*9 鋼の女子高生-上
女子高生月極 弥月 は、急いで自転車を漕いでいた。
一学期の終業式 (様々な不幸が重なったらしく、今年は日曜日である) を終えた帰り道、自然とペダルを漕ぐ足は早くなる。特に用は無いのだが、とにかく早く家に帰りたかった。
一度しか無い高校二年生の夏。今年こそは、恋の一つもしてみたいものだ。――いや。してみたいではなく、する。長い夏休みの間で、ひたすら青春しまくってやるのだ。
毎年毎年なんだかんだでチャンスを逃しているが、今年こそきっと大丈夫。なんてったって、高校二年生なのだから。
無根拠な自信を胸に抱き、弥月は自転車を漕ぎ進める。
……本人に自覚は無いのだが、弥月がイマイチ青春できていないのには理由があった。
今弥月が使っている自転車は、ごついマウンテンバイクである。高校は自転車の指定がなかったので喜び勇んで買ってきたのだが、まずこれが男子に敬遠される要素その一だ。近道したり、山に寄り道する時など、マウンテンバイクは便利なのだが、普通は学校帰りに山に寄り道などしない。
マウンテンバイクを見て、男子から少し距離を置かれる。時折一歩踏み込んで自転車の件に触れてくる猛者も居るが、弥月はあまりにも自然に 「山に寄り道するには学チャリじゃパワーが足りなくて……」 などと言うので、諦めて去ってしまう。
もう一つ。弥月はサイクリング以外の趣味として、エアガンを嗜んでいる。
これだけならば、むしろ男子受けは良くなるだろう。似たような趣味の男子から 「今度サバゲーやるんだけどさ、来ない?」 などと誘われることも、一年生の二学期ぐらいまでは何度かあった。平均的な高校生の男女の遊びとはズレがあるものの、それでも立派な遊びである。
しかし、問題はそのサバイバルゲームでの振る舞いだ。
マナーが悪いわけではない。
有り体に言って、弥月はサバイバルゲームを男女の遊びとして楽しむ気が無かった。高校生のプレイヤー、それも女子と遊ぶ口実にサバイバルゲームを利用する連中などはその大半が素人に毛が生えた程度の腕前だ。対して弥月は相当の手練である。手加減する気も一切ないので、大差をつけて殲滅してしまう。当然、相手は楽しくない。
稀に弥月と同等もしくはそれ以上の実力者とかち合うこともあるのだが、そんな相手はライバルである弥月を恋愛対象としては見なかった。名前すら知らないことも多い。
一応、中身など気にせず体目的で手当たりに声をかけるような輩も居る。しかし彼らには野生の勘 (下半身) が備わっているので、明らかに "面倒な女" である弥月は本能で避けられるのだ。頭に精子が詰まっている下半身の獣にとって、人生で一番賢明な判断である。
結果、別にクラスで浮いているわけではないし、顔も良いのだが、モテない。誰も弥月を恋愛対象としては見ないので、春が訪れることはなかった。
もう少し男に媚びない限り弥月の想像するような青春を送ることはできないのだが、本人はそれに気づいていない。趣味に生きるありのままの自分を好きになってくれる人がいつか現れると、本気で信じ込んでいる。良く言えば希望に満ち溢れるロマンチストだが、悪く言えばただの夢見がちな世間知らずだ。
つまり、今年の夏もお察しである。
そんなことはつゆ知らず、弥月は気楽にペダルを漕ぐ。鼻歌交じりに河川敷沿いの道を進み、家まで半分ぐらいのところまで来た。
そこで、視界の隅に何かが映り込む。人間のように直立し、なおかつ人間とは異なるシルエット。
「え、何あれ……。UMA? 宇宙人?」
変なものを見た時の第一声がこれであることも、モテない原因の一つだ。
弥月は道の端に自転車を停め、河川敷を歩きながらスマートフォンの無音カメラを起動した。よくわからない何かを画面に映し、ズームする。
それは――UMA、もとい馬だった。正確に表現するなら、馬人だろう。半人半馬ではなく、本当に馬人だ。
完全にふざけた見た目だが、出来の悪いきぐるみには見えない。カメラのズーム越しなので断定はできないが、それは生の質感を持っているように見えた。
馬をそのまま立ち上がらせて、無理に姿勢を整えたようなフォルム。脚は一見すると逆関節だが、馬などの足は人間と少し違う構造をしており、逆関節に見える部分は人間で言う踵なのだ。しかしそれは四足歩行を前提としたデザインなので、人間のように直立すると非常にバランスが悪い。あんなものが立っているだけで奇跡である。
もしかして、あれが噂の怪物なのだろうか? となると、危ない気もするが、まあいい。
パシャッと一枚撮影していると、画面越しに馬の化け物と目が合ってしまった。
化け物は弥月に興味をもったらしい。馬特有の荒い息でフゴフゴすると、弥月に向かって走ってきた。しかしバランスが悪いので、足の長さの割にそこまで早くはない。
(もう少し、近くで……撮れるかも?)
そう思ってしまったのが、運の尽きだった。
馬の化け物は、一歩一歩踏み出す度に少しずつ前屈みになっている。遂には二足歩行を放棄し、完全に四本足で走りだす。
弥月が逃げようとした時には、既に手遅れとなっていた。手に負えない速さで近づいてくる化け物。弥月はスマートフォンを取り落とし、その場に尻餅をついた。
「ちょっと、え……」
鼻息荒く、四つん這いで迫り来る化け物。ふと、視界の端に見てはいけないモノが映り込んでしまった。馬並みってそういうことか……。
化け物はあっという間に弥月の上に迫り、顔と顔が触れるのではないかと思うぐらいにまで近づいてきた。更に蹄のような手に腕を押さえられてしまい、逃げられない。
このシチュエーションは嫌だ。
馬の化け物は、発情期なのか一心不乱に腰をモゾモゾさせていた。殺されることは無さそうだが、無事では済まないだろう。もしかすると、馬に殺す気はなくてもこちらが耐えられずに死んでしまうかもしれない。
死なないにしても、これは嫌だ。弥月のしたい青春は、決して河川敷で馬の化け物に押し倒されることではない。もっとロマンチックで、こう――素敵なものだ。
巷を騒がせる、謎の怪物――その生殖行動に興味が無いといえば、それは嘘になる。だがそれとこれとは話が別で、化け物の苗床になる気はさらさら無い。そんなものは、どこかの命知らずの物好きが勝手にやっていればいいのだ。弥月は、後で文献なり動画なりで知識を蒐集できれば満足である。
しかしここで逃げられなければ、自分がそのどこかの命知らずの物好きになり、世界中の人間に文献なり動画なりで知識を与えることになってしまう。
世界的に有名な人間になるのは悪くないが、それはもっとまともな手段で有名になった場合のことだ。全世界公開出産ショーとか絶対に嫌だ。死んだ方がマシである。というか母体にかかる負担で死にかねない。
そうだ。こんな身長百五十二センチのチビ学生より、もっと立派な体格の人間の方が母体に向いているはずだ。この馬の化け物は判断を誤っている。早くそのことを伝えなければ、貴重な化け馬の精子が無駄になってしまう。
「あ、あたしなんか全然駄目だから! だから、ほら、どいてさぁ、どっかいってよ!」
必死に訴えるも、その思いは届かない。
……わかっていた。言葉の通じない相手だということぐらい、初見で大体察していた。
そうこうしている間にも、馬の腰はどんどん迫ってきている。スカートの先を、細長いナニかがチョンチョンと突く。
(万事休す……嫌だなぁ)
蹄に押さえられる腕の痛みか、それとも心の痛みか、目の端に涙が溜まってきていた。
「ぐすっ……どうして……」
泣いたのは、何年ぶりだろうか。去年、祖父の訃報を受けた時は泣けなかった。別に悪い人ではなかった気がするのだが、いかんせん最後に顔を合わせたのが小学校低学年のお盆休みだったので、よく覚えていない。泣けなかったのはそれが原因だろう。
となると、最後に泣いたのは――中学一年生の終わり頃、好きな男の子に告白して断られた時だろうか。振られただけならまだいいのだが、実は嫌いな男子に一部始終を見られていたというオチがついている。そのことでまたいろいろと言われて悔しくなり、寝る前に枕を濡らしたのだ。幸いなことに、弥月の告白が噂として広まることはなかった。
約、三年と半年ぶり。久しぶりの涙だ。
「やめでよ……えぐっ」
足を閉じて、馬の怪物を拒む。最早、侵入は時間の問題に思えた。
目を腫らし、歯を食いしばって視線を逸らす。固く閉じた足の間に何かが割り込んでくる感覚が、徐々に這い上がってくる。
「どうじで……なんで……」
全ては逃げ遅れた自分が悪い。そう思い、無理やり納得して諦めようとした、その瞬間。
「ちぇすとー!」
気合の入った声と共に、眼前の馬の化け物が左側へと吹き飛んでいった。
※
危うく、少女の体に消えない傷が残るところだった。心の傷は……なんとか、ケアするとしよう。
これでも、かなり急いで来た。トイレに入ってスッキリしていた時に、急にベクターズが現れたのだ。翔子は腸も強靭なので、するすると便が出るのだが、それが仇となって時間がかかってしまった。家からあまり離れていなかったのは、不幸中の幸いだ。
「ここは危ないから逃げて!」
少女を助け起こしてそう語りかけるが、少女は沈黙したままだった。余程ショックが大きかったのだろう。励まそうにも、ベクターズを放置しておくわけにはいかない。
ならば、今はベクターズに集中しよう。早く倒して、少女の心のケアに移るのだ。
翔子は地に座る少女を飛び越えて、ベクターズの元へと向かう。
まるで生まれたての子鹿のように、プルプルと震えながら再び立ち上がる馬のベクターズ。なんだかとても弱そうだ。超音波強化を受けていないのだろうか? それにしても、見た目が貧弱すぎる。
これなら融装していなくても倒せそうだ。少女もこの場にとどまっている今、あまり噂を広げないためには生身で始末するのが一番いいだろう。
とりあえず、股間にある巨大な的へ鋭い蹴りを加えた。立ち上がりかけていたベクターズは再び悶絶するように倒れこむと、河川敷をのたうちまわる。
ちらりと、少女を確認。彼女は、腫れた目でこちらの様子をぽかんと眺めていた。
これはまずい。少女が見ている前で、このベクターズをグロテスクに始末するのは憚られる。具体的に言うと、股を裂いたり、バイクにくくりつけてきたレヴァンテインで解体するなどだ。
恐らく精神状態が不安定であろう少女に、馬とはいえ哺乳類らしきものの解体シーンを見せつければきっと心の傷は更に深まるだろう。そんなことをした上で 「君を襲った怪物は倒した。これでもう安全だ」 などと言っても、絶対に信用されない。
なら、グロテスクではない――出血が少なく死体が原型を留める始末の仕方には、何があるだろうか。
貫手で心臓を破壊するのはどうだ。昔一度やって成功したので、これなら確実に始末できるだろう。だが、そのためには一度暴れるベクターズを捕まえる必要がある。あの馬のベクターズは脚力がそこそこありそうなので、くんずほぐれつの格闘は避けたい。
わざわざ捕まえて貫手を食らわせるよりは、捕まえた状態で首の骨を折った方がいいような気がしてきた。首の骨を折るだけなら羽交い締めからでもできるし、下手を打たなければ出血もない。
問題は、あんな未知の化け物が首の骨を折った程度で死ぬのかどうかだが……これは実際に折ってみないとわからなかった。
とりあえず折って、駄目だったら貫手に移行しよう。
地に伏せ苦しそうに喘ぐベクターズの首根っこを掴み、無理やり持ち上げる。少女に見せないように背を向けてから、左腕でベクターズの右肩を掴んで押さえた。
右腕でその長い顔を鷲掴み、一思いに折る。
「ふんっ」
ボキリと、鈍い音が辺りに響く。喘ぎ声が止まると同時に、ベクターズの体から力が抜けた。手足をピクピクと痙攣させながら、前方にくずおれる。
少し経ってベクターズの動きが止まると、その体は蒸発を始めた。どうやら首の骨を折れば死ぬらしい。尤も、強いベクターズに対しては首の骨を折る余裕すらないのだが……。
気を取り直そう。
さて、次は少女の心のケアだ。
翔子は振り返り、少女の元へと歩み寄った。
※
――格好良い。
唐突に現れた救世主に抱いた第一印象が、それだった。
最初は、何が起こったのかわからなかった。突然現れた女性が、弥月に襲いかかろうとしていた化け物を蹴り飛ばしたのだから、当然だ。
「ここは危ないから逃げて!」 と言われた時、ようやく女性が自分を助けてくれたということを理解した。
女性は化け物の股間を思い切り蹴り上げ、痛みに怯んでいる隙に首を折って始末する。その後、化け物はブクブクと泡を立てて蒸発していた。
女性は軽く自分の体を払ってから、こちらに振り返る。
「怪我はない?」
言いながら歩み寄る女性は、美人だった。サラサラとした長い黒髪と、整ったプロポーション。化け物と戦っている時からなんとなく感じていたが、本当にスタイルがいい。体型がくっきりと現れるライダースーツが、それを強調する。整った顔立ちは、二十五歳前後に見受けられた。
「……あ、はい……大丈夫、です」
少しの間、見惚れていてしまった。もう化け物に襲われていた恐怖もその大半が吹き飛んでいる。大変な目に遭ったとは言え未遂だったので、持ち前の立ち直りの早さと相まって意外と簡単に復活したのだ。まあ、まだ目は腫れているのだが。
「よかった……」
弥月の無事を確認した女性は、心から安堵したらしい。大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。
タイミングを見計らって立ち上がり、弥月は口を開く。
「あ、あの……」
「どうしたの?」
女性は優しげな声を返した。弥月は少し身構え、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
この格好良い女性には、訊きたいことが沢山ある。名前や住所――ではなく、あの化け物についてだ。
「い、一体……何が、起こったんですか……?」
その質問に、女性は少し困ったような顔をした。まるで、どう説明すればいいのか考えているような顔だ。
確かに、一筋縄でいかない内容であろうことは予想がつく。だが、だからこそ知りたい。自分が何に巻き込まれ、誰に助けられたのか。それとUMA的な存在には個人的に興味がある。割合で言うと三対七ぐらい。
「……あんまり知らないほうが…………」
女性は視線を逸し、言葉を濁した。
知りすぎることは罠だ。
知識という名の餌に釣られた人間は、更なる知識を求めて深い闇へと沈み込む。本人は潜った気になっているがそれは錯覚であり、実際にはただ沈んでいるだけだ。それはさながら蟻地獄や底なし沼のように、もがけばもがくほど奥へと引きずり込まれる。
その深奥にあるのは、破滅だったり、時間の無駄だったり、様々だ。稀に金脈があったりするらしいが、その金脈を手にしたが故に破滅するなんてことも、ままある。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
その深奥に到達、あるいは近づかない限り、深奥にあるものを知ることはできないのだ。
「……お、教えて……ください……」
弥月が震える声で懇願すると、女性は困惑したように腕を組む。
「うーん……。でもこれ、私が勝手に言っていいのかどうか……危ないし……」
女性はしばらく迷った挙句、弥月の肩に手を置きこう答えた。
「やっぱり、駄目。危ないから。このことは忘れて」
そんなことを言われたら、余計に興味が湧いてしまう。
危ないぐらいでめげる弥月ではない。目的のためなら危険を厭わないのが月極弥月だ。余談だが、それはサバイバルゲームのプレイスタイルにも出ていたりする。
「危なくてもいいんです……教えてください……」
弥月は真剣にお願いした。だが、女性の返答は一点張りだ。
「駄目」
「そこをなんとか……!」
「だーめ」
頭を下げても駄目である。この女性、案外頑固者だ。
このまま頼み込むだけでは、恐らく教えてもらえないだろう。ここは少しだけ頭を使い、やり方を変えたほうがいいのかもしれない。
「じゃ、じゃあ、メアド教えてください!」
突然そんなことを言い出した弥月に、女性は困惑する。
「え、なんで……?」
「後でお礼がしたいんです」
理由は適当にでっち上げておく。でもお礼は本当にしたいかもしれない。とりあえずアドレスを貰ってから考えよう。
「いいよそんな。いつものことだし」
胸の前で両手を振りながら、女性は遠慮した。これは予想通りだ。めげずに、グイグイ攻める。
「助けられてばかりじゃスッキリしないんです! お願いします!」
「そ、そう言われても……」
まあ、確かに先程出会ったばかりの間柄でメールアドレスを交換するのは気が引けるだろう。常識的に考えれば、明らかにおかしい。ナンパですら、もう少し手順を踏むはずだ。
仮に彼女をどこかに誘うとしたら、時間的に昼食が妥当だろう。しかし、今日はすぐ帰る気でいたので財布を持ってきていない。
食事に誘っておきながら奢られるというのはとても情けないので、やはりゴリ押しでメールアドレスをもらうしか無いだろう。
「あ、あの、お礼だけじゃなくて……助けてもらった時、凄く格好良いなって思ったんです! だから、その、お近づきになりたくて……」
嘘は言っていない。都合の悪いことを口にしていないだけだ。
「え、ええ、でも……」
口では拒絶しているが、声色はなんとなく嬉しそうだった。先程までとは打って変わったこのチョロさ。もしかすると、格好良いという言葉に弱いのかもしれない。
「あたし、格好良い女の人に凄く憧れるんです! お願いします!」
「……仕方ないなあ」
おちたな。
「ありがとうございます!」
早速、弥月は鞄からスマートフォンを取り出す。対する女性はポケットから携帯電話――今時珍しいガラパゴス携帯である――を取り出した。
女性は弥月の携帯を見てから、小声で言う。
「赤外線……ついてる?」
確かに、スマートフォンは赤外線通信非対応のものが多い。赤外線など普段は使わないので、妥当な判断だろう。今は赤外線通信よりも便利な機能が多いのだ。
だが、その "赤外線通信よりも便利な機能" に対応していない携帯は、赤外線通信に頼らざるをえない。
幸いなことに、弥月の携帯は赤外線通信に対応していた。
「ありますよ」
「よかったー」
女性は安堵したように言う。確かにガラパゴス携帯のアドレス交換は赤外線通信が使えないと面倒だ。友人が文句を言っていたのを覚えている。
「じゃあ私から送るよ」
ポートとポートを突き合わせ、女性の個人情報をいただく。――どうやら、彼女は中田翔子と言うらしい。
「次はあたしが」
少し操作して、プロフィールを送信。名前がバレてしまうのだが、まあいいだろう。ああ、誕生日や血液型も表記していたんだった。他に、住所も入れた覚えがある……結構な量の情報が知られてしまった。
まあ、女性――翔子は個人情報を悪用するような人物には見えないので、問題はないだろう。多分。
「月極……弥月ちゃんね。よろしく」
そう言って微笑む翔子は、やはり個人情報を悪用するような人間には見えなかった。
※
翔子と別れ、再び帰り道を進む。少し時間を食ってしまったので、気分的に今は近道をしている。
街道を外れて、森の中。夏の森と言えども昼間はそれほど虫も多くなく、快適なサイクリングだ。
ちなみに、ヘルメットは未着用である。 "森の中を走る" ことが目的であればちゃんとヘルメットを用意するのだが、今の目的は "近道して帰る" ことだ。そもそも、今使っている鞄にはヘルメットが入らないしメットケースを付ける余裕もなく、学校にヘルメットを持って行くと非常に邪魔になる。公道を通る登下校ですらヘルメットを着用している今の中学生以下連中は、学校での指導があるとはいえ本当に真面目だと思う。ヘルメット置き場でも用意されているのだろうか?
ただし、それ相応の自転車を使っているとはいえ、木の根や枯れ葉の山などが点在する森の中が危ないことは確かだ。距離が短くあまりスピードも出さないとはいえ、安全面を考えればヘルメットは着用するのが望ましいのだろう。
でも邪魔だ。
そもそも、安全面を考慮するのなら鞄を肩にかけての運転をやめたほうがいい。バランスが悪くなるだけではなく、無駄に横幅が広がって危険なのだ。エナメルバッグを肩にかけてフラフラ逆走しているような中学生は、例えヘルメットを着用していても長生きしないだろう。
なので、安全面だけで考えれば、弥月は鞄からリュックに買い換えて、そこにメットケースをくくりつけておくのが望ましい。
それでも弥月は今使っている鞄が気に入っているので、危ない橋を渡らざるをえないのだった。まあ多分死なないし。
そんなこんなで森を抜けて、再び街道に出る。ここから家まではもうすぐ近くだ。ちなみに、この近道で十分は短縮できる。
帰ったら、とりあえずメールしよう。適当に雑談でもして、そこから、あわよくば出かける約束も取り付けられるかもしれない。
距離を縮めれば、今日の化け物のことだって聞き出せるはずだ。個人的に仲良くなりたいというのもあるが、大前提はやはりそれである。
(今年の夏は楽しめそう……!)
弥月は既に思い描いた青春のことは忘れ、目の前の事態に没頭していた。これもまた、弥月がモテない理由である。恋愛に憧れるのは所詮周りに流されているからであって、実のところそこまで執着はないのだ。だから "ありのままの自分を愛してくれる人がいる" などという絵空事を信じ切り、理想と現実の剥離を認識していない。本気で誰かと付き合いたいとは思っていないからこそ、モテる努力をしない。ファッション恋に恋する乙女である。
そんな弥月が真に興味のあることに出会ってしまえば、そちらに流されるのは至極当然と言えるだろう。
あまり興味のない恋愛に全てを差し出す堅実な人生か、あるいは興味のあることに身を投げ出す安定感のない人生か。
弥月にとってそのどちらが幸せな人生かを知るのは、弥月本人だけだった。