召喚
荒れ狂う吹雪の音が、暗い塔の中にまで差し込んで来ている。
時刻は真夜中。雪に閉ざされたこの国にとっては、外を歩く事すら危険な時間。
だが、この国の神が眠ると言う塔の床に刻まれた魔法陣は煌々と、二人の前で神秘的な光を放っていた。
まるで何かが息をするように、明滅を繰り返し続ける青白い光。そこから滲み出す圧倒的な力が、その下に眠る者の強さを、先ほどから主張し続けている。
それを睨み、けわしい顔をしているのはこの国の王、ラタ。
雪のような白い髪に黒い瞳は、両親から譲り受けた特徴だ。
だが、王を称するには、彼はあまりにも若かった。年も、今年で十歳になったばかりである。
その側に付き従っている女は乳母のネーヴェ。こちらの年は、もう少しで二十五歳になる。
「わが名はラタ!」
小さな体を王衣で包んだラタが、甲高い声を張り上げる。その声に応じて、魔法陣が光を吹き上げた。
塔が一気に真昼の明るさに達し、それを追うように起こった突風が、陣を中心として駆け巡る。
高く強く、さながら竜の咆哮にも似た音色が、石造りの円筒の内側を突き抜けて行った。
「われは…っ」
風に吹き飛ばされそうになるラタを、あわててネーヴェが抱きしめる。
途端に、壁かけのタペストリーが、風にむしり取られて吹き飛んで行った。
まるで二人をあざ笑うかのように、縦横無人に吹き荒れる風。
その中から強者の気配をひしひしと感じて、ネーヴェはごくりと喉を鳴らした。
ラタが歯を食いしばり、魔法陣を強く見つめる。純粋さとひたむきさを宿した、王族の瞳。
そして幼き王は、心からの願いを込めて、最後の一言を口にした。
「われは古き伝説にて、火吹竜と盟約を交わせし者の子孫なり! 来たれ!」
召喚の儀が完成する。塔の中に満ちていた光が、一気に魔方陣へと集まって行く。
そして光が収まった時、ラタとネーヴェは「それ」を見た。
堅牢な真紅の鱗。石壁を軽々と吹き飛ばせそうな巨体。がっしりとした体に繋がる尾と首は長く、力強い鞭のような柔軟性を感じさせる。
見上げれば、その額から生える象牙色の角までもが見て取れる。総じて、その容貌は敵を粉砕するにふさわしい威厳に溢れ、凶暴な造形を見せつけていた。
グルルル、と竜が喉を鳴らす。かつての王と共に戦場を舞い、一息で千の兵を焼き殺したと言われる最強の生物、火吹竜。
国を安定させる為にはこれしかない、と一度は覚悟を決めたはずだったのだが、実際にその獰猛な姿を前にして、おいそれと軽口をたたけるほどの勇気は二人になかった。
「ラタ、様……」
声を震わせたネーヴェを、ぎろりと竜が睨み下ろす。その眼が怪訝そうに細められ、ゆるりと一度だけ瞬いた。
まるで品定めでもするかのような覇者の睥睨を受けては、足を動かす事もままならない。
続けて、鋭い牙の並んだ口がぐわっと開かれた時、二人は焼き殺される未来を予感した。
※ ※ ※
そもそも、召喚を提案したのはネーヴェだ。
父王であるゼレが雪崩に巻き込まれて急死。ラタがその跡を継いだのだが、なにぶん年齢が年齢である。
当然ながらお目付け役が必要となるのだが、長く王宮に仕えていたネーヴェは、その事に不安を隠せないでいた。
主君が、家令の操り人形となり、名ばかりの王となる可能性があったからだ。
「ラタ様」
王の私室。そこの寝台に腰掛けたラタに、ネーヴェが暖めた羊乳を差し出す。
絞って間もない、甘さを香らせるそれをラタが手にすると、ネーヴェがゆっくりと膝をついた。
「ラタ様、竜を喚びましょう」
「竜? おとぎ話のか?」
「おとぎ話ではありません。ラタ様も知っていらっしゃる北の塔、あの地下で、竜は召喚者を待っていると言われております」
寒さの厳しいこの一帯は、弱者に情けも容赦もない。加えて国内には野心家も存在し、周辺諸国との睨み合いもある。
それを知るネーヴェは元々後宮の出だ。ついぞ子には恵まれず、王妃にはなりそびれたが、早い段階で現王妃が亡くなってからは、乳母としてラタの世話と教育を頼まれて来た。
後宮では他の女に立場を奪われない程度に立ち回っていたし、それ相応に頭も良かった。王妃が決まった時、当時の後宮を知る女達が口々に、ネーヴェでなかった事を惜しんだぐらいだ。
それもあって、ゼレは息子の教育係にネーヴェを当てた。後宮出身の女達の支持を失いたくなかったというのもあるかも知れない。
「戦をするのか」
「しないための、召喚です」
ネーヴェが首を横に振る。竜を使って侵略戦争をしかけようと言う訳ではない。
だが、事あるごとに国境を侵犯して来る国の一つぐらいは、焼き払っておいた方が脅しになる。
「一度、力を見せるだけで良いのです。それだけで、充分威嚇になりますから」
ネーヴェが言葉に力を込める。純粋な王に比べれば、かなり武力よりの考えだ。
彼女が武人との交流を多く持っていたせいかも知れない。幼王と言う不利を、武力の後ろ盾と言う形で埋めようとネーヴェは考えたのだ。
事は早い方がいい。誰かが、策謀を巡らせてからでは遅いのだから。
だが、現れた火吹竜の姿は、ネーヴェの想像をはるかに超えて威圧的だった。
王のためとはいえ、自分はもしかしたら、大変な災いの元を招いてしまったのかも知れない。
しかし、後悔先立たず。すでに目の前に竜がいるのだ。
(もしも王に害を成すなら、刺し違えてでもお守りしなければ!)
竜の力を思えば、護身の剣など小枝に等しい。
それでも、ないよりはましだと、剣の柄にネーヴェが手を伸ばした時だった。
「…あら?」
火吹竜が、のんびりとした声を上げた。
「まあまあ、かわいらしい妖精さんですこと。いやですわ、わたくし、黄泉路を間違えてしまったのかしら…」
それは竜の声。
どこか気品にあふれた、おだやかな老婆の声だった。