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第一話「始まりはトイレットペーパー」

 嗚呼、ついにおかしくなってしまったのか。俺は人よりストレスの多い環境で生活しているという自覚はあったが、まさかここまで溜め込んでいたとは思わなかった。

 普通に考えて、トイレに居た者が排便に勤しんでいるうちにいつの間にかこの大自然の中にワープするなんてことは考えられない。つまり、これは夢幻の類であり、決して現実に起きていることではないと考えるのが妥当だろう。突如非現実的な場面に放り込まれた者の思考パターンとしては最早テンプレと化しているものだが、実際これ以外に結論づける方法が思いつかない。

 いつもより手ごわい便秘を相手にしていた疲労でいつの間にか寝てしまっていたのかもしれない。もしくはストレスによる幻覚か。しかしこれほどまでに鮮明に見えるなんて、近頃の幻覚はすごいなあ……と、半ば他人事のような言葉を並べて束の間の平静を保ちながら、思い切り右頬を抓ってみた。

 ……痛い。頬の付け根あたりに走るこの不快な刺激は痛み以外の何物でもない。

 どうやらこの世界には痛覚があるようだ。かと言ってそうやすやすとこの状況を受け入れられるほど俺の環境適応能力は高くない。

 そうだ、たとえ夢の中でも意識が脳を騙して痛覚を再現することがあるかもしれない。即興で考えたものにしてはなかなかありそうな話だ。痛覚の有無が現実か否かを決める時代はもう終わったのだ。

 しかし、幻覚にしては少々長すぎる気がしないか。そろそろ目覚めてもいい頃な気がする。

 だが、夢は一向に覚める気配を見せず、意識は不気味なほどにはっきりしている。

 だんだんこの不自然な状況を夢や幻覚と片付ける方が不自然に思えてきた。でも、もしこれが夢や幻なんかではなかったとしたら、一体何というのだ。

 その時、俺の脳裏にある考えが浮かんだ。それはまさに夢のようなおめでたい話であったが、奇妙にもこの状況の最適解に思えた。

 異世界転移だ。俺は、今まで見てきたラノベやアニメと同じように、異世界転移でここにやってきたんじゃないか。

 思えばこの風景、どことなく七尾バトラの「舐めプの流儀」の舞台となった「クラッシック・ワールド」に似ている気がする。水無月巡の「外れスキル【木こり】を手にした俺は異世界美少女たちとともに最強建築家を目指すことにしました」や、竜崎ゾオンの「某RPGを武器縛りで遊んでたら異世界転移したのでそのまま縛りを続行してみた」でも同じような景色を見た。まるでこれは異世界アニメの世界そのものではないか。

 もし本当に異世界転移が起こっていたら、それは大変喜ばしいことである。前々から「こんな生活捨てて異世界で無双しながら美少女たちにチヤホヤされたい」と思っていた。

 勿論、そんな願望が叶うことは俺のいる世界では到底あり得ない。あり得るわけがない。何度もただの妄想にすぎないと言い聞かせた。現実から逃げるように湧き上がるその思いを幾度も心の奥底に封じてきた。それでもやっぱり、俺は心のどこかで異世界という虚構から成る存在がいつか現実世界に現れる可能性を信じていた。

 そして今、その願いが叶うかもしれないのだ。

 俺は興奮が抑えきれず、ガッツポーズをしてその場で足をふみ鳴らした。

 ……一旦落ち着け。まだ不可解な点は幾つか残されている。

 その中でも特に奇妙なのは転移方法であろう。

 元来、異世界転生・転移とは、トラックによる交通事故や自殺など、対象者の死亡によって引き起こされるものがほとんどのはずだ。死亡ではなかったとしても、何かこうそれに劣らないような非日常的なイベントによって起こるというのがセオリーではないのか。

 それがまさか非日常でも何でもない、むしろ遺伝子レベルで日常に溶け込んでいる代表的な生理現象でありながら、中でも最も遺伝子レベルで不浄だという意識を刷り込まれている行為、「排便」だなんて。もう少しマシな転移方法はなかったのか。

 まさか、あの便秘で死んだわけではないよな? 前にうんちを体内に詰め込みすぎて死んでしまった女性の話を聞いたことがある。俺はいつの間にか便秘で死んでいて、うんちを出していたのは一種の走馬灯だった……。

 確かにそれなら非日常感という観点のみで言えば申し分ないのだが、別に死ぬほど痛かったわけではないし、万一本当に死んでたら末代までの恥だ。俺の親だって、自分の息子が死因がうんちの詰め込みすぎだったら、泣きたくても泣けないだろう。

 ここが現実かどうかはさておき、とりあえず今の状況を受け入れるしかないようだ。

 受け入れるといっても、俺は一体これからどうすればいいのだろう。

 前々から密かに願ってはいたものの、いざ転生してみるとどうしたらいいか分からないというのが現状である。

 その時、突風が俺の股の間を吹き抜け、今すべきことを教えてくれた。

「さむっ」

 そういえば、下半身を露出したままだった。どうやら俺の脳はあまりの情報量に圧迫されたために、宙ぶらりんになった自身の息子に対して疑問や恥じらいを持たせるほどのリソースを残せなかったようだ。

 反射的にズボンを上げようとすると、今度は理性が現在の尻の状態について警告してきた。

 そういえばうんちを出し切った後だったのだ。尻穴にはまだその残骸がある。今ズボンを定位置まで上げてしまったら、下着に汚れが付着してしまう恐れがある。

 何か拭くものはないか。あたりを見回すと、ちょうど隣接する崖の向こうにお尻に優しそうな表面の葉っぱを携えている植物が目に入った。少々原始的だが、あれを使って尻を拭くことにしよう。

 細い崖を渡るは少々気が引けたが、せいぜい数歩で渡れる距離だったし、別の葉っぱを探す気は起こらなかった。

 それに、自分の中に、多少の危険は伴うものの本当に落ちることはないだろうという謎の自信もあった。それは決して身体能力の高さや登山経験の豊富さなど明確な根拠に準ずるものではなく、安逸を貪る日常に染まりきり、非日常に対応する機能を失った己の危機管理能力によって生まれた怠惰であったことは言うまでもない。

 こうして僕は知見も裏付けもない自信を胸に、絶壁に咲くトイレットペーパーを目指して今一歩目を踏み出した。

 谷側を背に岸壁を伝って、対象との距離を近づけていく。

 その時、突如前足かかと付近にあった岩が音を立てて崩れ落ちた。

「うおっ!?」

 足場をなくしてバランスを崩しかけるが、たまたま近くにあった突起した岩にしがみつき間一髪生還した。

「あっぶな……」

 汗をぬぐい、自分の安否を確認する。たった今落ちた足場は、十数メートル下の地上に広がる森林に飲まれて消えた。周辺の木々に止まっていたと思われる鳥たちが煽るような鳴き声をあげて飛び立つ。

 普通ならこの危機をきっかけに自分の危険を感じて退散するか気を引き締めて臨むかするところだが、逆にこの出来事が「これ以上の危機は起きまい」という愚鈍な考えにつながり、自身の平和ボケに拍車をかけた。

 しかし、そんな救いようのない平和ボケを患った俺でもこれ以上この先へ行くと死ぬことぐらいは察することができた。

 なぜなら、足元を見ると自分の足幅の八割ぐらいまでには及んでいた足場が、崖崩れを起こした地点を境に三割以下まで減少していたからだ。さっきの崖崩れはこれ以上先には進んではいけないという大自然なりの警告だったのかもしれない。

 だが、ターゲットはもう目と鼻の先。厳密に言えば、目と鼻というより腕を伸ばした先くらいに位置すると表現した方が物理的には適切なのだが、もう少しで目標達成という意味には変わりはない。

 つまり、今いる位置からでも手に入れることは可能なのだ。ここまできたのに諦めるわけにはいかない。

 俺は意を決し、先ほど死から救済してくれた岩に捕まりながら懸命に目当ての植物に手を伸ばす。しかし、あと一寸というところで届かない。

「くっ……」

 今度は若干前足の方に体重を寄せて屈みながらの獲得を試みる。屈んだ分目標物との距離が近づいたのでさっきよりも獲得が容易になった。

「あと…少し……!」

 その時、遂に左手薬指が葉っぱに触れた。掴むにはあとほんの僅かだけ屈む必要があった。

 しかしこれ以上体重をこの足場に預けると崩れる気がしてならない。

 ……いや、大丈夫か。もういいや。大丈夫だろう。考えるのも億劫だ。

 短時間だが落下の危険にさらされ緊張状態が続いたことにより、俺の脳は最早考えることを拒み始めていた。

 俺はこれ以上この疲労の中頭を働かせても仕方がないと思い、崖が崩れない程度に屈むことにした。崖が崩れない程度とは言ったもののあくまで推測に過ぎず、本当に崩れない保証など何処にもなかった。

 俺はギリギリ崩れないラインを模索しながら前足に体重をかけていく。屈むとともに対象との距離はどんどん小さくなっていった。

 これなら余裕で植物に手が届きそうだぞーーーー。

 そう思った矢先、あたりの景色がガラリという音を立てて九十度回転した。

 俺の身体は勢いよく重力に引っ張られる。次に、風を感じた。

 反射的に目標物の葉を掴むが、当然俺の体重に耐え切れるはずがなく、あっけなく手の中で散るのみであった。

 藁にもすがる思いというのはこういうことなのだろう。藁にすがらなければならない段階に入った人の中にはハナから助かる見込みなどなく、脳が反射的に助かる人の真似をしているにすぎないのだ。

 先ほどのガラリという音は足場が崩れる音だったのだーーーーー。気づいた時にはもう完全に俺は宙に投げ出されていた。

 先にこみ上げてきたのは後悔だった。

 なぜこんな危険を冒してまでこの植物を取りに行ったのだろう。こんな広い森の中なら、いくらでもトイレットペーパーの代わりとなる植物を見つけられたはずだ。なぜ俺は思考を放棄してしまったのだろう……。

 やっぱり、これはただの夢だったのかもしれない。

 異世界なんていうのはやっぱり嘘で、次に目覚めた時にはまたあのつまらない日常が待っているのかもしれない。

 俺は、今度はこの世界が虚構であることを願って茂みに落ちた。

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