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          ◆



 大神殿の講堂で、『アルベール殿下による古代語講座』が始まった。大きな黒板を持ち込み、そこに、アルが古代語の単語とその訳を書いた。セラフィーナや大神官補佐、その他希望者は必死にそれを書き写す。昼休憩を少し挟んだだけで、発音や文法まで一気に終えた。


「今日はここまで」


 とアルが言ったときは、既に日が暮れかけていた。ほぼ徹夜明けのセラフィーナは、もうクタクタである。


「ありがとうございます。明日も続きを?」


 マルコ大神官補佐は目をキラキラさせて尋ねた。アルは頷き、


「覚えたかどうか、明日、テストするぞ。上級神官以上は、“大地の書(改訂版)”を読めるようになれ。ほらよ。間違いだらけの秘儀は抜いといたからな」


 ポイっとマルコに“大地の書”を投げた。以前より薄くなっている。


「ええっ?!そんな!」


「良いんだよ。召喚術とかヤバい系は、こっちにまとめといた。題して、“大地の書(裏)”だ。これは大神官か大神官補佐だけに閲覧を許可する。預かっとけ」


 錠前のついた皮表紙の本と鍵を、マルコは震える手で受け取った。神秘を目指す者にとっては、黄金よりも価値がある。だが、アルは気軽に言った。


「大丈夫。盗まれても自力で戻ってくる。改ざんや破壊にも抵抗するよう、命じてあるから。こいつ自体が精霊なんだ。朝晩、ミルクとパンを供えてくれ」


「ええっ?!」


「何回も言うけど、彼らと付き合うには代償が要る。でも、決して命までは取らない。もし命を捧げろと言われたら、それは悪魔か魔神だ。チンケな願いじゃ割に合わないから、やめとけ」


「…肝に銘じます」


「おう。もう5時だな。じゃあな」


 アルは演壇を下りて、セラフィーナの方に来た。朝、やっと誤解が解けたと思ったら、すぐに古代語講座に突入してしまい、全然話せていない。


「セラ。帰ろう。城?それとも侯爵邸?」


「一旦、お城に行くわ。翻訳をやり直さないと。恥ずかしいぐらい間違えてた」


「んじゃ、一緒に夕飯食おう。侍従君、一人増えますって、母さんに頼んどいて。あと、父さんから小遣いは?」


 講座が終わるのを待っていた侍従は、さっと財布を差し出した。


「承知いたしました。こちら、陛下よりお預かりしております」


「ありがとう。夕飯までには戻る」


 財布を受け取り、セラフィーナの手を握ると、アルは外に出た。神殿の馬屋番が朝乗ってきた馬を引いてくる。また二人乗りで、今度は上流階級向けの商店街に行った。


 彼は菓子店の前で馬を止めた。そこで大胆な注文をした。


「この店にある菓子、全部くれ。簡易包装で良いから。明日中に城の小神殿まで運んでくれる?」


 店主はカチコチに固まっている。可哀想に、多分、陛下が来たと思っている。


「幾ら?」


「計算しないと分かりませんが…金貨30枚ほどかと…」


「本当?物価、あんまり上がってないんだな。もっと用意できる?」


 90度に体を折り曲げたまま、店主は答えた。


「支店の在庫を持って参ります!倍はご用意できるかと!」


「じゃあ、それで」


「ははっ!会計をいたします。こちらでお待ちくださいませ。おい!最高級のお茶とお菓子をお出ししろ!」


 セラフィーナとアルは店の奥に案内され、茶を飲んだ。甘いお菓子が疲れた脳に沁みる。一服し、ようやく落ち着いた彼女は、何気なく尋ねた。


「あんなに沢山のお菓子、どうするの?」


「女神様への土産さ。荷物は先に送ろうと思ってね」


(!!)


 突然、思い出した。彼は『休みが取れた』と言った。それはつまり、いつか“根の国”へ帰るということだ。向かいに座るアルは微笑んだ。


「2日後に帰るよ」


「そんなに早く?!」


「介護休暇は5日だからな。明日、神官どもの試験が終わったら、遊びに行こうぜ。荷を送るのは夕方で良いし」


 そこへ店主が請求書を持ってきた。アルは支払いを済ませると、立ち上がった。全従業員に見送られて、二人は店を後にした。城に着くまで、どちらも黙ったままであった。



          ◆



 夕食の席にタレーラン嬢がいる。令嬢は喋る白鼠を凝視していた。王妃も朝はそうだった。だが精霊王は丸一日、娘の相手をしてくれた。訳もなく色々と嫌がる時期なので助かった。アルベールに夕食を食べさせてもらい、眠くなった娘は、早々に引き取っている。


「では、そのマルコ大神官補佐が次の大神官なのか?」


 カイエンが弟に訊いた。今日はもっぱら、神殿の話である。


「知らねぇ。俺は、セラの方が霊力があると思う。なあ、チップ」


「そうだね。修行してみたら?」


「いえ、私は…」


 令嬢は硬い顔で首を振った。様子がおかしい。彼女は“オカルト令嬢”と揶揄されても、諦めずに古代語の研究をしてきた。それほどアルベールを慕っていたのに。


「ご馳走様!兄貴と飲みに行ってくる。セラ、明日の朝、迎えに行くから」


 と、アルベールもあっさりと行ってしまった。息子たちがいなくなると、王と王妃、タレーラン嬢、精霊王が残される。


「では、私も失礼して…」


 ぎこちなく退出を求める令嬢を、精霊王が止めた。


「待って。セラ。アルに聞いたの?」


「はい?」


「明後日の話だよ」


(え?)


 令嬢は真っ青な顔で身を震わせ始めた。王妃は思わず口を挟んでしまった。


「お待ちください。精霊王よ。明後日とは…」


「アルが根の国へ帰る日です。女神が許した休暇は5日間。それ以上は留まれません」


「何ですって?!」


 思わず椅子を倒す勢いで立ち上がる。そして、急いで息子たちを呼び戻そうとした。だが、白い鼠が風を起こして王妃の声を消した。


「いけません。彼なりに、兄や仲間と残りの時間を分かち合おうとしています。…セラ。君は連れて行けない。根の国は普通の人間が暮らせる所じゃないんだ」


 令嬢は涙声で抗った。


「アルは?アルは生きてたじゃない!」


「人間が一人もいない世界が、想像できるかい?魔物と妖精しかいない。たった11歳の少年が、どれほどの孤独と闘ってきたと思う?あれほどの胆力がなければ、とうに正気を失っていたよ。か弱い令嬢には無理だ」


「…」


 タレーラン嬢は両手で顔を覆い、食堂を走り出ていった。精霊王はふっと消える。王妃は呆然と立ち尽くしていた。


(また、あの子を失うの?)


 今度こそ、家族揃って平穏に過ごせると思ったのに。妻は夫の胸に縋り、いつまでも泣き続けた。



          ◆



 一方。アルは下町の酒場で、兄と二人だけで酒を飲んでいた。今日は髪を黒く染め、平民風の服を着て変装している。護衛のサムソン卿とトマス卿は背後のカウンターで立ち飲みだ。


「え?明後日に帰る?」


 アルが今後の予定を伝えると、兄はひどく驚いた顔をしていた。


「うん。でも、運が良ければまた来れるし」


「いつ?」


「分かんね。結婚祝いなんかはモグラ便で送るよ。つーか、早く婚約しろ。アリタイ王女はどうなった?昔、縁談あっただろ?」


「エヴァンジェリン王女か?数年前に会ったきりだ。確か、同国人と婚約してる」


 19でまだ婚約中?10歳で超絶美少女だったのだ。今頃は絶世の美女になっているだろうに。婚約破棄の匂いがプンプンする。アルは隠密を呼んだ。


「アリタイ王女の近況を教えてくれ」


「婚約者の公子と上手くいっていません。公子が平民の娘を寵愛しているためです」


 影から声だけが聞こえる。アルは兄を肘でつついた。


「絶好の機会だ。掻っ攫ってこいよ。何かないの?行く口実」


「建国祭が来月ある。父上の名代で行く予定だが…」


「それだ!前夜祭に乗り込め。きっと、公子が王女に婚約破棄を告げる一幕がある。兄貴はその直後に颯爽と現れて、『では私が立候補してもよろしいですね』とか言うんだ。平民の小娘が『やっぱり王子様の方が良いかも』なーんて近寄ってきたら、蹴っ飛ばせ」


 神託を教えてやったのに、兄貴は胡乱な顔をして、逆に訊いてきた。


「お前こそ、タレーラン嬢をどうするんだ?夕食に招いたくせに、ちっとも話してなかった。子供の頃、結婚の約束をしてたじゃないか」


「子供の戯言だよ。侯爵令嬢に根の国暮らしは無理だ。三日で首括っちまう。明日、思い出作って、さよならするよ」


 アルは強い酒を一気に飲み干した。巫女だったら、何とか口説いて連れて行くつもりだった。古代語もできるし、素晴らしい美人だし。でも、残念。セラだった。


「なあ。どっかに奴隷の美少女とか売ってない?よくあるじゃん。今にも死にそうな売れ残りを治療してやって、最愛のパートナーにすんの」


 酔っ払ってグダグダと絡んだら、兄貴は呆れ顔で言った。


「我が国は奴隷禁止だ。たとえ闇市場があったとしても教えない」


「ちぇっ。モルディアとかにありそうだな。明日、見てくるか」


「馬鹿者。母上やレティシアとも過ごしてやれ」


 お堅い兄上に一蹴され、アルはグラスをあおった。その後、何軒かハシゴをして、日付が変わった頃、トマス卿が兄王子を、サムソン卿が弟王子を担いで城に戻った。


 王子宮の前で兄達と別れ、母の宮に帰ろとした時、昔、草むしりをした庭が目に入った。今は綺麗に芝生が植えられている。寝転んだら気持ち良さそうだと思って、護衛騎士に頼んだ。


「ちょっと下ろして。夜空が見たい」


「はい」


 アルは横になって、瞬く星を見上げた。あと2日。残るはセラだけだ。泣かれるのも辛いし、泣かれないのも、それはそれで辛いな。ぼんやりと考えていたら、サムソン卿が声をかけてきた。


「殿下」


「んー?」


「何か方法はないんですか?」


「無い。女神との契約は絶対だ」


「…」


 寡黙な騎士の愛を感じる。じんわりと温かい気持ちになって、王子はそのまま寝てしまった。


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