音色
ゆっくりとまぶたを押しあげ、雪原につけていたあごを持ち上げる。
空を仰ぐと、赤い鱗の間に挟まっていた雪が、きしきしと小さな音を立てて軋んだ。
「今日も雪ですのねえ」
寝起きのぼんやりとした目で、はらはらと降って来る雪を見る。
それから軽く首を降ると、うっすらと積もっていた雪が落ち、鱗の輝きがあらわになった。
「笛……」
そうだわ、あの音の出処はどこかしら?
そんな感じで首を巡らし、こんもりとした雪の塊に視線を止める。
「あら」
眠る前に、タエがせっせと積み上げた雪。それに穴が開いている。
猿が滑って遊べるようにと作ったものだったが、使われずに溶けたのだろう。
「この音でしたの……」
翼で、人で言えば両手を打ち合わせるような仕草をして、しげしげと雪の塊を見つめる。
途端に翼にあおられた風が穴を通り、ぼおう、と深みのある音を響かせた。
「あら、まあ」
再び翼を動かして音を立てる。
「汽笛のような音ですこと」
威圧感のある口元が、ゆったりと微笑みの形に開いた。これに似た音を聞いた事があるのだ。
ようやく生活が落ち着いて、子供達を連れて親戚を訪ねた時だった。
まだ昭和の始めで、あの日、初めての家族旅行に騒ぐ年下達を、大兄とちい兄がまとめるべく駆け回っていた。
力のある大兄と、頭の良いちい兄。夫亡き後は、この二人が父の代わりをしてくれた。
よく喧嘩もしていたけれど、この二人がいざ手を組むと、とんとん拍子で事が運んだ。
──頼もしい子供達だった。
※ ※ ※
かたんことん、かたんことん…。
規則正しい枕木の音が、車内に軽やかに響いている。
窓辺に腰掛け、ふと前を見ると、さきほどまで奮闘していた大兄が、いびきを立てながら眠りこけていた。
「お客様」
不意に柔らかな声がかけられる。
それに意識を引かれて振り仰ぐと、きっちりとした制服に身を包んだ車掌が立っていた。
「どうぞ、毛布を」
「まあ、ありがとうございます。車掌さんもお疲れでしょうに」
「いえいえ。こんな地方の路線に、こんな時期に乗って下さったのですから。鉄道員として、これほど嬉しい事はありませんよ」
では、と毛布を渡し終えた車掌が、隣の車両へと移って行く。
その背中に頭を下げ、タエは毛布を大兄にかけた。
別の席では、竹に肥後守で切り目をつけたものを、ちい兄が弟妹達にあげている。
おそらく笛か何かなのだろう。弟妹達には、まだ音も出せないだろうけど。
「もう、夏なのですね……」
流れていく景色が目にまぶしかった。日差しも、それを遮る入道雲もまぶしかった。
蜻蛉が空を縫い、まだ若い稲が、吹き抜ける風にざあっと緑の波を立てていく。
空を見ると、一機の飛行機が主翼を輝かせ、火の雨の代わりに細く、白い雲を残して行く所だった。
警報は鳴らない。もう、怯える時代ではない。
ただ、家族が死なずに暮らせる、今はそれだけで充分だった。
傷ついたことも、悩む事も色々あったけど、きっと子供たちはしっかり育って行ってくれるだろう。
そういう時代になったのだ。
タエとしては、それだけで良かった。
「買ってきたぞ!」
隣の車両から、ラムネ瓶を買って戻ったちい兄がそう言うや否や、わっと年下がちい兄に群がる。
「莫迦、待てって! 今あけてやるから!」
慌ててそう叫んだちい兄が、ぽんぽんと栓を抜いたラムネを分けていった。
一通り分け終えても、一本残る。
買う数を違えたのかとタエが訝しんでいると、ちい兄がぐいっとそれを差し出して来た。
「母さんの」
「あら、私にも?」
差し出された一本を受け取り、手で包む。ひんやりと透き通った硝子の感触が肌に触れた。
ふわりと広がるラムネの香り。口をつけると、淡い甘さが舌に触れた。
「……美味しい」
後々、珍しくもなくなってしまうそれが、青い瓶の中に硝子玉を落としこんだそれが、その時はとても美しく見えたものだ。
海のしずくを、そこに閉じこめたようで──泡のひとつひとつが、宝石にも見えた。
ぼう、という音をその時に聞いた。
見れば、半分以下まで中身を減らした瓶を、ちい兄が窓の外に差し出している所だった。
「先生がな」
窓から手を出し、進行方向に瓶口を向けながらちい兄が言う。
「こうやると音が鳴るって教えてくれたんだ。ほら、銀河鉄道の汽笛みたいだろ」
「銀河鉄道?」
「あの世まで行く夜空の列車だと。星の間を抜けて走るんだそうだ」
「……そう」
慣れない炭酸をちびりと飲んで、得意げなちい兄に微笑みを向ける。
膝の上に瓶を置き、そっと目を伏せると、その列車に愛するあの人が乗っているような気がした。
「母さん」
「なあに?」
「着いたら起こすから。昨日、夜中まで針子してたろ?」
「あら、気づいてたの? 起こさないように、静かにしてたのに」
「んにゃ、厠行く時に見えちまった」
「あら…やだ。でも、今から隠すのもおかしいわね。母さん少し眠るから、後はお願いね?」
着いたら起こしてね、と一言告げて目を閉じる。
けれど、窓辺に肘をついたちい兄はふてくされたように鼻を鳴らし、ぼぉう、と瓶の音を鳴らしながら窓の外だけを眺め続けているだけだった。
「……懐かしいこと」
そんな時代を思い返して、改めて目の前にある雪山を見る。眠気の後退と共に、頭をもたげてくるのは好奇心だ。
尾の先で雪に穴を開け、翼で仰いで音を聞く。少し雪を詰めてみると、今度は先ほどより高い音になった。
穴を広げるのも狭めるのも簡単だ。人の頃だったら、重労働だっただろうけど。
「せっかくですし、もう一つ作ろうかしら……」
爬虫類のような瞳で辺りを見渡し、長い首をゆらりと傾げる。
材料には困りそうにないし、雪遊びもたまには悪くない。
※ ※ ※
ひやりと冷えた空気が、アニアの肩をなでて行く。
「音……?」
つぶやき、寝ぼけた目をこすりながら体を起こし、アニアは辺りを見渡した。
目に入るのは城の一室だ。ランタンの灯りを除いて光源はなく、景色はまだ薄暗い。
「……寒」
ぎゅっと毛布を両手でつかみ、首元によせて寒さを防ぐ。
改めて耳を澄ますと、やはり、聞いた事のない音が聞こえてきていた。
「何だろ…?」
前にシシリにいた時には、こんな音はしなかった気がする。風のうなるそれに、音階がついたような奇妙な音だ。
ぼぉう、と鳴ったかと思えば、ぶぉう、とまた鳴る。
生まれてこのかた、こんな音を聞いた事はなかった。
「親父、起きて! 何か聞こえる!」
言いながら隣を見る。だが、ディラノは豪快に眠っていた。
旅の疲れではなく、昨日もらった酒が美味だったせいだ。
その証拠に、酒の匂いがまだ残っている。
「まったく、もう!」
ばふっと毛布を叩き、ひょいと寝台から飛び降りる。
床を駆け、大きく重い扉に体重をかけて押し開くと、音が廊下を満たしていた。
「……」
きょろきょろと左右を確かめ、裸足で廊下に出て歩き出す。
寒さで曇る窓の向こうから、早朝独特の淡い明るさが、ぼんやりと差し込んできていた。
「あ……」
歩いて行くとラタが見えた。その隣にいるネーヴェの姿も。
毛布を巻いたラタと、その肩を抱き寄せるネーヴェが、並んで窓の外を眺めている。
「ラタ? この音……」
「ああ。アニア、おはよう」
「お、おはよう。なあ、オレがいない間に、シシリになにかあったのか? これ何の音だ?」
二人の側まで近付き、隣に立って外を見る。と、白靄の向こうに塔が見えた。そこに大量に作られた不思議な雪の塊も。
「あれ、火吹竜様か?」
塊の間をぐるぐると駆け回る赤い輪郭を見て、アニアが首を傾げる。
「ええ。今朝から、ああやっていらして」
楽しそうに目を細め、ネーヴェが応じた。
タエが塊に向け、翼で風を送るたびに、その不思議な音がこぼれて来る。一つあおげば和音が一つ、二つ同時に風を送れば和音が二つ。
曲と呼ぶには不格好ながら、高く低く、不思議な音階を辿るそれに、気付けば町の方でも、家から顔を出した人々が塔の方を降り仰いでいた。
「ネーヴェ、テラスに出ようよ。その方がよく見える」
「そうですね。アニアも一緒にどうですか?」
「もちろん! 親父ってば飲み潰れてるんだもん。あんな調子で、オレが嫁になった時に大泣きしても知らないからな!」
「嫁……」
ラタとネーヴェが顔を見合わせる。
ややあって、小さく吹き出したネーヴェが、「行きましょう」とアニアの方にも手を差し出した。
※ ※ ※
猿達が、竜を遠巻きに見つめている。
駆け回る竜に踏まれないためと言うのもあったが、それ以上に、竜が何をしているのかという好奇心が、彼らをの目を惹きつけていた。
「…もうちょっと、ね。もうちょっと」
そう言いながら駆け回り、タエが音の調整を繰り返す。
その珍しい音色に、いつしか、猿以外の動物も集まって来ていた。
──どれほど、そうやって夢中になっていただろう。
不意に、自分が奏でるもの以外の音を聞いて、タエはきょとんと目を丸くした。
「……まあ!」
音はシシリの方からだった。草笛や、木の笛や、陶器のそれが、めいめいに音を重ねているのだ。
呆然とそれを見下ろした後、改めて翼で雪山を仰ぐ。ぶぉう、と言う鈍い音に応えるように、様々な音が返された。
見れば城のテラスでも、ラタやアニアが楽器を手にしている。テラスには白い梟が一羽いて、ちょうど、どこかに飛び立つ所だった。
「あら、あら」
恥ずかしそうに方をすくめ、それでも、タエは次々と雪山を仰いだ。塔からの音と、国からの音が混ざりあい、深く溶け合って広がって行く。
その瞬間、何かが塔の底で震えたが、タエはそれに気付く事もなく演奏を続けた。
タクトを振る指揮者のように、翼を降り上げ、降りおろす。
そうして成される奇妙な音楽会が終わったのは、太陽が真上に届く頃だった。




