09 カイエンの苦悩
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王妃は緊張の連続だった。偽のカイエンが視界に入る度に冷や冷やした。しかし第二王子の演技は本物以上であった。父には通用しなかったようだが、『ぜひアルベール殿下にお目通りしたい』と手紙が来たので、相当気に入ったらしい。
そのアルベールが、褒美に王妃のスケッチをしたいと言う。気が進まなかったが、見事な働きだったので、許可した。すると、接待が終わった翌日、彼はやってきた。
「ご機嫌よう。母上。そのまま座っていて結構です」
立ったまま、スケッチブックに鉛筆を走らせる。時々、移動をして何枚も描いていた。
「お時間です」
侍女が告げると、アルベールはスケッチブックを閉じて一礼した。
「ありがとうございました。では」
あっという間の15分だった。不思議と緊張しなかった。最初の頃の粗雑さが取れ、礼儀正しい子になった。王妃は仲良くなれそうな気がしてきた。だがまだ少し躊躇がある。
(カイエンが先に仲良くなってくれないかしら…)
男同士なんだから。そう言えば、そろそろおたふくも治った頃だ。お見舞いに行こうーーそう思っていたが、溜まっていた仕事に時間を取られ、行けずじまいだった。
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弟が自分の影武者をしたと聞いて、カイエンは驚愕した。誰も気づかなかったという。ならば、アルベールは兄に匹敵する教養を身につけたのだ。
自分が何年も努力してきた事を、わずか数ヶ月で。悔しさと妬ましさで夜も眠れない。家族の夕食が再開すると、傷はますます広がった。母が軟化していたのである。
「俺も5歳の時にやりましたよ。おたふく。両頬が腫れて痛くて飯が食えなかったなぁ。他の連中は、取り分が増えて大喜び!悔しいから、全員にキスしてうつしてやりました。院長にはえらく怒られましたけどね」
アルベールがおどけて話すと、母は口を押さえた。
「では、ご馳走様でした。お休みなさい」
弟が出て行った後、母はカイエンに言った。
「面白い子ね。仲良くしたら?」
「…」
「絵が趣味らしいわ。正式に習わせてあげましょうか」
ずっと無視していたくせに、優しい笑みを浮かべている。見舞いにも来てくれなかった。カイエンは胃がムカムカして、
「申し訳ありません。やはりまだ本調子ではないので、失礼します」
と、席を立った。これ以上は一口も食べられそうになかった。
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第一王子は人生初の絶不調であった。側近達に会う気も起きない。勉強にも手がつかず、気分転換に一人で散歩をしていたら、王子宮の裏庭でタレーラン嬢を見かけた。アルベールと一緒だった。
「俺と結婚?おいおい、王妃の座はどうなったんだい?」
ドキッとして立ち止まる。カイエンは咄嗟に木の後ろに隠れた。
「母上がうるさいから頑張ってただけ。アルと一緒なら、人生楽しい気がするから」
「否定はしないけどさ。ちぇ。王妃の腰巾着になるつもりだったのに。貧乏は辛いんだ。侯爵令嬢なんか、半日で逃げ出すぞ」
「大丈夫。今から料理の修行をしてるから。このクッキーも美味しいでしょ?」
「菓子以外も作れよ…大人になって、超絶美人になったらな」
「約束よ!」
彼女は花のように笑った。カイエンは凍りついた。いつの間に。つい最近まで茶会に来てたじゃないか。弟は、そのついでだったんじゃないのか?
(このままでは、全部、盗られてしまう)
母も、タレーラン嬢も。王太子の座も何もかも。彼は走ってその場から逃げた。自分の部屋に飛び込み、執事達が騒ぐのも無視してベッドに潜り込んだ。その日から、不調を理由に夕食を休んだが、父も母も手紙を寄越すだけで来ない。カイエンの心は限界に近づいていた。
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「最近、お兄さんがまた伏せってるんだって?」
パンを齧りながら、チップが尋ねた。アルはランプの近くで絵を描いている。油は隠密に頼んで買ってもらった。
「ああ。おたふくの後遺症じゃないか?もうすぐ誕生日だから、それまでには元気になるよ。山ほど贈り物がもらえんだし」
「アルの誕生日でもあるよ?お祝いするのかな?」
「地震の被害が大きかったから、今年は盛大なパーティーは無しだってさ。でも、ヴァンドームの爺さんが馬をくれるって言ってた。楽しみだなぁ!セラはどうせクッキーだろ。父さんと母さんは…まあ、期待しないでおこう」
「お母さんの声は聞けたの?」
アルは鉛筆を止めた。スケッチもお近づきになる口実だったが、まだ警戒されている。
「母さんは気難しい猫なのさ。慣れるまでに時間がかかる。気長にいくよ」
「聞けたら出て行くの?」
「うーむ。父さん次第だな。領地も爵位もくれないなら、他の道を探すしかあるめぇ。初心に帰って飛脚をやるか。外国語も覚えたから、国際飛脚問屋だ」
「その場合、セラはどうするの?」
「いつまで持つかね。女心と秋の空っていうだろ。第一、親が許さねぇよ。行ってくる。先に寝てていいぞ」
「うん。頑張ってね」
ランプの灯を消し、アルは隠密の修行に向かった。今は学問や武芸を磨くことに集中しよう。その気になれば、いつでも出ていける…この時のアルは、そう思っていた。
◆
夕食の席で兄を見なくなってから1週間。突然、当人から呼び出された。使いの男は、外堀に面した高い塔にアルを連れて行った。毎度お馴染みのサムソン卿が供をする。
「護衛の方は外でお待ちください」
と言われ、サムソン卿は塔を見上げた。出入り口は1つ。逃げる心配はないと思ったらしく、素直に頷いた。全く護衛するつもりが無いな。畜生め。アルは心の中で毒づいた。
長い長い階段を登らされる。アルは前を行く男に尋ねた。
「こんな所で、何の用だ?」
「夕陽をお見せしたいそうです」
(へえ。どういう風の吹きまわしかな)
屋上では、少しやつれた兄が待っていた。弟は周囲を見た。戦時は物見の塔だったらしく、しっかりとした柵もある。真下は水をたたえた堀である。
「ご招待、ありがとうございます。やあ、本当に綺麗な夕焼けですね。こんな場所があったなんて、全然知りませんでしたよ」
「…」
兄は黙ってアルを睨んでいる。後ろには屈強な兵士が1人。使いの男は消えていた。嫌な予感がした。
「じゃあ、失礼します」
回れ右して、階段に続くドアへ行こうとした時、アルは兵士に腕を掴まれた。次の瞬間、ポイっと堀に投げ落とされた。
(やっぱりな)
落下する僅かの間、何とも言えない寂しさを感じた。
(怖いね。殺意に満ちた俺の顔って)
クルクルと回転し、うまいこと足から着水したが、衝撃で下半身が動かせない。もがいていたら、隠密の誰かが泳いできて、
『大丈夫ですかー?』
と、手話で話しかけてきた。
『足裏が痛い。ちょっと助けて』
『お上手でしたよ。どこに上がります?』
『サムソン卿から見える辺りで』
『了解です』
彼はアルに肩を貸してくれた。おかげで楽に水面に出られた。
『助かった。ありがとう』
『どういたしまして』
隠密は手を振って泳ぎ去った。だが、護衛は助けにこなかった。アルは仕方なく、石垣をよじ登った。あと少しという所で、ようやくサムソン卿が手を差し出してきた。
「助けろよ。死ぬとこだったじゃねぇか」
アルは文句を言った。
「隠密がいたので」
「俺の護衛だろ?まだ9時じゃないぞ。給料分は働けよ」
「申し訳ありません」
無情な騎士はハンカチも貸さない。塔の入り口では、使いの男が、幽霊でも見たかのように震えていた。
「あーあ。一張羅がずぶ濡れだ。サムソン卿、今日の夕食は休むって伝えてくれ。そんで弁当作ってもらって。部屋で食うから。夜食のパンも忘れんなよ」
「かしこまりました」
ブツブツ言いながら、アルは濡れた衣服と靴を脱ぎ、ほぼ裸で王子宮に帰った。井戸で身体と服を洗って部屋に戻ったら、チップがびっくりして出迎えた。その夜、サムソン卿が持ってきた夕食を食べながら、相棒と今後のことを相談した。
「そろそろ潮時かな。父さん、黙殺しそうだし。あーあ。美味い飯ともお別れか」
「いつ出る?」
「誕生日が終わってからでいいよ。馬もらってからで。師匠達には、いつ挨拶をしよう?セラは…手紙で良いか。泣きそうだし」
「路銀はあるの?そもそも、どこへ行くつもり?」
「この間、隠密に薬草を売ってもらったから、金貨2枚はある。あては無い。でも、港なら仕事がありそうだ。贅沢言わないで荷運びでも何でもするよ。船乗りの見習いも良いな。いっそ海賊になろう!大昔の大海賊が隠した宝を探すんだ!」
チップは呆れながらも賛成してくれた。何事も引き摺らないのがアルの美点だ。ここがダメなら次がある。彼は王子の暮らしに見切りをつけた。