18.王女イナンナ
建国以来、近隣諸国の侵略にたえず悩まされていたスクグランの第十二代王カガート五世に、庶子とはいえ、初めての子である王女イナンナが誕生した時、イナンナが女の赤子であった事に、カガート五世王妃、ビェルテはさぞかしほっとした事だろう、とルシフェルは思った。
ルシフェル――かの『天界大騒動』において智天使たちに天界より追われた元熾天使にして、その中でも元大天使長の一人であったが、今やその堕ちたる魔界で悪魔族の王となった、黒髪、黒眼の、一見、端麗ではあるがなぜかぞっとさせられる容姿の若い男――は、王女イナンナがこの世に生を受ける事になったあの騒動以前より、彼女と、彼女の周りの者の愛憎を興味深く見物していた。
はじめ彼がふとのぞき見たのは、イナンナが生まれる数年前、王妃ビェルテが自ら怪しげな書物をひもといて見知った浅知恵で、お粗末な黒魔術をはじめた頃だった。
王妃たる者がまたどういった理由から黒魔術になぞ頼ろうとしたのかといえば、それはひとえにカガート王の愛情と、王の子を授かるがためであった。
ビェルテは政略結婚として隣国より輿入れしたのであったが、それまで城の奥深く、男というものをあまり目にした事もなく育てられた彼女は、輿入れ後、なかなかな偉丈夫であったカガートを初めて見るなり恋してしまい、以来、王を夫として深く愛し尊敬している誠に良き妻であった。
だが、彼女の愛の深さも子を授かる助けにはならず、輿入れから五年しても、ビェルテは王の子種を身籠もる事が出来ずにいた。
世継ぎを生めぬ妃なぞ、そのうち王妃としても、女としても見捨てられてしまうかもしれぬ、と彼女が気に病んだのも、それは無理からぬ事であっただろう。
というわけで……王妃たる者であっても、女としての心情は世間の下々の女たちと何のかわりもなく、彼女は自分の願いを叶えるがため、魔術によるまじないなぞというものにすがろうとしたのだった。
が、そこはにわか知識からなった笑止なばかりの未熟な術式と、加えて彼女には蝿の足一本ほどの霊力もなかったがため、彼女が期待する程の結果は得られようもなく、お粗末な魔術(の真似事)を幾つか行った後、まじないでは頼りにならぬと思うや、次には王に服ませるがための“媚薬”なるものを作りはじめた。だが魔力の助けなくして、本物の媚薬なぞ出来るわけもなかった。
しかし――彼女が作りあげた時はただの得体の知れぬ黒い粉末であったものは、後に彼女が知らぬ間に魔が吹き込こまれ、どんな貞節な人間でさえ欲情の塊と化してしまう様な強力な媚薬へと化していた。
彼女の妙薬を媚薬にしてやったのは、彼女がまじないの真似事を行いはじめた頃からその周りにやってきて、彼女の必死の姿を見物していた、何よりも人間の淫欲を好む魔の者たちであった。
ビェルテの術の導きようは小魔でさえ見向きもしない様なものであったが、彼女の情念の入り様だけは大したものであったため、それに魔の者たちが彼女の元へと集まりだし(もちろん、霊力などかけらも持ち合わせぬ彼女には、それらの気配すらわからなかったのだが)、それに、ルシフェルまでもが目をとめるきっかけとなったのだった。
ルシフェルは小魔どもが彼女の妙薬を媚薬にしてやるところを面白がって見ていたが、彼にとっては、それは、いつもの遊び心をくすぐられる事であった。
だが、その媚薬は彼が思っていた以上の効果を発揮したのだった。
手にした媚薬が魔の力を吹き込まれたとんでもない代物だとは露とも知らず、王妃はいくばくかの望みをかけてそれを王の酒の杯へとひとつまみ溶かし込んだ。
そしてその効き目たるや……王妃自身も驚くほどのものであった。
が、しかし、あまりものその薬効に王は自我さえも欲情に押しつぶされてしまい、目の前でやや不安気に様子を眺めている王妃に永遠の愛を囁きだすどころか、杯を放り投げるや狂気を宿した眼差しで猛り狂い、わけのわからぬ獣の様なわめき声と共に、外へと飛び出して行った。
王妃はそれに、王は淫乱の魔に取り憑かれたのではなく、狂乱の魔に取り憑かれたのかと思ったが、しかしそこは魔をおびた媚薬の事、王は殺気だつまでの勢いで己の求める女の所へと――以前からその清楚な美を心にとめていた、美と貞節の女神、ウーナ神殿の美貌の巫女イルフィル――の元へと押し迫り、王の乱暴を止めに入ろうとした者たちを殴り倒し蹴散らして、あろうことか、神殿のウーナ像の前でイルフィルを犯してしまったのだった。
『これは面白い事になったな』
それを眺めながら、ルシフェルは凍れる笑みを浮かべた。
そしてその時、哀れな巫女が王の子種を宿した事も、彼にはわかっていた。
『さて、これからどうなるのであろうな』
美と貞節の女神のしもべでありながら、その女神像の前で凌辱されて子を宿してしまった巫女と、突如我が身を襲った狂気の為とはいえ、領民が崇める神と巫女を汚すとんだ騒ぎを起こしてしまった王と、自らが作った媚薬が元でこうした結果を招いてしまった王妃と……この三人の行き着く先ははたしてどんなものであろうかと、ルシフェルにはとても楽しみに思えたのだった。
王妃は自分が盛った媚薬のためにあの様な騒ぎとなってしまったという事を、生涯最後まで誰にも打ち明ける事は出来なかった。
そして加えては、その騒動のために自分の子ではない王の子をこの世に誕生させてしまった結果となり、以来それらは彼女の心に重くのしかかるばかりであった。
が一方、彼女等三人が最悪の暗雲にみまわれている中で、巫女イルフィルの腹の子は、すくすくとその生命を芽吹いていた。
巫女は生涯最大の忌まわしい出来事の後で、首をくくろうとしたが周りの者に止められ、いまだ世継ぎの無い王の子を宿したかも知れぬと、見張りを付けられて城奥深くに閉じ込められ、やがて月満ちて王の子を……それは王妃にとって唯一の安堵となった女児の赤子を……産んだ。
そして生まれた子が女児であった事以上に、赤子がこの世に生まれ出てくるや、出産の場に居合わせた宮廷医師も女官たちも、赤子のその姿に、思わず驚愕の表情を浮かべた。
なぜならば、生まれ出た赤子の身体には、女神の神殿と巫女を汚した大罪の天印、と思わずにはいられないものが顕れていたので。
人々を驚かせたその天印というのは……元気な産声を上げる赤子の身体の左半分の、頭の先から足の先までをおおう、黒みをおびたひどい紅痣であった。
王妃は人の不幸を楽しむあさはかな女ではなかったが、生まれた赤子が女児であった上に、その様な姿であると聞くや、ならばその様な庶子に後々自分の立場をおびやかされる事もあるまい、と大いに安堵した。
しかしその様な結果に内心喜ぶのは彼等三人のうちもちろん王妃一人のみで、生まれながらに二親の罪の印を背負ったわが子の姿に、王も巫女も改めて慄然となった。
が、母親となった巫女はわが子の姿に驚きはしたものの、その姿を哀れに思うと同時に、それ以上にわが子を愛しく思い、生涯かけてこの運命重き子を守ろうと思ったのだった。
しかし……王女誕生より三ヵ月ほど過ぎた頃、彼女ははかなくも、その思いと共にこの世を去らなければならなかった。
彼女の死を、王は産後の肥立ちの悪さのため、と宮廷医師から聞かされてはいたが、しかし、他の者たちはそれとは全く違った噂をしていた。
いわく、王女誕生をもとに王の寵愛は慌ただしく還俗させられた哀れな元巫女に移り、次には王子の誕生となる前に、王妃の息のかかった家臣のうちの誰かが手にかけた、または王妃自らが憎悪と共に毒を盛った、または早くも次の子を成そうと言い寄る王の罪深さと、その罪の子をまたも宿す己の運命を悲観して彼女は自ら命を絶った、……などなどと。
結局真実はいずれとも知れなかったが、彼女は王女の生母であるにもかかわらず、ろくな葬儀も行われぬまま、まさしく人目をさけて埋葬され、後となってはその墓さえわからぬ様になってしまった。
そして彼等の“罪深さ”を一身に背負って生まれた王女はといえば、その身体の天印におののいた王の手によって、生まれたその日のうちに、天印を示した神の元へと――ウーナ神殿の神官と巫女たちの元へとあずけられ、女神ウーナの従者にして“清き瞳”として崇められている小神である、“イナンナ”の名を神官に名付けられ、以後、王女は生まれながらにしてウーナの巫女として神殿で育てられた。
『ほほう、楽しみにしていた以上に面白い事になったな』
生まれながらの印を負ったイナンナの誕生に、ルシフェルは喜んだ。そして彼女が大層気に入った事から、ある事を思いつき、魔の者を呼びつけで言った。
『あの哀れな王と王妃に今一度、我等よりの最大の贈り物とやらをしてやろう』
彼はぞっとさせられる笑み浮かべて、呼びつけた者たちに言った。
彼が呼んだ者たちというのは、それは人の眠りの中に入り込み、夢とも現実ともつかぬ、淫らな思いをふき込んで取り包む、夢魔たちであった。
『さあ、行って王の子種をすべて残らず干してくるがよい。そしてそれをあの哀れな王妃にとくと味あわせてやれ。しかしあの女の孕むのは、必ず男の赤子でなくてはならぬぞ』
ルシフェルの興味はすでにイナンナへと移っていたため、彼女が王妃の手にかかって、せっかくの自分の楽しみを台無しにされぬ様、彼は王妃にも子を与えてやる事にしたのだった。
王妃に世継ぎが出来れば、もうイナンナを疎ましく思う事もあるまいと。
かくしてめでたくも、王妃にも世継ぎたる男児が授かり、ルシフェルの思惑通り、それに狂喜した王妃は、神殿の奥深くに半ば幽閉されたも同然のイナンナの事なぞ、たいした問題ではなくなってしまった。
しかし夢魔どもの来襲に遭った王のそれは、以後まったくの“役たたず”となり、已のあずかり知らぬところで、他の者の意図によって自身の運命を左右された中で、ある意味では一番哀れな目に遇った者は、彼であったのかもしれない。
イナンナは神官と巫女たちを守役とし、神の教えを己の全世界として育ったが、身体を覆う紅痣と共に、清く聡明な魂を持ってこの世に生まれたらしく、彼女は誠に神のしもべとしてふさわしい者へと成長していった。
そして彼女の異母弟も、“姉上様”と彼女を尊敬と崇拝をもって慕い、高名な学者でもある己の学問の師たちからも得られぬものを、姉の中に見いだしていた。
もちろん、それは王妃にとっては、警戒すべき事であったが。
またルシフェルはといえば、彼はイナンナが赤子の頃よりたびたび彼女の前に姿を現しては、己が興味を持った存在を目のあたりにして、楽しんでいた。
実際、彼女は悪魔の王でさえ驚嘆させるものを多々持ち合わせていた。
そのうちで、ルシフェルを紅痣の次に面白がらせたのは、これも彼女が生まれつき持っていた強力な“治療者”、“癒し手”としての能力であった。
イナンナはまだ小さな頃からすでにこの能力に目覚めており、しばらく手をかざしてやるだけで、怪我や病を治してやる事が出来た。
王ははじめ、己の汚点ともなっているこの王女をあまりかえりみる事はなかったが、彼女が成長してゆくにつれ、感心させられるばかりとなってゆく聡明さと“治療者”としての力に、王は次第に公式の場にも世継ぎの王子と共に、王女をそばにおくようになった。
が、イナンナ自身はといえば、やっと王族としてまともな扱いを受ける様になっても、王族や貴族たちとのきらびやかな世界には見向きもせず、相も変わらず、質素な白い巫女の衣装に身を包み、紅痣を隠そうともせず、巫女として、“治療者”として下々の多くの悩める者たちの中におり、人々の心を集めていた。
『巫女姫殿』
ルシフェルはその秀麗な面持ちに氷の様に冷たい微笑みを浮かべて、イナンナがまだ幼少の頃から、やや芝居がかった大仰な素振りではあるが、敬意を払った口調で言った。
『あなたを慕う、あの者たちをご覧なさい。あなたなら本物の生き神として、この世界すべてを御手にする事が出来るでしょうに』
しかしまさに悪魔的なその言葉にも、にっこりと聖女の笑みを浮かべ、イナンナは言うのだった。
『いいえ、ルシフェル様』
彼女が静かに微笑むたび、その後ろには後光までもが射すようであった。
『その様なものを手に入れたとしても、それが一体何になりましょう。私の願いは、ただ、この世の中の人々の苦しみがすべて無くなる様に、という事だけなのです』
もちろんルシフェルには、彼女が国や権力などといったものを欲しがるわけがない事はわかっていたが、彼女のその微笑み見たさに、彼はその囁きを時々口にするのであった。
そして王女が成人した頃、彼女は人ではない者の心の病までをも癒し、彼女はますますもって人々の崇拝を集める様になった。
イナンナが癒してやったその者というのは……彼女等が住まう城の西に鬱蒼と黒い影を落とす、ウワァフ·フフウの森の大蛇であった。
その大蛇というのは、小蛇の頃から光りものを集めるのを何より楽しみとしていたのだが、それらに執着するあまり、己の宝の山をとぐろの下に抱えたまま、瘴気までをも放つ魔物と化してしまった歳古りた蛇であった。
が、そもそもただの小蛇であった者がどうしてその様な魔物と化してしまったのかといえば、それは、己の宝を盗もうとする者には呪いあれと蛇が願った事を、当時まだ幼かったルシフェルの子供のうちの一人が――今やルシフェルと共に魔界の女王となったルシフェルの妻リリスが、ルシフェルとの間に成した多くの子供たちのうちの一人、アスヴィールが――面白半分に叶えてやった事が元で、そのあさましい願いは、長い年月の中で、他の者に呪いをかける以上に蛇自身を呪縛する事になり、もう寿命が尽きていながらも、己の宝への未練が蛇の魂をこの世に繋ぎ止め、大蛇は死ぬに死ねない苦しみを味わっていたのだった。
イナンナはフフウの森の大蛇の話は以前から聞き知っていたが、大蛇の瘴気が森全体をも包みだし、あふれる瘴気に森の上空ですら鳥も飛ばれぬと聞くや、彼女はフフウの森へと向かって、他の従者がおののきすくみ上がってしまった瘴気の中を平然と分け入り、岩場の暗い洞窟の奥深くで、積み上げられた宝とともにうずくまっている老大蛇のこうべに手を当てて言った。
『さあ、定命を過ぎた者はもうこの世から旅立たなければ』
『おお、巫女姫よ』
それに蛇は言った。
『我はあの世になぞ行く事はとうてい出来ぬ。我の、この宝を残しては』
蛇は大きな金色の瞳にイナンナの姿を映して彼女を見つめると、鼻から瘴気を吹き上げ、先割れの赤い舌をちらつかせた。
普通の者であれば、それだけで命からがら逃げだしてゆくのであろうが、しかしイナンナは慈悲深い哀れみを込めた目で蛇を見つめて、蛇をなだめた。
『たしかにこの様なものを持って神の御許に行く事は出来ませんが』
イナンナは言った。
『しかし誰でも金銀などよりもずっと大切な宝と共にこの世に生まれ、そしてあの世へと旅立つ事が出来るのですよ』
『ほほう、それは一体何であろうか?我のこの宝以上のたいそうな宝とな?』
彼女の言葉に、蛇は巨大な鎌首をもたげて尋ねた。
すると彼女は応えた。
『ええ。金銀などよりずっと輝かしい宝物、それは……生きている者それぞれの魂です』
『なんと』
それに蛇は言った。そのはずみに今度は瘴気だけではなく、紅蓮の炎までもが鼻と口から立ちのぼった。
『魂とな』
『ええ」
イナンナはうなずいた。
『して巫女姫は、我の魂とやらもこの宝の山よりももっと、輝ける価値あるものだと言うのか?』
『ええ、もちろん。この世の生ける者の命と魂はすべて』
彼女は蛇を見つめた。
『その魂を、たかだかいくらかの金銀のために、あなたは台無しにしてしまうのですか』
そして彼女は蛇のこうべに今一度手をあて、蛇の額をなでた。すると、彼女の“治療者”としての力が、蛇の病んだ心をすっかり癒してしまった。
『おお、巫女姫よ』
それに蛇は言った。
『姫の言葉に、我の心は小蛇であった頃以来、すっかり楽になった。礼を書う。巫女姫が我の魂でさえ宝に勝ると言うてくれるのなら、我はもうこれらを後に残す事も気にならぬ様になった。なれば巫女姫が示してくれた天の道へと、心残りなく昇って行く事にしよう』
そして哀れな蛇は、大きなため息をひとつつき……イナンナの傍らに岩の様な頭を横たえると、そのまま安らかに息を引き取った。
『おお、なんと』
その様子を魔界から眺め見ていて、ルシフェルは声をあげて笑った。
『あの姫には、魔物と化した者でさえ心安らかにされてしまうと見える。天界の天使どもでさえ、ああはいかぬであろうなあ』
が、物欲にとらわれた蛇の病んだ魂でさえ癒したイナンナの力も、力にまかせた無分別な者の前では無力であった。
フフウの森の大蛇の話は、彼女を生き神としてさらに人々に崇拝させるに決定的となったが、それから数年の後、隣国カスバスタとの国境沿いでの小競り合いが、ついに国をあげての大戦となった時、その戦の決着は、スクグランの民を大いに嘆かせる結果となった。
カスバスタとの戦は、最終的にはスクグランの勝利として終わったが、一時的にはスクグランの城内にまでカスバスタの軍が攻め入り、その時点でスクグランの落城となってもおかしくはなかった。
が、カスバスタの兵士が怒濤の様に押し寄せ、あげく王の住まう城へと迫った時に、スクグランの民が助けを求めて押し寄せたのは王や兵の元ではなく、イナンナの住まうウーナ神殿であった。
そしてそのさなか、戦場へと出ていた世継ぎの異母弟が深手を負ってやはりイナンナの元へと担ぎ込まれ、その知らせを受けた王と王妃までもがウーナ神殿へと赴いたものだから、カスバスタの兵たちは空城ではなくウーナ神殿を取り巻き、王と王子の身柄を要求した。
だがイナンナがそれに応じるわけはなく、彼女は神殿奥深くに王たちを匿ったため、心細い限りの少数のスクグランの近衛兵たちを先頭に、カスバスタの軍とにらみ合いとなってしまった。
『このままでは皆、殺されてしまいます!』
『どうかあなた様のお力でお守りを!』
それに、民たちはおののき狂乱して助けを求め、もはや全能なる神として崇める彼女の足元にとりすがった。
『大丈夫ですよ』
その彼等にイナンナはいつもと変わらぬ笑みを向け、人々を眺めた。
『民であるあなたがたを殺めて、何になりましょう。カスバスタの王が欲しているのはこの地と民を支配する事なのですから』
そして彼女は兎の様にただ怯えるばかりの民たちも、神殿の奥へと入れてやった。
『民どころか王までもがあなたを楯にする。か弱い女性であるあなたを』
そのイナンナのそばにルシフェルが現れ、冷たい表情で言った。
『しかしそれでもあなたは笑顔で応える。何という事だ』
が、彼にイナンナは再びの笑みを向けた。
『救いの手を求める者に応える事は、私の最大の喜びとするところなのです』
『おお、巫女姫殿』
それにルシフェルは両手を大きく広げ、嘆かわしげに首を振った。
『あなたはどんな不幸でも、いつもすべてお一人で背負ってしまわれる。……何故です?それも民のためだけではなく、あなたを不幸に追いやるばかりだった、あの、ろくでなしの王たちのためにまで?』
『……それはもちろん、この世界と人々に、私はいつも感謝し、愛しているからですわ』
自分の周りに、いつもの後光の様な輝きを浮かべて、彼女は言った。
が、ルシフェルはそれをいつもの様に美しいとは思わず、理解しがたい不愉快な気分で見つめた。
『姫はいつもすべてのものにお優しい』
彼は言った。
『だがあなたを血迷った兵どもの前へ押しやろうとする事に応えるのは、愛などではなく、自分をただのむごたらしい犠牲にしようとしているだけだ。あなたは我が身かわいさばかりの恩知らずな者たちから、生贄に差し出されているのですよ?』
彼は別に、イナンナの陰に隠れてしまった者たちの事を、腹立たしく思っているのではなかった。
ただ、それらの者たちの卑小さにあきれ果て、そしてそれらになおも慈愛を示す彼女が哀れに思えたのだった。
『いいえ、ルシフェル様』
だが、彼女は聖女の眼差しのままで言った。
『これも大いなる愛のなせる事でしょう。それは元大天使であらせられた貴方様になら、よくお分かりのはず』
そしてそのまま、イナンナは振り向く事なく、霏々として雪の降りはじめた神殿の外へと出て行った。と、その彼女の周りに、たちまち兵たちが殺到した。
『王を差し出せ』
イナンナの質素な白い巫女の衣装とはまったく対照的な、血と泥にまみれた鎧兜姿で、兵の一人が乱暴に彼女の胸元を摑み上げた。
が、それに彼女はいつもの様に、顔の紅痣を隠そうともせずに相手を正面から見つめた。
『ここは神々のおわすところ。神々への失礼は許しません』
イナンナは兵の腰の大剣をものともせずにきっぱりと言った。が、
『なれば』
彼女の言葉に、兵は血塗れた禍々しい剣を鞘から引き抜いた。
『おのれがその詫びを言いに参るがよいわ』
そして兵は一刀のもとにイナンナを斬り捨てた。
彼女はあふれる血潮と共に、泥にまみれた兵たちの足元へと投げ出された。
そしてこと切れたかに見えた。いや、その時、彼女の肉体はまさにこと切れたのであったが、しかし、
『無礼は許しません』
彼女は――いや、彼女の魂は彼女の亡骸の上に立ち、背後の神殿を守るようにもろ手を広げて、凛と響く声で兵たちに言った。
そして彼女自身、己がすでに足元で骸と化している事に気がつき驚いた。
が、彼女以上に、死してもなお黄泉がえった巫女の姿に、兵たちはことさらおののいた。
『ほう』
彼女のその姿を眺めて、ルシフェルは最高の興とばかりに口元を歪めた。
『死してもなお守ろうとするとはな。姫の魂の気高さは、もはや他の人間どもには及びもつかぬ。生身の身体を捨てて、これで本当の聖女の姿となったわけか』
ルシフェルは声を上げて笑った。
そして神殿の屋根の上へと姿を現すと、イナンナの姿に驚く兵たちの真ん中に轟音をたてて稲妻を落とし、降りしきる雪が、あたかも火の粉を吹いて燃え盛りながら空を舞い降りてきているかの様な幻影にまみれさせた。
『そら、怯えるがいい、聖女を殺めた愚かな者たちよ。怯え、狂うがよい』
彼は久々の大がかりな騒動に嬉々として、悲鳴を上げて逃げまどう者たちを眺めた。と、
『ルシフェル様……?』
その彼にイナンナは気付き、彼を見上げた。
『おお、姫』
ルシフェルは彼女に手を差し延べた。
と、彼が言うや、気付けば彼女は神殿の屋根の上の、彼の傍らにたたずんでいた。
『さ、こちらへ。特上の高みから、この絶景をご覧なさい』
『ルシフェル様?』
彼女には珍しく、やや困惑しながら、不思議そうにイナンナはたずねた。
『これは……私はいったいどうしたというのでしょう?私はたしかにあの剣で……』
『姫』
その彼女に、ルシフェルは笑った。
『何の不思議にお思いになる事はありません。あなたはあなたにもっともふさわしい姿となられただけですよ。私の巫女姫殿』
が、イナンナは悪魔の王の言葉がまだ分からぬ、といった様子で、今の自分の姿と、地面に横たわるかっての自分の身体と、炎の幻に追われて散りぢりとなってゆくカスバスタの兵たちとを見つめた。
それから一千年。
スクグランの国も、カスバスタの国も、もうこの地にはなく、スクグランの城は崩れた石の土台と城壁を残すのみとなったが、その崩れゆく城跡のそばには、今でもウーナの神殿だけは昔のままにたたずみ、そしてその奥には、いまだに王女イナンナが微笑みをたたえて悩める人々を待っており、彼女が死後一千年を経た亡霊にもかかわらず、彼女の慈悲にすがりに来るものが後を絶たない。
そして時々、その彼女の後ろにひっそりと立つ黒い姿を見かける事があるが、それはやはりいまだに彼女の元を訪れている悪魔王、ルシフェルの他ならない……




