地震のあとに
震災の後、東京で乳児を抱えて暮らす友人の体験談を参考に書いたものです。地震が題材ですので気になる方はご遠慮ください。
四月の初旬 貞子、大きな買い物袋を両手にぶら下げて帰宅する。
「おかえりなさい。今日も早いお帰りですね」
「地震のせいで仕事がめっきり減っちゃったのよ」
「お給料もめっきり減らなければよいですが」
「それ、洒落にならないから。今月、残業手当ゼロよ」
「残業は嫌だと散々文句を垂れていたではないですか?」
「そうなんだけどさ。お金がないのは痛いなあ。あなた、今月は壊れても修理代は出ないわよ」
「それならもっと優しく扱ってはどうなのです」
タブ、買い物袋に目をやる。
「それは何ですか?」
「ミネラルウォーターだけど」
「十本も買ってどうするのですか?」
「たまたま入荷したばっかりだったの。いざと言う時のために買っておこうかなって」
タブ、咎めるような目で貞子を見る。
「それを世間では買占めというのですよ」
「……だってレジで前に並んだおばちゃんが、たくさん買ってたんだもん。なんだか焦っちゃって」
「貞子を見た人が同じように焦って買占めに走るとは思いませんか?」
「それはそうだけど……」
「お隣の三浦さんの奥さんは、赤ちゃんの粉ミルク用のお水が手に入らないと嘆いておられましたよ。貞子のような厚顔無恥な人達のせいで、本当に必要としている人のところに物資が行き渡らなくなるのです」
「どうしてあなたと三浦さんの奥さんが知り合いなのよ?」
「最近、毎朝外で会いますから」
「……まさかご近所の井戸端会議に出席してるんじゃないでしょうね?」
「ここで貞子の帰りを待つだけなのも退屈なのですよ」
「セクサロイドだってバレたらどうするのよ?」
「オーナーの世間体だけは死守するようにプログラムされていますから心配はいりません。失業中で貞子に養ってもらっている内縁の夫だと自己紹介しておきました」
「それじゃヒモじゃないの。同じぐらい世間体が悪いんだけど」
「そうですか? 山下さんのおばちゃんは羨ましがっていましたよ。いつもお盛んで羨ましいわあ、おほほほ、とおっしゃってました」
「……山下さんってこの上の階よね?」
「安アパートなので筒抜けなのですね」
「嫌だなあ」
「ほら、佃煮をいただきました。いつも遊びに来いと誘ってくださるのです」
「行ったら絶対に襲われるわよ」
「私もそう思ったので丁重にお断りしておきましたよ」
タブ、床に置かれたミネラルウォーターに目をやる。
「このお水は三浦さんに差し上げてもいいですか?」
「いいわよ。すごく悪い事をした気になってきたから」
「貞子に出来るせめてもの罪滅ぼしですね。以後、悔い改めて清く正しく生きるのです」
「罪滅ぼししなきゃならないほどひどい事でもないでしょ? どうしてセックス人形に説教されなきゃならないのかしら」
急に建物がぐらぐらと揺れ、貞子、慌ててタブに抱きつく。
「うわ、怖い」
「余震のたびに貞子に愛されている事をひしひしと実感しますね」
「だって危なくなったらタブが守ってくれるんでしょ?」
「私は人命救助を目的に作られたわけではありませんから、頼りにされても困りますよ」
「ええ、そうなの? じゃあ今度からはテーブルの下に潜るわ」
タブ、部屋の中を見回す。
「このアパートは耐震基準が厳しくなる前に建てられたのではないですか? あまり激しく揺れたら二階の薄い床が抜けて山下さんのおばちゃんが落ちてくるかもしれませんね」
「役に立たないくせに不安ばっかり煽らないでよ。いつになったら余震が収まるのかしら」
急に部屋が暗くなる。
「あれ、電気が消えた」
「今日は七時から計画停電ですよ」
貞子、ライターでろうそくに火をつける。
「忘れてたわ。晩ご飯どうしよう。ええと、冷凍してあるご飯を解凍して……」
「電子レンジは使えませんが」
「そっか。ガスしか使えないのよね。ラーメンでも買っておけばよかったな。停電って何時までなの?」
「三時間ほどだとニュースでは言っていました」
「長いなあ」
「被災地の方は水にも食べ物にも不自由されているのです。贅沢を言ってはいけません」
「それは分かってるけどさ。さっきスーパーでお菓子でも買ってくればよかった。水を買ったらお金がなくなっちゃったのよね」
「ほら、欲張って買占めなどするから天罰が下ったのです」
「どこかの都知事みたいなこと言わないで」
貞子、戸棚を開ける。
「かつお節と海苔があったわ。これでも食べておこう」
「水よりもまず食べ物を用意しておこうとは思わなかったのですか?」
「うん、思わなかった」
貞子、急に咳き込む。
「どうしたのですか?」
「かつお節が気管に入ったのよ。そうだ、マヨネーズで和えたら食べやすいかも」
貞子、小皿の上でかつお節とマヨネーズを混ぜ合わせる。
「ゆかりも混ぜてみようっと」
「おいしいですか?」
「悪くないわよ。これ、ご飯に載せたらおいしいだろうな」
貞子、かつお節を食べ終えて皿を流しに持っていく。
「さて、今から何しよう。テレビも見れないしパソコンも使えないし、ほんと不便だわ」
「セックスなら電気がなくてもできますよ」
「お腹が空きすぎて運動する気分じゃないな」
「運動?」
「今の冗談だから」
貞子、テーブルの上の本を取り上げる。
「それじゃ昨日の続きでも読んでもらおうかな」
「紆余曲折の末に麗子と結ばれた御曹司が、実は戦時中に生き別れになった兄だったと判明したところからですね」
「そうそう、まさかお兄さんが億万長者になってるとは思わないわよねえ。一生お金に困らないなんて羨ましいわ」
「でも実の兄ですよ? 貞子はこの二人の関係に問題があるとは思わないのですか?」
貞子、部屋着に着替えるとソファに腰を下ろし、ろうそくの灯りに照らされた部屋の中を見回す。
「どうかしましたか?」
「地震があってからね、自分が別の世界に来ちゃったみたいに思えて怖くなるんだ」
タブ、隣に座ると貞子の肩を抱く。
「ねえ、貞子。世の中と言うものは日々移り変わっていくものなのですよ」
「でも、何もかも急に変わっちゃったのよ。まさかこんな事が起こるなんて、ちっとも思ってなかったのに……」
「それでも人間は事実を受け入れ、新しい未来に向かって進んでいける逞しい生き物なのです。すばらしいとは思いませんか?」
「……今日のタブは人格者だね。どうしちゃったの?」
「さあ、それが貞子が私に求めるモノだからかもしれませんね」
再び部屋ががたがたと揺れ、貞子、タブに抱きつく。
「ひゃ!」
「おや、テーブルの下に潜るのではなかったのですか?」
貞子、タブに抱きついたまま笑う。
「ううん。どうせ山下さんのおばちゃんにつぶされるんだったら、タブと一緒につぶされるよ」
「その前に私が貞子を連れ出してあげますよ」
「あれ、人命救助はしないって言ってたじゃないの」
タブ、すました顔で笑う。
「若い女性がセクサロイドと抱き合って潰されていては世間体が悪過ぎますからね。この場合には『助ける』という選択肢しか残されていないのですよ」
-おわり-