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私立・雲地学園中等部は新学期を迎えていた。
すっかりピンク色に染まった桜は、春風に翻りながら一枚一枚落ちていく。
衣替えのタイミングを完全に持て余していた俺は、中途半端に生暖かくなった風にうんざりしながら、一人中学校を目指していた。
ペダルをこぐ度に脇腹の痛みが疼く。日頃の運動不足のせいだろうか。左手で即腹部を摩ろうとしたら、慣れない片手運転で自転車の挙動が狂い、危うく転倒してしまいそうになった。
全く、ただ通学するだけだというのに……。
前方に大学生くらいの男女二人組が見えた。二人揃って同じ服を着ているため、熱々なカップルであると推測できた。
それを見て、俺は舌打ちをしようとしたのだが、舌が粘ついた唾液と絡まって、投げキッスとも咀嚼音とも似つかない破裂音が漏れるだけであった。
おおかた、ペアルックで上辺だけの愛を深める新婚さんカップルってところだろう。
俺は恨みがましくカップルへと視線を投げる。
哀れな奴らめ。つまらない同調圧力でお互いの選択権を放棄するのか。そうやって相手の行動を束縛しあうカップルは、絶対に長続きしないに決まっている。それに比べたら常に自由が与えられている独り身の方がずっとマシさ。
やはり現実世界での恋愛は糞だな……。
俺は見ず知らずのカップルに根も葉もない邪推と妬みを一通り並べた後、駐輪場に自転車を停めて校舎へと歩き出した。
教室は新学期の話題で騒然としていた。やれやれ、お前らの「誰かどのクラスに振り分けられたか」という話題だけでそこまで盛り上がれる能天気さ加減にはつくづく艶羨する。
俺は、席を立って騒いでいる有象無象の間を通り抜け、自分の席へと座った。
「おっ……おはよう、御手洗くん」
右隣に座る根倉今一がやや遠慮がちに話しかけてきた。
伸び放題の髪の毛に、雀斑だらけで骨ばった顔が隠れている。口を動かすたびにチラチラ見える黄ばんだ歯には、少なからず不潔な印象を受けた。
「おはよう」
面倒臭いと思いながらも、仕方なしに挨拶を返す。
「また、同じクラスになれたね……。席も近いし」
当たり前だ。この学校の新学期は、決まって出席番号順に席が並べられる。マ行の俺とナ行の根倉は必然的に横列を通して隣り合う確率が高いのだ。
「そういえば、この前のウィンブルドンを見たかい? フェデラーのあの強烈なサーブには圧巻だったなぁ。御手洗くんもテニスをやればいいのに」
会話の内容に全く興味を持てなかった俺は、うんとかすんとか言って適当に相槌を返しておいた。
それでも根倉は満足したようで、今年はここの国が強いだのあの監督はスゴイだのべらべらと喋り始めた。
俺が言えたことではないのだが、根倉にはあらゆるコミュニケーション能力が欠如していると思う。
なぜ根倉はテニス部でもない俺にウィンブルドンの話をするのだろう。テニス部の連中は相手にしてくれないのだろうか。
大体こいつは偉そうにテニスを語れるほどの実力を備えているのか?
根倉は、テニス部員ではあるものの、全くと言っていいほど運動の素質がない。
去年の途中から入部し、もう半年以上練習に励んでいるらしいのだが、救いようがないくらい下手くそだと言われている。別に練習態度が悪いわけではないし、むしろ毎日部活に来て熱心に活動している方なのだが、一向に上手くならない。
ボレーを打とうとしても反応速度が遅いためにボールに当たらない。サーブを打たせても防風ネットを越え野球部のグラウンドへと飛んでいく。基本のショットでさえ、面の向きが安定せずあっちへいったりこっちへいったりでままならない。
テニス部の連中は、おかげで全然練習にならないと言って嘆息していた。
そのくせ意識だけは高いようで、しばしば俺にテニス用品やプロテニスについての蘊蓄を垂れていた。
「ああ、リストバンド欲しいなぁ。こないだアディダスの青くて格好いいやつ見つけちゃってさ。ゼビオに行って買おうかなぁ」
こいつの話には脈絡がない。ウィンブルドンの話をしているかと思ったら今度はリストバンドだ。脈絡がなくても、面白かったり共感できる内容ならまだ良いのだが、こいつの場合自分の世界の話しかしないうえに恐ろしくつまらないのでどうしようもないと思う。
「でも今お金ないしなぁ。買おうかなぁ。悩むなぁ」
根倉はうわ言のように大して意味もない言葉を繰り返す。
「買ったらいいんじゃない」
ずっと一人で喋らせているのも可哀想になってきたので、少しだけ話に乗ってやることにした。
しかし当の根倉は一通り話し終えて満足してしまったのか、俺のレスポンスを無視してそのまま黙り込んでしまった。
折角の俺の気遣いを無下にしやがって。こんなことなら今まで通り適当にやり過ごせばよかった。
今まで俺は、向こうから話しかけてこない限り決して喋らないというスタンスを貫いてきた。当然クラスからは孤立したが、俺はそれでも構わないと思っていた。
別に人との関わりに興味を持てないわけではない。だが、わざわざつまらない奴と話してまで交友関係を作りたいとは思えなかった。
当然根倉も、クラスメイトの連中から爪弾きにされていた。
話し相手をなくした根倉は、孤立している俺を同類だと思ったのか、執拗に話しかけてくるようになった。
最初は冷たくあしらって追い払おうとした。けれども、根倉の中で俺はすでに友達認定されていたらしく、時間が経つにつれてどんどん話しかける回数が増えていった。俺はその度に苛つき、話しかけるなと告げるタイミングを窺っていた。
そうは言っても、やはり何らかのコミュニティに属していないと不安になってしまうのが人間の性というものである。いつしか俺も根倉の執拗な自分語りに対して一種の慣れを見せるようになっていた。
そんな俺たちのことを、クラスの馬鹿どもは「底辺コンビ」と呼んで面白がっている。正直、根倉以外の奴と交友関係を持ちたい。だが、今更そんなことを望んだってどうしようもないというのが現状である。
まあいい。俺にはラノベやアニメがある。二次元さえあればこんな生活どうだってよいのだ。
根倉に邪魔されてすっかり忘れていたが、そういえば今日は新刊を持ってきたのだった。
今日読むのは川田邪蛇郎の「転生したのにニートやめられない件」第八巻だ。今回、新しく美少女キャラクターが仲間になるらしいのだが、俺はそんなものに興味はない。俺は昔からサブヒロインのガイアちゃん一筋と心に決めているし、今更出てくる新キャラが既に根強い人気を博している既存のキャラクターたちに勝てるわけがない。そもそも、俺が重視しているのは文章である。世間では「ラノベの文章なんて純文学に比べたら足下にも及ばないでしょう」と軽視されがちだが、川田の洗練された文章を舐めてはいけない。川田はなろう系上がりだが、純文学では決して見られない、数多くの斬新な演出を手掛けてきた。彼にはもっと適切な評価が下されるべきである。だいたい、ラノベというだけでなぜ軽く見られなきゃいけないのか。世間はラノベに対する偏見を改めるべきである。今、ラノベ読者に向けられる世間の目は、限りなく冷たい。ラノベを読んでいるというだけで見下されるのは当たり前の世の中だ。キモい、生理的に無理、と理不尽な暴言を何度言われたことか。人の趣味にどうこう言う奴の方がよっぽどキモい。あんな奴らに俺らの行動を制限する権利がどこにあるというのだ。考えれば考えるほど怒りがこみ上げてくる。
「”あ”ぁっ!死ねっ……」
突如として漏れた俺の声が教室に反響した。
しまった、声に出ていた。ここが家ではないことをすっかり忘れていた。
一瞬の静寂が訪れ、一斉に視線が集まった。それと同時に押し殺すような笑い声が聞こえてきた。
またやってしまった。俺はさも効いていないかのように視線をそらす。
根倉は我関せずと言わんばかりに机に突っ伏していた。
ちくしょう。俺の気も知らないで、皆で馬鹿にしやがって。こんな学校今すぐ爆発してしまえ。
俺には、気に入らないことがあると発狂してしまう癖があった。家の中で親に聞かれる分には構わないのだが、クラスメイトに聞かれるとなるときまりが悪かった。
その時、勢いよく教室の扉が開いた。
「皆、時間だぞ! 席につけ」
男は入ってくるなり威勢のいい声を上げ、教室に蔓延っていた喧騒を打ち消した。皆が静まったのを確認すると、黒板に大きく字を書き始めた。おそらく、自分の名前を書くのだろう。
「えー、皆さん初めまして。僕は厚石与太郎と言います。去年はA組で体育教えていたし、知ってるよって人も多いかな。今年度、このクラスの担任を務めることになりました。一年間よろしく!」
よりにもよってこいつが担任か……。俺が最も苦手としていたタイプだった。
厚石はこのご時世には珍しいステレオタイプの熱血教師で、年中着ている紺のジャージと肩にかかった汗拭きタオルが彼のトレードマークであった。
座右の銘は「大きな返事は自信の証、切磋琢磨は絆の証」らしいが、言っていて恥ずかしくないのだろうか。
本人は自分のことを生徒思いの熱血模範教師だと勘違いしているようだが、残念ながらここは学園ドラマの世界ではない。
厚石は、クラスが一致団結して協力し合い、互いに高め合っていないと気が済まない性格の持ち主であった。
「ウザい」「死ね」などの暴言には問答無用で言論統制。他クラスでは自由参加であるはずの月間行事の歯磨き習慣やクリーン活動には全員参加が原則である。
彼の理想のクラス作りを邪魔する者は大人の権力によって片っ端から処罰されていった。
当然生徒からは蛇蝎のごとく嫌われていたが、その一方で彼の学園ドラマ信仰に毒され「清く正しい青春」を求め自ら進んで手下になった者も少なくなかった。彼の配下についた生徒たちは、正義という大義名分を背負いながらレジスタンスたちを取り締まり、やがて厚石の権力の一部と化していった。
特にクラス対抗で競う体育祭や合唱祭などの行事では、彼の悪癖が遺憾なく発揮された。
まず、行事前は必ず三ヶ月前から毎日朝・休憩時間・放課後全てを費やして練習することを強制された。合唱祭ならば歌の練習を、体育祭ならリレーのバトン回しをこれでもかというほどやらされた。勿論遅刻者や欠席者には、信者による弾圧、もしくは教祖様から直々に制裁が下された。
行事終わりは、教壇で受け売りの言葉で固められた感動の演説を披露して、従順なる手下と共に涙するという茶番狂言で締めくくられるのがお決まりだった。
最初から最後まで当にこの世の地獄である。正気の沙汰とは思えない。
毎年そのような惨状のため、彼が赴任したクラスは決まって「全体主義国家」と揶揄されていた。
俺は、この学園にある渾名が基本的に嫌いだが、これに限っては大いに同意したい。
学園ドラマの真似事をするために子供の自由を制限し、管理しようとするその姿はまさに独裁者と言っても過言ではないだろう。
そして本日を以って、俺は厚石政権の支配下に置かれることになった。これを悲劇と言わずして何と言うべきか。
「今日は全員に自己紹介をしてもらいます」
一斉に教室が白けていくのがわかった。
面倒臭い、帰りたい、とあちこちから不満が漏れる。
「せんせー、他のクラスは今日は始業式の後事務連絡だけやって終わりって言ってましたよ。だいたい、今更自己紹介しても意味ないんじゃないすか」
学年きってのチャラ男、上井陽介が強気で抗議した。
「上井、挑戦する前から頭ごなしに否定するのはよくないぞ。今、不平不満を並べたみんなもだ。確かにみんなはこの二年間、同じ屋根の下で勉学を共にしてきた仲間だ。今更自己紹介をしてもあまり意味はないかもしれない。でも、仲を深めた今だからこそ、改めてお互いのことを知って絆を育むチャンスなんじゃないか。百聞は一見にしかずとも言うだろう。とにかくみんなでやってみよう! チャレンジだ!」
仲間、絆、チャレンジときたか。クサイ言葉のバーゲンセールだな。
「みんな」にいちいちアクセントを置いて話す厚石の喋り方は俺の苛立ちを加速させた。
「ちょうど席は出席番号順だし……。よし、一番の人から順に行こう。じゃあ一番、相川! 席を立って大きな声で話してくれ!」
厚石の自己満足による自己紹介タイムは、有無を言わせず始まった。
早速独裁政権の弊害か。今日は早く帰ってアニメの続きが見たかったのに。
「俺は、相川始と言います。サッカー部です。……よろしくお願いします」
「おいおい相川、それだけしか言うことないのか。これじゃあ自己紹介の意味がないぞ」
黙れ。もともとこの茶番自体に意味がないからな。
大体、考える時間も与えずにいきなり自分のことについて長時間話せという方が酷だろう。
厚石の説教を遮るように、出席番号二番の上井が立ち上がった。
上井は一瞬間を空け、皆の注目が自分の方へと集まったのを確認してから喋り始めた。
「上井陽介でーす。相川と同じサッカー部でーす。あ、今のカノジョはD組の大鳥窓奈チャンでーす」
先ほどまで完全に冷めきっていた教室がどっと沸いた。聞いてねえぞー、という野次がどこからともなく飛んでくる。
「大鳥チャンはテニス部のエースで、県大会にも出ています。一生懸命テニスをするケナゲな姿がとてもカワイイです」
お前の彼女の紹介になってンじゃねえか、という野次に皆が笑う。
上井は教室の盛り上がりが冷めないうちに、皆僕のカノジョ取らないでネ、と締めくくり席へと座った。
厚石は満足げな笑みを浮かべてその光景を眺めていた。
正直何が面白いのか全然わからないが、即席のギャグで教室の空気を一気に持って行ってしまう技量には、流石学校の中心人物なだけあるなと僅かながら感心した。
ギャグなんてものは所詮は言う人によって評価が変わるような脆いもので、人はどんなにつまらないギャグでも上井みたいな「面白い人」が言えば面白く感じてしまうものなのだ。もし「つまらない」俺が全く同じギャグを言ったとしたら、当然その場は凍りつき、気持ち悪がられるだけでは済まないだろう。もっとも、さっきのギャグは彼女持ち限定なので、俺には天地がひっくり返っても言えないのだが。
その時、下腹部に電流が走った。患部をそっと手で押すと、差し込むような痛みとともに、中で腐敗した液体が混ざり合う感覚が伝わってきた。
よりにもよってなぜこんな時に。日頃の栄養素が偏った食生活の影響だろうか。
その後は特に盛り上がるを見せるようなこともなく、皆機械的に自己紹介を済ませていった。
自分の番が近づくたびに俺の腹はキリキリと痛んだ。待っている間、必死に「の」の字を描くようにして腹を摩っていたのだが、一向に収まる気配はない。
まずい。この差し込むような痛み、そして最近の便通からして、間違いなく便秘である。腸内環境が著しく悪いために、数多の腹痛を乗り越えてきた俺にはわかる。トイレだ。この痛みを解決するには、トイレに行って全てを出しきるしかない。今すぐにでも向かいたいところだが、生憎人の自己紹介を遮ってまで便所への渡航ビザをもらうほどの度胸は持ち合わせていない。
次の自己紹介が終わったら絶対トイレに行ってやる。そう固く胸に誓った時、ある異変に気付いた。
今は自己紹介タイムだというのに、なぜか教室は不気味なほどに静まり返っていたのだ。
「おい、次は誰だ? 十八番、早くしないか」
見かねた厚石が十八番に催促した。皆の視線が十八番への席へと向かう。
視線の先には、不良グループのリーダー、猿山大将が机の上で足を組みながら厚石を見据えて座っていた。
「猿山、何をしてるんだ? お前の番だぞ」
厚石は催促を続けるが、猿山はまるで聞こえないかのように黙然としていた。
なんてこった、これはいわゆるボイコットであろう。自己紹介をして何の意味がある、早く帰らせろという気持ちを前面にさらけ出して無理矢理にでも自分の意思を押し通すつもりなのだ。
これは長くなりそうだぞ……。こっちは腹痛に苦しんでるとも知らずに要らん抵抗をしやがって。なんで俺がお前のつまらないプライドのために余計に苦しみ続けなければならないんだ。猿山の横暴さに腸が煮えくり返り、腹の痛みを促進させた。
「おい、まさかお前だけ自己紹介をしないとは言わないだろうな。みんなは頑張って自分のことを話したぞ。お前だけやらないなんてことは認められない」
時として、厚石の言う「みんな」は同調圧力をかける爪牙に化ける。さっきまでは生徒を奮起させる叱咤激励の言葉の一つだったのに、なんとまあ変わり身の早いことだ。
猿山は、聞き流すだけではやり過ごせないと悟ったのか、屁理屈をこねて言い負かすことにしたようだ。
「俺は無駄なことはやらねえ主義だ」
じゃあ今すぐその無駄な抵抗をやめろ。お前のその小学生レベルの口答えが何よりも無駄であるということになぜ気づかない。
「なぜ猿山はこれが無駄だと思うんだ?」
厚石は猿山との対話を試みる。どうやら厚石は猿山のような「無駄なことはやらねえ主義」者ではないようだ。
つくづくツイていないな、と俺は思った。
普通の教師なら猿山の反抗を無視して次の人へと回すのだろうが、厚石の場合だと、不良の更生ごっこに興じるようだ。一刻を争う状況にいる俺にとって、厚石と猿山は最悪の組み合わせである。
もしや厚石は、猿山のことを学園ドラマでよくいる「実は不良だけど根はいい奴」とでも思っているのではないか?
ご期待に沿えないようで誠に申し訳ないのだが、残念ながらそいつはどうしようもない屑だぞ。こいつの悪行は結構有名だと思うが、他の教師や生徒たちからの噂で聞かなかったのだろうか。
万引き・カツアゲはお手の物。外での暴力沙汰は日常茶飯事。勿論俺らみたいな弱者への搾取も忘れない。まさに外道である。漢気も不良魂もあったもんじゃない。
不良と見せかけて優しいヤンキーなんてのは所詮フィクションの世界にしか生息していない。そもそも聖人は最初から不良になんてならないのだ。教師にもなってなぜその事実に気づけないのだろうか。
厚石の頭の中には、学園ドラマのように生徒たちから好かれ慕われている自分しかいないのだなと改めて実感した。
「俺が無駄だと思ったんだから無駄なんだろうがあ」
猿山は答えにもならない単語の羅列を吐き出して、まるで親におもちゃを買って欲しいとせがむ子供のように無意味に駄駄を捏ね出した。自分の行動理由すら言語化出来ない奴がよくボイコットなど出来たものだ。彼には羞恥心というものがないのだろうか。あるいは、自分が今醜態を晒しているということに気付いていないだけなのかもしれない。
事実、猿山は自分が正義だ、自分は皆が思っていることを言ってやっただけだと言わんばかりに自信に満ちた笑みを浮かべていた。それは理不尽に対して何も行動しなかった俺たちへの優越感と嘲りが混じっているようにも見えた。
これには厚石もかちんときたようで、「ばかやろう!」と叫んで応戦する。
「猿山が無駄だと思っている理由を聞いているんだ。そんなんじゃ誰もお前の行動を理解してくれないぞ」
腹の中が腸内ガスでぱんぱんに膨らみ、不快感を催した。尻を椅子から少し浮かせ、音を立てないようにそっと肛門からのガス抜きを試みる。
「俺はお前らの理解が欲しくてこんなことやってるわけじゃあねえンだよ」
俗に言うすかしっ屁であり、普通の屁よりも臭いが強烈とされているが、音で屁の主がバレるよりかはマシだろう。
「じゃあ何がしたいんだ。言ってみろ」
辺りに刺激臭が漂い、なんかくさくね、と誰かが呟く。俺は屁の主が自分だとバレるかもしれないと気が気でなかった。
「俺はね、自己紹介なんか馬鹿みてえなことしないでさっさと帰りてえの」
急に腹に激痛が走り、思わず小さく呻き声を漏らしてしまった。幸い周囲は厚石と猿山の攻防に気を取られて気付いていないようだった。
「お前だけを帰すわけにはいかない。新学期からこんな揉め事起こして一体何のつもりだ」
もう我慢の限界だ。この痛みにはとてもじゃないが耐えられない。どさくさに紛れてトイレへ逃げてしまおうか。
「新学期だからなんだよ。てめえの放免記念日か?」
猿山は言葉の断片だけを汲み取って噛み付き、嘲笑う。
中学三年生にもなって、知性のかけらも感じさせないその駄弁にはお見事としか言わざるを得ない。
厚石も流石に会話にならないと悟ったのか、そのまま黙り込んでしまった。
猿山は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。猿山、それは勝ったんじゃなくてただ単に相手にされなくなっただけだぞ。ひょっとして、「最後に言い返した方が勝ち」という小学校における口喧嘩のルールをまだ引きずっているのか? 「この人は言葉が通じません」という烙印を押されて何がそんなに嬉しいのか、まったく理解に苦しむ。
俺は事態の収束をいち早く感じ取り、すぐさま右手を挙げた。
「先生、お腹が痛いのでトイレに行っていいですか?」
さっきまで厚石と猿山の方へと向いていたものが、一斉にこちらを見る。折角面白いことになってきたのに邪魔するんじゃねえよ、と睨んでくる奴もいた。俺個人としてはもうこれ以上の展開は見込めないと思ったのだが、二人の喧嘩が続く可能性を潰したというのは事実なのだから多少恨まれるのは仕方がない。
「さっさと行ってこい」
厚石は面倒臭そうに俺の便所行きを許可した。
俺は平静を装いながらそそくさと教室を出た。腹痛によろめきながら、便所というエデンの園へと一歩一歩踏みしめながら進んでいく。
個室のドアを開けて中へと入り、鍵を閉めると同時にズボンとパンツを一気に下ろして、剥き出しになった尻を便器にすっぽりと嵌めた。
俺はようやく目的地に着いたことにひとまず安堵した。でも気を抜いてはいけない。ここからが本番である。肛門は緩めるが、気を引き締めて臨まなければならない。
「”ん”んっ!」
俺は腹に力をこめて懸命にひねり出そうとする。しかし中の固体は微動だにしない。
「”ん”ん”ん”ん」
もう一度、さっきよりも大きな力で身を押し出す。
「……くはっ! ふっ……」
長い時間息を止めて力を入れていたため声が漏れる。便どころか、屁一つ出ない。
まさかここまで酷いとは。歴代でも一、二を争う便秘なんじゃないか?
「ふ”んっ」
「”ぬ”ん”ん」
「ふ”ん”ぬっ!」
くじけずにもう一回、もう一回と繰り返しているうちに、俺の体はだんだんと衰弱していった。
俺は荒くなった息を整えながら、懸命に自身を奮い立たせた。
何をしてるんだ。それじゃただ腹筋に力を入れているだけではないか。あまりにも手応えがなさすぎて、体のどこに力を入れれば便が出るのか分からなくなってしまったのか。
もうだいぶ疲れてきた。これだけ頑張って、排出したのは大量の汗と屁二つだけ。大便が穴から顔を出すのは当分先のようだ。
ああ、早く出し切って楽になりたいのに、肛門は冷然と行く手を阻む。もういっそのこと諦めてしまおうか。この個室で脱力しながら気長に待てば、いつしか痛みは治るかもしれない。ついでに自己紹介もサボれるし一石二鳥じゃないか。
俺は汚いと分かっていながらも、便器の蓋に埋もれるようにして寄りかかり、身体を休ませた。永遠とも思える時間が過ぎていく。辺りには俺の息遣いだけが残った。さっきまで大便を出すことに夢中だった意識が腹の痛みに向かっていくにつれて、体に不快感が広がってきた。
やっぱりこんなの駄目だ。俺は厚石たちの猛攻に耐えて、やっとここまで来たんじゃないか。こんなところで諦めてどうする。
俺はもう一度だけ、便秘と戦うことに決めた。
便器の蓋から体を起こして排泄する姿勢を作り、ふっと息を吐いてコンディションを整えた。下腹部に全神経を集中させる。
俺は意を決して、腹にあらん限りの力をこめた。
「ふう”う”う”ん」
両手で大きな拳を作りながら、身体が仰け反り返るまで踏ん張った。
その時、あれだけ頑張って追い出そうとしても大腸に居座り続けたまさに不動のうんちが、果てしない時を経て、今やっと、俺の尻穴から芽を出し始めた。
よし、この調子で一気に出すぞ! 俺はすかさずリーチをかけようとする。
「……ぐっ……はっ……ふう”う”う”う”う”ん」
しかしうんちも諦めが悪い。振り落とされまいと必死になって俺の肛門にしがみつく。
これは一筋縄ではいかないようだな。だがあともう一踏ん張りだ。ここまで来たらあとは最大限の力で出し切ってやる!
俺は大便が引っ込まない程度に少しだけ力を抜いて、目を閉じて瞑想し始めた。そこには俺を出産しようとする母親の姿があった。
「ひっ……ひっ……ふぅ……ひっ……ひっ……ふぅ……」
そうか、俺の母親も、俺を出産する時こんな気持ちだったんだな。俺はこの土壇場で、母親の痛みを理解した。
俺と母親の息遣いをシンクロさせる。母親に対してこんなに頼もしさを感じたのは何年振りだろうか。
反抗期で忘れかけていた母親への慕情とともに、ありったけの力をこめてうんちを押し出した。
「う”う”ん”ん”ん”ん”ごお”お”お”お”お」
その時、トリップするような感覚と共に、意識が飛ぶほどの快感が俺の脳を襲った。脳内で大量のドーパミンが分泌されるのを感じる。なんだこの、まるで広大な宇宙を一人で漂っているかのような感覚は……。
ーーーーぽちゃん。
あっけないほど静かな水音と共に、腹のなかで溜まりに溜まっていたうんちが次々と落ちていく。
俺の身体は宙に漂いながら、まるで新たな生命が誕生したかのような高揚感と安堵感に包まれていた。
こんなにも手ごわい便秘に見舞われたのは何年振りだろうか。浣腸無しでよくぞここまで頑張った。
それにしても、先ほどの快感はうんちを出し切った時の満足感にしては異常だったな。手強い便秘ほど満足感は大きくなるというが、まさかこれほどまでとは思わなかった。
ひょっとしたら、下手な麻薬よりも気持ちいいんじゃないか? ……なんてな。
俺は魂まで一緒に抜けていきそうなほど深いため息をついた。乾いた風が俺の汗ばんだ頬を撫でて心地がいい。
……ん? 何かおかしくないか? ここは窓も何もない密閉された個室のはずなのに、なぜ風を感じたんだ?
……まさか! 俺は事態の異常さを察知し、ぱっと目を開けた。
気がつくと、俺は林に腰を下ろして鬱蒼とした緑の群落を眺めていた。
木々の梢が風に靡き、その間を鳥たちが飛び立っていく。耳をすますと、微かに川のせせらぐ音が聞こえてきた。
「……は?」
下を見ると、座っていた便器がいつの間にか切り株へと変わっていた。周りは壁に囲まれていたはずなのに、そんな隔たりは今や何処にもなく、延々と柳緑の木々が続くのみである。
なんだよ、これ。
俺はトイレにいたことなどすっかり忘れて、陰部を晒したまま立ち上がり、近くの懸崖へと蹌踉めく。
引き剥がされたような崖端に足を止めた時、悠然と聳え立つ大自然がそこにはあった。
対岸に見える岩肌は雲の陰に隠れ、渓流を集めて広がる川は地平線にまで及ぶ森林を左右に分断している。
俺は突如として眼前に広がった佳景を呆然と俯瞰していた。
この山紫水明、どう見ても元いた世界とは思えない。
うんちをしたら、そこは異世界だったのだ。