Nightingale&Chatelaine Ⅳ
「俺の武器はこれだけだ」
師匠の肖像が貼られた2つのフライパン。
モートは、それを両手で振り翳す。
「お…Oi!Oi!!Oi!Oi!!!!」
そして魔物に向かって叫びながら、怯むことなく突進した。
「俺の師匠が声を張り上げて、力の限りシャウトしてんだ!ここで、弟子の俺が叫ばなくてどうする!Oi!Oi!Oi!」
モートの叫び声は、師匠のそれとは違って。何ら魔法的効果はなかった。
しかし、気迫だけでも、師匠に負けたくはなかった。屋敷中に轟く師匠の叫び。
びりびりと、一切の音を遮断したモートの皮膚や髪にも伝わって来る。
なおいっそう、心が震い立つ。
この国は古来より、火山や地震の地層とは無縁だ。しかし今は、屋敷の内部全体が震えるように、微かに鳴動している。
壁や柱のいたるところに貼られた札は、師匠の叫びを増幅させるだけではなく。それ自体が強力な結界となっている。
つまり、この強烈な叫びから逃れようとしても、身を隠す場所はおろか、外に出ることさえ叶わないのだ。まさに攻防一体の護符。
モートの手にしたフライパンの肖像も、強力なスクリームを発声した。
近づけるだけで、魔物ですら悲鳴を上げて逃走した。
まさに阿鼻叫喚の地獄。
屋敷の周囲にも、師匠とモートが仕掛けた結界が無盡に張り巡され。
内部で発生したノイズは一切表には漏れない。
外から見れば、古びたマナーハウスは、微睡むような静寂の中にあった。
先ほど追い回されたのとは真逆に、今度はモートが魔物を執拗にOiOiと追い回す。
何処に逃れても、札に描かれた師匠の肖像が待ち構えていて、耐え難い叫びを繰り返す。
魔物は怯え、幽霊は我に返り、自分が死んだことを思い出すだろう。
「こんなことなら…いっそ死んだ方がましだ!」
その場にいたのが、魔物や幽霊ならずとも、そう思ったはずだ。
「 you were dead!」
「,you were dead!」
叫びの合間に、合の手のように、お札の中から師匠がシンガロングを繰り返す。
いつ果てるともしれない。少年と魔物の追いかけっこは続くかに見えた。
「さすがにこれは…きつい…」
体の強靭さが取得だと思っていた。
モートの心臓と肺も、既に限界に来ていた。
幸運なことに、魔物は逃げ場所を元いたホールに求めたようだ。
追い縋るモートの目の前で、魔物の動きが突然ぴたりと静止した。
その目線の先には、正面玄関の扉があった。
今まで閉じられていたはずの扉は、外の世界に向けて開かれていた。
開け放たれた扉の先には午後の日溜り。
和花な小鳥の囀りすら聞こえて来そうだ。
この絶叫地獄から逃れることが出来る唯一の出口は…その扉だけだった。
魔物は振り返ることもなく、その扉に向かって、一直線に動き出す。
モートの役割りは、そこまで魔物を誘導し、対象が外に出たら直ぐ様扉を閉め。扉に結界の札を貼る。
外に出た魔物は、師匠が自ら処理する手筈になっていた。
それで、すべてが完了するはずだった。
「な…なんだよ、これは…」
残りの力を振り絞り、前に踏み出そうとしたモートの目前に、石柱のような大蛇が立ちはだかる。
婦人の体に巻きついていた蛇とはまるで違う。
はるかに巨大な赤色の大蛇。
しかも一匹だけではなかった。
夥しい数の赤蛇が、蝋燭の焔のように揺めきながら。屋敷を埋め尽くしてる。
そこにいる大蛇すべてが、モートに向けて威嚇の音を鳴らし。
敵意に満ちた金色の瞳を向けていた。
睨まれただけで、無意識のうちに足がすくむ。
体の震えが止まらない。
「たとえ何が起きても、すべてが終わるまでは、けして足を止めずに前へ進め!」
そう、師匠に耳打ちされていた。
モートは、入り口に向かって足を踏み出した。
すぐに申し合わせたかのように。
大蛇は鎌首をもたげ、モートの頭や頚筋に狙いを定め、襲いかかって来た。
モートは機敏な動きでそれをかわした。
一匹、二匹と…きりがなかった。
床をしっかり踏み込んだはずの、モートの右足が奇妙なかたちに床でぐねる。
まるで腓返りでも起こしたように。
モートの足も既に限界だった。
「しまっ…!」
大顎を開けた大蛇の飛来を、モートは紙一重でかわした。
しかし、目の前に立ちはだかる一際大きな蛇は、勝ち誇ったかのように、悠然とモートの耳当てをくわえていた。
「しまった!」
それを取られては…モートは、体中から血の気が引いていく気がした。
「モート!」
その時天井の上から師匠が降って来た。
師匠は、モートと大蛇の様子を見るや否や、躊躇うことなく、階段の上からその身を高く踊らせたのだ。
師匠は空中で、蛇の口から耳当てを掠めとり、床に着地した。
「気をつけよ」
ふわりと耳当てをモートの頭に被せると、師匠は微笑んだ。
「師匠、すいませ…」
言いかけた唇を人さし指が制した。
今は静かに…という意味らしい。
「一時の油断も命取りになる…そう言ったはずだ!」
師匠の言葉にモートは、はっとして、慌てて前を向く。
「師匠!叫びを!叫びを止めては!」
おそらくはこの怪異の元凶である、あの貴婦人が、フロアの中央で歩みを止め、此方をじっと睨んでいる。
まるでダンスの相手でも探しているように、モートには見えた。
もう少しだった!
もう少しで上手く行くはずだったのに!
俺は師匠の叫びを止めさせてしまった!
モートは心の中で、己の油断と未熟さを激しく悔いた。
「心配するでない」
師匠は、そんな弟子の思いを察してか、彼の頭に軽く右手を添えた。
モートは涙が出そうになった。
「ミュートしただけだよ。モート」
師匠が指を鳴らす。すると沈黙していた札の中の師匠が、再び叫び始める。
「リピートだ!」
魔物は再び耳を押え、出口へと向かう。
周囲の大蛇は怒りに身を震わせ。
モートと師匠に襲いかかる。
「モート、走るぞ!」
ばん!と背中を叩いて、師匠がモートの目の前に飛び出す。
モートも師匠の背中を追った。
師匠は、手にしたステッキを雑草を刈る鎌のように扱いながら、大蛇の首を次々に凪ぎ払った。
みるみるうちに蛇は薙ぎ倒され。
そこに道が開かれていく。
あんなに禍禍しくも、凶暴だった大蛇たちが、今は師匠に恐れをなし。
次々と道を開けるのをモートは見た。
「よもやこれほどとは…すまんな、モートお前にはまだ…」
「やります!やり返して見せます!」
師匠の言葉は、モートには遮断されて届いてはいない。
しかしモートは、走る師匠の前に並ぶと、力強くそう言放った。
「これほどなのか」
床を食む巨大な鍵爪が現れた。
ゆっくり鎌首を持ち上げる頭部。
額に鳥の翼の仮面に似た、頭に牡鹿を思わせる、猛々しい角。
それはもはや蛇ではなかった。
「ナナナナナ…なんなんっすか!?師匠!この、ばかでかい蛇の頭は!!!」
師匠はモートの前で指を翳して見せた。
「4」
「4?」
「Ⅳ プロング クラウン…あれぞ正しく、王家の守護龍。ワイバーンだ!」
勿論師匠の声はモートには聞こえない。
「頭を低く、低く下げろ!モート」
やおら、師匠の右手がモートの頭を掴んで、強引に下を向かせる。
師匠は足を止めて両足で踏ん張ると、そのままの姿勢で、渾身のスクリームを目の前の竜に向けて放った。
叫びは目には見えない。
音も今は聞こえない…筈だった。
師匠の叫び声は、荒れ狂う暴風のようにモートの体の真横を通り過ぎた。
一瞬にして禍々しき龍の首は砕け散り。四散して大気の中へと消えた。
再び2人の目の前に道が開けた。
「師匠!」
驚嘆し、そして称賛、もはや尊敬するしかない、師匠の御業だった。
「さすが神獣…一筋縄では行かぬ」
師匠の顔が一向に晴れぬのを見て、モートは不安に苛まれた。
「信仰の後楯を失い、弱体化していると思ったが。あちらの御婦人についていたのは、よもや脱殻だったか…計られた!」
なにか…師匠が、顔に滝汗をかいておられる。汗をふいて差し上げたくなる。
「これだけの大仕事を為し遂げられて…師匠もさぞかし、お疲れなのだ」
モートは思った。
「師匠、後は俺が!おまかせ下さい」
「くっ…!この私にあえて魔法を使わせて、力を吸収して、示現化するとは!」
この耳当てのせいで、師匠が何を言ってるのか皆目分からない。
しかし、とても不吉な予感がした。
モートはそっと、師匠の目線の先を目で追った。
背後にある筈の、二階と階段が龍の体躯で隠れて見えない。
普通の御屋敷よりも高い天井に、龍の首は今にも届きそうに見えた。
太古の森にかつていた。首長竜が頭を天に向けて、呼吸するかのようなその姿。
恐れる心さえ忘れて、思わず見惚れてしまうほどの美しさだった。
「逃げよ!」
師匠の口がそう動いたのは、モートにもわかった。
「逃げよう!」
そう言ったのかもしれない。
いや…俺の師匠に限って、そんな弱気な言葉を吐くものか!
「龍の炎が来るぞお!」
その時見た師匠の顔は、これ以上はないくらい必死の形相であった。
それを見たモートは、一目散にその場から駆け出した。
前方を見ると、あの御婦人も入り口に向かって駆け出している。
モートが駆ける。
師匠も負けじとその横に並んだ。
御婦人に追いつき三人横並びになった。
「まだ若い者には負けん!」
「逃げ足で師匠に負けるわけには!」
隣に並んだ御婦人は、スカートを大胆に両手でたくし上げ走る。
「あれ…この人足がちゃんとある」
「なんと!龍が体から離れ…」
師匠の姿が視界から消えた。
「げこぶ」
カエルを踏みつけたような声がした。
足が縺れた師匠が床に倒れていた。
「師匠!」
「私に構うなモート!」
師匠はそう言って、モートに封印のための小瓶を投げてよこした。
「パスだ!」
モートはそれを師匠から受け取ると、再び貴婦人の背中を追って走り出す。
「御婦人を壁の花にしてはならん!」
どこまでもフェミニストな師匠だった。
手にしていたフライパンは、いつしか投げ出していた。
モートはひた走る。
師匠はそれを見届け立ち上がる。
服の埃を手で叩いた。
そして龍のいる方角に体を向けて言った。
「お前の相手はこの私だ」
師匠は大きく息を吸い込む。
そして、急に拳で口元をおさえると、激しく咳き込んだ。
「しまった…さっきの叫びで…喉が…声が…枯れてしまった…げほ!げほ!げほ!」
師匠は老人のように咳き込んだ。
しかし目の前の龍は口から炎の雫を垂らし、とても待ってはくれない面構えをしていた。




