襲撃
「はっ!」
鋭い声が、ネーヴェの口から発せられる。
それと同時に彼女の太刀を浴びせられた砂虫が、もんどりうって砂地に転げた。
「すげえ」
「女傑だ」
「女蛮族だ」
嬉しくもない賞賛が、次々と背後からかけられる。
それを背で聞き、ネーヴェは荒い息をしながら、こうなった最大の要因をつぶやいた。
「寝過ごしたわ……」
ずきずきと痛む額を押さえて苦笑する。
まさか置いていかれるとは思わなかった、と、そんな本音が口をついた。
※ ※ ※
思い返せば昨日のことだ。
夕暮れ時、ディラノ達が宿を取ったのを確かめて、ネーヴェも同じ宿に部屋を取った。
ただし、別の部屋だ。別に我が身の安全を優先したわけではない。
「お一人様で?」
「ええ。ちょっと一人になりたくて。できれば音が漏れない部屋が嬉しいわ」
「さようですか。それでしたら、こちらを」
と、宿の主人が満面の笑顔で、部屋の番号を指で示す。
だが、目はまっすぐにネーヴェを見ていた。
その肌の色が珍しいのだ。
褐色肌が多いここで、ネーヴェの肌は特に白く映る。
茶に入れたミルクのような、とか、冴え渡る月のような、とか、そんな噂をする人さえ出たぐらいだ。
その「白い女」は日差しが苦手なのか、いつもフードを目深に被っている。
――きっと、月の女神に護られた精霊か何かに違いない。
旅の行き先が地方に移れば移るだけ、そんな噂が増えるようになった。
「こちらが鍵です」
「ありがとう。借りるわね」
にっこりと微笑み、部屋の方へと歩いて行く。
そして部屋に入り、扉を閉め、ネーヴェはようやく顔にまきつけていた布を取り払った。
「ぷはっ……!」
布ごしではない新鮮な空気が、深呼吸と共に肺に飛び込んで来る。
乾いていながらも、汚れのない空気がやけに美味しい。
「や、やっと顔が出せるわ……!」
取り払った布を畳んで、暑苦しいローブも脱ぎ捨てる。
そして、ネーヴェは寝台に体を投げ出した。
ばふっと言う音がして布がたわむ。
とたんに舞い上がったホコリが落ち着いた辺りで、ネーヴェは「むう」と小さく唸った。
「……ばか」
隣部屋、壁の向こうにいるであろう、ディラノに対して悪態をつく。
顔を隠している最大の理由は、他でもない彼の存在だ。
明日こそは声をかけよう。
明日こそは。
あ、明日こそ、は……。
そんな事を考えている間に、日数ばかりが過ぎてしまった。
最初はディラノの後ろをついていくだけだったが、そのうち自分が目立っていると気付いて、ローブとフードで顔を隠すようになった。
そうしたらそうしたで、ますます、声をかけにくくなってしまった。
「か、帰るまでには声を……かけ……」
ごにょごにょと目標を口にして、枕に顔を押し付ける。
それから体を起こし、ネーヴェは再びローブを羽織った。
ナティマの夜は思いの他冷える。
その寒さに触れると、なぜか、シシリを思い出すのだ。
あの優しい竜のこと。
頑張っていたラタのこと。
祖父のような宰相のこと。
そして、たくさんの民のこと――。
それを置いて出て来たのだから、声ぐらいはかけておかないと。
そう決意し、ネーヴェは大きく息を吸い込むと、瞼を閉じてイメージを浮かべた。
まず、ディラノに声をかける。
城の者としてではなく、一介の女性として、普通に、さりげなく、やわらかに――。
「…………」
ぼわっと顔が熱くなる。
「む、無理よ。無理……!」
先の想像に自分自身で悶絶。
それからしばらく、ネーヴェは枕を抱きしめて、ごろごろとベッドの上を行き来していた。
※ ※ ※
そんな気持ちのまま、普通に眠れるわけもなく。
ディラノ達が眠った頃を見計らって、ネーヴェはそっと、食堂をかねている酒場へと足を運んだ。
アニアがいるせいで、ディラノは早寝早起きだ。だから、起きて来られて見つかる心配もないだろう。
見ると、酒場の端で、数人の男達が酒を酌み交わしていた。
「精霊さん、飲むかい?」
不意に、一人が盃を捧げて笑う。
精霊? とネーヴェが首を傾げると、ほかの男が真っ赤な顔でうなずいた。
「どうぞ、一杯飲んでくだせえや。月の精霊にお会い出来るたあ縁起がいい。なあに、精霊さんの怒りを買うようなまねはしませんって。統べる女神さんに石の涙を流されたら、まーた砂虫が増えちまう」
「砂虫?」
「ええ。女神さんが泣いたから水がなくなった、そこに砂虫が居ついた、ってあれですよ。言い伝えだと思ってたけど、あながち嘘でもなさそうですなあ。ささ、どうぞ。神さんは酒好きだと聞いております。代金は俺たちが持ちますよ」
椅子を引いて男が手招く。
それをしばらく眺め、ネーヴェはくすりと小さく笑った。
「ありがとう、いただくわ」
こうなったら、とことん飲んでやるわよ……!
そんな方向にネーヴェが吹っ切れた事を、男達が気付くはずもない。
※ ※ ※
「精霊だ……」
「本物だ……」
「おれ、帰ったら村で自慢するんだ……」
男達が、ネーヴェを凝視しながら口々にその光景を褒め称える。
酒が入った結果だろう。ネーヴェは、今、宿の中央で舞っていた。
飲むと急に歌いたくなる人がいるように、彼女の場合は踊りたくなるのだ
シシリの伝統的な、布をひらつかせて踊る民族舞踏は、王宮で訓練されただけあって、見事というより他になかった。
「精霊さんも酔うんだなあ」
不意に誰かがつぶやいたが、そもそも、ネーヴェは酒豪ではない。
王宮で嗜む程度に羊乳酒を飲むぐらいで、酔うほど飲む事は滅多にないのだ。
田舎者の男達は気付いていない。
自分達の目の前で踊っているその女性が、かつて、シシリで宰相執務に当たっていた女である事を。
「シシリ、か」
顔をネーヴェに向けたまま、男が遠い目をする。
この女神の言うシシリは、それはそれは素晴らしい国であるようだ。
ナティマの夜のように寒いものの、水に恵まれ、温かい湯にも恵まれているという。
そして、何よりも、とても優しい神が見守っているらしい。
「邪神の国、ってちっせえ頃は聞いたんだけど」
「その邪神を倒した神さんだろ。おれには、王妃様の方がよっぽど邪神みてえだよ」
「そうだなあ。贅沢は敵だ!って言って金目のモン全部持って行っちまいやがったしな。酒も王都じゃ飲めなくなったしさ。『娯楽は怠けを生むから禁止』なんだとよ。宝石とかは、砂虫女王が狙って来るから隠す必要があるとか何とかさあ」
「やだねえ、娯楽があるから明日の労働の気力になるのに。ああもう、俺、シシリで働こうかなあ」
「あ、じゃあ俺も」
「俺も。帰ったら嫁と話そうと思ってる」
全員の意見が合致する。
その直後、ぱたっと精霊、もといネーヴェが床に倒れた。
「精霊さん!?」
驚いた男が、椅子を蹴って立ち上がる。
そして、慌てて駆け寄ると、精霊は荒い息をこぼしていた。
いわく、
「……眠、い」
ようするに、酒が回ったのだ。
それに気づいた男達が、慌ててネーヴェを部屋まで運ぶ。
しかし、ネーヴェは起きなかった。
朝になり、ディラノ達が朝食を食べ、それから村の品を買い付けてナティマ王都へと出発しても起きなかった。
そんなネーヴェを起こしたのは、男の叫び声だった。
「砂虫だ――!」
と慌てふためく声。
そして、迫って来る砂虫の地響きで、ようやくネーヴェは「迫り来る芋虫の群れ」という脅威に気付いたのである。




