ちょっとした衝撃で壊れてしまうし、内部からの攻撃にも弱い。万物の霊長たる人類は、もっと強くあるべきなのだ。
「次はこちらの番だ」
久雄は亀を押しのけて、構えた。全身の力を両の拳に込め、打つ。中学高校大学と続けてきたボクシングで会得した、決まれば一撃で相手をKOできるパンチ。それを応用した――所謂、発勁というやつだ。
トランセンデンターとなった久雄は、全身の筋力が大幅に増強されている。その力を一点に集中させた発勁の威力は絶大だ。亀は大きく後方へ吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて血を吐いた。
よく見ると、腹部の甲羅が砕けている。あの甲羅は生半可な衝撃では壊れなかったはずだ。よく見ると、背後の壁も凹んでいた。亀の突進で久雄が叩きつけられても凹まなかった壁が、だ。
大体の実力は分かった。
久雄は亀にとどめを刺すべく、急加速して接近。加速の勢いのまま貫手で亀を貫き、心臓を握り潰した。
倒れ伏した亀が、蒸発する。
圧倒的だ。
これこそが、人の力。
だが、人はもっと強くなれる。万物の霊長は、全てを見下ろす頂点に立つべきだ。
久雄は更なる進歩を見据え、人の行く末に思いを馳せた。
※
CODE-T3とは、人類の進歩の第一段階だ。
まずこの薬を用いて、全人類は最強の生物へと昇華される。それが進歩の第一段階、生物としての進歩だ。
どんな環境にも耐え、野生動物をものともせず、人類だけの楽園を作り上げる。
だが、人類の進歩はそれだけでは収まらない。
最強の生物となった人類は、次に生物の枠を超える。生物の枠を超えた先に何が待っているのかは、まだわからない。だが、人なら行けるはずだ。
何者にも支配されず、かつて神の力と言われたものを自在に操り、世界すら作り替えられる。
それこそが進歩の第二段階、生物の超越。
ただ、そこへ至るまでの障害が多いことも容易に予想できた。
最初の大きな問題は、宗教だ。一部の地域では、未だに人が神に作られた存在であると信じ込んでいる。人が神を作ったというのに、その神に支配されているのだ。
まずはその認識を改めさせないといけないだろう。人は万物の霊長であり、神に従う従順な下僕ではないのだ、と。
本気で神を信じているわけではないが、人が神の力を得るのは烏滸がましいとする人間も居る。人は身の丈にあった力で満足し無くてはならないらしい。自分で自分の可能性を封じる、愚かな人種だ。
そもそも、その身の丈の認識から間違っているというのに。
人類は可能性の生物だ。身の丈があったとして、この程度のものではない。もっと壮大で、強大なものだ。それをわからせないといけない。
……だが、わからせるためにも問題がある。
一部の人間は、CODE-T3の――トランセンデンターの力を見せれば、認識を改めるだろう。人はどこまでも行けると、賛同してくれるはずだ。
だが、世の中には自分の意見を曲げようとしない者も居る。確かにそれも人の強さの一つだが、邪魔なものは邪魔だった。
そんな者達にトランセンデンターの力を見せれば、武力を以ってこれを制しに来るだろう。過激な彼らのことだから、全面戦争も辞さないかもしれない。
人類の歴史は争いの歴史だ。転換点では、必ず大きな争いが巻き起こる。
幸い、こちらにはトランセンデンターの力があった。歩兵用の小火器など、トランセンデンターにとっては豆鉄砲も同然だ。現用のいかなる兵器でも、トランセンデンターを駆逐することはできない。戦力差は圧倒的と言えよう。
たとえ自分一人になろうとも、人類を高みに導く。人の無限の可能性を証明する。
それが自らに課せられた使命だと、久雄は確信していた。
しかしその使命を遂行するのに、一つだけ大きな、本当に大きな障害がある。
事故によって発生した、最初のトランセンデンターだ。
彼女が計画に賛同してくれたら、問題は起きない。だが、計画に賛同してくれなかった場合は――目下最大の障害として、計画の前に立ち塞がる。
通常は、CODE-T3の投与は賛同者にのみ行われる予定だ。なので反乱が起きない限りトランセンデンターが敵に回ることはないし、少数が反乱したところで大量のトランセンデンターで力押しすればなんとかなる。
しかし、大量のトランセンデンターが用意出来ていない段階で、彼女がこちらに牙を剥いたら……?
それは間違いなく、大きな脅威となる。
――現用のいかなる兵器でも、トランセンデンターを駆逐することはできない。
通常兵器では、その装甲に阻まれる。
トランセンデンターの防御力は、カタログスペックだけでも驚異的なものだ。
その優秀な排熱機構をフルに活かせば、核兵器の熱量の中でも生存は容易。生物兵器が体内に侵入したところで、抗体が一つ残らず抹殺してしまう。化学兵器への耐性も高く、有害な物質は一瞬で体外へと放出される。放射能兵器に関しては、そもそも全く影響がない。
現在有効とされている対策は、実験生物やトランセンデンターなどによる殺害だ。まだ生物の粋を出ていないので、生命活動を停止させれば、理論上は死ぬ。しかしこれはまだ前例がない。そもそもいかにしてトランセンデンターの生命活動を停止させるかすら具体的な意見が出ていないので、机上の空論と言える。
だが今は、それしかない。
なるたけ早くCODE-T3を生産し、部下だけでも昇華させる。トランセンデンターが複数居れば、それだけこちらが有利になった。
それと同時に、彼女との接触の準備も整えておくべきだろう。ベストなのはこちらの戦力が整ってからなのだが、最近動向が怪しいという報告もある。一か八かの可能性も、視野に入れておくべきだ。
そして。
トランセンデンターの力を封じる薬も、考えておかなければならない。
人の可能性を封じるその薬は、久雄の理念に反していた。しかし大きな理想のためには、ある程度の妥協もしなければならないことがある。
強力無比なトランセンデンターでも、力を封じてしまえば常人だ。トランセンデンター一号以外にも、反乱を起こした者に投与するなど使い道はある。
尤も、その理論に関してはまだ完成していない。構想があるだけで、実際にどうやって封じるかは未だ手探りだ。
なんにせよ、トランセンデンター一号の動向に全てがかかっているという事実は変わらない。
それが早いか、遅いか――そして、敵対するか、味方につくかで、状況は千変万化。果てしない苦難の日々もあれば、簡単に理想が叶う可能性もある。
彼女の動向からは、目が離せなかった。
※
実は、一つだけ報告していないことがある。
久雄の忠実な部下である弥十郎は、多くの仕事を任されていた。その内の一つが、別部門であるCODE-T2Mの開発チームの監督だ。
監督と言っても、彼らが不穏な動きを見せることはない。弥十郎のやることと言えば、彼らからの報告書をまとめて久雄に提出することぐらいだ。
その際、不要と思われる情報は弥十郎がカットし、久雄に無駄な手間をとらせないようにしている。
前回、開発チームから上がった報告書には、トランセンデンター一号の動向が怪しいこと以外に、もう一つあった。
どうも、どこかの企業が彼女に協力しているらしいということだ。企業の情報は、現状では不明。
この点について、久雄に報告するべきかどうか迷った。
不確定要素の多さから、今回は報告を見送ったわけだが……その判断が正しかったのか、未だに自信を持って肯定できないでいた。
もしどこかの企業が協力しているというのが本当なら、状況はまた変わってくる。個人と企業では、持てる政治力に差がありすぎるのだ。
トランセンデンターになっても、知識が増えるわけではない。その生物としての力は最強クラスだが、この情報社会では腕力だけが全てではないのだ。
だからもし、大きな企業がバックについていたら――トランセンデンター一号は、手に負えない存在となっているかもしれない。
今からでも、報告するべきだろうか。
「いや、しかし――」
脳内で様々なリスクと久雄の利益を勘定にかけ、やはり報告はしないべきだと結論付ける。
ただし、なにもしないわけではない。弥十郎が、独自に何かしらの対策を練っておくつもりだ。同時に、開発チーム側には引き続き調査を要請する。
久雄の手を煩わせるのは、何か起きてからでいい。
思い至った弥十郎は、早速スケジュール帳にその旨を書き込むのだった。