表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/41

音色

 ゆっくりとまぶたを押しあげ、雪原につけていたあごを持ち上げる。

 空を仰ぐと、赤い鱗の間に挟まっていた雪が、きしきしと小さな音を立てて軋んだ。


「今日も雪ですのねえ」


 寝起きのぼんやりとした目で、はらはらと降って来る雪を見る。

 それから軽く首を降ると、うっすらと積もっていた雪が落ち、鱗の輝きがあらわになった。


「笛……」


 そうだわ、あの音の出処はどこかしら?

 そんな感じで首を巡らし、こんもりとした雪の塊に視線を止める。


「あら」


 眠る前に、タエがせっせと積み上げた雪。それに穴が開いている。

 猿が滑って遊べるようにと作ったものだったが、使われずに溶けたのだろう。


「この音でしたの……」


 翼で、人で言えば両手を打ち合わせるような仕草をして、しげしげと雪の塊を見つめる。

 途端に翼にあおられた風が穴を通り、ぼおう、と深みのある音を響かせた。


「あら、まあ」


 再び翼を動かして音を立てる。


「汽笛のような音ですこと」


 威圧感のある口元が、ゆったりと微笑みの形に開いた。これに似た音を聞いた事があるのだ。

 ようやく生活が落ち着いて、子供達を連れて親戚を訪ねた時だった。

 まだ昭和の始めで、あの日、初めての家族旅行に騒ぐ年下達を、大兄とちい兄がまとめるべく駆け回っていた。

 力のある大兄と、頭の良いちい兄。夫亡き後は、この二人が父の代わりをしてくれた。

 よく喧嘩もしていたけれど、この二人がいざ手を組むと、とんとん拍子で事が運んだ。


 ──頼もしい子供達だった。


※ ※ ※


 かたんことん、かたんことん…。

 規則正しい枕木の音が、車内に軽やかに響いている。

 窓辺に腰掛け、ふと前を見ると、さきほどまで奮闘していた大兄が、いびきを立てながら眠りこけていた。


「お客様」


 不意に柔らかな声がかけられる。

 それに意識を引かれて振り仰ぐと、きっちりとした制服に身を包んだ車掌が立っていた。


「どうぞ、毛布を」

「まあ、ありがとうございます。車掌さんもお疲れでしょうに」

「いえいえ。こんな地方の路線に、こんな時期に乗って下さったのですから。鉄道員として、これほど嬉しい事はありませんよ」


 では、と毛布を渡し終えた車掌が、隣の車両へと移って行く。

 その背中に頭を下げ、タエは毛布を大兄にかけた。

 別の席では、竹に肥後守で切り目をつけたものを、ちい兄が弟妹達にあげている。

 おそらく笛か何かなのだろう。弟妹達には、まだ音も出せないだろうけど。


「もう、夏なのですね……」


 流れていく景色が目にまぶしかった。日差しも、それを遮る入道雲もまぶしかった。

 蜻蛉が空を縫い、まだ若い稲が、吹き抜ける風にざあっと緑の波を立てていく。

 空を見ると、一機の飛行機が主翼を輝かせ、火の雨の代わりに細く、白い雲を残して行く所だった。


 警報は鳴らない。もう、怯える時代ではない。

 ただ、家族が死なずに暮らせる、今はそれだけで充分だった。

 傷ついたことも、悩む事も色々あったけど、きっと子供たちはしっかり育って行ってくれるだろう。


 そういう時代になったのだ。

 タエとしては、それだけで良かった。


「買ってきたぞ!」


 隣の車両から、ラムネ瓶を買って戻ったちい兄がそう言うや否や、わっと年下がちい兄に群がる。


「莫迦、待てって! 今あけてやるから!」


 慌ててそう叫んだちい兄が、ぽんぽんと栓を抜いたラムネを分けていった。


 一通り分け終えても、一本残る。

 買う数を違えたのかとタエが訝しんでいると、ちい兄がぐいっとそれを差し出して来た。


「母さんの」

「あら、私にも?」


 差し出された一本を受け取り、手で包む。ひんやりと透き通った硝子の感触が肌に触れた。

 ふわりと広がるラムネの香り。口をつけると、淡い甘さが舌に触れた。


「……美味しい」


 後々、珍しくもなくなってしまうそれが、青い瓶の中に硝子玉を落としこんだそれが、その時はとても美しく見えたものだ。

 海のしずくを、そこに閉じこめたようで──泡のひとつひとつが、宝石にも見えた。


 ぼう、という音をその時に聞いた。

 見れば、半分以下まで中身を減らした瓶を、ちい兄が窓の外に差し出している所だった。


「先生がな」


 窓から手を出し、進行方向に瓶口を向けながらちい兄が言う。


「こうやると音が鳴るって教えてくれたんだ。ほら、銀河鉄道の汽笛みたいだろ」

「銀河鉄道?」

「あの世まで行く夜空の列車だと。星の間を抜けて走るんだそうだ」

「……そう」


 慣れない炭酸をちびりと飲んで、得意げなちい兄に微笑みを向ける。

 膝の上に瓶を置き、そっと目を伏せると、その列車に愛するあの人が乗っているような気がした。


「母さん」

「なあに?」

「着いたら起こすから。昨日、夜中まで針子してたろ?」

「あら、気づいてたの? 起こさないように、静かにしてたのに」

「んにゃ、厠行く時に見えちまった」

「あら…やだ。でも、今から隠すのもおかしいわね。母さん少し眠るから、後はお願いね?」


 着いたら起こしてね、と一言告げて目を閉じる。

 けれど、窓辺に肘をついたちい兄はふてくされたように鼻を鳴らし、ぼぉう、と瓶の音を鳴らしながら窓の外だけを眺め続けているだけだった。


「……懐かしいこと」


 そんな時代を思い返して、改めて目の前にある雪山を見る。眠気の後退と共に、頭をもたげてくるのは好奇心だ。

 尾の先で雪に穴を開け、翼で仰いで音を聞く。少し雪を詰めてみると、今度は先ほどより高い音になった。

 穴を広げるのも狭めるのも簡単だ。人の頃だったら、重労働だっただろうけど。


「せっかくですし、もう一つ作ろうかしら……」


 爬虫類のような瞳で辺りを見渡し、長い首をゆらりと傾げる。

 材料には困りそうにないし、雪遊びもたまには悪くない。


※ ※ ※


 ひやりと冷えた空気が、アニアの肩をなでて行く。


「音……?」


 つぶやき、寝ぼけた目をこすりながら体を起こし、アニアは辺りを見渡した。

 目に入るのは城の一室だ。ランタンの灯りを除いて光源はなく、景色はまだ薄暗い。


「……寒」


 ぎゅっと毛布を両手でつかみ、首元によせて寒さを防ぐ。

 改めて耳を澄ますと、やはり、聞いた事のない音が聞こえてきていた。


「何だろ…?」


 前にシシリにいた時には、こんな音はしなかった気がする。風のうなるそれに、音階がついたような奇妙な音だ。


 ぼぉう、と鳴ったかと思えば、ぶぉう、とまた鳴る。

 生まれてこのかた、こんな音を聞いた事はなかった。


「親父、起きて! 何か聞こえる!」


 言いながら隣を見る。だが、ディラノは豪快に眠っていた。

 旅の疲れではなく、昨日もらった酒が美味だったせいだ。


 その証拠に、酒の匂いがまだ残っている。


「まったく、もう!」


 ばふっと毛布を叩き、ひょいと寝台から飛び降りる。

 床を駆け、大きく重い扉に体重をかけて押し開くと、音が廊下を満たしていた。


「……」


 きょろきょろと左右を確かめ、裸足で廊下に出て歩き出す。

 寒さで曇る窓の向こうから、早朝独特の淡い明るさが、ぼんやりと差し込んできていた。


「あ……」


 歩いて行くとラタが見えた。その隣にいるネーヴェの姿も。

 毛布を巻いたラタと、その肩を抱き寄せるネーヴェが、並んで窓の外を眺めている。


「ラタ? この音……」

「ああ。アニア、おはよう」

「お、おはよう。なあ、オレがいない間に、シシリになにかあったのか? これ何の音だ?」


 二人の側まで近付き、隣に立って外を見る。と、白靄の向こうに塔が見えた。そこに大量に作られた不思議な雪の塊も。


「あれ、火吹竜様か?」


 塊の間をぐるぐると駆け回る赤い輪郭を見て、アニアが首を傾げる。


「ええ。今朝から、ああやっていらして」


 楽しそうに目を細め、ネーヴェが応じた。


 タエが塊に向け、翼で風を送るたびに、その不思議な音がこぼれて来る。一つあおげば和音が一つ、二つ同時に風を送れば和音が二つ。


 曲と呼ぶには不格好ながら、高く低く、不思議な音階を辿るそれに、気付けば町の方でも、家から顔を出した人々が塔の方を降り仰いでいた。


「ネーヴェ、テラスに出ようよ。その方がよく見える」

「そうですね。アニアも一緒にどうですか?」

「もちろん! 親父ってば飲み潰れてるんだもん。あんな調子で、オレが嫁になった時に大泣きしても知らないからな!」

「嫁……」


 ラタとネーヴェが顔を見合わせる。


 ややあって、小さく吹き出したネーヴェが、「行きましょう」とアニアの方にも手を差し出した。


※ ※ ※


 猿達が、竜を遠巻きに見つめている。

 駆け回る竜に踏まれないためと言うのもあったが、それ以上に、竜が何をしているのかという好奇心が、彼らをの目を惹きつけていた。


「…もうちょっと、ね。もうちょっと」


 そう言いながら駆け回り、タエが音の調整を繰り返す。

 その珍しい音色に、いつしか、猿以外の動物も集まって来ていた。

 ──どれほど、そうやって夢中になっていただろう。

 不意に、自分が奏でるもの以外の音を聞いて、タエはきょとんと目を丸くした。


「……まあ!」


 音はシシリの方からだった。草笛や、木の笛や、陶器のそれが、めいめいに音を重ねているのだ。


 呆然とそれを見下ろした後、改めて翼で雪山を仰ぐ。ぶぉう、と言う鈍い音に応えるように、様々な音が返された。

 見れば城のテラスでも、ラタやアニアが楽器を手にしている。テラスには白い梟が一羽いて、ちょうど、どこかに飛び立つ所だった。


「あら、あら」


 恥ずかしそうに方をすくめ、それでも、タエは次々と雪山を仰いだ。塔からの音と、国からの音が混ざりあい、深く溶け合って広がって行く。


 その瞬間、何かが塔の底で震えたが、タエはそれに気付く事もなく演奏を続けた。


 タクトを振る指揮者のように、翼を降り上げ、降りおろす。

 そうして成される奇妙な音楽会が終わったのは、太陽が真上に届く頃だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ