後編
夏の舞踏会でワイリーグ殿下と楽しく踊れたことに(勝手に)浮かれていたわたしだが、近衛騎士団に戻ると現実は甘くなかった。殿下が「シーウェル」に目をかけている状況を面白くないと思う貴族子弟たちが、嫌がらせをさらにエスカレートし始めたのだ。
最初は訓練に使う防具を隠される程度だったものが、ある朝、宿舎を出ようとしたら頭から水をぶちまけられるという悪質なイタズラにまで発展した。髪や服がびしょ濡れになり、さすがにわたしも「訓練どころか生活に支障が出るんだけど……」と眉をひそめてしまう。
(たかが僻地出身の騎士見習いに対して、立派なお家柄の貴族子弟がやることとは思えませんね。ウミネコの群れに髪の毛をむしられちゃえばいいのに!)
とはいえ、ここで騒ぎを起こして正体がバレるとまずい。わたしも表向きは「大丈夫です、平気です」と笑顔を取り繕うが、実際はけっこう……かなり、困っていた。
そんなとき、ちょうどステファナ王女殿下が様子を見に来てくださった。騎士団の視察だと聞いていたが、殿下はさりげなくわたしのほうを気にかけてくれている。
「ワイリーグ兄様とは仲良くなれたからしら?」
物陰でこっそり呼び止められたので、わたしは思い切って今の窮状を打ち明けた。
「実は、騎士団の方たちから頭に水をかけられたり、装備を壊されたりして困っているんです……。このままでは生活自体が成り立たなくて……」
ステファナ様は唇を引き結びながら頷き、やや小声で「それは放っておけないわね。騎士団ともあろう者が」と憤慨した様子。
「私からお兄様に伝えてみるわ。ちゃんと対処してもらいましょう」と言ってもらえ、わたしとしてはひと安心。
……のつもりが、なんだか大事になってしまった。
ある日突然、ワイリーグ殿下が「剣技大会」を開くと宣言したのだ。
「最近、騎士団の規律が緩んでいると聞く。つまらん足の引っ張り合いをするくらいなら、剣で堂々と勝負せよ! 王をお護りする近衛騎士団の本分を忘れるな!」
殿下の一喝に、周囲の貴族子弟たちも一瞬で顔つきを変えた。つまらない嫌がらせがバレていただけではなく、剣の勝負で誰が強いかはっきりさせよというワイリーグ殿下からのオーダーは、つまり騎士団の中に「シーウェルよりも剣の腕が劣る者がいる」と殿下が見越していることに他ならない。
王族のお声がかりの「剣技大会」であるなら、見物に来る貴族も相当数いるだろう。衆人の前で田舎出身の騎士見習いに負けるなど、貴族のプライドが許さないのではないかしら。
まさかこんな大事になるとは思わずわたしは苦笑いしたが、出るからには勝ちたいし、何よりハイドランジア海軍の一人として、海賊で鍛えた実力を殿下に見ていただくチャンスでもある。
ちなみにお父様は剣技大会の参加に当初難色を示していたが、相手が近衛騎士団と聞いて「なんだ、近衛ならいいぞ。中央貴族のボンボン相手にわが娘が引けを取るはずないからな!」と自信たっぷりに頷いてくださった。
ただし、大会当日まで騎士団の練習場へは近寄らないように言い含められた。もし「見習いに負けることがあってはならない」と考える貴族がいたら、わたしの身に危害が加えられる可能性があるのだそう。まったく、中央の貴族の人たちはつまらないことを考えるものです。
訓練を休んでいる間は、お父様がわたしの自主練に付き合ってくれた。「海賊より怖い辺境伯」の異名を持つお父様から久々に剣の指導を受け、わたしは準備万端の状態で剣技大会に挑むことになった。
「シーリーン様、ごめんなさい! 私がお兄様に『いじめられている騎士見習いを見た』って相談したらこんなことになってしまって……」
剣技大会当日。予想外の展開に当惑するステファナ様に「問題ございません!」と返していたら、通りがかりの伯爵家の子息にぎろりと睨まれた。
「平民の見習いのくせに、王女殿下とお言葉を交わすなど礼儀を知らないにも程があるな」
「あら――私が誰と会話を楽しむかは、私が決めるのよ?」
さっと扇で優雅に口元を隠しながら、王女殿下がにっこりと微笑む。慌てた顔の伯爵家子息に弁解の隙を与えることなく「ごきげんよう」と去っていく後ろ姿は、王族の気品に溢れていた。なんて鮮やかな対応だろう。間合いの読み方が素晴らしい。
悔しそうな伯爵家の子息に八つ当たりされないようにと、わたしも駆け足でその場を逃れる。トーナメントの組み合わせでは、決勝まで進まないと彼と対戦することはなさそうなので、ひとまずほっとした。
剣技大会の会場となった訓練場は、まるでお祭り騒ぎだった。
普段は殺風景な荒地に階段状の見物台が設置され、華やかなドレス姿の令嬢たちが「○○様がんばってー!」と声援を送り、貴族子弟たちが立派な防具をまとって出場者の待機場に並んでいる。
戦場ではないので甲冑は着用していない。鎖帷子と肩当て、そして関節の防具と鉄帽といういで立ちだが、そのすべてに家紋が入っており、顔が映るほどピカピカに磨かれ輝いていた。
(すごい。近衛騎士団は防具のお手入れまで完璧なのですね……)
わたし? もちろん豪華な装備なんて用意できないから、使い込んだ鎖帷子と肩当てという簡素な防具で参加するしかない。まめに手入れをしているつもりだけれど、潮風をあびるとどうしても錆びが浮きやすいため、全体的にくすんだ色をしている。
「見ろ、シーウェルなんて背も低いし、あんな簡素な防具で大丈夫なのか?」
「おいおい、あいつの装備、まるで雑兵みたいだな」
聞こえるように声高に陰口を叩いていた彼らも、いざ試合が始まりわたしがトーナメントを勝ち進んでいくと、目に見えて大人しくなっていった。
「う、嘘だろう。この俺があんなひょろい子供に負けた……」
豪華な装備でキラキラしていた貴公子たちが、ちょっとした剣の打ち合いで動きを封じられ、次々と脱落していく。観戦している令嬢たちからも「シーウェルって子、意外と強いのね」とどよめきが起こる。
わたしの海賊相手の実戦経験と、男装しながら培った騎士団での訓練が、ここに来ていかんなく発揮されていた。あれよあれよという間に勝ち進んだわたしは、いつの間にか準決勝まで進出してしまう。
いかにも非力そうな小柄なわたしが勝ち進んでいることで、観客席からも騎士団の待機場からも複雑そうな声が聞こえてくる。貴族の子弟が負けて面白くないと感じるのはともかく、真面目に騎士団の鍛錬度を見直した方が良いのではなかろうか……とわたしでも思ってしまうので、大会の後は何らかの変化があるかもしれない。
「おい、見習い。俺はダチュラ伯爵家の次男だぞ。わかっているんだろうな」
(ダチュラ伯爵家……? ああ、ハイドランジアの隣の隣の領地ですね)
「はい、存じ上げております! ドリア川の新しい橋のおかげで、王都への移動がとても楽になりました!」
「いや、そういう話じゃねぇ……!」
「では、先日お納めしたハイドランジア産の輓馬に何か不手際でも……?」
「そういう話でもない! くそっ、いいから試合だ!」
準決勝ともなると、相手もさすがの強さ。特に大柄なダチュラ伯爵家の次男の方は、打撃に重さがある。わたしは正面から剣を受け止めることを避けてさっと剣を払い、勢いを逸らせて身をかわし、相手の死角に入り込もうとした。が、背後に向けて肘打ちが飛んできたので慌てて後ろに下がることになる。
(この方は、実戦の経験がおありのようです)
これまでの近衛騎士団の方は、正直に言うなら「戦場に出た経験がないのだな」と推し量れる動きでしかなかったので、ここに至って軍人と分かる実力の持ち主と剣を交えることができ、ちょっと嬉しくなる。
「……なにを笑っている」
「いえ。お強いのだなと」
「小僧、お前もなかなかだ。剣の師は?」
「ハイドランジアの海軍の皆です」
「なるほど、叩き上げか」
ガツン、と腹部を狙って重たい一撃。この方は地上戦の経験が豊富なのか、一つ一つの打撃に全力を叩きつけるような動きをしているため、剣筋が読みやすい。もしかしたら戦場では剣ではなく戦斧を使っているのかもしれない。
「――チッ、ちょこまかと!」
波に揺れる船上で敵と切り結んだ時は、不安定な足場で踏ん張ることを避けて瞬時に移動するのが基本。彼のような大柄な相手は、下手に真正面から剣を受け止めると手首を痛めるため体を移動させながら剣を薙ぐのが定石だ。
ぶんぶんと振り回される大きな剣の軌跡を素早く交わしながら、わたしは真正面からの打ち合いを避け続ける。相手の剣筋の癖、踏み込む足の運び、視線の動き方を観察しながら、決してワンパターンになることのないように不規則な足運びで攻撃を避け続けた。
「くそ、ちゃんと戦え小僧ッ!」
イラついた相手がほんのわずかに防御に隙を見せたその瞬間。わたしは相手の剣を跳ね上げるように力の矛先を逸らせ、返す刀で頭上から降ってくる剣を受け止めたと見せて身を沈め、バランスを乱した相手の脇腹に潜り込むような体勢で、剣を相手の脇の下にピタリと押し当てた。
「ぐっ……!」
「そこまで! 勝者、シーウェル・ハイドランジア!」
防具に覆われていない脇の下は、下からの攻撃に弱い急所になる。体格差を利用した戦い方は、ハイドランジア海軍の女性兵士に教わったもの。小柄で力に劣る女性であっても、それを活かした戦い方があるのだ。
ざわりと観客席から不穏な空気が立ち上る。大柄で堂々とした近衛騎士団の実力者が、田舎の騎士見習いに負けたのだから、驚いたり嫌な気持ちになる人がいるのは……たしかに理解できる。
(わたしだって、お父様が誰かに負けるところなんたて見たくないですからね)
そんな微妙な雰囲気を打ち消すように、ステファナ様のほがらかな声が響いた。
「さすが騎士団の試合、迫力たっぷりですこと! とっても見応えがあるわね!」
王族の言葉に、取り巻きの令嬢たちが拍手で賛意を示す。たった一言でこの場の空気を変えてしまう力は、さすが王女殿下だ。
もう一つの準決勝はワイリーグ殿下が勝利し、なんと決勝ではわたしとワイリーグ殿下が対戦することになってしまった。
「ほう、シーウェルが相手か。毎日居残りで鍛えていただけはあるな」
「ありがとうございます。殿下にご指導いただいた賜物にございます」
「それにしてもここまで勝ち残るとは、よく励んだなぁ」
はは、と笑い声を上げながらも、殿下の目は笑っていなかった。ジロリと周囲の騎士団の面々を見回している。団長として、皆の練度に課題感を持ったのかもしれない。
(王妃殿下は確か「ワイリーグが辺境伯家に婿入りすれば、一時的に騎士団を派遣しても良い」とおっしゃっていましたが……近衛騎士団が対海賊の戦力になるかといえば、ちょっと難しそうですね)
「あぁ……ところで、な。今日は令嬢方もたくさん見物にいるようだが……シーリーン嬢は来ていないのか?」
決勝戦の舞台を整えるまでの待ち時間に、ワイリーグ殿下は声をひそめてそんなことを呟いた。
(はい、殿下の御前におります……!)
わたしは内心悲鳴をあげそうになりながら、必死に平静を装う。
「あ、その、シーリーン様はご用事がおあり、とか……? 今日はお姿を見ていませんね」
殿下は僅かに残念そうな顔をして「そうか……」と呟いた。
わたしはその表情を見て胸がズキリとする。もし本当のことを言えたらどんなに楽か――でも今はまだ言えない。そう思うと余計に切ない。
そして迎えた決勝戦は、第一王子と田舎出身の騎士見習いという組み合わせ。
訓練場は圧倒的にワイリーグ殿下を応援する声で満ちて……いるかと思いきや、なぜか妹姫のステファナ様が「シーウェル、頑張って!」と歓声を上げている。王女殿下の取り巻きの令嬢たちも、わたしを応援してくれているようだった。
(きっと、わたしがすぐに負けそうだから励ましてくださっているのですね……!)
誰もが「殿下が圧勝に違いない」と信じて疑わない雰囲気の中、わたしは刃をつぶした訓練用の剣を握りしめ、静かに息を整える。
(近衛騎士団の団長と本気で手合わせをしていただける機会なんて、もう二度とないはず。わたしの精一杯をお見せしましょう)
「――決勝戦、始め!」
審判役の副団長の声と共に、わたしとワイリーグ殿下は素早く間合いを広げる。
剣先を下げたままゆっくりと右側に移動する殿下との間合いを一定に保つように動きながら、わたしは目を皿のようにして彼の動きの特徴を捉えようとした。
「はっ…!」
突然、予備動作なく剣を突き出され、反射的に自分の剣で薙ぎ払う。わたしは大きく伸ばされた腕を避け相手の懐に飛び込もうとした。が、踏み込みと反対側の足が蹴り出されたのを感知して素早く地面を転がって距離をとった。
(この動き、相当戦い慣れていらっしゃる……さすが王妃様が“脳筋”と断言なさるだけありますね!)
「なるほど、独特だ」
「殿下?」
「いや、シーウェルと戦った者たちが『動きが独特すぎて手に負えない』と愕然としていたのでな。どういうことかと思っていたら、なるほど、騎士団の訓練としては想定外の動きをする」
「おっしゃるとおり、自分は“騎士の剣”ではないと自覚しております。そもそも海賊は、まったく予想外の動きをしてくるのが常でして」
わたしがそう答えると、ワイリーグ殿下は面白そうに声をあげて笑った。
「そのとおりだ! 言うなればシーウェルは海軍の剣だな。私は陸戦の経験しかないので、とても興味深い。もう少し、付き合ってくれ」
ニヤリと笑った殿下が、大きく振りかぶって剣を打ち下ろしてくる。わたしはその剣を真正面から受け止めた。準決勝の相手と違う対処をしたのは、お手本のような綺麗な打ち込みで、明らかに力の配分がなされた一撃だったからだ。
「いいぞ。――来い」
「はい!」
わたしはワイリーグ殿下と同じように、真正面から剣を振り下ろした。眉ひとつ動かさずに受け止めた彼が「やはり軽いな」と呟く。
「訓練の時から打撃が軽いのは気になっていたが……なるほど、力のなさを素早さで補っているのだな」
「おっしゃるとおりです。それから、船の上はよく揺れますので、踏ん張ると逆に体重移動に難が出ますゆえ」
「そういうことか。陸とは足場の条件まで違うのだな」
ふんふんと頷いた殿下が、ふっと表情を変える。身にまとう雰囲気が一瞬で変化し、腰がグッと落ちた。
(――来る!)
わたしは本能的にその場から飛び退いた。案の定、剣の一閃がさっきまでわたしのいた空間を切り裂く。
素早く体勢を立て直して背後を狙うわたしの剣を、殿下が振り向きざまに受ける。反撃される前に距離を取り、さらにステップで移動して脚を狙う。蹴りを避ける。追ってくる剣をかわして脇を突く。かわされる。銀の剣が迫る。受け止めて逸らす。
「なかなかやるな、シーウェル……!」
殿下は息をはずませながらも、どこか楽しそうに目を輝かせる。一方のわたしも「殿下、やっぱり本当にお強い……!」と興奮を抑えられない。
打ち合いが続く中、互いの剣が交錯しては離れ、またすぐに入り込んで斬り結ぶ。周囲からはどよめきが上がりっぱなしだ。
ワイリーグ殿下の一撃を紙一重でかわし、反撃に転じようとしたその瞬間――
「あっ!」
殿下の剣がわたしの剣を勢いよく跳ね上げた。その剣は同時に被っていた鉄帽の革ベルトまで切り裂き、茶髪のかつらごと弾き飛ばしてしまう。
「なに……!?」
咄嗟に動きを止めた殿下の目の前で、かつらの下に隠していた銀色の髪がぱさりと広がった。訓練場を取り囲む全員の視線がわたしに集中する。
「えっ……あれ、女か……?」
「まさか! でも、あの髪の長さ……」
「嘘だろう……シーウェルって女だったのか……?」
まさかの展開に、訓練場の空気が一気に凍りつく。わたしは咄嗟にその場で膝をついた。
「――参りました。わたしの負けです」
わたしは頭を下げたまま、肩で大きく息をする。ワイリーグ殿下との打ち合いで思った以上に体力を使い果たしていた。剣を弾き飛ばされた両の手が痺れている。
顔の横の髪が一筋、血に濡れている。耳たぶからじわりと血が滲んでいることに気づく。
長い銀髪が完全に衆目に晒された今、自分は「男装した女」だ。直前まで「見習いの少年」として偽りの姿で殿下の前に立っていた事実に、顔を上げることもできず、わたしは殿下に深く頭を下げ続けた。
「……銀髪……? お前、いや、あなたは――」
「ハイドランジア辺境伯が娘、シーリーンにございます。申し訳ありません、殿下。お咎めは如何様にも」
「――お兄様、お待ちになって」
静かな声で割り込んできたのは、ステファナ様だった。それだけで全てを察したのか、ワイリーグ殿下は「そういうことか」と小さく笑った。周囲がざわつくなか、殿下は表情をほとんど変えずにわたしを見下ろしている。内心はきっと驚いているだろうに、それを悟らせないよう極力感情を抑えているように見える。
「……シーウェルが、シーリーン嬢、というわけか」
落ち着いた声でそう言われ、わたしは申し訳なさでいっぱいになりながら、「はい。申し訳ありません」と小さく答える。すると殿下はニヤリと口元をゆるめた。
「謝罪を受け入れよう。……まったく、あなたはとんだお転婆だな」
次の瞬間、わたしは殿下の腕に抱き上げられていた。
「え、あの、殿下っ……!」
狼狽するわたしを両腕で抱え上げたまま、殿下が審判役の副団長を振り返る。
「副団長、勝者はどっちだ?」
「え!? いや、はい! 勝者、ワイリーグ団長!」
「よし。では締めの挨拶は任せる」
「は、はい……!」
目を白黒させる副団長を尻目に、殿下はわたしを軽々と抱えたまま練習場を後にした。
医務室に運ばれ、わたしは簡易ベッドに下ろされる。騎士団所属の医師が、男装して防具を身につけたわたしを驚いた顔で見ていた。
「本当に、申し訳ありませんでした。どうしても殿下には……わたしから直接、辺境伯領のことをお耳に入れたくて……」
わたしが途切れ途切れに理由を説明すると、殿下は鋭い眼差しを向けながらも、少し考えこむように頷く。
「シーウェルがシーリーン嬢だったとは、まったく意外だ。だが――海賊に悩まされているのは本当なんだろう?」
「はい。そのために海軍の増強が必要になっているんですが、辺境伯が軍備を増強するとなると、中央の貴族の皆様が……」
「――なるほど、理解した」
そこで会話が途切れ、医師が慌ただしくガーゼと薬を準備する。耳たぶに張り付いていた血に濡れた髪を引き剥がすと、わたしには見えないがどうやら殿下が顔を顰める程度の怪我をしているようだった。
「すまない。俺が最後の打ち合いで傷つけてしまった」
わたしは慌てて手を振って「大袈裟です! 舐めときゃ治ります!」といつもの調子で返してしまう。
「君がシーウェルなら、俺もそう言ったんだがな……あなたは、女性だ。女性の体に傷をつけてしまった以上、この責任は……」
殿下の声が一段と低くなる。
(もしかして、「結婚して責任をとる」と言い出すのでは?)
胸がざわつき、思わず言葉をかぶせた。
「なりません、殿下」
わたしの強い口調に、ワイリーグ殿下が目を見張る。
「それ以上は、おっしゃらないでくださいませ。わたしがシーウェルであろうとシーリーンであろうと、これは剣を持ち一対一で戦った結果にすぎません」
殿下は憮然としたようにも見えるが、それでもすぐに眉を下げて息を吐く。
「……わかった。まずはこの傷をしっかり治して、話はそれからにしよう」
そう言って、殿下は医師から薬を受け取り手ずから治療をしてくださった。わたしは「自分でやります!」と遠慮する気力が失せるくらい疲れていたが、さすがに顔の周りを包帯でぐるぐる巻きにされるのは拒否した。
どうしてか自分でもよくわからないが、「責任をとって結婚」という展開を心の底で望めない自分がいる。結局のところ辺境伯家とワイリーグ殿下の縁組は内々に決定しているにもかかわらず、「責任をとって結婚」などという理由で王子様を辺境の田舎の領地に連れて行くのは申し訳ないと思ったのだ。
(そのような理由でハイドランジアに来てしまったら、いつか殿下が後悔なさる日が来るかもしれないもの)
しんと静まり返った医務室の中で、わたしはとても、とても悲しい気持ちになっていた。
+++++
男装がバレた後、わたしはもちろん近衛騎士団から即刻“除隊処分”となり、お父様とともに「辺境伯領にて謹慎」の形を取るためにすぐさまハイドランジアへ戻った。
実際は王妃様の許可のもとに行ったことなので公式に何らかの処分が下ることはなかったが、剣技大会の見物人たちの手前、一応「申し訳ありませんでした」という姿勢を見せることは大事だとお父様が判断したのだ。
一方で、わたしが決勝戦まで善戦したことをお父様は「さすがわが娘だ!」と喜んでいた。むしろ近衛騎士団の練度について心配する有様だ。ちなみに耳の傷を謝罪しに来たワイリーグ殿下に「心配はご無用、舐めときゃ治ります!」と言い放っていたので、殿下には似たもの父娘だと思われたかもしれない。
領地に戻る道中、舞踏会でワイリーグ殿下と踊った記憶や剣技大会での激しい打ち合いが頭をよぎってはため息ばかりついてしまう。胸の奥がなんとも落ち着かないのに、言葉にするのももどかしい。リリーにも「お嬢様、元気がないですね……」と心配される有様だ。
王都から一週間の距離をこえて、わたしの視線の先には、いつもの辺境伯領の景色が広がっていた。夏の太陽にきらめく青い海。切り立った海岸線に打ち寄せる波が白く砕け、背後にはオレンジの果樹がさわがしく並んだ丘陵地がなだらかに続く。潮の香りと緑の香りが入り混じる、幼い頃から慣れ親しんできた空気。
(以前はこの景色が何よりも落ち着くと思っていたのに……今は満たされない感じがする)
心の中でそう呟いては、ふう、と息を吐く。お父様も心配そうに「娘よ、何かあったのか?」と声をかけてくれるけれど、うまく言葉が出てこない。わたし自身、どうしてここまで揺れているのか整理がつかず、ただぼんやりと日々を過ごしていた。
するとある日、突然「ワイリーグ殿下がハイドランジア辺境伯領の視察に来る」との報せが入った。
(殿下に合わせる顔がないわ……シーウェルだったこと、怒っていらっしゃるかしら)
そう思うと、胸がざわついて仕方ない。男装して潜り込んだことは許してもらったように思うが、その後どう思われているかわからない。“許してくれてはいる”と勝手に信じるのは虫が良すぎるかもしれない。
わたしは落ち着かない気持ちのまま、辺境伯領の西の端、海を見渡せる小さな砦でワイリーグ殿下を待ち受けることになった。今は夏。海賊が出没する季節ではないので、海の監視をする砦の人員も最小限。厳しい冬の季節の様子とは大違いだが、だからこそ余裕を持って王族の相手ができる時期だともいえた。
やがて、驚くほど少人数の第一王子殿下の一行が到着した。しかも馬車ではなく騎馬だ。仰々しい歓待は不要と先触れがあったが、王都から西の端の辺境の地まで、馬車すら使わず白馬に乗って王子様がやってくるとは。
わたしはお父様とともに、王子様ご一行を出迎え、砦の中までご案内した。お父様が海賊対策について説明する様子を眺めつつも、頭の隅では「殿下と何を話せばいいのか」とばかり考えて、気が散って仕方ない。
「なるほど、距離を空けて複数の見張り台が海岸沿いにあるのだな。シーリーン嬢もこの砦で見張りを?」
「は、はい。わたしの担当は港湾に面したこの砦と、港湾内の警備です」
「そうか。もし見張り台のどれかが海賊船を発見した場合は、早馬で連絡が?」
「……ここでは、狼煙の合図を使って連携を取っております。馬を使うよりも早いので。あちらの港には即応できる小型の船を置いていて……」
どうしても声が上ずる。視線をワイリーグ殿下に合わせたくても、俯きがちになってしまう。
一方の殿下も、物言いたげな表情のまま何度もわたしに視線を投げているようだった。「何か」を言おうとしてはやめているような、そんな素振り。
そろそろ視察も一区切りというところで、殿下が一歩わたしの横に近づく。わたしもぎこちなく「どうぞ」と見張り台の最上階へ誘導する。同行していた兵士たちとお父様がすーっと姿を消したことに気付き、わたしは内心で「え、どうして!?」と動揺して逃げ出したいような気分になっていた。
「今回、実は王都から馬でハイドランジアまで来たのだが」
「まぁ、馬で……何日かかりましたか?」
「5日だ。これは早いほうだろうか?」
「馬車を使うと一週間かかります。やはり騎馬は早いのですね」
いつの間にか太陽は傾き、オレンジ色の雲が水平線の上を彩っていた。波がきらきら光り、少しだけ涼しくなった夕方の海風は、港を、街を、果樹園を通り、牧草地帯に優しく吹き抜けてゆく。わたしの、大好きな風景。
(この景色を、いつか殿下に見せたいと思っていたはずなのに……今はただ胸の内が騒がしいだけ)
「……美しいところだな、ハイドランジアは」
どこまでも広がる海を眺めながら、ワイリーグ殿下は呟いた。
「はい。わたしの自慢のふるさとです」
そう返したわたしを、殿下が覗き込んできた。今日初めて、真正面から紅茶色の瞳とまともに目が合って、わたしは思わず固まってしまう。
「はは。――シーウェルも、そう言っていたな」
柔らかく微笑みながら、とんでもないことを蒸し返されて、わたしは返す言葉もない。
「……シーウェル、いや、シーリーン嬢。あの時の怪我は……」
「――殿下。どうか、そのことは」
「傷は、塞がっただろうか? もし傷痕など残ってしまったら……」
「いいえ。もう大丈夫ですから」
わたしは髪をかきあげて、傷を負った方の耳を殿下に晒した。ワイリーグ殿下がもし気にしていたら…と考えて、リリーに頼んで念入りに化粧をしてもらったので、一見した程度では傷痕は分からないはず。それは成功したようで、彼はホッとしたような表情で小さく「よかった」と呟いた。
(本当に、心配してくださっていたのね……)
「ワイリーグ殿下。改めて、お詫びを申し上げます。申し訳ありませんでした」
深いカーテシーで謝罪の意思を示すと、彼は慌てたようにわたしの手を取って立ち上がるように促した。
「シーリーン嬢……あのとき、正体を隠していたことには驚いたが、怒るというより、私はむしろ感服したよ。それに、母上からも事情を聞いた。私のことを、慮ってくれたのだろう?」
(ああ、殿下は婚約のことを知ってしまわれたのね)
「……殿下の寛大なお心に感謝いたします。――ご覧の通り、ハイドランジアは辺境の田舎にございます。王家の、第一王子殿下がおいでになるには、その……抵抗があるのではないか、と……」
「そうか。シーリーン嬢は、優しいのだな」
「ハイドランジアの領主の役目は、海賊と戦い、海と領地を守り抜くことです。ときに命すら危うくなることもございます。せめて、当地の状況をわずかなりとも知った上で、殿下にご判断いただきたかったのです」
「判断とは?」
「……未来のハイドランジア辺境伯として、当地においでになるかどうかを」
「なるほど。だが、シーリーン嬢、国の行く末がかかっているのだ。王族の務めとあらば、私はどこへでも行くだろう」
「それでも、です。縁もゆかりもない辺境の地を、命を賭して守ってくれなどと、とても申し上げることはできません。ですから少しでも……殿下に、好きになっていただきたかったのです」
この美しく豊かなハイドランジアの地を。そして海賊と戦う勇敢な領民たちを。
「シーリーン嬢は、本当に優しいのだな。だが、心配は無用だ……私はとうに、好きになっているよ」
「えっ……?」
ワイリーグ殿下は、指先を掴んだままだったわたしの手をすいと口元に引き寄せ、優しく唇を落とした。一瞬の体温と吐息の感触に、わたしはびっくりして固まってしまう。
「私とあんなに楽しくダンスを踊れるのに、騎士団でも群を抜くほど強い……そんな女性は他にいないよ。私は脳筋なので、女心というものが分からなくて申し訳ないが……あなたのことを、とても好ましく思っている」
(いま、自分から脳筋っておっしゃいましたね……!?)
脳筋を自称する王子様は、それでもやっぱりキラキラした王子様だ。わたしの手をゆるく引き寄せる力に、素直に一歩踏み出したら、殿下との距離が近くなる。戸惑いながら見上げた先で、紅茶色の瞳が優しく細められる。
「この美しい土地のことを、私はまだ知らない。だから、シーリーン嬢が私に教えて欲しい。私がハイドランジアを好きになるように。命をかけて、守れるように。――それまでは、あなたを好きだということが、私がこの地を守る理由になるだろう」
優しいのに、それでいて射抜くように、わたしの目を見つめながら彼はそう言った。
「わたしで、よろしいのですか?」
わたしは泣きそうになりながら、小さな声を返すのがやっとだ。
「シーリーン、あなたがいい」
(この人は、なんてまっすぐなんだろう)
自他ともに脳筋と呼ばれているようだけど、思ってもいない美辞麗句を並べられるより、ただ素直に朴訥に届けられたワイリーグ殿下の言葉の方が、ずっと分かりやすい。
(わたしのことを好きだと……だからハイドランジアを守ると、おっしゃったわ)
わたしは何も言えなかった。胸がいっぱいになって、何も言えずにいた。ああ、どうしよう。――“責任をとらなければ”なんて話ではなく、もっと単純な想いなんだとわたしは直感した。
「シーリーン嬢?」
わたしは意を決して殿下の手を取り、深いカーテシーをしながら彼を見上げた。
「わたしはハイドランジア辺境伯が娘、シーリーン・ハイドランジアにございます。わが領地を庇護し、共に支えてくださる騎士様のお名前を聞かせていただけますか?」
これは婚約の申込の決まり文句。――ただし、普通は男性から女性へと名を問うのが常識だ。男性を婿に迎え入れる場合であっても、その形式は変わらない。
けれど、わたしはあえてそれを無視した。こちらが礼を尽くして彼を迎えるべきだと、そう思ったから。
わたしの意図をどう読んだのか、ワイリーグ殿下は一瞬目を丸くして、けれども面白そうにニヤリと笑った。
「私は華頂王国第一王子、ワイリーグ・レオノティス・エルムだ。シーリーン、あなたに会えたことが私の至上の喜びだよ。幾久しく、側にいさせてくれ」
「はい、殿下」
「どうか名前で」
「はい、ワイリーグ様――きゃっ!?」
わたしの手を引き上げるようにして身を起こさせたワイリーグ様は、そのまま高々とわたしをリフトした。見張り台の最上階で、海風に浮かぶように持ち上げられて、わたしは唖然としてしまう。
「まったく……あなたという人は、本当にお転婆だね」
型破りなわたしなりの誠意の見せ方を、彼は笑顔でそう評した。
「お転婆は、お嫌いですか?」
「いいや、そこが良い」
リフトから降ろしたわたしを、ワイリーグ様はそのまま抱き寄せる。耳元に聴こえるのは波の音と、少し早い心臓の音。その心地よさに目を閉じて、わたしは浅い呼吸のまま彼の腕の中に身を委ねた。
(了)
お読みいただきありがとうございます。
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