生誕
それからしばらくして、元気な産声が、高々と冬空に駆け上がって行った。
それを聞いて、ふっと脱力しかけたジーネの母、エルバに赤い翼が寄せられる。
腕の中では、生まれたばかりの子供が、元気な鳴き声を響かせている。
そこに大きな顔を近付け、タエは、やんわりと労をねぎらった。
「まあ、元気な女の子ですこと」
エルバの下半身は湯の中だ。
タエが、急いで岩を集めて雪を湯にして作った、人肌程度の風呂である。
赤ん坊はそこで生まれ、水面に引き上げられてから、初めての空気を味わった。
澄み渡ったシシリの空気だ。その空気は冷たいが、母の胸はとても温かい。
「あの……竜神様、この後はどうしたら?」
「へその緒を結んでくださいませ。本当なら、わたくしが手伝ってあげたいのですが、なにぶん、この体ですし……」
お疲れのところ、申し訳ないのですけど、と。
そう、タエが謝ると、エルバが淡く笑って指示に従った。
「ありがとうございます、本当に何てお礼を申し上げたらいいのか……」
「いいえ。わたくしも、本当ならもっと準備して差し上げたかったのですから」
タエとしても、それなりに気は使ったつもりだ。
産み落とした赤子が雪に落ちたら危ないとか、湯が汚れていたら赤子に良くないとか、そんな事をあれこれ考えた結果、炎で石を焼いて、それで風呂を作り、急いで雪を放り込んだのだ。
基本、のんびりとしたタエにしては珍しく、機敏な動きだったとも言える。
「この子が、私のはじめての子なんです」
へその緒を結び、言われた通りに処置をして、乳を含ませながらエルバがいとおしそうに目を細める。
「え?」
「さきほどのは、本当の娘ではありません。本当の娘のように思っておりますけど、竜神様の国の民なのです……」
悪い事をしました、とエルバが眉を下げる。
それを見下ろし、タエは微笑んだ。少なくとも、エルバは人さらいには見え無いからだ。
「大丈夫、怒っておりませんよ。何か事情がおありだったのでしょう?」
「ええ。あの子を引き取る少し前の事です。その頃、王はあせっておいででした。子がなかなか生まれないのは、自分に問題があるのではないかと……」
実際には、王妃候補同士の確執が凄すぎて、懐妊どころではなかったのだが。
「王はお優しい方でした。それで、つい、子を授かったと嘘をついてしまったのです。布を詰めたりして、なるべく王から離れるようにして、どなたかが王の子を授かるまで、王の希望を断たずに済むように……と」
だが、事態は悪い方向に向かった。
王はエルバに全ての望みを託し、他の女とは関わらなくなった。
途方にくれたエルバは、少し療養がしたいと言って、身重のフリをしたまま、こっそりとシシリまで逃げた。それを手助けしたのがクルジだった。
旅立つ直前、クルジがエルバに渡した手紙。
そこには、年の離れた妹がシシリにいるはずだ、見かけたら娘として扱ってやってくれ、とだけ書かれていた。
「そして、私は彼女を娘として迎えたのです。ですが、やがて娘の正体が知れ渡り、私は再び隠れなければならなくなりました。侍女を連れ、シシリの国境まで来て、小さな家に隠れ住んだのです。侍女はある日、かえらぬ人となってしまいましたが、それでも日々は穏やかでした」
城に比べれば、豊かとは言いがたい暮らしだったが、それでも人々は優しかった。
国同士の確執よりも、牧歌的な暮らしを優先する人が、その辺りに多かったせいもあるだろう。
「本当に、本当にそこでの暮らしはおだやかで。私のようなずるい女が王のお側にいようとする事自体が間違いだったのだと、そう思うようにもなったのです。なのに、王は私の居場所を突き止めて、それで……」
エルバが、赤子をじっと見つめる。
そんな母の気配に気付いたのか、乳を吸うのをやめた赤子が、不思議そうな顔でエルバを見た。
「その子は、その時の?」
「はい。王は仰いました。いい加減、王である事に疲れたので、一国民として私と暮らしたいと。けれど、そんな事が許されるはずもありません。その事に私が悩んでいたある日、数人の男達がなだれ込んできて。気が付いたら、この近くの森に放り出されていたのです。あの時は……もう、全てが終わりだと」
知らない景色と一面の雪では、街がどちらかさえ見当もつかなかった。
だが、男達は、自分達を置いて、さっさと逃げ帰ってしまった。
エルバとジーネを殺そうとか、乱暴しようとか、何度も話し合っていたというのに。
その男達が、天を見上げてさっさといなくなったのは、今思えば、遠くのタエの姿に気付いたからなのだろう。
そんな事には気付かず、二人は抱き合って寒さをしのいだ。
いずれ凍死してしまうとしても、一分でも長く生きていたかったのだ。
そこに、ゆらゆらと湯気が流れて来た。こんな場所に湯気? と怪訝に思っていると、今度は空が暗くなった。
思わず上を見た二人の目に見えたのは、背に人を乗せ、巨大な翼を広げて舞い降りて来たタエの姿。
竜神様だわ! と叫んでジーネが駆け出したのは、それからすぐの事だ。
「まさか、本当に助けて戴けるなんて……本当に、このご恩はいつか必ず返しますから」
「ええ、のんびりその日を待つといたしますわ。さ、そろそろ温かい場所にまいりましょう。上のほうにね、素晴らしい小屋があるのです。そこでゆっくりなさって下さいな」
さあ、乗って下さいませ、とタエが湖に体の横をつける。
おそるおそる、エルバがその背に乗ると、タエが大きく翼を振り下ろした。
「きゃっ……!」
下方にあった湖が、衝撃で激しい水しぶきを立てる。
それに驚いている間に、あっと言う間に地面が遠くなってしまった。
「……すごいわ」
こんな高い場所から、景色を眺めるのは初めてだ。
「これが……シシリ……」
一面の銀世界。賑わう市場。
そこで輝いているのは、炎のあたたかなオレンジ色。
風が吹けば柱が歌い、時折、扉に下げられた陶器の棒が触れ合って、透き通った音色を響かせている。
その、どれもが活気づいていた。厳しい自然の中だというのに。
「あらまあ、みなさまお揃いですのね」
塔にある程度近付いたところで、小屋から出て来た面々にタエが嬉しそうに牙を見せる。
そこには、すっかり綺麗になった体を毛布に包んだジーネと、その肩を抱くクルジと、ラーニア、ロイ、そしてレリウスとラタがいた。
誰か足りない、と思ったのもほんの束の間。
「ワシもそこに登らせろおおおぉぉ!」
シャンザ一家の道案内をしていたネバが、崖から離れた所でタエに叫んだ。




