親子(1)
自室の扉を開いたレリウスを、薪がはじける音と、あたたかな空気が出迎える。
しばらく使われていなかったとは思えないほど、部屋はきちんと整えられていた。
給仕達の完璧な仕事ぶりがうかがえる室内だ。
暖炉には充分な火が焚かれ、良く乾かされたマゴリの絨毯が、やわらかな色を見せている。
「変わらないものですな……」
声にしてつぶやくと、急に、この部屋に対する愛しさがこみ上げて来た。
扉を閉め、肩に乗った梟をうながして、近くの止まり木へと飛ばせてやる。
窓から見る、慣れ親しんだ景色も昔のままだ。
外に見えるのは相変わらずの雪景色。
違うのは、塔の側で存在を主張する真紅、シシリの守護者である火吹竜の姿。
その、大地を揺るがすような咆哮が朝を告げるのは、今やシシリの名物だ。
おそらく、寝起きのあくびの類なのだろうが、声はそんな淑やかなものではない。
戦場であの声を聞いた兵士は、さぞや生きた心地がしなかっただろう。
なにしろ、腹の底に響くような重量感のある声だ。
初めてその声を聞いた時、レリウスは思わず隠れ家から飛び出した。
当時、番犬として飼っていた犬も、尾を巻き込んで耳を寝かせ、毛玉になってぶるぶる震えていた。
羊は逃げ惑い、梟は毛を逆立て、まさに、これから戦が始まるのではなかろうかと言う雰囲気がシシリ中を震撼させた。
だが、それは続かなかった。
タエの性格を知ったのもあるだろう。
今では、この世の終わりを告げるような咆哮を聞いて、「ああ、朝だなあ」と眠たい目を擦って起きる程度である。
「まさか、竜と共に過ごす日が来るとは夢にも思いませんでしたが」
塔を見て懐かしむ。自分以外にも、何人もの王族が、ここからこうして外を見ていた。
最初は母に抱かれて、そのうち台に乗って、しまいには一人でこの窓の前に立ったのだ。
あの塔に守護竜が眠っているのだと、聞かされ、覚え、次の世代に教えて来た。
この部屋はずっと変わっていない。
変わったのは、ここに出入りする顔ぶれだけだ。
その中でもゼレは異彩だった。
もちろん、良い意味ではない。
「全くもって、困らされましたなあ……」
思い出すだけで苦笑が浮かぶ。
それぐらい、ゼレは手のかかる王だった。
幼少の頃は、ラタとは似ても似つかないやんちゃだった。
「本当に、どれだけ苦労させられた事か……!」
いかん涙が、と独りごちる。よくやった、と当時の自分を褒めたいぐらいだ。
なにしろ、目を離せば勉学から逃げ出すわ、見当たらなくなった靴は羊番犬のお気に入りにされているわで、何回、「実家に帰らせていただきます!」と荷物をまとめる覚悟をした事か。
それでも思いとどまったのは、実家もとい家が、城の目と鼻の先にあったからだ。
──帰る意味がない。
そしてもう一つ、辞職をためらう要素があった。
それがゼレの笑顔だ。
「レリウス!」
嬉しい事があると、真っ先にそう言いながら駆けて来た。
その晴天のような笑顔に、数え切れないほど敗北した。
そんな感じで悪戦苦闘した結果、ゼレは一人前の王になった。
その時、誰よりも泣いたのはレリウスだったと言う。
「あのゼレ様が、何とまあご立派になられて……」
「レリウス……泣いているのか?」
「ええ。てっきり、式典の最中で席を立たれると思っておりましたのに」
「ああ。お前が知っている通り、ずっと座っているのは得意じゃない」
本当に大変だった、と座ったままレリウスを見上げ、戴冠したゼレが笑う。
「なにしろ、足がしびれて今も立てないぐらいだからな」
「………」
泣いた事が悲しくて二度泣きしたのは、その時が人生初だったように思う。
ともあれ、そんな感じで苦労もあった。厳しい日々もあった。
けれど、それさえも思い出になってしまえば懐かしい。
「レリウス様」
「うむ?」
廊下側からかけられた声に気付き、思考を中断して返事を投げる。
だが、返事が聞こえなかったのか、改めて扉が二回叩かれた。
「レリウス様、開けてよろしいですか?」
「構わんよ、開いておる。はて、何やら覚えのある声なのは気のせいかの」
やや大きめの声でそう応じ、窓から離れて扉の前まで歩む。
そのタイミングで扉が開き、見覚えのある老婆が顔を見せた。
レリウスの顔に驚きが広がる。
「ラーニヤ!」
「ふふ、まだここで働かせて戴いておりますの。寒かったでしょうから、お茶をお持ちしようかと思いまして」
にこにこと、皺深い目元をなごませて老婆が笑った。
「後で、皆でご挨拶にまいりますわ。ネイミーは羊の毛刈り、シャンザは孫娘のお産に立ち会うために家に戻っておりますが、そろそろ、またこちらに来るはずですから」
「おお、おお。彼女達も元気なのか。それではすまんが、一杯頼もうかの」
「はい、宰相様。もうお加減はよろしいので?」
「一度は隠居した爺じゃよ、その名で呼ばれるとくすぐったくて叶わん。肝っ玉の据わったお前さん達相手だと尚更だ」
彼女達は強い。
レリウスの言葉を借りるなら、ここ一番の団結力が、周囲の予想を飛び越えるほどに強い。
「なあに、体の方は心配せんでいい。今や追い掛け回すべき悪戯小僧もおらんが、まだまだ、衰える予定はないからの」
ちらりと横目で窓を示し、レリウスがにやりと勝気に笑う。
眼下に見える庭園でも、ゼレはよく逃げ回っていたものだ。
給仕達との追いかけっこは日常茶飯事だったが、レリウスがいる日だけは捕まるのが早かった。
レリウスがここから、鏡を使って給仕達に指示を出していたからである。
そんな事を知らないゼレは、「レリウスが居ると女給仕の士気が上がる」と不平をこぼしていたが、レリウスがいなければいないで、「どこに出かけた」と城の者に聞いて回っていたという。
本当に、世話の焼ける王だった。
「ラーニヤ。セナンティの茶葉はまだ残っておるかの? あるなら、それを」
「もちろん。それでは、支度してまいりますね」
少々お待ちを、と一礼したラーニアの衣擦れの音が、さらさらと廊下を遠ざかって行く。
それに目を細め、ふ、とレリウスは息を吐いた。
ラタはおとなしい。ゼレとは似ても似つかない。
もう、あんな苦労はしなくて済むだろう。
そんな罰当たりな事を考えたせいだろうか。
椅子に戻ろうとした瞬間、今度は、勢いよく扉が開かれた。
「レリウス様!」
「…扉が壊れますぞ」
返事ついでに忠告を投げ、声の方に顔を向ける。
そこに、ネーヴェが息を切らして立っていた。
レリウスの眉間に皺がよる。
「はて、どうかなさいましたか?」
「いえその、ラタ様が来ませんでしたか!」
「いや、こっちには……」
「そうでしたか、失礼!」
言うが早いか、ネーヴェが扉も閉めずに走り去って行く。
その衣の裾が様々な色に染め上げられているのに気付いて、レリウスは苦笑した。
「何を、なさっておいでなのか……」
祭り支度の色粉ぐらい洗いなされ、という忠告はもう間に合わないだろう。
今回は、王よりネーヴェに振り回されるのかも知れない。




