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雪明り

 雪明りが、窓を青白く照らし上げている。

 焚きしめられた香が、空気にしっとりとした甘さをそえている清めの部屋。

 その天井から吊るされた布――貴婦人のドレスのように大きく裾を広げている物の内側に、食事を終え、ここに来たネーヴェとラタが、裸のまま向かい合っていた。

 少し離れた場所にある篝火の暖色が、二人のシルエットを布ごしに透かしている。


「失礼します」


 ネーヴェが、前にいるラタに頭を下げる。それから湯に浸した布を軽く絞り、ネーヴェはラタの体をゆっくりと拭き始めた。

 器には乾いた花弁が散らしてあり、柔らかな春を思わせる香りを湯に与えている。それに包まれながら黙々と、それでも肌を傷つけないように注意しながらネーヴェが布を滑らせていると、ラタがふと、口を開いた。


「ネーヴェ」

「はい」

「あれは、何だったんだろうな」

「塔の前にあった、あれですか?」


 猿が浸っていた石の器を思い出し、ネーヴェが首を傾げる。


「鍋ではないでしょうか…」

「そう思うんだけど…」


 タエは、食べるためではないと言っていたが、鍋でないのなら何だと言うのだろう。


「長い間、火を焚き続けられば似たようなものが出来るだろうか」

「ラタ様、それでは火傷してしまいます」


 無理です、とネーヴェが手を止めて苦笑した。

 シシリを囲む針葉樹は薪の中でも、特に火の回りが速い。燃やすのが楽な分、あっと言う間に燃え尽きてしまうのだ。

 だから火を使う物は短時間でできるものに限られ、長時間火を使う料理などは贅沢の極みとされる。そしてもう一つの燃料である獣脂はすすが多く、匂いもひどい。

 どちらにしても、一定の温度を維持するには燃料として不向きなのだ。

 あの湯の器は、定期的に火を吹ける竜だからこそ成しえたものでしかない。


「白斑樹を使うと言うのはだめか?」

「民に糧を燃やせと申しますか」


 やんわりと、それでも明確にネーヴェが提案を否定した。

 白斑樹は数少ない落葉樹で、樹液に糖を多く含む。ゆえに、燃料ではなく糖の採取源として重宝されているのだ。枝は家畜の餌になる。家畜の糞は肥料として使う。

 生まれた時より王族だったラタには、想像もつかない世界だろうが、庶民出身のネーヴェはそれを知っている。

 けれど、ラタはあの湯の器が忘れられないようだった。

 ネーヴェもそれは同じだ。ただ、それが出来ないという事を知っているだけで。


「何とか、あれが再現できればなあ……」

「私達は、火など吹けませんよ」

「知ってるよ。だけど、僕は民に笑って欲しいんだ。春のあの笑顔が、ずっと続いて欲しい」

「ラタ様……」


 ネーヴェが再び手を止める。それから布を湯に浸し、ラタに気付かれないように肩を落とした。

 ラタの、その願いを利用しようと言う者は多い。隣国を攻め落とせば、冬のない国が手に入るとささやく者も珍しくない。

 竜と言う力を手にした今となっては尚更だ。非力なシシリと言う汚名を返上する力。

 だが、火吹竜は非戦を望んでいる。ならば、それに逆らう事は竜の意に背く事になる。

 タエがそれを大目に見る性格であったとしても、幼少より竜の伝説を聞かされて育ったネーヴェが、竜と意を分かつと言う恐れ多い行為に出られるはずもなかった。


「ラタ様、明日、タエ様にお知恵を拝借して参ります」

「そうか?」

「はい。ですから、ゆめゆめ甘言に乗せられませぬよう…」


 ラタの体を拭き終えた布を器に戻し、刺繍のほどこされた毛布でラタの体を包む。

 そして自分の裸体にも薄布を巻き付けて扉を開き、左右で頭を下げる給仕にねぎらいの言葉をかけ、ネーヴェは寝室へとラタを導いた。


「おやすみなさいませ、良い夢を…」


 蝋燭を消し、扉を閉め、廊下へと歩み出る。その瞬間、視界の端に鋭い光が走った。

 反射的に前方に体を投げ出し、床で一転してから立ち上がる。直後に闇を貫いた矢が、ネーヴェの衣の端を壁に縫いとめた。

 開け放たれた窓から、吹き込んで来るのは冬の風。

 誰かが鍵を開けたのだろう。少なくともネーヴェは開けていない。


「やめませんか? 野蛮なまねは」


 壁に突き刺さった矢に手をかけ、ゆっくりと引き抜いて投げ捨てる。

 問い掛けの先、矢が放たれたとおぼしき方向から、それに対する返答はなかった。


「私を脅せば、私が竜を説得しに行くとでも思ったのですか?そこまでして戦がしたいのですか。私は温室育ちの令嬢ではありませんよ、どうか、甘く見ないで下さいませ」


 ラタの身辺を預かる者の一人として、最低限の護身術ぐらい体得している。

 窓から吹き込む風に揺らぐ衣を片手で押さえ、ネーヴェは片足を引いた。


「火吹竜様が、戦をしないと言ったのです。ならば私は、それを守ります」


 にこりと微笑み、ドレスの片裾を摘んで一礼。

 後宮にいた時に身につけた所作は、貴族にも並ぶ優雅さだ。

 悠然と廊下を歩み行く動作は堂々としていて、一点の迷いもない。


 そんな彼女に、再び外から矢が飛んで来る事はなかった。

 代わりに、窓の外の人影が一つ、闇を縫うように駆け抜けて行った。

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