偉大なる夜
夜を歩く。
あの塔に向かって。
振り払いたい記憶が蛇のように纏わりつく。
あの夜。
私は夜の民となった。
そのお陰であなたの全力の一撃でも死なずに済んだ。
いや、死ぬことが出来なかった。
心臓が痛む。
あなたに斬りつけられた衝撃とあなたの顔に浮かんでいた本心のせいだ。
苛立つ。
腹が立つ。
叫びそうになる。
だけど、何故そう思うのかが分からない。
塔の階段を登る。
登り続ける。
足音が響く。
その音が腹立たしい。
音も。
色も
香も。
闇も。
夜の全てが嫌いだ。
それなのに私はあの夜に朝日を迎えてしまった。
朝日を迎えられてしまった。
夜の民は日差しを受ければ死ぬと聞いていたのに。
そして、事実、父の体は溶けて消えてしまったのに。
自分が夜の民になれなかったのかとも思ったが、それではあの深手で生きていた理由が説明出来ないし、何より私の身体は漂う血を吸収して傷を再生してたのだ。
あなたにつけられたあの傷。
あなたがつけてくれたあの傷が。
跡形もないなんて。
『カミラ様、こちらへ!』
陽光を浴びながら呆然とする私を父の配下が救った。
分かりやすい旗印を求めていたからだ。
……果たして、あれを救いと言って良かったのだろうか。
私があの時に望んでいたことは一体なんだったのだろうか。
未だに答えが出ない。
分からない。
階段の途中で立ち止まる。
感情が上手く制御出来ない。
考えが少しもまとまらない。
雫が落ちた。
自分が泣いているのだと気づいた。
「なんで……」
何故、涙が落ちているのかも分からない。
これも夜の民と化したせいだろうか?
私達の父がそうなったように。
私もまた人間としての感覚を失いつつあるのだろうか?
『カミラ様。あなたが飲んだ血は最も恐ろしき血なのです』
あなたの追跡から逃れる過程で父の妾にして配下であったという女性から聞いた言葉が思い出される。
彼女は父が集めていた夜の民とはまた別の任を与えられ独自に偉大なる夜について調査をしていたのだ。
『偉大なる夜は各地に血を残しました。それは各地に自らの眷属を残すためと言われています。しかし、事実は違うのです。偉大なる夜は……古から生きる夜の王は世界を嘲笑うために自らの血を残したのです』
立ち止まったまま、私は涙が零れ落ちるままに任せていた。
何故泣いているのか分からないけれど、分からないからこそ止めたくなかった。
この反応が自分にさえ分からない内心の一番素直な形だと思ったから。
『人間は不老不死には耐えられない。お父様は人間としての感覚を著しく失い自らのためだけに反乱を起こした。多くの人々から恨みや怒りを買うのを知りながらも実行した。それは復讐をされても死なないこと、そして百年もすれば復讐心を持った者など一人も残っていないと知っていたからなのです』
彼女の言葉は最後に見た父の姿と合わさりこれ以上のない真実味を帯びていた。
私の父もあなたの父も夜の民となってから著しく狂った。
精々六十年程度しか生きられない人間の感覚を失い、百年単位で物事を見るようになってしまっていた。
『偉大なる夜の目的。それは人間が狂い死んでいく様を嘲ることだったのです。不老不死となりながら狂っていく人間を見つめること。それは永久を生きる者からすればこれ以上ないほどの愉快な劇なのです。狂い果てた夜の民の末路は自ら日光を浴びての自殺。滑稽なことこの上ないでしょう?』
全て彼女の想像に過ぎない。
『夜の民共は自らを夜の王の眷属と称し、偉大なる夜の帰還を待ち望んでいると言っていますが、実際には自らがそう思うことでどうにか自分を保っているに過ぎません』
だけど、否定する材料がどこにもない。
事実として私は自分が狂っていくのを実感しているのだから。
『そして、あなたが飲んだ血。それは偉大なる夜が残した血の中でも特に忌むべき力を持つ血。つまり、自らもまた夜の王となれるほどに強く、濃い……恐ろしいものなのです』
ゆっくりと塔の壁に手を当てて苛立ちを吐き出す。
「どうして……!」
感情を吐き出せば少しは晴れると思った心は却って夜の闇を吸い込み重くなってしまったように感じた。
『夜の王は夜の民よりも遥かに強くさらに日光でも死なない。それはつまり必ず狂ってしまうということ。さらには狂った末に死ぬことも出来ない……お父様に仕えていた夜の民達はそれ故にこの血を飲ませないようにしたのです。死なない暴君の出現など考えたくもないことですから』
落ちていく涙が重く感じた。
地面に引っ張られて倒れてしまいそうな気さえした。
「どうして! どうして! どうして……!」
何も変わることがないのに私はその場で泣き続けた。
この場所ならば誰も来ることはない。
それ故に私は泣き続けた。
「何が夜の王! 何が偉大なる夜! 何で、私が……!」
声をあげて。
惨めに一人、泣き続けた。
落ち着くまで。
身体が重い。
私は階段に座り込み、自分の腹を撫でる。
だけど、どれだけ手で探っても。
幼い頃にあなたがつけた下腹部の傷も、あの夜に体が二つに分かれそうな程にあなたが強く斬り裂いた傷もない。
何もないのだ。
「何で、私が……」
呟いて頭を抱える。
そして、少しだけ目を閉じる。
心が落ち着くまで。
やがて、気を取り直した私は立ち上がり塔を登る。
元々、この場所に来た理由を果たすために。
この塔には幽霊が住んでいる。
それは随分前から流れていた噂らしい。
だけど、当然ながらこの場所には幽霊など住んでいない。
けれど、私はその噂を今も喧伝している。
それはこの場所に誰も近づけさせないためだ。
何故なら。
「無様ね、ローレン」
塔の一角にある小さな牢屋に向かって私は呼びかける。
牢の奥には幽霊がいた。
かつて、誰よりも近しいと思っていた人。
「毎晩のように……暇なんだな」
私に敗北した。
無様な人間。
あなたが私を睨んでいた。




