2-5.見えざる手
松田は眠れぬ夜を過ごし、翌朝を迎えた。京都の町はいつも通りに動き出しているが、松田の心には不安が渦巻いていた。龍馬の命を救い、歴史を変えたことで、何か見えざる力が自分を引きずり込んでいるような感覚があった。
彼は朝早く、街の喧騒を避けるように、宿屋の一階に下りていった。外の風はひんやりとしており、少し肌寒さを感じる。龍馬や陸奥とはまだ顔を合わせていないが、松田は一人になりたかった。心の整理をつけるために、街の路地を歩き始めた。
「どうするべきなのか……」
松田は独り言のように呟いた。自分が歴史を変えた責任が、日々大きくなっているのを感じる。龍馬が生き残ったことで倒幕運動は急速に進んでいるが、その背後には様々な影が蠢いている。昨日、陸奥に警告された通り、松田自身も狙われるリスクがあるのだ。
「未来に戻るべきか……それとも……」
ふと、松田は足を止めた。前方の路地の角に、見知らぬ男が立っている。黒装束に身を包んだその男は、じっと松田を見つめていた。男の鋭い視線に、松田は瞬時に警戒心を抱いた。先日、京都で出会った刺客と同じ空気を纏っている。
「またか……」
松田は心の中で呟いた。彼の存在はすでに敵対勢力に知られているのだろう。龍馬を救い、倒幕を加速させた張本人として、松田の動きは幕府の手先にとって厄介なものになっている。男は静かに近づいてくるが、言葉を発することなく松田を睨みつけていた。
松田は、身を守るためにすぐに短刀に手をかけた。何が起こるか予測できない状況に、彼の心拍は速まる。街の賑わいから少し外れたこの路地では、誰も彼を助けてくれる者はいない。
男はさらに一歩近づき、低い声で言った。
「お前、何者だ?」
その問いは重く、敵意が込められていた。松田はどう答えるべきか迷ったが、相手の動きから目を離すことなく、冷静を装って返事をした。
「ただの通りすがりだ。君が思っているような危険な人物じゃない。」
だが、男はその言葉を信用する様子はなかった。むしろ、松田が何かを隠していることを確信したように、さらに距離を詰めてきた。
「龍馬に近づいている者は、すべて疑われている。お前もその一人だ。答えろ……本当は何者なんだ?」
男の口調は静かだったが、松田にはすでに逃げ場がないことを悟った。相手は武装している可能性が高く、何か動けばすぐに戦いになるだろう。だが、松田の中には別の選択肢が浮かび上がっていた。
「どうしてそこまで俺を疑うんだ?俺はただ、坂本龍馬を助けたいだけだ。それに、彼が倒幕を成功させれば、未来の日本は良くなるはずだ。君も、それを望んでいるんじゃないのか?」
松田は自分でも驚くほど冷静な声でそう問いかけた。だが、男の表情は変わらず、ただじっと松田を見つめている。そして、ふっと小さく笑みを浮かべた。
「未来か……面白いことを言う。お前がどこから来たかはわからんが、少なくともこの時代には合っていないな。」
その言葉に、松田は息を呑んだ。男は彼がこの時代の人間ではないことを察している。それがどうやって知られたのか、松田には見当もつかないが、彼の正体が徐々に暴かれつつあることを確信した。
「お前がこの時代に来た目的が何であれ、俺たちには関係ない。ただ、龍馬が生き残ることが、この国にとっていい結果をもたらすとは限らん。」
男の言葉には、確かな信念があった。彼が幕府の手先であることは間違いないが、彼自身もまた、この国の未来を憂えているのだ。
「俺たちは、このままでは幕府が崩れることを知っている。だが、それが必ずしも良い結果を生むとは限らない。混乱と戦争が続けば、日本は外敵に飲み込まれる。だからこそ、龍馬のような危険な存在は、消さねばならんのだ。」
男の声は低く、確信に満ちていた。松田は一瞬言葉を失った。彼らもまた、この国の未来を考えて行動している。ただ、龍馬を排除しようとする理由が、幕府の存続だけではないことを理解した。
「……君たちは、龍馬が日本を混乱に導くと信じているのか?」
松田はその問いを投げかけた。男は少し考え込んだ後、静かに答えた。
「彼が目指しているのは、確かに新しい日本だ。だが、それが安定をもたらすかどうかは別の話だ。外の世界を知らぬまま進む道は、必ずしも平和な未来を約束しない。」
その言葉に、松田は何も返すことができなかった。男の視点は確かに一理あった。倒幕が成功し、新たな政府が樹立されたとしても、それが安定した平和をもたらすとは限らない。松田は、未来の知識を持つ者として、その矛盾に気づき始めていた。
「いずれにせよ、お前はここで終わりだ。」
男が再び刀の柄に手をかけた。その瞬間、松田は反射的に短刀を引き抜き、距離を取ろうとした。だが、その場の緊張感は高まり、今にも戦いが始まろうとしていた。
「やめろ!」
不意に、背後から声が響いた。松田と男が同時に振り返ると、そこには龍馬が立っていた。彼は一瞬で状況を把握し、松田と男の間に割って入った。
「何をしとるんや?こんなとこで争っても、何も解決せんやろ。」
龍馬は冷静な声で言い放ち、男を睨んだ。
男はしばらく龍馬を見つめていたが、やがて刀から手を離し、静かに頭を下げた。
「龍馬、お前が何を目指しているのか、俺たちにはまだわからん。だが、この国がどうなるか、それを決めるのはお前だけではない。覚えておけ。」
そう言い残し、男は去っていった。松田は深く息をつき、短刀を握る手が震えているのを感じた。龍馬が救ってくれなければ、確実に命を落としていたかもしれない。
「松田くん、大丈夫か?」
龍馬が近づき、松田の肩を叩いた。彼の目には優しさと、何か確信めいたものがあった。
「……なんとか。」
松田は答えたが、心の中には依然として不安が残っていた。彼がこの時代に来たことで、すべてが動き出している。見え
ざる手が彼を掴み、歴史の運命を大きく変えようとしているのだ。
「松田くん、あんたの存在は、思った以上に大きな影響を与えとるみたいやな。」
龍馬の言葉に、松田は微かに頷いた。自分が引き起こした変化は、もはや止められない。それがどんな未来をもたらすのか――その答えを見つけるために、松田はこの時代に残り続けるしかなかった。
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