千と二十の年月を
タエ視点です。
タエは困惑していた。
いよいよ胸の鼓動が弱まり、ふっと全てが闇に落ちて。
再び目を開いた時には、愛してやまなかった夫が目の前にいて、黄泉から手を差し伸べてくれている──と思っていた。
ところが、
「…あら?」
見えたのは、まるで人形のように小さな人が二人。しかもずいぶんと下の方。
その光景に、孫に読み聞かせた童話のガリバーを思い出して、タエはぱちくりと目を瞬いた。
(困ったわ……)
きっと黄泉への道を間違って、妖精の国にたどり着いてしまったに違いない。
だって何だか窮屈だし、肩の後ろには壁の感触まで感じられるし。
ここで、うんと伸びをしたら、ぼろっと壁を壊してしまいそう。
争いも破壊もこりごり! と思っているタエにとって、それは避けたい事態だった。
「まあまあ、かわいらしい妖精さんですこと…」
こわばった表情の二人を怖がらせないように、できるだけ微笑みながら声をかける。
「いやですわ。わたくし、黄泉路を間違えてしまったのかしら…」
そう言って首を傾げると、小さい少年の方がタエの前に歩みよって来た。これまた、素晴らしくかわいい男の子だ。
幼いながらも整った顔立ち、シルクにも似る上品な白い髪。ひとみは黒曜石よりも深く、黒く、藍を基調とした服も、おとぎ話の王子さまのようにキラキラしていて美しい。
「ああ、そう言う事でしたの…」
タエの予想はひとりでに進み、とうとう一つの結論に達した。
ここは、妖精の国に違いないと。
「ごめんなさいね、驚かせるつもりはなかったのよ。ねえ、どうしたら良いかしら。わたくし、このままだと、あなたたちのおうちを壊してしまいそう」
そんな残酷な事をする気は全くない。
家を奪われる悲しみは、誰よりも知っているのだから。
「ねえ、出る方法を教えて下さらない?」
「火吹竜殿!」
「火吹竜?」
きょとりと、再び目をまたたく。
(火吹竜ってわたくしの名前かしら……。どなたかと間違っているんじゃないかしら?)
そんなタエの内心をよそに、少年がタエを見上げる。
大きなタエは怖かろうに、必死で強がるその姿が、とてつもなくけなげに見えた。
優しく見守るタエの前で、その少年が口を開く。
「われはシシリの王、ラタという。火吹竜殿! なにとぞ、貧しいわが国にお力を!」
「力?」
「ああ。いきなり召喚した非礼はおわびする。だから、戦場にて火吹竜殿のお力を貸していただきたい!」
震えを押し殺すように、声をはり上げるラタ。
伝説の竜は力と争いを好むと言う。ならば、この提案が一番早かろうと。
けれどもそれはタエにとって魅力的でも何でもない言葉で、とうとう、タエは途方にくれてしまった。
「ごめんなさいね? わたくし、争いは好きではありませんの……」
「え?」
「ほんとうに、ごめんなさいね。ねえ、わたくしはどうしたら良いのかしら……」
「ど、どうしたらって……」
ラタがぱくぱくと口を開閉させる。
それもそのはず。血で血を洗う惨劇を好むとまで伝えられている竜に、非暴力を訴えられるとは思ってもいなかったのだから。
「と、とりあえず、頭を上げないでそのままついてきてくれないかな。通路を通れば、出られるからさ」
困惑のあまり年相応の口調に戻るラタの隣で、こくこくとネーヴェがうなずく。その顔にも、動揺がはっきりと現れていた。
そんな二人にぎこちなく頭を下げた火吹竜が、頭を下げたまま──人で言うならば中腰の姿勢で、二人の案内に従ってのそのそと外に向かう通路を歩き出す。
ずしんずしんと、赤い巨躯を支える床が歩みに合わせて鈍く揺れたが、幸いにして、崩れるような気配は見られなかった。
「ねえ、優しい妖精さん。お名前は何ておっしゃるの?」
「ラタ。で、こっちが乳母のネーヴェ」
歩きながら、ラタが火吹竜に対して名を明かす。
自分たちが妖精と呼ばれている事への疑問より、竜の性格に対する驚きの方が大きかった。
「ラタちゃんにネーヴェさんね。わたくしはタエよ、今年で百二歳になったばかりなの」
「さい? さいってどれぐらいだ?」
「ええと、春を百二回過ごしたって事かしらね」
「百!?」「二回!?」
ラタとネーヴェの声が重なる。
おおよそ十年に一度しか春が来ないと言われるこのシシリ。
その常識において、タエが御年千二十歳の、実に老獪なドラゴンとして認識された瞬間だった。