前編
ハイドランジア辺境伯領には、わたしを含め、春を待ち望む人が多い。
華頂王国の西の端、海沿いにあるこの土地は、冬の間、頻繁に襲来する海賊に手を焼いているから。
「シーリーン様、ここ一週間は平穏な海でよろしゅうございますね」
わたしが生まれる前からずっとこの家に仕えてくれている侍女頭が、執事が振り分けた手紙を部屋に持ってきてくれた。
「そうね、そろそろ潮の流れも風の向きも変わったから、春が来るわ」
ハイドランジアでは、季節が春になると海沿いを流れる潮の向きが変わり、北風が南風に切り替わる。その影響で、冬の間は週に一度は沖合いに出没していた海賊船が、こちらまで来なくなるのだ。
海賊船は海の向こうの国からやってくるようで、まず相手と言葉が通じないし見た目も違う。ハイドランジアには船を使って外国と貿易をする商人が多いから通訳には事欠かないけれど、そもそも海賊になって善良な商船を襲って金品を強奪するような人たちなので、言葉を通訳できても理屈が通じない。
まあ常識があったら海賊なんてやってないと思うので、うちの海軍では「海賊は全員、簀巻きにして海に投げる」という海の掟に則って商船の護衛や港湾の見回りを行っている。だって捕虜にしても警備と食費がかさむだけで何のメリットもないのだから。
「春になったら、お嬢様のお仕事も少しは楽になりますよね。……もう16歳におなりなのですから、多少はお肌とお髪のお手入れにも気を遣っていただかないと」
わたしの髪に櫛を入れながら、侍女のリリーがため息をつく。早朝から船の上にいたため、母譲りのまっすぐな銀髪は潮風でパサパサになっていた。
冬の間は沖合いの海賊対策で軍の人手が足らなくなるため、わたしは10歳の頃から比較的安全な港湾の警備を担っている。幼い頃から水夫と一緒に船に帆を張り、海兵と一緒に剣を振るい訓練をこなしてきたのだ。
そんなわけなので、長年警備艇の上で潮風に痛めつけられた髪とか肌とか、いまさら多少手入れをしたところで何ともならないと思うんだけど。
「リリー、そんなこと言っても、春夏でどんなに頑張ったところで、冬になったらまた船上生活で髪なんてバサバサになるんだから……」
「まああ、何をおっしゃいますか。シーリーンお嬢様はご婚約を控えた身。正式なご婚約が決まれば、軍のお仕事も多少は控えめにしていただかなくては」
「え、どうして?」
「ご結婚の準備があるからです!」
「えええ!?」
「……シーリン様? 何をそんなに驚くことが?」
「え、だって結婚の準備くらいで軍の仕事を控えるとかアリ!? 大事な港湾警備なのよ!?」
「ええ、ええ。確かに海賊退治も大事ですけどね……ご領主様の娘御には、そのお立場でしかできないことがございます。海賊退治など、ばあやが代わって差し上げますとも」
わたしとリリーのあいだに割って入ってきた侍女頭が、先ほど持ってきた手紙の中から、ずいっと美しい封筒を差し出してきた。
「なあにこれ……おっ、王妃殿下から!?」
「この様式は、舞踏会の招待状かと」
「王妃様からの……招待状……」
これは大変なことになった。
実はわたしはハイドランジア辺境伯の娘として、王家から婚約者を迎えることが内定している。しかも相手はなぜか第一王子殿下だ。
ことの始まりは、お父様――ハイドランジア辺境伯爵が、自領の苦境を王家に相談したことから。
辺境伯という「辺境にめっちゃ広い領地持ってるつよつよ領主」の立場は、複雑だ。ハイドランジアは海賊対策が大変だから、最新式の船を新造して、ついでに隣の領地の領主と協力して軍備も増強したいんです……というしごくまっとうな計画にもかかわらず、中央のゆるふわ貴族たちから「つよつよ領主が軍備増強=反乱でもするんじゃないか」という疑念を持たれる可能性があるのだとか。
老獪な貴族たちとやり合う気のないお父様は「面倒だから、直接王家に相談すればいい」と思ったらしく。
そうしたら、お父様ではなくわたしが新年のお茶会に呼ばれ、そこで王妃様や公爵夫人に直接「海賊退治すごく大変なんです。軍備の増強したいだけなんです」と訴えることに。
すると、なぜかなぜか「第一王子ワイリーグ殿下を辺境伯爵家に婿入りさせるのがいい」と話が決まってしまったのだ。なんでも、中央貴族たちの反感を買わずに軍備を増強するには、王族と縁続きになるのが安心安全だとか……。
本当に、いまだに「なんでそうなった!?」としか言いようがない事態。わたし、美味しいマドレーヌをもぐもぐしていただけなのに……。
王妃様と王女様が揃って「あの子/お兄様は脳筋だから、王よりも軍人が向いてるのよ」と太鼓判を押してくださったため、どうやらわたしに断る余地はないらしい。
(長男のロドス兄様は「王子が婿入りしてくるなら、辺境伯爵位はそっちに!ぜひ!」となんの抵抗もないみたいだし……)
とはいえ、ワイリーグ殿下は近衛騎士団の団長。いくら脳筋で腕が立とうとも、ハイドランジアで毎日乗るのは馬ではなく船。ましてや海賊退治などなさったこともないはず。
ハイドランジア辺境伯爵は、領の海軍の提督でもある。いくら王家と辺境伯家で内諾があっても、華頂王国の西の端っこで、ときに命懸けで海賊と戦うような立場を、殿下ご本人の了解がないまま押しつけるのはたいへん気が引ける。
そこでわたしが思いついたのが「まずは、ハイドランジアとわたし自身のことを知ってもらおう」という作戦。
第一王子であるワイリーグ殿下は、もともと王位継承者のひとりとしてお育ちになった方。王家が決めたことだからと「はい、あなたハイドランジア辺境伯家にどうぞ」ではご本人も納得しがたいでしょう。わたしと殿下、ともに脳筋同士なら意外と話が合うかもしれないので、まずはお友達から始めたいと思います。
……そんな話をワイリーグ殿下の妹姫にあたるステファナ殿下に熱弁したところ、かの方は確かに「それは、素晴らしいお考えですわ」とおっしゃっていたのだ……妙に肩がぷるぷる震えていた気もするけど。
つまり、今わたしの目の前にある、上品な透かし彫りのカードにしたためられた「春の大舞踏会のご招待」は、王妃様からのアシスト……ということに違いない。「これをきっかけに、お友達になりなさい」という確かな意図が透けて見える。
潮の流れが変わる春と夏は、海賊の襲来が落ち着く貴重な時期。今のうちに何とか殿下と親睦を深めなくてはらないのだ。
「つまりこの舞踏会は、ぜったいに出席しなくてはならないのね……」
「お任せください! このリリーが、シーリーン様のお肌も髪も、つるつるのピカピカに磨き上げてさしあげます!」
「うっ……よ、よろしくお願いします……」
+++++
華やかな王都の、しかも王城の大広間で開催される春の大舞踏会は、華頂王国の西の端っこのハイドランジア領にいても耳にすることがあるくらい、王国の一大イベントとして有名だった。
もちろんわたしだって、華やかな舞踏会にはちょっと興味がある――と言いたいところだけど、実は夜会用のドレスなんてほとんど着たことがない。なにしろ普段は海風にさらされ、船に乗って海賊とにらめっこする日々。髪も肌も、荒れ放題なのを何とか誤魔化している程度だ。
しかし、侍女たちはリリーを筆頭に「この機会にしっかりお手入れしましょう!」と目を輝かせ、わたしの髪や肌を念入りに磨き始めた。潮風でバサバサだった髪がオイルとブラッシングでつやつやに生まれ変わり、オイルマッサージや海藻パックで肌も驚くほどすべすべになる。
「すごい……こんなに変わるものなのね」
王城の控え室の大きな鏡の中には、ピカピカに輝かんばかりの美少女が写っていた。
「左様でございましょう。シーリーン様は、元の素材はたいへんよろしいのに、普段から粗末にしすぎなのですわ」
リリーの一カ月にわたる「お嬢様ブラッシュアップ大作戦」が功を奏したのか、舞踏会のために登城したわたしは、すれ違う殿方が思わず振り返るほどの可愛らしい外見を手に入れていた。
(兄様も「何がどうしてそうなった?」と本気でびっくりしていたものね……わたし自身もちょっと引くくらい見た目が変わってるわ……)
侍女たちのなすがまま・されるがままのスペシャルなお手入れを受け続けて一カ月。リリーが「お肌は一カ月あれば生まれ変われるんです!」と熱弁していたけど、本当だったとは。
変な臭いのパックを顔に塗りたくられて我慢したり、背中にオイルを垂らされぎゅわんぎゅわんマッサージされたり、髪の毛をぬるぬるした液体に漬けて小一時間じっとしてたり、色々ひどい目にあったけど……もしかして、貴族の皆様が見目麗しいのは、こういったお手入れを普段から受けていらっしゃるからなのだろうか。
(貴族のご令嬢って、なんて我慢強いの……!)
おまけに舞踏会のドレスを着るには、コルセットが欠かせない。先日の公爵邸でのお茶会では、昼間のしかも茶菓を供される会ということで、略式のドレスにコルセットはやや緩めに締めてもらったが、今度は夜の舞踏会用のドレスだ。踊っても緩まないようにズレないように、きっちりガッチリ締め上げなくてはならない。
「まって、こんなにギュウギュウ締めたら、息が苦しい……!」
「我慢ですわ、シーリーン様。これも貴族令嬢の嗜みですから」
腰から胸にかけてグイグイと締め上げられる感覚に、思わず「ぐえ」とカエルが潰れるような声が出る。
(貴族のご令嬢、こんなに締め上げられてるのにダンス踊るとかほんとすごくないですか!?)
「わたし、吹雪の中でぐわんぐわん揺れる警備艇で吐きそうになったこともあるけど……これよりはまだマシだったかも」
そんな独り言を言うたび、リリーが苦笑いを浮かべる。ドレスや刺繍よりも剣やロープを持ち慣れているわたしは、こういう“女性らしい”苦労を今まで経験してこなかったのだ。
「シーリーン様、ドレスは3着ご用意しておりますが、どれになさいますか?」
王城での舞踏会ということで、お母様がはりきってあつらえてくださったドレスは、薄桃色・水仙色・空色の3着。
(さすがお母様……わが子の体型をよくわかっていらっしゃる)
普段は剣を携えて海軍の船に乗り込んでいるわたしは、普通の女の子に比べて腕や背中の筋肉が目立つ。お手入れされて肌はつるつるになっても、筋肉はどうあっても消せない。
お母様はそのあたりも考慮して、背中と首元がレースで覆われ、袖にもたっぷりとフリルがあしらわれたデザインでドレスを仕立ててくれていた。これなら上半身の筋肉が悪目立ちすることはないはず。母の愛は偉大だ。
今回は春の舞踏会ということもあり、薄桃色のドレスを着付けてもらう。リリーたちのおかげでツヤツヤになった銀髪をハーフアップにまとめ、後ろを軽く巻いて、薄く化粧をほどこしてもらえば……見るからに清楚な16歳の令嬢が完成した。
「まあ、シーリーン様、とってもお可愛らしく見えますわ!」
侍女たちが「やり切った感」あふれる笑みを浮かべて喜んでいる。
(……可愛らしく“見える”というのがポイントですね!)
実態から目を逸らさない彼女たちはとても誠実だと思う今日この頃。
しばらくするとお父様がわたしの控室にやってきた。兄様は「王城こわい。海賊のがマシ」と海軍の指揮官として領地に残ったため、今日の舞踏会はお父様にエスコートされて参加するのだ。
普段はハイドランジア海軍の提督として海賊と戦う強面のお父様が、着飾ったわたしを見るなりへにゃりと顔を綻ばせた。
「ほう、随分と可愛らしくなったな、シーリーン! 母さんの若い頃にそっくりだ。普段、甲板を走り回ってる姿とは大違いじゃないか。リリーたちもよくやってくれた」
お父様がしみじみと感想を漏らして、リリーたちを労った。そうですね、これは全面的に侍女たちの努力の賜物です。
「ありがとうございます、お父様。わたし、ダンスの腕前もお母様譲りですから、誰にも負けませんわ!」
「娘よ、舞踏会のダンスは勝負事じゃないぞ」
「どんなに難しいステップも、長時間のダンスも、乗り越えてみせます!」
「舞踏会を24時間耐久ダンスバトルにするんじゃない。おしとやかな令嬢は数回踊ったらすぐに疲れてソファで休憩するものだぞ」
「休憩を挟んで2回戦・3回戦と進むのですね」
「舞踏会はトーナメント制でもない。いいか、お前は貴族の暗黙の了解や空気の読み合いには慣れていないのだから、ワイリーグ殿下とお言葉を交わせたら早々に引き上げるんだ」
「むう……間合いの取り方や気配の読み方は得意なんですよ、わたし」
「何度も言うがダンスは勝負事じゃない。帯剣もしとらんのに間合いを計るな」
「はっ、そういえば護身用の剣はどこに!?」
「お嬢様、王城内は王族と近衛騎士団以外は帯剣禁止ですわ」
「ふぅ……いいかシーリーン、これから我々が赴くのは華やかな王侯貴族の舞踏会だ。しかし、中にはハイドランジア辺境伯家に反感を持つ貴族がいるやも知れん。王家から王子殿下をお迎えする我々が、そのような輩に隙を見せるわけにはいかんのだ。完璧な“貴族令嬢”に、偽装しなさい」
「はっ、承知しました!」
「いや言葉遣い」
「かしこまりましたわ、お父様」
+++++
「ハイドランジア辺境伯爵ニルギース様、ならびにご令嬢シーリーン様のご入場!」
舞踏会の会場である大広間に足を踏み入れた瞬間、わたしは「ふええ…」と情けない声を上げた。
眩いシャンデリアが金色の光を放ち、あちこちに飾られた花が高貴な香りを漂わせていて。カラフルなドレスやタキシードを身にまとった貴族たちが、笑顔で優雅な挨拶を交わしている。これはすごい。まるで春の光と花々がぎゅっと集められたみたいな、キラキラひらひらした色彩の洪水だ。
父の腕にリードされるがままに会場を進むけれど、華やかな貴族の皆様に圧倒されてどこをどう歩いたものやら。いつもの癖で背筋だけはしゃんと伸びているから、どうにか堂々として見えるかもしれない。
(コルセットほんと苦しい……ここにいるご令嬢のみなさん、こんなに苦しいのに優雅に微笑んでいられるなんて、なんという忍耐力……!)
ふと視線を上げると、貴族のご婦人やご令嬢がさりげなくこっちを見ている気が。わたしは滅多に王城には行かないので「辺境伯家の令嬢ってどんな子?」と思われているのかもしれない。令嬢らしくない筋肉がバレないよう願うばかりだ。
急に会場がざわつき「第一王子ワイリーグ殿下、ならびにステファナ王女殿下のご入場です!」と声が響くと、空気が変わったように人々が道を開け始めた。
「まぁ……!」
初めて近くで見たワイリーグ殿下は、短かい金の髪と紅茶色の瞳を持つ背の高い青年だった。近衛騎士団の深紅の礼装がとてもよく似合っている。
がっしりとした肩幅と上衣の盛り上がり方を見るに、なかなか良い筋肉をお持ちの様子。さすが近衛騎士団の団長を務めているだけはある。
(きっと剣の腕も相当なものでしょう……いちど手合わせをお願いしたいですね)
続いて第二王子ダノン殿下とカレンデュラ公爵令嬢マリエンヌ様が会場入りされた。新年のお茶会で決まったとおり、このお二人は婚約を交わされたのだろう。
そして国王陛下と王妃殿下が奥の間からおいでになり、短かい挨拶のお言葉を賜った後、最初のダンスの曲が流れ始める。
この最初のダンスは、舞踏会の主賓と主催者が踊るもの。今回の主催者はカレンデュラ公爵家で、主賓はもちろん王族の皆様。春の舞踏会は比較的若い年代の貴族が集まる催しのため、ワイリーグ殿下とステファナ殿下、ダノン殿下とマリエンヌ様の二組が、広間の中央でカドリールを披露された。
(はぁ……なんて上品な身のこなし。ステファナ殿下もマリエンヌ様も、指の先まで完璧なダンスだわ。きっと幼い頃からしっかりと研鑽を積まれたに違いありません)
「お父様、ステファナ殿下とマリエンヌ様のダンス、素晴らしいですね」
「確かに、お二人とも可憐でお美し――」
「ヒールで踊っていらっしゃるのに、体の軸がブレておりません。きっと体幹の筋肉がしっかりしておられるのかと」
「……いや、見るのはそこなのか?」
わたしは中央の貴族のご令嬢に対する認識を新たにした。何不自由なく蝶よ花よとお暮らしになっているとばかり思っていたけれど、毎日の肌や髪のお手入れ、甲冑よりも苦しいコルセット、一朝一夕には身につかない見事なダンス……なにもかも、努力と忍耐なくしては乗り越えられない代物だ。
(わたしのように海賊と戦うのとは全く別次元で、ご令嬢たちにも為すべきことがあるのですね……)
最初のカドリールが終わると、いよいよ皆でダンスを楽しむ時間。わたしがそわそわしていると、父が「まぁ、せっかくの大舞踏会なんだ。楽しんでこい」と背中を押してくれた。
わたしは刺繍や詩作といった優雅な趣味は苦手だけれど、唯一“貴族令嬢らしい”特技といえるのがダンスなのだ。
実はわたしのお母様は、貴族の子女が通う学園でダンスの講師をしていた人。お父様と結婚して辺境伯領へ移り住んでからも、「せめて娘には貴族らしい嗜みを教えてあげたい」と思ったらしく、幼い頃から私にダンスを仕込んでくれた。
体を動かすことが大好きだったわたしは、兄様から「いやもう勘弁してくれ……!」とパートナーを投げ出されるくらいダンスに熱中。その結果、お母様から「王都の学園にダンス講師として推薦してもいいわ」と太鼓判を押されるほどに成長した。
とはいえ舞踏会という場に慣れていないため、ダンスのパートナーをどのように探すのか戸惑っていると、わたしを見つけたステファナ様が、ワイリーグ殿下と一緒にこちらに向かってきた。
「ごきげんよう、シーリーン様」
「は、はい。お招きありがとうございます、ステファナ様」
「こちらが例の兄のワイリーグよ。お兄様、こちらはハイドランジア辺境伯令嬢のシーリーン様。お茶会でお近づきになりましたの」
(例の……“脳筋”のお兄様ということですね、ステファナ様!)
「初めまして、ハイドランジア伯爵令嬢。私のことはワイリーグと呼んでくれ」
「お初にお目にかかります、ワイリーグ殿下。では、わたくしのことはシーリーンとお呼びください」
膝を折って型通りの挨拶を交わすと、ワイリーグ殿下が軽く腰をかがめてわたしの顔を覗き込んできた。
「シーリーン嬢、よろしければ……私と一曲、踊っていただけますか?」
「は、はい……!」
優雅な所作でふっと微笑みかけられ、そのあまりの貴公子然としたオーラに、返事の声がうわずってしまった。
(さすが一国の王子様、微笑みすらも高貴で凛々しいのですね……!)
わたしたちの様子を伺っていた周囲の人々から、ざわりと潜めた声が上がった。
(ですよね、驚きますよね第一王子殿下が田舎の辺境伯爵の娘とダンスを踊るなんて……わたしもとっても驚いてますぅぅぅ!)
ゆったりとした音楽に乗せて、わたしたちは踊りはじめる。手袋越しにも、ワイリーグ殿下のごつごつした手が、剣を握り慣れた武人のそれだと分かった。
殿下は背の高い方なので、やや広めの歩幅で移動しなくてはならない。わたしは彼の動きに合わせながら、ダンスのフォームが乱れないようにステップを調節した。
おや、と殿下は器用に片眉を上げてわたしを見返してくる。
「シーリーン嬢は、ダンスがお得意ですか?」
「ええ……その、嗜み程度ですが」
「ご謙遜を。とてもお上手ですよ」
「まあ。ありがとうございます」
くるりくるりと回転しつつ、合間に少しだけ言葉を交わしながら、ダンスを続けていく。踊り続けるうちに、ワイリーグ殿下がわたしの歩幅に気づいたのか、わたしが踊りやすい歩幅になるよう、少しずつ調整を加えているのが分かった。きっと優しいお方なのだなと思う。
メヌエットの音楽がが終わり切る前に、殿下がわたしの指先をほんの少し強く握った。
「シーリーン嬢、もしよければ、もう一曲お付き合いいただいても?」
「こっ、光栄ですわ……!」
(ひええ、王子様からのまさかの延長リクエスト、心臓に悪いです……!)
まさか王子様と二曲も続けて踊ることになろうとは。というか、この舞踏会は、殿下と「仲良くおなり」という王妃様からのアシストだったはず。殿下にも王妃様から何かお話があったのかもしれない。となれば、わたしからも積極的に話しかけるべきだろうか。
次の曲は軽やかなステップが特徴的なパスピエの音楽。二人で手を繋ぎ、はずむようなステップで広間を大きく移動し、ときに殿下と両手を繋いでくるりと回転する楽しいダンスだ。
この踊りは横移動の歩幅を合わせるのがポイントで、殿下は最初からわたしの歩幅を考慮した動きを取ってくださった。うん、とても踊りやすい相手です。
「ワイリーグ殿下は、ダンスがお好きなのですか?」
「そうだな……王子の嗜み程度だ」
わたしの真似をしてそう返してきたことが可笑しくて、思わずふふっと笑うと、殿下もくすりと頬を緩めていた。武人肌かと思いきや、意外とお茶目な方かもしれない。
「あなたとは、とても踊りやすいな」
「まあ、わたくしもですわ」
「……シーリーン嬢は、護身術の心得が?」
「あら、なぜそのように?」
「いや、かなり体幹がしっかりしているなと」
「そうですね……淑女の嗜み程度に」
わたしはなんとか自然な笑みを浮かべられるように自分の表情筋を総動員した。
(いっ言えない……海賊と戦えるように日々の訓練は欠かしていません、なんて……)
いやでももしいずれこの方と婚約とか結婚とかすることになれば、最終的にはバレてしまうんだけど。初対面で軍歴の話をするのはさすがに避けた方が良いとわたしでも分かる。
それにしても、殿下と踊るのは楽しいんだけど……いかんせんコルセットで呼吸が苦しくなってきた。
(領地に戻ったら、コルセットをぎゅうぎゅうに締めても踊れるよう特訓をしなくては……!)
曲が終わり、礼を交わすときには、すこし息が上がってしまっていた。お父様が「令嬢は数回踊ったら休憩するものだ」と言っていたのは、こういうことだったのか。
殿下は、「素晴らしいステップでしたよ、シーリーン嬢」とにこやかに微笑み、ふうと息をつくわたしの様子を見て、壁際のソファにエスコートしてくださった。近くにいた給仕に目配せして、柑橘で香り付けした発泡水を手渡す気遣いまでいただき、わたしは恐縮しきり。
「また、あなたと踊れる機会があると良いのだが」
「ありがとうございます。ぜひに」
ワイリーグ殿下と踊りたいご令嬢は他にもたくさんいるのだろう。殿下はお父様と少し言葉を交わしたあと、すぐに広間の中央に戻って行った。わたしは殿下が持たせてくれた発泡水をくーっと一気飲みして、ふうーっと息をつく。
「娘よ、エールの一気飲みのような仕草は控えてくれ」
「お父様、もう一杯いただけます?」
+++++
舞踏会を終えた翌朝。わたしとお父様は招待者である王妃レオノーラ様に辞去の挨拶をするため、王城の中庭にいた。
王族への挨拶のために時間をとっていただくとなると、妃殿下付きの女官に書面で拝謁の許可を取る必要がある。それは大袈裟だというレオノーラ様のはからいで、中庭で「偶然行き合ったので言葉を交わした」という体裁を取ることにしたのだ。
「シーリーン、ワイリーグとはどうだったかしら?」
「はい、とても楽しくダンスをご一緒しましたわ」
満足げに頷いたレオノーラ様が、お父様に目線を移す。
「それはよかった。では、辺境伯家との婚約話を進めていきましょうか」
「はっ、光栄に存じます」
「あの、そのことなのですが」
レオノーラ様とお父様との会話に割り込む無礼を、わたしはあえて働いた。今、このタイミングで言わなくてはならないことだったから。
「わたしは……第一王子殿下としてお育ちになった方に、いきなり西の端っこのハイドランジア領に行けというのは、ご本人も驚かれるでしょうし、抵抗があるのではないかと思うんです」
わたしの無礼な振る舞いを咎めず、王妃様はやさしく嗜めるような顔で頷いた。
「そうね、それは否定しないわ。けれど王族たるもの、国のために生きることが当然なのですよ」
「はい。王妃様のおっしゃるとおりです。ただ……あの、せめて殿下に、ハイドランジア領のことをもう少し知っていただいて、それから、婚約を進めるかどうかを決めていただきたいのです」
「……シーリーンは、優しい子なのね。とはいえ、この婚約はハイドランジア辺境伯領の軍備をスムーズに増強させるためのものです。国防のための縁組ということを、忘れてはなりません」
「王妃殿下、娘の不調法をお詫びいたします。シーリーン、つまりお前が言いたいのは“もう少しワイリーグ殿下とお話がしたい”ということなのか?」
お父様の額にうっすら汗が浮かんでいる。
(わかりますよ、それは「またこいつは突拍子もないことを言い出すんじゃないだろうな」と思っている顔ですね)
「端的にいうと、そうです」
「……娘よ、これから次の冬に向けて軍備を増強するためには、遅くても夏の終わりにはこの縁組が公になっていないと間に合わないぞ」
「承知しています。そこでわたし、考えたんです。殿下にもっとざっくばらんにハイドランジア領のことをお話するには、殿下のお勤め先である近衛騎士団でお近づきになればいいんじゃないかと」
「……は? いや、シーリーン、お前まさか……」
「そのまさかですわ、お父様。辺境伯爵の名で、わたしを王城の近衛騎士団に推薦してくださいませ」
「ぐむぅ」とお父様が怒鳴り声を飲み込んだ音がした。王妃殿下の前でなければ「ばっかもーん!」とゲンコツの一つでももらっていたかもしれない。王家のご加護はありがたいですね。
一方のレオノーラ様は、扇を広げて優雅に「ほほほ」と笑い声をあげていた。
「ふふ、シーリーンは面白い子ね。でも残念ながら、近衛騎士団に女性はいないのよ?」
「はい、存じ上げております。ですので、男の格好で騎士団の見習いとして参加させてくださいませ。わたしはハイドランジア領軍において軍歴が6年ほどございます。騎士団の足手まといにはなりません」
「おやまあ、そうなのね。……良いでしょう、わたくしはそなたが気に入りました。ニルギース殿、娘御の良きように」
「ええええ、妃殿下!? よろしいので!?」
「だってわが息子とよく似た脳筋なんですもの……きっと拳で語り合った方が話が早いのでしょう」
「あの、わたし殴り込みに行くわけではありませんよ!?」
こうして、意外なほどスムーズにわたしの“騎士団潜入大作戦”は決まったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
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