雪崩(なだれ)
道なき道を、歩き続けること数時間。
ただでさえ上り坂であると言う条件に加え、雪による足場の悪さが、ディラノの歩みを遅らせていた。
山頂に近付けば近付くほど、木の数が減り、見通しが良くなって行く。
そのせいで、ディラノが竜の全身を見られる辺りまで来た頃には、ほとんど身を隠せる場所がなくなっていた。
見渡す限りの、寒々とした銀世界。
ところどころ、むき出しになっている岩が、その中に黒い色を見せている。
「くそっ」
顔をしかめる。ここから山頂に到達するには、少し先に見える崖を登らなければならない。
けれど、大きく反り返った崖は、もろく、今にも崩れそうに見える。
その下に転がっている岩は、過去に崩れた部分の名残だろう。
辺りで不気味に鳴り続けている竜鳴が、ディラノの心をざわつかせる。
「…くそ、どこだ!」
塔まで行ける道はどこだ、と舌打ちして足を引く。
その途端、ひときわ大きな竜鳴が地を震わせた。
「しまった!」
よろめき、慌てて体勢を立て直す。顔を上げると、崖上に伸び上がった雪が見えた。
亡霊の布のように平たく滑り出したそれが、下へと流れ落ちて来る――
(雪崩!)
息を飲む。逃げ場はない。
反射的に歯を食いしばり、雪原に座り込んで目を閉じる。
迫る轟音。近付く振動。おしまいだ、と自分の中の冷静な部分がささやいた。
雪が行き過ぎるまで、生きていられるとは思えない。
(アニア……)
残して来た娘を思う。妻を亡くしてから、彼女には精一杯の愛情をかけてきた。
良い父親だったと言える自信はないが、アニアに春のような未来をあげたかった。
そう思って行動した末路がこれならば、これも運命なのだろう──。
ざあっ──
雪の散る音が不意に聞こえた。風を裂く音がそれに続く。
直後、ぐんと何かに下から持ち上げられて、ディラノは眉間に皺を寄せた。
死んで、天に召されるのは、こんなにも乱暴なものなのかと。
思い返すのは、アニアと過ごした大切な日々ばかりだ。笑ったり泣いたり、忙しい娘だった。
(アニア……すまん……)
お前に、春を見せてやりたかった。
どうか、どうかお前だけは幸せになってくれ――
「…………」
目を閉じたまま指を組み、最後の祈りを済ませて目を開く。
途端に、数え切れないほどの、星々の銀光が目に飛び込んで来た。
「何……だ?」
違う。冥界などではない。死者の世界はもっと、何もない場所のはずだ。
どういうことだ、と視線を落とすと、地平線があるべき場所に雲が見えた。
そうなると、ここは雲の上という事になる。そうでなければ、こんなにも星がたくさん見えるはずがない。
「これは、一体……?」
「あの」
と不意にかけられた声は、死神のようなそれではなく、
「お怪我は、ありませんこと?」
ディラノの足元、宝石のような赤鱗をその身に備えた、穏やかな老婆の声だった。
※ ※ ※
「…………」
一体、自分に何が起きたのだろう。
ディラノの頭を、その言葉が埋め尽くす。
確かに自分は雪崩を見た。そして、それに飲み込まれた……はずだ。
それなのに、
「俺は……生きているのか?」
「もちろんですよ、お気を確かに。今は高い所におりますけど、すぐに降ろしますから」
そう言われて辺りを見渡す。
直後に大きな翼が見えて、ディラノは声を跳ね上げた。
「火吹竜!?」
「ええ。そう呼ばれる事もありますわ」
「まさか…俺を助けたのか?」
「そうですよ。だって、小さな娘さんがいらっしゃるのでしょう?」
タエには見えたのだ。帰って来ない父親を心配して大騒ぎするアニアの姿が。
少し前に山を見た時には、大きな男の人と一緒だったはず……と思って振り返ったところ、雪崩に呑まれかかっているディラノが見えたという寸法である。
「あんまり心配をかけては駄目。待ち続け、残される方は、本当に辛いのですよ」
叱責するタエの声が、夜空にゆっくりと染み通る。
年相応に掠れていながら、それでも、凛とした響きを帯びるその声に、ディラノがぐっと言葉に詰まった。
「竜が……それを俺に言うのか……?」
「もちろんですとも。あ、わたくし、タエと言う名前がございますのよ」
悠々と翼を動かしながら、タエが塔の近くへと体をよせる。
そのまま、着地点を求めてぐるぐると空を舞うタエの背で、ディラノが難しい顔をした。
足元にはタエの背中がある。首もある。
今ここで、剣を振り下ろせば、無敵と呼ばれる竜を倒す事だってできるだろう。
だが──
「ぬう……」
ディラノがうなる。
「一つ、聞かせてくれ……」
「はい、何なりと」
「竜鳴は、お前の仕業なのか?」
その問いにタエが黙り込む。
答え辛いのかとディラノが勘ぐっていると、タエが戸惑い気味に口を開いた。
「お恥ずかしながら、わたくし、その竜鳴と言うものを存じませんの……」
「知らない? 雪崩との関係もか?」
「ええ。こんな大きな怪獣ちゃんなのに、本当にいろいろ知らない事だらけで……ごめんなさいね」
申し訳なさそうなタエの声。それを聞いたディラノが、何とも言いがたい表情で、剣の柄から手を離した。
「さっき、俺を襲った雪崩があっただろう」
「ええ」
「あれは、なぜ起きた?」
「なぜって……雪の重みか、雪どけのせいではございませんこと?」
「雪どけ? 春でもないのに?」
「地の熱ですよ。岩を集めていた時にね、ほんのすこし、雪どけ水を見ましたの。だから、そのせいではないかと……」
「はあ……」
ディラノにとって、タエの言葉は八割がた意味不明だ。
太陽も射さないのに地の熱など、壮大な魔法の話を聞いているようにしか思えない。
そんな会話をしているうちに、着地点を見つけたらしく、タエが高度を下げて行く。
「塔の近くにしか降ろせませんけど。そのうち、どなたか来て下さいますから」
「ああ……」
近付く地上を見ながら、ディラノが気の抜けた声であいづちを打つ。
剣はいつでも抜ける状態にあったが、もう、タエを刺そうと言う気にはなれなかった。




