事情(1)
祭り支度は、思った以上の賑わいとなった。
タエが現れた時にも人々は盛り上がったのだが、王族公認と言う事もあって、今回は前に遠慮していた人までもが参加している。
「おーい、そっちは切り終わったか!?」
「おうよ! そっちに持って行くから、すまんがまとめて運んでくれや!」
「あんたー! 弁当ここに置いとくよー!」
「おとうちゃん頑張ってー!」
響き渡る元気な声。
そのこだまを山頂で聞きながら、ラタは隣のアニアに笑いかけた。
アニアがそれに微笑み返す。
そんな二人が座っているのは、タエの翼の上だった。
「ラタ、人がいっぱいだね!」
「うん」
ラタがうなずく。吹く風が、その細い髪を揺らして行った。
遥か下方、白い広場を飾っているのは、咲き誇る花のような色の布だ。テントの屋根を飾る刺繍入りの布が、冬空に悠々とはためいている。
空は薄曇りで、はらはらと雪も降って来ているが、作業を邪魔するほどの量ではない。
男達が、切り倒した木の枝を手際良く落としていくと、枝についていた氷柱がキラキラと飛び散った。
蒸し風呂も大盛況だ。労働の後の汗を流す者、見物のついでに入って行く者で、人の出入りが朝から絶えない。
そんな人々の中にネーヴェの姿を探していたラタが、ふと、白い息を吐いて身を乗り出した。
「ネーヴェ、大丈夫かなあ」
「平気だと思うよ、親父もレリウス様もいるんだし。ね、タエさま!」
アニアがタエに同意を求める。始めて会った日の、タエに怯えていた様子はもう見られない。
旅慣れ、適応するのも早いアニアにとって、穏やかな性格のタエに馴染むのに多くの時間はいらなかった。
タエの性格を理解してすぐ、アニアは自分の祖母のようにタエを慕った。そんなアニアに、タエも親しんだ。
「大丈夫ですよ、わたくしもアニアちゃんと同じ思いですから。それより寒くなったら言って下さいね。いつでも、暖かい場所に降ろしますから」
「うん、ありがと。でも大丈夫だよ、タエさま」
人懐っこく笑うアニアの顔が、タエの瞳に映り込む。
それをしばし眺め、タエは顔をそらして温い息を吐き出した。冷えた空気がぼんやりと霞む。
──ふと、昨日の事が頭をよぎった。
昨日の夜、タエの元にネーヴェが訪れた。それと共に、レリウスも訪れた。
聞くところによると、レリウスがネーヴェにタエとの面会を頼んだのだと言う。
「お初にお目にかかります、火吹竜殿」
タエの姿を認めてすぐ、レリウスは深々と頭を下げた。その肩に乗った梟が、ひょい、と主にならって頭を下げる。
その仕草にタエがなごんでいると、顔を上げたレリウスと目があった。
──しばしの無言。
その沈黙はすぐに壊れた。お互いがほぼ同時に吹き出したからだ。
「いや、失礼。老いぼれが格好をつけると、どうにも肩が凝ってしまいましてな」
「それは、わたくしの台詞ですわ。勝手にお邪魔しておきながら、大切にして戴いて有難いやら、気恥ずかしいやら大変ですの」
笑み混じりの冗談が、二者の間を軽やかに行き交う。
タエには、必死に難しい顔をしているレリウスがおかしかったのだ。そしてそれを笑うまいとするタエが、レリウスにはおかしかった。
「いやはや、ご無礼を。時に、つかぬ事をお聞きしますが。やはり、あなたは伝説上の火吹竜殿ではないのですよね?」
「ええ」
タエの声から明るさが消える。もしも自分が伝説の竜だったら、春を返してあげられたのに!
その事を思い出し、タエが表情を曇らせると、レリウスが不意に笑顔を見せた。
「そうですか。いえ、そうであってくれればと思っておりました」
「え?」
「良かった、と申し上げておるのです」
レリウスが、はっきりした声で告げる。
それからひとつ咳払いをして、レリウスは改めてタエを見た。
「実はですな、先代の火吹竜殿の話は、どうにも不思議な部分がありまして。果たして、味方だったのかさえはっきりしないのです」
「そうなのですか?」
「ええ」
迷わず告げるレリウスの側で、ネーヴェが目を丸くする。
信じられない言葉だったのだ。何よりも竜の加護を王族に教えて来たレリウスが、まさか竜を疑っているとは。
「レリウス様、それはどう言う意味で?」
ネーヴェが動揺した声で聞く。
そんなネーヴェを手で制し、レリウスはゆっくりと話し始めた。
「シシリでは、竜は王族と共に戦い、傷を癒すために眠りについたとされています」
ゆえに王族は『竜の守護者』と呼ばれている。眠る竜を守り、同時に竜に守られる存在として。
「ところが、ナティマではこれと逆なのです」
「ナティマ?」
「シシリの祖を追った、大国の名前です…」
ネーヴェが悲しそうに目を伏せる。
大国ナティマ。シシリを囲む山を超え、その南方に位置する王国の名だ。シシリは位置的に人が住める北端になり、そこから先は人の世界ではないとされている。竜が作った冬がはびこり、人が生きていけない世界。
さすがに、そこにはシシリの民でも入れない。
もちろん、ナティマも入ろうとはしない。
「そのナティマでは、どんな伝説があるのでしょう?」
「それが、残念ながら、こう語られているようなのです──」
レリウスが苦虫を噛み潰したような顔になる。
「古代都市の名残であった峰にシシリの祖が踏み入り、峰を使わせてくれるよう竜と契約を結んだ…という所までは、シシリの伝説と似ております──」
ところが、竜はシシリを裏切った。
『おろかな人間よ、我が何のために貴様と契約を結んだと思う? いにしえの呪縛から逃れるためだ! 新たな契約者が我の自由を望めば我は自由だ! 自由なのだ!』
竜は笑いながら、ナティマを焼き払った。あっという間に辺りは火の海になった。
竜が、峰を使わせてやると言う理由でシシリの祖と契約を結んだのは、古代都市の封印から逃れるための嘘だったのだ。
それに気付いたシシリの祖は、急いでナティマに助けを求めた。
ナティマの軍は勇敢だった。シシリの祖のようには逃げず、果敢に火吹竜と戦ってシシリへと追い詰めた。
シシリの祖は、契約者としての責務を果たすべく自ら命を絶ち、それをもって竜を塔の奥深くに封印した──
「ゆえにシシリの王族は、『竜の守護者』と呼ばれていると言うのです。眠る竜の封印を続け、世界を竜から守る存在として」
「…そんな」
ネーヴェが声を震わせる。
「それでは、シシリの話と逆ではありませんか……」
「ええ。私にも、どちらが正しかったのか、今となっては判りません。春は竜が奪ったのではなく、元からなかったと言う話もあります。ですが、これを知れたのは最近の事でしてな。行商に行った者から聞いた話を繋ぎ合わせて、ようやく全体が見えてきました」
レリウスが苦笑する。
「ずっと不思議だったのですよ。このような小国から出た行商が、ナティマでなぜ無事を保証されているのか。なぜ、貴族以外がシシリの行商に興味を持たないのか」
「それは…毛糸を占有するためでは?」
「それもあります。けれどナティマの貴族は、それ以上に我が身が大事なのです。シシリの民を害すれば、竜を放たれるかも知れないと。彼らは、彼らの保身のために、行商に手を出させないのです」
そこまで言って、レリウスが息をついた。
たったこれだけの情報ですら、集めるのは困難を極めたのだ。
なにしろ行商の前で貴族たちはそれを言わない。
そのため、行商が小耳に挟んだ話を集めるだけで、十年以上かかってしまった。
「まあ、火吹竜殿にお会いして、杞憂であったと知れましたのでな。しょせん、過去は過去。今の火吹竜殿とは、何の関係もありませぬ」
「レリウス様…そう思うなら、不安になるような事を言わないで下さい!」
「いやいや、言わねばと思っておったのですよ。ナティマの民は、おそらく火吹竜殿がおとなしいのは、王族の力によるものだと誤解しているでしょう。ここだけは、口裏を合わせておかないと。火吹竜殿には申し訳ないですが、おそろしいものを制御していると思われれば、今後も平和を維持できます」
「けれど、それではタエ様のお気持ちが!」
ネーヴェが声を張り上げる。こんなにも優しい竜を、脅威であると言えというのか。
今でさえ、生まれたばかりの動物達に雪が降り注がないようにと、翼を広げている優しい竜を。
確かに、竜の力は凄まじい。けれども、それと殺戮とは別だ。
竜であることに、いったい何の罪があるというのだろう。大切なのは、その心なのに。
「タエ様……」
ネーヴェとレリウス、二人の顔がタエに向く。
タエが、その視線を受けて小さく笑った。
「どうぞ、そう言う事にしてくださいませ」
「タエ様!」
「いいのですよ、ネーヴェさん。どう思われようと、わたくしがわたくしで無くなるわけではありません」
タエが言い切る。その穏やかな声が、しんと雪原に染みとおった。
「わたくしの噂一つで、平穏が守れるのでしたら有難いこと。恐ろしい事はできませんけど、他はお任せいたしますわ」
「ええ、ありがとうございます」
「…タエ様が、それでよろしいのなら」
ネーヴェがしぶしぶ同意する。
当のタエが納得しているなら、自分が口を挟む場面ではないのだろう。
どうにも、気分的にすっきりしなかったが、悩むのは後でも良い。
「さて、深刻な話はここまでで。我々は祭りを楽しみにいたしましょう。祭りは、人の心に火を灯しますからな」
ローブの雪を払い、レリウスが背筋を伸ばす。
その途端にバランスを崩した梟が、ばさっと大きな翼を広げて近くの枝へと飛び立って行った。
「民も、竜のためと言う大義名分がつけば堂々と騒げます。普段は売れないようなものでも、祭りとあれば売れます。季節の春は来ませんが、心の春は来ます。それが、どれほど価値のあることか」
「タエ様のおかげですね」
「ええ。民の不満は、生活の厳しさから生まれます。祭りはそれを払う。火吹竜殿が来て下さって、本当に良かったと思っておるのですよ。火吹竜殿が、民に笑顔をくれたのです」
「わたくしが……?」
「そうです」
レリウスがうなずく。うなずいてから、崇拝すべき竜を励ましている自分に気が付いた。
「しばらく祭りに追われ、私も、ネーヴェ様も、城の者達も忙しくなるでしょう。申し訳ありませんが、その間、ラタ様を見ていてもらえますでしょうか」
「ええ、それぐらいでしたら喜んで」
「タエ様、私からもお願いさせて下さい。ディラノにたのみたい事があるので、アニアも一緒に見ていて欲しいのです。通路は二人までなら通れますから、時間になったら、必ず一緒に帰って来るようにと」
「ええ。わかりましたわネーヴェさん。その…」
顔をネーヴェの方に向け、タエが言いよどむ。
ネーヴェの表情の陰りが気になったのだ。けれど、それをどう言っていいか分からず、タエは結局、内心とは別の言葉を口にした。
「その、あんまり無理をなさっては駄目ですよ。ネーヴェさんに何かあったら、ラタ様が悲しみますから」
「はい」
ネーヴェがうなずく。それを見て、タエはようやく肩の力を抜いた。
──それが昨晩の出来事だ。
その全てを思い出し終えたところで、アニアの声が耳に飛び込んで来た。




