相違
一匹、二匹、三匹――そしてとうとう十匹へ。
その瞬間、ネーヴェの耳に、情けない悲鳴が聞こえて来た。
「た、助けてえええぇ!」
慌てて声の方に顔を向ける。どこかで見た顔だ、とすぐに気付いた。
「ダトイーン!?」
確か、要注意人物としてリストに載っていた男だ。
どうしてここにいるのかは知らないが、見間違えるはずもない。
全力で逃げるダトイーンを追いかけているのは、山のような砂虫の群れ。
それを見て、ネーヴェは一瞬だけ迷った後に、ダトイーンに向けて声を張り上げた。
「早く! こっちに来なさい!」
「は、はいい!」
息も絶え絶えになったダトイーンが、全力で駆けて来る。
それとすれ違いながら剣を構え、ネーヴェは素早くささやいた。
「理由は後で聞くわ。だから、覚悟しておきなさい?」
ぞくりとした声に、ダトイーンがさあっと血の気を引かせる。
だが、ネーヴェは朗らかな笑みだけを残し、すぐさま砂虫の群れへと突っ込んで行った。
砂虫は、仲間が切られると、それを餌と見なす習性がある。
よって、一定数をネーヴェが切った辺りで、砂虫の同士討ちが始まった。
やがて生き残った砂虫達が、のそのそと砂へ潜って行く。
それを見送り、ふと後ろを振り返ると、全員の注目がネーヴェへと集まっていた。
「……お、おはようございます」
あがった息を整えるべく、深呼吸して頭を下げる。
それに、はっと我に返った人々が慌てて頭を下げると、昨日の男が、布を持ってネーヴェのほうへと歩みよってきた。
「精霊さん、すげえなあ。異国の剣技ってやつですかい?」
「ええ、まあ……。ところで、ここにお風呂みたいなものはあるかしら」
「風呂? 昨日言ってたあれですかい?」
「ええ、そうよ。水が貴重だと思うから、濡れた布でも良いんだけど」
返り血は浴びなかったが、汗に砂が張り付くのはいただけない。
剣をしまい、そう問うと、一人が無言で前方を指差した。
そこにあるのは、どどーんと転がった大きな砂虫の成れの果て。
「……やっぱり、いいわ」
あの血も水と言えば水だ。そうわかってても、さすがに使う気にはなれなかった。
※ ※ ※
水を渡せない事を申し訳なく思ったのか、食事はたいそう豪華になった。
厚みのある葉を持つ植物のサラダとか、干した果物のスパイス漬けとか。
「はじめて見たわ」
素直な感想が口を突く。
このうち半分ぐらいは、行商人が買って帰って来た事があるものの、後は見た事も食べた事もない。
ちなみに味はとても良い。
おそらく、シシリの祝い料理のようなものなのだろう。
「その、風呂ってやつはそんなに良いものなんですかい?」
英雄、ネーヴェを前にして、男が改めて聞いて来る。
「そうね。例えば――」
ネーヴェが口を開く。
それから、ネーヴェは延々とシシリの風呂について語り続けた。
道中、ずっと黙っていたせいもあるだろう。
思ったよりも会話に熱がこもった。
その話が一段落すれば、自然と、話題が昨晩の襲撃へと戻って来る。
もしもネーヴェが起きるのが遅れていたら、今頃、大きな犠牲が出ていた事だろう。
「ねえ。昨日みたいに、砂虫が襲って来る事は良くあるの?」
「いんや。いつもってわけじゃねえんですわ。あいつら、雨季には草を食べる連中でして、食べるもんがなくなると襲って来るんですよ」
「じゃあ、もともとは草食?」
「多分。でも、竜と別れた女神様が泣いたもんだから、水のほとんどが石になっちまった……と言われています。中央の連中は竜が大嫌いなようですが、別に俺らは竜に困らされた事はないし、どっちかっつうと昔から伝わる伝説の方が身近なんで。まあ、平和に暮らせるようにしてくれるなら、真実はどうでも構わねえんですがね」
どうぞ、と追加の食事を差し出しながら男が笑う。
それを受け取って、ネーヴェは怪訝そうに首を傾げた。
「あなたたちは、竜が嫌いじゃないの?」
「別に。おいらみてえな端っこの民は、おまんまさえ食えりゃ、上が誰でもええんですわ」
にぱ、と歯を見せて男が笑う。
「そう」
ネーヴェも笑った。
確かに、地方の者にとっては、崇高な理念よりも今日の生活が一番だろう。
「じゃあ、シシリに出稼ぎに来る?」
「受け入れてくれやすかね? なんか、余所者に冷たそうな場所なんですが」
「大丈夫よ、雪は冷たいけどね。ああ、でも、シシリは寒い場所だけれど大丈夫?」
「あっは、ここの夜ぐらいの寒さなら屁でもありませんや」
「それなら決まりね。シシリについたら、ネーヴェに許可されたと伝えて頂戴」
ごちそうさま、と告げて席を立つ。
そこでようやく、ネーヴェはダトイーンの姿が見当たらない事に気が付いた。
「…逃げたわね」
だが、放っておいても害はないだろう。
シシリに戻ってから、手配を行えば済むのだから。
「ありがとう。そろそろ行くわね」
「どちらに?」
「王都よ」
ディラノ達は、おそらく王都を通って戻るだろう。
行きがけに、帰りの宿の話をしていたんだから間違いない。
だが、それを伝えられた男は渋い顔をした。
「王都……ですか。気をつけて下さいね?」
「ええ、もちろんよ。何か心配事でも?」
「いえ、砂虫がここで出たって事は、これからあちこちで出ると思うので。十数年にいっぺんあるんですわ、その理由は知りませんが」
「そう。まあ、私は大丈夫よ。それに、ナティマの王だってその事は理解しているんでしょう?」
「だと良いんですがな。なんせネメン王は、贅沢三昧してきたあの方のご子息ですから。自分が見た事ない脅威に対して、ちゃんと危機感を抱けるお方かどうか知れたもんじゃありません」
「そ、そう……」
ネーヴェが笑みを引き攣らせる。
確かに、そういう危機感のない人がいても不思議はないだろう。
だが、それが王となると話は別だ。
過去のナティマの所業こそ、ネーヴェはシシリの伝説を信じているので嫌いだが、今、シシリに来ている民まで嫌いなわけではない。
「わかったわ、帰ったら相談してみる」
「誰に?」
「頼もしい神様に」
にっこりと、タエを思い浮かべながら微笑んでみせると、
「なるほど、それはいい案ですな」
精霊が、月の女神に相談するのは正しい選択だと思った男が、納得した声でうなずいた。




