荒れ地にて
その旅人がまず目指した目印とは、ロッテンロウにある、グリニッジ天文台だった。
天文台の目の前に白く引かれた本初子午線。ここを跨げば間もなく。
昼なお薄暗い埃と霧の都。
ロンドンが見えて来る。
公園とは名ばかりの、荒地の中央に建つ尖塔。オ―ルセインツ教会を抜けて、ブラックヒ―スから、モンペリエ通りに向かう。
どこの町にも必ずある教会。地図を持たない旅人にはよい道標となる。
見渡す限り、この広大な荒地の中にある建物は教会だけだった。
ロンドン近郊にある、この町が寂れているのかと言えば、けしてそうではない。
黒々とした泥濘の土地は、教会周辺ですら、まるで整備が行き届いておらず。芝草の一本も生えていない。
そこだけが深く切り取られた、隠り世の入口のように見えた。
テムズ河沿岸にあるロンドンの植物や、芝生に比べ何故か昔から、この土地の植物の色は暗い黒色を帯びていた。それがブラック匕ースという土地の由来だった。
かつてロンドンを中心に、黒死病が爆発的に流行した時代があった。
ペスト菌は、鼠からダニや蚤を媒介して、やがて人間へと感染した。
ロンドン市内の路上に、夥しい数の屍の山を吐き出した。
遺体の処理に苦慮した英国政府は、この地に巨大な穴を掘り。集めた遺体を埋めた。
歴史あるロンドンの街ならば、掘り返せば遺体など幾らでも出て来る。
あのロンドン橋でさえ、橋の両側は墓で、多くの屍が今も埋められていた。
そんな事には昔から慣れっこの市民や、この町の住人や政府でさえ。
ペスト菌の感染者が埋められたこの土地。その上に何かを建設するのは、さすがに憚られたのだろう。
ぽつんと荒地に唯1つ立つ教会が、
それを物語っていた。
その時代の国王チャールズ1世の王党派軍は、勃発した内戦に於て、王室に反旗を翻した議会派軍に悉く、敗北を喫した。
マーストン ムーアーの戦いに勝利し、武勲を上げた清教徒オリバークロムウェルの命により捕らえられ。
軟禁されていた国王は後に処刑された。
この年に英国王室は、クロムウェル等議会派議院の手により、事実上廃止となった。
英国に王室なき時代。清教徒革命の余波を受け。フランスから、スコットランドに亡命していたチャールズ2世は、スコットランド王室の後楯を受け、スクーンの石が嵌め込まれた玉座にて戴冠式を執り行い。王位を継承した。
後に英国に帰還し、王政復古を唱え、再び国王の座に就いた。
チャールズ2世は、王位を取り戻してなお、父である国王を処刑したクロムウェル一派に復讐心を滾らせた。
既に死亡して、ウェストミンスター教会の墓地に埋葬されていた。クロムウェルと、残り2人の首謀者の遺体を墓から引摺り出し。これを裁判にかけた。反逆者として。
遺体に死刑宣告を受けさせたのだ。
そしてクロムウェルは、新たに新設された、悪名高きロンドンの処刑台。ワイバーンの木に、最初に吊るされた罪人となった。
吊るされたクロムウェルの遺体は、後に胴体から切り離された後。
その首は、ミンスターホールの屋根に4世紀半晒された。
一説によると、残された胴体は、このブラック 匕ースの土の下に、疫病患者の遺体と共に投げ込まれた。
そんな逸話が残されているが。
それは定かではない。
ウェストミンスター教会には、今も空っぽになったままの、オリバー クロムウェルの墓が残されている。
ロンドンにあるワイバーンの処刑台と、ブラック匕ースの土地には、そうした浅からぬ因縁があった。
黒死病が蔓延した時代と前後して、ロンドンでは、後にビッグ ファイヤと呼ばれる未曾有の大火災が起きている。
大火はロンドン市内を中心に、セントポール寺院をもまるごと焼き尽くした。
この歴史に残る大火災は、黒死病同様に街を呑み込み。多くの死者を出した。その遺体も総てここに埋められた。それは歴史的事実である。
しかし英国民の間では、ロンドン大火災の火元となった原因についての噂が、昔も今も、真しやかに囁かれて来た。
「ロンドン大火の首謀者は、英国国王チャールズ2世様、御本人ではあるまいか」
いっこうに鎮静化の兆しを見せず、伝染病による死者は日々増大し、国益は衰頽の一途を辿った。
それに業を煮やした、新国王はロンドン全域に火を放つように命じた。
火元となったパン屋が、英国王室御用達の店であった事も、噂に拍車をかけた。
それも、今となってただの流言であり。とうに廃れた噂に過ぎなかった。
そして大火以降、ロンドンは大きくその様相を変えた。
それまでの木造の建物は姿を消し。
石造りの建物が、街を埋めつくすように次々と、焼跡に建てられた。
外敵であろうと反逆者であろうと、易々とは王宮には侵入出来ぬよう。
依然より曲がり角や、狭い路地が此処彼処にある。迷路のような都市が完成した。今なおその街の姿は変わっていない。
荒地に立つ教会には、大ロンドン建立の礎となった、死者たちへの鎮魂の意味が僅かでもあるのだろうか。
教会は何も語らず。
静寂の中にあった。
旅人は足を止めることもなく。振り返ることもせず。荒地を通り過ぎる。
もとより、この国に生を受けた人間ではない。歴史にも、建物にも、人の噂にも、一切興味がない。国籍すら持たない。
その男は、目的のために、ただそこを通り過ぎるだけ。
文字通りの旅人であった。
たとえ鉄騎兵の衣装を誇らしげに身に纏い。首から上が無惨に切り落とされた男がそこに立っていても。
黒死病に侵された、老若男女や子供たち。焼けて爛れた皮膚の死者たちが荒地に溢れ。教会の屋根にまで群がり。ただ此方をじっと見ていたとしてもだ。
荒地の終わりには、町と、その境い目となる、大きな森が見える。
森の名前はルイシャム。
旅の男はその名前だけ知っていた。
昼なお暗く、そこだけ剥がし損ねた夜の暗闇のような森。
昔から人の立ち入らない場所だった。
初めて土地を訪れた人間や旅人に、ブラック 匕ースの人間は必ず言った。
「森には入るな」
同じ言葉を子供のうちから、両親や祖父母から嫌というほど聞かされ。この土地の人は育つ。
「理由は?」
そう聞かれても、実際年寄りでさえ誰も理由を知る者はいなかった。
ルイシャム森の奥には、彼の主の屋敷がある。そこには誰も立ち入れない。
主が決めた日からそうなっていた。主はこの土地の領主ではなかった。
このロンドンという土地を取り仕切る。領主のような者は他に存在していた。
彼の主は屋敷の所有者というだけで、実際はそこに住んではいない。
そうした屋敷や土地を、英国の至るところに所有していた。
しかし何処に住み着くこともしなかった。
いつも忙しく、こうしたいわくのある土地に建つ建物を探し、買い漁っていた。
主の所有する屋敷に立ち寄り。長旅の垢を落として。体を休めることも出来た。
しかし男は森に立ち寄ることもなく。ただ行く先を急いだ。
男が目指すのはロンドンシティ。
もう目と鼻の先にあった。
その日の正午、ロンドンは、いつも通り快晴とは言えない。スモッグの煤煙は郊外までは及ばず。
秋晴れの快晴だった。
少なくとも、ここブラックヒースでは、雷や雨が降ったという観測記録は残されていない。にも関わらず。
「雷だ!雷が人に落ちたぞ!」
通りにいた人がそう叫ぶほどの爆音と、一瞬の眩い光に包まれた男が、俯せになって道に倒れている。
通行人に落雷が直撃した。
避雷針ではなく。
通りを歩いていた人に直撃した。
周りにいた人間は誰もがそう思った。
「あんた…大丈夫かい?」
これから、街に行商に出かける仕度をした老婆が、男に駆け寄って声をかけた。
この辺りでは見かけない。旅人とおぼしき格好の男に、老婆は怖々声をかけた。
「おお、神様…なんてことだい!」
男の服の端々が焦げて。
体から白煙が出ている。
「かわいそうに…こりゃ助かる道理がねえ」
「なんて、ついてない」
「いや待て…あいつ雷に自分から突っ込んだぞ」
人々は道に横たわる不運な旅行者を、憐れみと好奇な目で見ていた。
「というか…なんか、急に駆け出したんだ」
そう説明する男もいた。
「俺には、雷に打たれる前から、光って見えた…確かだ!この男の体が光ったんだ」
群集は徐々に男の周りに集り始めていた。
「セージ…」
俯せの男の口から、そんな呻き声が漏れるのを老婆は聞いた。
「生きてる!?この人生きてるみたいだよ!」
「パ…セ…ジ」
「この人なんか言ってるよ」
「いいから医者を呼んでやれ!」
パッセージ…タイム。
そう男は呟いた気がした。
老婆には男が何を言ってるのか。
まるで理解出来なかった。
「いてて」
男はそう言って突然立ち上がった。
「ちくしょう…えげつねえもん仕掛けやがって…」
男はしきりに首を振り。
何事もなかったかのように。
服の土と埃を払っている。
「一体どんな化物飼ってやがるんだ」
なにもない虚空と、丘の上から見渡せるロンドンの街に目をやりながら、男は言った。
よく見れば、まだ少年とも言えるようなあどけない顔をしていた。
「あんた…顔が」
老婆にそう言われ、男は白い歯を見せて笑った。
「これは生れつきだ!」




