冴原悠希.1
田舎の中学校といえども、漠然とした学年ヒエラルキーはやっぱり存在する。あれだ。派手で騒がしい奴らは多少無茶なことをやっても許されて、地味で静かな奴らはあまり目立つようなことをしない方がいいっていう、あの暗黙的な掟みたいな空気感のことだ。俺はそういうのにはたいして興味がない……っていうのはまあ俺が低くもなく高くもない無難な位置にいるからであって、ぶっちゃけ下層認定されている奴らはたまったもんじゃないんだろうなとは思う。
二年生になり、クラス替えがあって、俺の隣にやって来た冴原悠希っていう女子はバリバリの上流階級だった。家柄がじゃないよ。学年ヒエラルキーの話。たぶん俺達の学年では最上位に君臨するグループのメンバー。気の弱い奴だったら近くにいられるだけでも心臓が割れそうになるんじゃないかな。そんな女子。俺は例によって別に心臓は割れず平静を保っていられるが、俺の座席が左端の最後列だったため、窓と冴原悠希にサンドイッチされる形となる。俺に逃げ場はない。
とはいえ、冴原が俺に何かしてくるかというと、してこない。平和なもんだ。数学の時間。宿題を黒板に書かされそうな予感がしたので、授業が始まる十分前の休み時間中に俺は急いで宿題をやる。宿題は数学教師のオリジナル問題だったが、教科書に例題として載っているものと同じ解き方だったので、それを参考に慎重に解く。黒板に書かされて間違うってのが一番恥ずかしいヤツだ。そんな失態は犯したくないので真剣にやっつけておく。
解き終えて、というかほとんど例題の解法を写しただけなんだけど、ホッと一息ついていると冴原がどこからか戻ってきて隣の座席に着く。「木田~。宿題写さしてや」
不意に話しかけられて呆ける。「あ?」
「宿題写さしてやって。あたし今日当てられそうなんやって」
俺の読みとだいたい同じだ。冴原もやはり、今日は当てられる予感があるのだ。数学教師は当て方に法則性があるので、危険な日はあらかじめ察しがつくのだ。しかし冴原もそれを理解していたとは。バカなのかと思っていたけど、意外と鋭いのかもしれない。
俺は「いいけど」とノートを差し出す。
「合っとるかわからんよ?答え」
「合っとるやろ」
と冴原は他人のことなのに自信満々だった。
「あんだけ一生懸命解いとったんやから、間違えとらんて」
「……見とったんか」
まあ俺が宿題をやっているのを見とめたからこそ、俺の宿題を写そうと思い立ったんだろう。
「真面目な横顔、見とったよ」
と冴原はイタズラっぽく笑う。
猫。猫みたいだなと俺は思う。目がくりっと丸くて、爛々としている。口元がきゅっと緩やかめにカーブを描いている。
「真面目やからって、合っとるとは限らんさけな」
予防線は張らなくちゃいけない。
「あは」と冴原は笑う。
「いいんや。こんなもんは書けさえすればそんでいいんや。合っとろうが間違えとろうが、どうでもいいわ」
「そんなもんかな」
まあ、それでいいならそれでいい。一生懸命解いた宿題をいきなり写させられるのも、別にどうでもいい。俺が解いたというよりも、教科書の例題が解いてくれたようなもんだし。あんまり面識がないのに図々しいなとも思わない。ヒエラルキーが高い自覚があるからなんだろう。……自覚か。そうだよな。そもそもそれぞれに自覚がなければヒエラルキーなんて出来上がらない。全員が尊重し合うようなクラスなら、誰が上だ下だなんて話にはならない。いや、なんだっていい。上下のない世界なんて逆に探す方が難しそうだ。
果たして、冴原の予感通りに冴原は当てられて黒板に俺の解答を書いたのだが、案の定というか、伏線を回収したというか、その答えは間違っていた。
でも冴原はどこ吹く風だった。
「あはー。ホントに間違っとるやん、木田。マジかあ。あんだけ一生懸命解いとったのに?」
「やから間違えとるかもって言ったやん」
「そこは普通、そう言っといて正解せないかんやろ。それが普通ってもんじゃないんか?」
「普通ってなんじゃいや」
え、ヒエラルキーでいう『普通』の階級って意味じゃないよな? 高くもなく低くもない、普通? いや、俺はヒエラルキーに敏感になりすぎている。この文脈なら普通、普通は普通に普通という意味だろう。
「木田はなんか、面白いわあ」
と、わけのわからない流れで勝手に俺を面白がる冴原。
「いいなあ、なんか、木田」
「なんもよくないよ」と俺は言う。
「あはー」とまた冴原は笑う。よく笑う。
そういうやり取りがあって、以後、授業中に冴原が話しかけてくるようになる。授業中限定だ。休み時間の冴原は、グループのメンバーと駄弁るので忙しいのだ。俺は上流グループに入れてもらえるわけでもなく、ただ授業中に冴原とだけ話すようになった。興味はないってのが前提だけど、まあ俺は冴原のグループに加わるには少しイモ臭かった。よく言えば華がなかった。
けれど、冴原と話すのはそんなに嫌いじゃない。いや、最初は上流階級なんて他人を見下していて感じが悪いんだろうなあと決めてかかっていたけど、話してみると普通だった。それこそ普通だった。声こそでかいが、性格が悪いってわけじゃなかった。まあ俺は冴原のことしか知らないので、他の連中がどうなのかまではコメントできないけれど。そして冴原以外には特に興味もないのだった。
例に漏れずある日の授業中、冴原が机に頬をくっつけたままこちらを見遣り、言う。
「木田にはいつもお世話になっとるよな。なんかお返しせないかんな?」
「……別に」
宿題を見せてやったり、教師に当てられたときにこそっと答えを教えてやったり。しかし間違えていたりもするのであまり胸を張れない。そんな体たらくでお返しと言われてもな。
「うーん……見せてもらおうにも、冴原は宿題やってこんさけな」
「あはは。宿題は、あたしの見んでも、あんた自分でやってくるやん」
といつものように笑われる。
「お返しって言われてすぐに宿題のこと考える辺り、やっぱ真面目やなあ、木田は」
「真面目じゃねえよ」
「お返しは宿題見せてやる以外にもいろいろあるやろ?」
「まああるかなあ」
とはいえパッとは思いつかないけど。お菓子をくれるとか? でも俺は冴原がコロコロ笑ってくれているだけで別に満更じゃないかもしれない。
会話が止まっても、冴原は俺を見てニヨニヨしている。
俺は少し居心地悪くなり「なに?」と言う。
「ううん」
冴原は表情を変えない。
「木田は面白いなあ」
「それ前にも聞いたわ」
「あたしがいつも遊んどるグループにはおらんタイプの男子や。いいなあ、木田は」
「いつも遊ぶグループにおらんのなら、そんなに好きなタイプじゃないんじゃない?」
「そうなんかな」
「…………」
どうなんだよ、と思い、俺は少し……なんだろう、もやっとした気分になる。もやっとした気分? わからない。断定できないくらいの、なんともいえない微妙な気分に陥る。俺は冴原に好かれたいのか? いや、それなりに好かれていると思っていたのに、実はそれ以前の段階だったことが浮き彫りになり衝撃を受けているんだろうか。俺は冴原が好きなんだろうか? それは今初めて思った。マジで。好きな人好きな人……と考えても、今まで冴原が頭に浮かんでくることはなかったのに。急に今、冴原の可能性についてふと思い至った。
俺の心境の変化を見抜いたかのように冴原がまた微笑む。
「そんなことは、ないかもしれんよ」
「…………」
曖昧な発言。
「なんでもいいけど」
フィーリングが合わないってのはたしかかもしれない。だから俺と冴原は別々のグループに所属していて、普段はつるんだりしない。フィーリングが合うんであれば授業以外の時間だって共有したいと思うはずだ。したがって、実際のところ、冴原は俺のことを取り立てては面白く思っていないはずだし、俺自身も冴原と仮に四六時中いっしょにいたら疲れてしまいそうだ。冴原と話すのは嫌いじゃないが体力を使う。授業中に限定したとしてもだ。
それでも俺の中で冴原が急激に大きくなる。期待はできなくても、いっしょにいて体力を消費してしまいそうでも、それでも意識してしまう。冴原と付き合ったとしたら……なんて夢想してしまう。それは現実的な話か?
全然現実味はない。付き合うっつって、男女が両思いになって仲睦まじくするということはわかるが、具体的な内容を上手く想像できない。恋人であることと友達であることに違いはあるんだろうか? 話す話題も変わったりするんだろうか? 変えないといけないんだろうか?
俺には恋愛をするための想像力が足りていない。
また別の日の放課後、冴原がおもむろに提案してくる。
「木田、今日カラオケ行くんやけど、いっしょに来んか?」
「いやいやいや……」
俺は白目を剥く。
「冴原のグループでやろ?」
「そうや」
「そんなところに俺は混ざれんて」
「なんでやって。わからんやん。もしかしたら歓迎されるかもしれんやん」
「待てや」
俺はもういっそ笑ってしまう。
「しかも俺が行くかもしれんことメンバーに断っとらんのかいや」
「え、まだ話しとらんよ」
「いきなりサプライズ的に連れてってってか」
想像するだけで脂汗が出る。
「アホか」
「アホじゃないよ」
「アホやわ。そんな俺なんかいきなり連れてったらブーイングの嵐やろ。とにかく俺は行かんぞ」
「あそー」と冴原はつまらなさそうにする。
俺は肩をすくめる。
「俺は冴原が好きなだけで他の奴のことは知らん」
冴原が目を丸める。
「え、好き……?」
え?
「あ、いや違うって。そういう意味じゃなくって……ってどういう意味かわからんけど。その、俺は冴原とだけ友達やし、そんないきなり知らん人らのとこ行くとテンパるっつーか。別に冴原の友達やからって無理矢理仲良くしとこうとも思わんっつーか……」
「…………」
冴原は、いつものように「あはは」と笑う。
「まあそうやな。そんな無理せんでいいよな」
からかわれるかと思ったが、『好き』はスルーされた。ありがたい。俺はテンパったまま
「もしかしたら友達ですらなかったけな、俺と冴原は」
と反射にも似たニュアンスで卑下する。
冴原は一瞬寂しげに顔を曇らせるが、表情を戻し「友達やーん」と言ってくれる。
「そんなこと言わんといてや。陰険やな。そんなふうに思っとるんか?私のこと」
「や、ごめんごめん」
すぐさま謝っておく。なんだか、欲しい言葉を言わせるよう仕向けたみたいで、自分で気恥ずかしい。
「思っとらんよ。全部言葉の綾や。ごめんごめん」
「ダメやよ、木田。そんなふうに決めつけたら」
「決めつけとらんて。ごめん」
恥ずかしさと申し訳なさに耐えきれず、俺は話を逸らす。
「カラオケって、どこでするんや? 三越まで行くん? こんな田舎にはないやろ?カラオケ」
「それがあるんやってなー」と冴原はしたり顔。
「ウチらのグループの男子の、ばあちゃんがやっとるカラオケ喫茶が町役場の前にあるんや。知らん?」
「あ、あー、なんかあるな」
ボロい喫茶店だ。あそこ、営業してたんだ……。
「友達のばあちゃんがやっとるってことは、タダで歌わせてもらえるんか。なるほどなあ」
「開店前までやけどな」
「まあいいやん」
「まあいいけど。来たくなった?」
「それはならん。っていうか俺、部活あるしな」
「休めばいいやん」
「休めんわ」
「まあ真面目やしな、木田は」
俺の連行をあきらめたようで、冴原は一息つく。
「ほしたら行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
「点数低いもんには罰ゲームがあるんやって。負けるわけにはいかんわ」
「頑張れや」
冴原と二人でなら行ってもいいんだけど、と言おうかどうか迷い、やめておく。さっきの『好き』と併せて告白になってしまいかねないし、そもそも冴原の友達のばあちゃんがやっているカラオケ喫茶を俺と冴原が二人きりで利用できる道理はないんだった。