*12 だらしないメイデン
バイトを終えて事務所から出ると、公園の駐車場に見覚えのある車が停められていた。
白のハッチバック車。見慣れたわけではないが、つい最近見た車だ。恐らくナンバーも一致している。
近づくと、窓を開けて手招きされた。運転手は、予想通り響子だ。
「やっほ」
フロントのドアガラスを開けて、響子は右手を挙げた。
「どうしたんです?」
響子がここに居る理由が思いつかない。訊ねると、彼女は手を挙げたまま親指で後部座席を指し示す。
「ベクターズの本拠地、わかったんだろう? 実戦データの解析にかなり時間が掛かりそうで、しばらく何もできないんだ。家まで送ってくから、それまで話、聞かせてよ」
なるほど、そういうことか。
要するに、響子は待ちきれないのだろう。翔子が家に帰って、それから電話をかける――その時間すら、惜しいと見える。
だが、その申し出は断らざるを得なかった。
「でも私、バイクで来てるんですよ」
翔子が言うと、響子はあちゃーっと額を押さえ、改めて翔子に視線を向ける。
「確かに、着替えてるもんな……。うーん、この車じゃバイクは乗らないし……」
着替えている――確かに、今はいつものライダースーツだ。響子は、先程翔子がジャージだったのを見て、バイク以外の手段で来ていると思ったのだろう。だがあのジャージは、スーツが汚れないために用意したものである。
「うーん、仕方ない。この後用が無いようなら、こっちについて来てくれるか?」
考えた末、響子は無難な結論に落ち着いていた。確かに、そうするのが妥当だろう。
だが、いつもインセクサイドの研究施設に行くだけでは、代わり映えがしない。
翔子は少し考えてから、口を開く。
「特に用は無いんで、それでもいいんですけど……。今日は、ウチに来てみません?」
マンネリ化の打破。あまり深く考えずに、翔子は提案した。
すると、響子はなぜか身を強張らせ、少しだけ頬を染める。
「……いいのかい?」
「? 別に構いませんが」
響子とはそれなりに親密――世間一般で言う、お友達クラスには親しいだろう――になったと思っているので、特に躊躇う理由もない。それとも、響子から見たらまだまだ他人なのだろうか――? そんなことを考えながら、翔子は頷いた。
「……そう言ってくれるのなら、断る理由はない。お邪魔させて……もらおうか」
この反応を見る限り、別に他人扱いされているわけでは無いようだ。視線をハンドルに落としているので表情はよく見えないが、声色は少し緊張しているような気がする。もしかして、友達の家に呼ばれるのは初めてなのだろうか? ……彼女の性格を考えると、あながち間違いではないような気がする。
ただ、この初心な反応は意外だった。
まあいい。
初めての経験ならば、いい思い出になるよう全力でおもてなしするまでだ。
そこまで考えて思ったのだが、果たして翔子の自宅に人をもてなせるようなリソースは存在するのだろうか?
※
「どうぞ」
「お邪魔します……」
「オジャマシマース」
二人を部屋に通してから、気づく。
汚い。超汚い。
ゴミが散乱しているだとか、床がシミだらけだとか、そういったことではなかった。掃除は二日に一回はやっているし、ゴミはきちんと捨てている。
そういうのとは、違うのだ。
なんだろう、根本的にセンスが足りていない。普段は全く気にしないのだが、こうして客目線で改めて見てみると、自分のセンスの無さを悔やむ。
気の利いたインテリアや安らぎを誘う観葉植物などは無い。かと言って実用一点張りというわけでもなく、大昔に会社の同僚からお土産に貰ったよくわからないタペストリーが壁にかけてあったりする。どこで買ったんだ、あれ……。
だが今更帰れと追い出すわけにも行かず、俯きながらも翔子はとりあえずリビングの椅子を勧める。
幸いなことに、響子もキャサリンも部屋の内装についてあれこれ言うことはなかった。気にしていないのか、気を使っているのか、本当のところはわからない。
とりあえず、家に帰ってきたら次にやることは……。
「じゃあ、ちょっと着替えてきますね」
言いながら、翔子は寝室へと向かう。ライダースーツはよく着ているが、部屋着ではない。翔子の部屋着といえば――いつも着ているのは、下着……ライダースーツで居たほうがマシなのではないだろうか?
いいや、他にも何かあったはずだ。例えば、バイト中に着ているジャージだとか……いや、流石にトイレ掃除中と同じ格好というのはだらしない。
クローゼットの引き出しを探して、それらしいものを探す。冬用のセーターに、ジャージがもう二組……箱が出てきたと思ったら、しばらく着ていないパンツスーツだった。これが三着ほど。そう言えば、昔は私服としてもスーツを着ていた気がする。体型は変わっていないので今でも着られるはずだが……その気にはなれなかった。
他には、下着やストッキングにソックスやら股引やらババシャツなどなど……。そんな馬鹿な。他にもあるはずだ。
探していると、スーツの中に着るシャツを見つけた。もうこれでいいかとも思ったが、よく考えると下に履くものがない。却下。
次の引き出しには、ヨレヨレのタンクトップとホットパンツが数着入っていた。これだ。
急いで着替える。腹立たしいことに、タンクトップはヨレヨレのくせに丈が短くへそが出てしまった。ホットパンツは……なぜこんな恥ずかしい物を買ったのだろうか。素直に短パンでは駄目だったのだろうか。ああ、こっちのほうが安かったんだっけ……。
まあ、下着姿よりはマシだ。
リビングに戻ると、キャサリンは背もたれにもたれかかり、響子は背筋を伸ばしていた。
とりあえず、お茶ぐらいは出したほうがいいだろう。時計を見ると、午後の三時。おやつの時間だが、ここ最近お菓子を買った記憶が無い。
いや、厳密に言うと、一昨日ぐらいに突発的な感情から奮発して羊羹を買った。ただ、それは昨日の昼間に食べ終えてしまったので出せない。とても美味しかったので、一週間かけて食べる予定が三日に短縮されてしまったのだ。弥月とのメールに集中していたこともあり、気がついたらなくなっていた。どれぐらい意識の外にあったかというと、思いっきりフォークをかじったところで初めて食べ終えたことに気づいたぐらいだ。
ないものは仕方がない。今更悔やんでも、翔子の体から羊羹がひり出されるわけではなかった。多分、今朝出したブツの中に混ざっている。
「お茶出しますねー」
とりあえず台所に行って、適当な茶葉を――なかった。
(お茶飲まないからなあ……)
ティーバッグすらないし、麦茶の作り置きもない。ペットボトルや缶のお茶もなかった。というか、この家にある飲み物は水道水だけだ。
「すいません……お茶ありませんでした……」
台所から戻って、翔子は肩を落とした。
「イイッテイイッテ」
「そ、そうだ……気にするようなことではない」
フォローされると逆に哀しくなる。お茶の代わりに水道水を出すかどうか迷ったが、最終的に 『客に水道水を出すぐらいなら何も出さない方がマシだ』 と結論づけた。
支度はここまで。二人とは対面の椅子に座り、本題に移る。響子はそれを見て、上ずった表情から何かを諦めたような表情に変わっていった。彼女の心情が、よくわからない。やはりお菓子とお茶を用意しておくべきだったのだろうか?
まあ、いい。
「さて……ベクターズの本拠地らしき場所の話ですが……」
言いながら、翔子は帰る途中で本屋に寄って買ってきていた地図を広げた。県全体の、おおまかな地形と代表的な建造物などが記された地図だ。
その、県北の辺り――翔子が見た例の地点をペンで囲う。
「私の見た限りでは、大体この辺りからベクターズが現れていました。どうやら、地下に何かがあるようです」
「ふむ……県北か……」
翔子の報告を聞いて、響子は腕を組んだ。
「県北には、力を持っていそうな大企業や組織は思い当たらないなあ」
この県の主要な企業や組織は、県央に集中していた。その子会社などは県南に多く設けられている。逆に県北は自然が豊かで、観光地が多めだ。
これまでのことから鑑みるに、ベクターズを生み出している何者かには、かなり大きな力がある。ベクターズそのものもそうだが、これまでその実体を隠し続けてきた隠匿性も特筆に値するだろう。
「……これだけでは、まだ相手が何者なのか判断できない。地下施設に関しては国に訊いてみるとして……あとは、実地調査か」
実際に現場に赴き、実体を調査する。リスクは高いが、最も確実な情報が手に入るはずだ。
問題は、あまりにもリスクが高いために調査では済まなくなる可能性がある事だろう。事と次第によっては、そのまま最終決戦――なんて結末もありえない話ではない。
「無人機を飛ばして……うーん、だがアレはまだラジコンレベルだしなあ……」
無人偵察機的なものでも飛ばすことができれば、即決戦という可能性は避けられる。しかし、ラジコンレベルという言葉が引っかかった。
「ラジコンレベル……とは?」
「農薬散布用ラジコンヘリの改造機だから、そのへんで売ってるような模型なんかよりはよっぽど動かしやすいんだが……。とにかく、うるさいんだ」
そういえば、殺虫剤メーカーであるインセクサイドは、産業用のラジコンヘリの制作にも手を出していると聞いたことがある。某バイク屋さんやらコンバイン屋さん(偏見) の作っているようなものより性能面では劣るものの、薬品と連携させたサービスである程度のシェアを獲得しているとかなんとか。
「ステルス性は皆無だし、すぐ見つかるだろうな……。それに、そこまで多くの燃料が積めるわけじゃない」
見つかって撃ち落とされたら、それで終わりだ。
「じゃあ、やっぱり私が?」
すると響子は、何かに気づいたように手をポンと打った。
「ああ、そうか。君がこの場から確認すればいいのか」
「……そういえば、そんなこともできましたね」
四次元から世界を俯瞰する特殊能力。普段の生活で使わないから気づきにくいが、この能力は便利すぎるのではないか?
※
そうでもなかった。
「何かに阻まれて見えない……か……」
響子の提案で、翔子は例の第六感でベクターズの拠点を覗き見ることにした。だが、その試みは上手く行かなかったのだ。
県北に、地下施設がある。そこまではいい。だが、その地下施設の中を覗いた途端、何か壁のようなものに阻まれたのだ。その壁の影に隠れて、地下施設の中は全く見えない。
「うーん、四次元的に配置された壁というのが有力だろうか」
響子の言葉に、翔子は疑問符を浮かべる。
「四次元的に……配置……?」
「わかりやすく説明するとだな」
響子は胸ポケットからメモ帳とペンを取り出し、メモ用紙を一枚ちぎり取った。
そのメモ用紙に棒人間を描き、以前と同じように矢印を引いて、横に 『太郎』 と書き込んだ。
「以前私がした説明は、覚えているな?」
「はい」
以前された説明――三次元の存在は二次元の全てを感知できるように、四次元の存在は三次元の全てを感知できる……というものである。その時も、太郎という棒人間を用いて説明された。
「よし」
響子は頷いてから、太郎の横に縦線を描き込む。
「これが二次元的に配置された壁だ。この場合、我々にとってはなんの障害にもならないだろう?」
「そうですね」
すると今度は、メモ用紙の上にメモ帳を重ねた。
「対して、これが三次元的に配置された壁だ。こうすると、我々はその向こうにあるものを感知することができない」
「ああ、なるほど……」
「そうだ。三次元の存在が三次元の壁に阻まれるように、四次元の存在は四次元の壁に阻まれる――。だから、四次元的に壁を配置されると、君はその向こう側を感知できないわけだ。尤も、四次元的な配置がどんなものかはわからんがね」
そう言ってから、響子はメモ帳とペンを胸ポケットにしまう。太郎の描かれたメモ用紙をクシャクシャっと丸めて、振り返ってから――再びこちらに向き直った。
「……ゴミ箱はどこかな?」
ゴミ箱は、台所と寝室にある。
「私が捨ててきます」
響子から太郎のゴミを受け取り、台所のゴミ箱に捨てた。再び椅子に座って、話の続きに戻る。
「さて……じゃあ、どうしましょうか」
翔子が言うと、響子は腕を組んで唸った。
「うーん……。四次元に壁を作られたということは、相手の他次元干渉技術はかなりのレベルに達していると見ていい。翔子君のような能力を持っている可能性もある……。いや、そもそも能力の出処はもしや――いや、やめよう」
独り言のように呟く響子。その内容は、だいたい聞こえていた。
翔子も、自分の能力がどこからやってきたのか気になったことはある。だが考えてもあの蚊が何者なのかはわからず、結局は 『わからない』 と結論づけて終わるのだ。
響子は何かを思いついたようだが、今はそれを考えている場合ではない。
「というか、四次元障壁があるなら……次元トラップとかもありそうで怖いなあ」
切り替えた響子が、新たな脅威を予想する。次元トラップ――どういったものかは分からないが、響子が恐ろしいと言うぐらいなのだから相当なものなのだろう。例えば、次元の狭間に追いやられて消えるとか。次元の狭間がなんなのかは知らない。
「やっぱり、私が先行して突撃します」
翔子が言うと、響子は表情を曇らせつつも、肯定した。
「危険だからあまりやりたくはないが……やはり、そうするしかないか」
翔子と同じ能力を保つ可能性がある以上、いくら隠密性を高めたところですぐに発見されてしまうだろう。ならば、最もタフな翔子を筆頭に突撃して、一気に突き崩すぐらいしか方法がない。
「が、しかし。それならそれで準備が必要だ」
響子はちらとキャサリンに目をやってから、話を続ける。
「今日の相手は、二人がかりでやっとなんとかなった強敵だ。はじめから二人揃っていれば、もう少し有利に進んだろうが――本拠地に乗り込めば、今日以上の強敵が現れる可能性は非常に高いだろう」
彼女の言うように、翔子一人でも、キャサリン一人でも、今日のベクターズには負けていただろう。翔子がレヴァンテインを持ってきていてもまた違った結果になったのだろうが、それでも苦戦すると思われる。
相手の本拠地なら、それより強い敵が出てくる可能性も否めない。
「だから、武装を整える。三人目のヴィディスは間に合いそうにないが、武装なら一週間もあればある程度用意できる。仕掛けるなら、早い方がいい」
――一週間。
それが、決戦までのタイムリミットとなった。
※
響子が帰宅した後、翔子は寝室を片付けていた。
散乱する衣服。服探しに時間がかかってしまったので、片付ける暇がなかったのだ。
何度見ても、だらしない服装ばかりである。あまりフォーマルな場に出ないとはいえ、これは悲惨すぎるのではないだろうか?
とは言うものの……外出時は基本的にライダースーツなので、他に服を買っても着る機会がない。今回のように他人を招くことは稀だし、訪ねてくることはもっと少なかった。
……いや、清香が居たか。
だが、清香相手に今更取り繕ったところで余計に心配されるだけだ。彼女は、翔子がかなり駄目な人間であることを把握している。それでも世話を焼いてくれるのは、彼女がお姉ちゃんっ子だからだろう。昔は立場が逆だった。
「なぉん」
服の整理を終えた頃、押し入れからミケが現れる。そう言えば、響子とキャサリンが着てから見ていなかった。相変わらず人が苦手な猫である。
ミケが翔子の足元をうろつく。まだお昼ごはんをあげていなかったので、お腹が空いたのだろう。翔子はミケを抱え上げ、リビングに連れて行く。
「はい、めしあがれ」
餌皿と水皿を満たし、ミケの前に突き出す。
「にゃぁ」
小さく鳴いてから、ミケは餌皿のペレットをカリカリと食べ始める。翔子はそれをしばらく観察してから、立ち上がった。
ねこにゃんにゃん。
猫には、確かに癒やし効果があった。
自由気ままに生きる姿は、安楽の象徴だ。もふもふの毛並みは、撫でているだけで気分が良くなる。過酷な現状にあっても翔子の精神に余裕が有るのには、少なからずミケの存在が絡んでいるだろう。
「さて……シャワー浴びてこよ」
伸びをしてから、翔子は風呂場へと向かった。
※
「じゃーね、八重子。また今度」
「うん、またね」
友人の重坂 八重子 と別れ、弥月は家路につく。
八重子は小学校の頃からの友人で、高校で最もよく話す友人だ。母は幼少期に他界したらしく父子家庭で、若干だがファザコンの気がある。
彼女の父とは何度か会ったことがあるが、よくわからない人という印象があった。
どこか大きめな企業で働いていて、八重子を養う上で全く問題のない額を貰っているらしい。話を聞く限りでは、なかなか高めの地位に就いているようだ。しかしその企業の名前や、何をしている会社なのかは教えてもらえていない。その話題になると不自然にはぐらかすので、弥月も追求はしていなかった。
他人には言えないような、怪しい企業なのかもしれない。
しかしそれでも、八重子が友人であるということに変わりはなかった。親がどんな人間であれ、八重子は八重子である。
そもそも、弥月だって彼女に全てを話したわけではない。現に、翔子のことは全く話していない。翔子には、何か秘密がありそうだから。
自分の全てを話すことだけが友情ではない。
言い訳めいた意見だが、少なくとも弥月はそう思っている。
少なくとも、親の勤め先などは知らなくてもいい情報だ。
翔子のことも、何か自分だけでは抱えきれないことになったら、話すかもしれない。今は勝手に話すことで問題が起きてしまいそうなので黙っているが、この先進展があればその限りではなかった。
少なくとも、そんな時一番最初に相談する相手は、八重坂 八重子だろう。
「ただいまー」
「おかえり」
帰宅すると、迎えるのは母の声。外に車がなかったので、父はまだ仕事中なのだろう。
弥月は習慣である手洗いうがいをしてから、自室に戻る。荷物を置いて、スマートフォンを取り出した。
新着メールはゼロ件。……いや、今届いた。クラスメイトの吉澤からだ。夏休みの宿題についての確認である。
配られたプリントを確認しつつ適当に返信。宿題、やらないとなぁ……。
というわけで、今日は数学のプリントに手を付ける。
机に向かった弥月は、プリントを広げシャープペンシルを手にとった。