赤竜祭(2)
「風呂行くの?」
開口一番、期待に満ちた声で問われ、ディラノが目を丸くする。
「あのなあ、今日には発つって昨日も言っただろうが」
「でも、発つ前に風呂、行くでしょ?」
「まあ……ついでだしな」
うなだれる。
そうやって期待されてしまうと、自分まで行きたくなってしまうのだから不思議なものだ。
「布は?」
「ここにあるよ。親父は?」
「ある。いいか、戻ったら発つんだぞ。準備はできてるのか?」
「もっちろん! オレを誰の子だと思ってんのさ親父、行商人ディラノの娘だぜ」
にぱ、と勝気にアニアが笑う。
それにディラノが面食らうと、アニアが慌てて鼻歌なんぞを歌い出した。
言った側から恥ずかしくなったのだろう。その可愛さに、親馬鹿が爆発しそうになる。
見ろ、というか見てくれ、このかわいらしい俺の娘を!
そう叫ぶ事はさすがにないが、心は嬉しさの大嵐だ。
娘がタエに父親自慢をしていたとか何とか、風の噂で聞いた気がしたが、まさか本当だったとは。
「火吹竜殿にも、そう言っていたのか?」
「うん。そしたらタエさまからお土産もらった。旅の無事を祈るお守りだって」
「お守り?」
「そうそう。でも親父にはまだ教えないよ、オレとタエさまだけの秘密だから。そのうちわかるとは思うけど」
心底嬉しそうにアニアが笑う。
その様子を見て、ついに無表情を取り繕えなくなったディラノが笑うと、アニアがディラノの隣に立った。
ディラノの一歩はアニアの二歩分。自然と、アニアの方が早足になる。
けれど、それも城を出るまでだ。雪原に出てしまえば、歩幅は自然と同じになる。
「親父、あのね」
「何だ?」
城の門を出て、白い階段を降りた辺りでアニアが足を止める。
ディラノが首をかしげると、やや遠慮がちに、アニアが手を差し出して来た。
「手……」
「ああ」
応じ、衣にうずめていた片手を外気にさらす。
その、荷造りと剣戟ですっかり節の出来た手に、アニアがそっと細い指を重ねた。
アニアの、どこか華奢な作りは妻譲りだ。
髪や目の色は、完全にディラノに似たけれど。
「オレも、親父みたいな手になる頃には、一人前の行商人になれてるといいなあ」
「俺が見本でいいのか?」
再び歩き出しながら娘に問う。
アニアの方に顔は向けない。アニアも、ディラノも前を向いたままだ。
「いい男が現れるかも知れんぞ、綺麗な服だって着たいだろう」
「その人と一緒に商人をやるよ。それで稼いで、服を買う」
「そうか。期待しているぞ?」
「うん」
力強くうなずいたアニアに、ディラノがかすかに笑みを浮かべる。
これが子供の夢で、将来は違ってしまったとしても、そう思ってくれただけで幸せだ。
「親父、もう人がたくさん来てる」
「そりゃそうだろう。火吹竜様のお祭りだぞ」
「うん、そうだよね。……へへ、何か嬉しいな」
雪を蹴ってアニアが笑う。タエを好きな人がこんなにいる、という事が改めて実感となったのだ。
王も自分も大好きな竜。優しい老婆のような不思議な守護者。
それを慕う人がこれだけいるのだ。この人数が、全てそうなのだ。
その事にアニアが心を弾ませていると、薄いミルク色の空気の中を、布で身を飾った女や子供が行き交う様子が目に入った。
買い物を楽しむ者、客を呼ぶ者、ただ見物に訪れる者。
その一団とすれ違い、持っていく品をあれこれ選び始める。
そんな二人を、山頂のタエと、その隣に作った風呂に漬かったネーヴェが、そろって静かに見下ろしていた。
「よろしいのですか? ネーヴェさん」
じっと、下方を見つめていたタエが口を開く。
「ええ、彼には彼の生活がありますから」
周囲に服の壁を作り、湯に体を浸したネーヴェが柔らかく笑った。
さっきまで隣にいたラタは、体が温まって気が抜けたのか、近くの洞窟で幸せそうな寝息を立てている。
ラタは生まれつき、それほど丈夫でもなかったが、ここに来るようになってから、ずいぶんと健康になった。
不思議がる城の者には、竜の祝福を受けた水で清めを受けるようになったからだと、半分ほど嘘を交えて説明してある。
「タエさま」
「はい」
「ディラノが心配ですか?」
「ええ。だって、旅は危険なのでしょう?」
「それはそうですけど。危険を恐れていたら、何もできませんでしょう?」
しっとりと濡れた黒髪をかきあげ、ネーヴェが唇に笑みをともす。
けれど、その笑みはすぐに、どこか寂しそうなものになってしまった。
「私は……」
ぽつ、とつぶやいた言葉が水面に落ちる。
「たくさん無くしました、たくさん、戴きました。私はラタ様をお守りする立場で、城の女です。いつだって見送る立場でした。ゼレ様も、レリウス様も見送りました。明日は帰って来ないかも知れないと、そう分かっていても見送りました。だって……」
「だって?」
「だって、私が引き止めて、何が変わるというのです。私のわがままで、その人の成すべき事を止めてどうなるのです。それに、彼は平民です。ずっと城においておいたら、彼の立場が危うくなる」
「それで、冷たくあたっておられましたの?」
「ええ。あの図体は、それぐらい強い姿勢じゃないと動きませんから」
冗談めかしてネーヴェが笑う。
それでも、行商の一つもまともにできないの? と言った自分の言葉を思い出すと、その笑いも引っ込んでしまった。
重い沈黙が落ちる。
それに耐え切れなくなって、ネーヴェが横を向くと、服の向こうでタエが口を開くのが影となって見えた。
「ネーヴェさん」
「はい」
「見送るしかないのは、本当に寂しいですよね」
「それは……その。たまには、そう思いますけど」
「ふふ、それでしたら、わたくしとおんなじですわ。だって、わかっていても、しんと胸が冷えてしまうのですから。でも、なかなか言うに言えなくて。本当に……人の心はむつかしいこと」
「……そう、ですね」
タエに同意し、するすると首の辺りまで湯に浸かる。
最強と言われる竜が経験した別れというのは、果たして、どんなものだったのだろう。
タエと「あの人」の話は聞けていないけど、竜と契約者の事だ。
その別れは、魂を裂くほど辛いものだったに違いない。
「……」
ふらふらと湯の中で両手を泳がせる。
指の間を、ほどよく温まったお湯が、やわらかくくすぐって行った。
「タエ様……。タエ様は、ここにいて下さいますよね?」
ここに。この塔に。このシシリに…ずっと。
そう言いながら、すがるように布を持ち上げる。
体は充分に温まったし、そろそろ上がってもいいだろう。
そう思いながら湯から出て、服に袖を通し始めると、タエが穏やかな声で応じてくれた。
「ええ、ええ。いられる限りおりますとも。今のわたくしの居場所はここですから。でもね、ネーヴェさん。人生っていうのは、一度しかありませんのよ?」
自分が竜に転生した事を棚上げて、タエが言葉に力を込める。
「レリウスさんも帰って来たのです、もう、気兼ねしなくても良いでしょう。誰が許さなくても、自分で自分を許せなくても、この、わたくしが許しますから。だからね、後悔だけはなさらないで。自分の心に嘘をついては駄目。戦がなくても、どんなときでも、人の命はあっさりと消えてしまうのです。だから、後悔する道を選んでは駄目」
「タエ様……?」
「御免なさいね、大きなお節介をして。でもね、後悔したくないのならご自身の心に素直になって下さいませ。大丈夫、いつでもここで待っておりますから。ラタさまも、ちゃんとわかっておりますよ。だから心配なさらないで」
一言ずつ、心の込められたタエの声が、ネーヴェの意地をやんわりとほどいていく。
それに対して、違う、と言う事もできたのに、その言葉はとうとう出せなかった。
だって、本当はずっとずっと望んでいたのだ。
いつか、自分の夢に向けて歩き出せる日を。
でも、期待を裏切ってはいけないから。
人々の生活を守らなければいけないから。
だから、自分は城に勤め続けなければいけないと……ずっと。
「……だめですね、私」
微笑んだネーヴェが、ためらいがちにタエの前まで歩みよる。
「タエ様には、全てお見通しなのに……誤魔化せると思っていたなんて」
そう、そんな事は無理だったのだ。だから、心を読まれた事を怒る気はしない。
目の前にいるのは、紛れもなく伝説のドラゴン……最強の竜。シシリの守護神。
一息で自分を焼き殺せてしまうであろう、そのいかつい口の前に立ち、そっと、竜頭に腕を伸ばす。
「タエ様……」
「なあに?」
「……行って来ます」
竜頭に触れ、小さな声で決意を告げると、タエが満足そうに喉を鳴らした。
「ええ、行ってらっしゃいませ」
さようなら、ではなく、行ってらっしゃいませ。
挨拶としては、それで間違っていないだろう。
けれどもその言葉が嬉しくて、ネーヴェは額をタエの鱗に押し付けた。
固くて冷たい、冷徹な鎧じみた鱗が、今は優しく思えてしょうがない。
「タエさま……また、いつか」
「ええ、またお会いしましょうね」
「……はい。タエ様も、どうかお元気で」
そう告げて体を離す。それから、ネーヴェは塔へ駆け込んで行った。
その後ろ姿が見えなくなったのを確かめて、タエがのそりと顔を洞窟の方に向ける。
「あの……」
首を傾げ、人ならば困り顔に近い表情を見せて、洞窟へと問いかける。
「これで、よろしいのでしょうか?」
「うん」
「そうですな」
問いかけに帰って来た声は、ラタと「もう一人」のものだった。
「寝たフリって、結構疲れるもんだね」
「ラタ様の父上様は、それはそれは寝たフリがお上手でしたのに」
洞窟から出て来たラタの後ろから、顔を覗かせたレリウスが笑う。
その服が藁まみれなのは、さっきまで藁に埋まって隠れていたからだ。
「いやはや、ネーヴェ様は律儀でしてなあ。私が行けと言っても聞き入れませんで」
「僕が言っても駄目だったし」
「だから、タエ様にご協力願ったのですよ。神様のお言葉とあれば、頑固なあの方も吹っ切れるだろうと」
「ネーヴェは真面目すぎるんだ」
本人がいない事をいい事に、男二人が好き勝手な感想を並べる。
その片方であるレリウスにしてみれば、ネーヴェが真面目になったのも無理はないという感じだ。
前王は破天荒過ぎたし、幼王は味方の顔をした敵だらけ。
これで、のんきに構えていられるとしたら、それはそれで問題である。
「後を頼んだ身で言うのも何ですが、いささか、申し訳ない気はしておりましてなあ」
「僕も」
「あら、まあ。それじゃあ、どっちがどっちを心配しているのか、わかりませんわ?」
くすくすと笑い、タエが体を起こす。
ようするに、揃いも揃って、ネーヴェは皆に幸せを願われていたというわけだ。
国を思い、皆を思って奮闘していたネーヴェにしてみれば、思いもよらない贈り物だろう。
彼女がそれを知る事はないが、それでいい。
「レリウスさまも、よろしければ湯浴みなさいます?」
「喜んで……と言いたいところですが、まだまだやる事が残っておりましてな。片付いたら、ゆっくり楽しませてもらおうかと」
「レリウス、僕も手伝うよ。ネーヴェが帰って来た時の、驚く顔が見てみたい」
「おや。ネーヴェ様を驚かせるので?」
「うん」
「ふむ、やはり貴方様はゼレ様のご子息ですな。思いついた時の顔が良く似ていらっしゃる」
あな恐ろしや、とおどけて肩を竦め、レリウスが風呂に顔を向ける。
「この、見事な湯の器。これがシシリに出来れば、ナティマからの訪問者も増え、病も減るというものですが」
「あら、南の国には御座いませんの?」
「ないと聞いております。なにしろ、乾くか、水が悪くなってしまいますので。新鮮な水源と熱があってこその湯の器というものです」
「そう……。それなら、なおさら温泉を見つけなければなりませんわね」
「温泉?」
「湯の沸く場所ですよ。雪の味が、温泉のものに時々、良く似ておりましてね。その……」
どう説明したものかと、タエが薄く牙を見せる。
「以前に行った時、お湯が口に入ってしまいましてね、それはそれは変わった味だと思いましたの」
「……つまり?」
「それに似た味が、時々、ここの雪からするのです。でも、どうしてもその源が見つからなくて。雪崩が起きる場所の近くだと思って、そのあたりを探しているのですが、どうしても見つからなくて……」
タエの言葉が、段々と尻すぼみになって行く。
「……その、わたくしの勘違いでしたら申し訳なくて」
なにしろ、タエはただの老婆だ。
雪が溶けるなら熱いはず、熱いなら温泉があるはず、という勘で探し回っているに過ぎない。
地質に関する知識があるわけでもなし、下手に「あります」なんて言って、勘違いだったら失望させてしまう。それでは、いくら何でも申し訳ないとタエは思っていたのだ。
黙り込んだタエを見て、レリウスも困った顔になる。
その途端、ラタが「あれだ」と小さくつぶやいた。
「思い出した。ねえレリウス、戻ったら書庫調べるの手伝って」
「構いませぬが。何か、それに関係する報告でもありましたかな」
「うん。『春でもないのに水を見た』って話。それ聞いてネーヴェが、竜の目覚めが近い、今なら呼べば応えてくれるかも知れないって……」
ラタとレリウス、二人の視線がタエに集まる。
「その報告を受けた時は、それが火吹竜殿が起こした奇跡だと思ったのですな。ネーヴェ様は」
「うん、そうみたい。場所を確かめに行かせてたから」
今では単なる勘違いと判るが、それが、これから役立つのかも知れない。
その、思いもよらない光明にタエが目元を綻ばせると、ラタが自慢気に胸を張った。
「タエさま、急いで調べて来るから待っててね」
「ええ、お願いいたしますね。でも、道中はお気をつけて」
「では、私もこれで」
「はい、宰相様。けれど戻る前に、藁はきちんと落として行って下さいね?」
お髭がほんのり金色ですわよ、とタエが笑う。
それに気付き、慌てて髭を指で梳き出したレリウスに、ラタが笑いながら小さな櫛を差し出した。




