第十五話 誤解
ユウトはベッドの上で目を覚ますと軽い筋肉痛に襲われた。
──やっぱり疲れがたまっていたのかな
軽くストレッチをしながら筋肉を伸ばすと心地よい痛みに包まれる。
大きく背伸びをして立ち上がり、時刻を確認すると朝の十時を回っていた。
昨日の帰り道に紗耶香から言われた事がある。
『体を休める事は大切なことだ、別に日曜日を休日にする必要はないが少なくとも一週間に一日は休みを作るように』
冒険者になってからというものの、毎日活動していたユウトは半ば強制的に休みを取らされることになった。
コンコンと
ドアをノックする音が響く。
「ユウちゃん? 起きた?」
ユウトは、寝起きの身体を動かしドアを開ける。
「おはよう愛ちゃん」
「おはようユウちゃん、朝ご飯はどうするの? 食べる? 食べない?」
ユウトは少し考えて時計を見る。
「もうすぐ昼だからよしとくよ」
「そう? じゃあお昼はちょっと多めにしようかしら……」
階段を下りていく愛。
ユウトは顔を洗い、鏡を見る。
──少し伸びたかな
前髪を手でいじりながら、前に髪を切ったのはいつだったかと思いをはせる。
二、三か月は前だっただろうか、こんなことでも最近休みを取っていなかった事を実感する。
『申し訳ありませんが本日は予約が一杯でして…… もしよろしければ明日以降はどうでしょうか?』
「そうですか…… すいません、またの機会でお願いします」
電話を切った後、ため息を吐く。
──やっぱり、当日の予約は厳しいか
ヒロカズに連れられて最近通っていた美容室。
ユウトはその美容室にしか行った事がなかったし、美容室の良し悪しもわからなかった。
ヒロカズに相談して新しい美容室を教えてもらうべきだろうか。
それとも──
ユウトは一年ほど前までは愛に髪を切ってもらっていた。
子供の頃からの習慣だし、なにより愛の手先が器用なため十分満足する出来だった。
ただヒロカズから熱心にいい美容室があると誘われて以来、そこに通うようになっていた。
──今さら愛ちゃんに頼むのもなあ……
美容室に通うようになって少し寂しそうな顔をしていた愛。
愛なら喜んで頼まれてくれるだろうとは思うものの、美容室に浮気したような気がしてどこか言い出しにくかった。
「愛ちゃん、ちょっといい?」
リビングで片づけをしている愛に声をかける。
「なあに、ユウちゃん?」
どこまでも優しい声。
手を止めた愛が顔だけ振り向きユウトに先をうながす。
「今日どっか出かけたりする予定ある?」
「ん、お姉ちゃんに用事があるの? 今日は買い物くらいしか予定はないから言ってみなさい」
「うん…… 愛ちゃんにお願いしたい事があるんだけど……」
気恥ずかしさから言葉が濁る。
やっぱりヒロカズに頼もうかな、ユウトが顔を伏せた時だった。
「わかったわ、それは今からでもいいの?」
愛が優しく微笑む。
いつだってそうだった。
ユウトの考えてる事はしゃべらなくても、全て愛にはお見通しである。
子供の頃は自分の心の声が本当に聞こえてるんじゃないかと本気で悩んだ事もある。
それは、ときにユウトを悩ませ、ときに今回のように助けられた。
「うん…… 大丈夫……」
察しのいい愛に安堵するユウト。
「そう…… わかったわ。お風呂はどうしようかしら?」
そういえば、美容室では髪を切る前に洗髪をしていた。
愛に切ってもらった時はどうだっただろうか。
「あれ、シャワー浴びてきた方がいいの?」
「ううん、お姉ちゃんは全然気にしないわ」
どうせ髪を切った後は洗い流すんだ。
できるなら一度で済ませたい。
「終わった後にシャワー浴びるだけにしたいな」
「お姉ちゃんはどうしたらいい?」
「え、何が?」
「シャワー浴びた方がいいかしら?」
「何で? 別に必要ないんじゃない?」
「ユウちゃんがそういうなら……」
髪を切るためにシャワーを浴びる必要性があるのだろうか?
よくわからない。
「着替えてくるね」
ユウトは散髪した後、すぐ洗濯できるような服に着替えるため自分の部屋へと戻って行った。
愛はユウトを見送ると一度気合いを入れる。
ユウトが頼みごとをしてくる。
それ自体は珍しい事ではない。
だが、あのように不安な顔をしてくるのは滅多になかった。
子供の頃に窓ガラスを割った時。
買い物を頼まれたのに財布を落として帰ったきた時。
そんな時は決まって不安そうな顔で愛の元までやってきたのだ。
ユウトは何も言わない。
でも、そんな顔を見れば何を考えているかなんてすぐにわかった。
最後にあの顔を見たのはいつだったか。
そうユウトが中学に上がった頃ではないか。
隣で寝ていたユウトが早朝に愛を起こす。
不安そうな例のあの顔をして。
『どうしたの?』と尋ねてもユウトは顔を伏せる。
ただ愛はユウトの目線で気が付いた。
ユウトがズボンを気にしている事に。
ユウトはおねしょをしてしまった事を気にしているようだった。
愛からすればまだまだ子供だが、ユウトにとってはもう恥ずかしいのだろう。
愛は謝るユウトを抱きしめ、服を脱がしてシャワーに送り込む。
洗濯しようと、服を持つとある事に気づいた。
それはおねしょではない事に。
愛はユウトには内緒でその成長を喜び、いつまでも子供だと思ってた事を少し改めたのだった。
ユウトがその表情を見せるのは久しぶりだった。
だからこそ愛は気が付いた。
ついにその時が来たと。
愛は戸棚の引き出しを開け、小さな箱を取りだす。
それはユウトの高校の入学式の日に買ったものだ。
愛は入学式に出席した帰り道に薬局に寄る。
ユウトはもう高校生だ。
姉ならばいつか来る日のために用意しておくべきだろう。
弟のために家族計画を立てる。
うん、当然だ。
あの時は、少し恥ずかしい思いをしたが今思うとやはり英断だった。
愛は小さな箱を手に持つと、自室に戻り服を着替えることにした。
新しい下着に履き替えると一枚の服を手に取る。
以前、ユウトに買ってもらったワンピース。
今日をおいてそのデビューに相応しい日はないだろう。
鏡を見ながら覚悟を決める愛だった。
庭に椅子を一脚置くだけで、そこは立派な美容室といえた。
『愛ちゃん美容室』はたった一人の専用客のために、一年ぶりに店を開ける。
「愛ちゃんなんか怒ってる?」
「別に怒ってなんかいないわ」
笑顔を張り付けた顔で答える愛。
確かに顔は怒っていないが、どこか機嫌が悪そうだ。
経験上、こういう時の愛はそっとしておくべきである。
愛はユウトの髪をブラシで撫でつけながら聞く。
「お客様、今日はどういった風に致しましょうか」
「おまかせで」
それは一年ぶりのお約束のやり取り。
一言かわすと愛は真剣な手つきでハサミを動かし始める。
サッ
サッ
サッ
手際よく動かす手に迷いは感じられない。
右から左へと位置を変え、手慣れた手つきで髪を整える。
ユウトは目をつぶり身を任せた。
髪をかき上げる柔らかい手が気持ちいい。
仕上がりはプロの美容師には負けるものの、愛に髪を切ってもらうのは気持ちが良かった。
他人に髪を触られるのと違い、どこまでも安心できる感覚。
チョキチョキと一定のリズムで刻まれる音を聞いているといつしか瞼の重みが増していた。
「──ちゃん ──ウちゃん」
耳元で名前を呼ぶ声がする。
「起きた?」
重い目を開けると、鼻を掠めそうなほど近くに愛の顔があった。
──愛ちゃんの匂い、甘い、甘い石鹸のような匂い
どうして、同じシャンプ―と石鹸を使ってるのに愛ちゃんはいい匂いがするのだろうか。
「終わったわ、鏡を持ってくる?」
「いや大丈夫」
「でも前髪とか見なくて平気? 変だったら直そうか?」
「変かな?」
ユウトは前髪をいじりながら聞く。
「ううん全然変じゃないわ、かっこいい」
愛は満足そうに笑って見せる。
「そっか、ならいいよ」
「本当に?」
これもいつものやり取りだった。
愛が満足のいく出来だったなら、ユウトは文句のあるはずがない。
「うん、髪洗ってくるね」
ユウトは立ち上がると家の方に向かい、振り返る。
「あ、髪、ありがとう。それと、……ワンピース似合ってるよ!」
どこか照れくさそうに去っていくユウト。
愛の張り付けていた笑顔は、いつのまにか本物の笑顔に変わっていた。