恋するリード
コンクールの結果はダメ金だった。
けれども僕たちは満足だ。向上心が足りない、なんて言わないでほしい。今まで万年銀だった我が天降高校吹奏楽部にとって、創部以来の快挙なのだから。
先輩たちはみんないっぱい泣いて喜んで、あとは託したとさっぱりとした笑顔で部を去った。
今は二年と一年の総勢五十四名が現在の我が部の陣容だ。ちなみに男は僕一人。慣れている。中学でも一人だったから。クラスの友人とかからは「ハーレムだ」とか「そんな所によくいれるな」などとなかなかに偏見とやっかみに満ちた冷やかしをよく受けるのだけれど、現実はそれ程ドラマティックにはできていない。
毎日淡々と練習し、曲を作り上げていく。演奏はもちろん楽しいけど、何と言うかな、彼女たちは恋愛対象というより、そう。
「ヒロ、まーたトリップしてるでしょ。ちょっとパート練見てよ」
戦友だ。
いきなり肩を叩かれ、意識を乱暴に戻されたので、僕は少し機嫌が悪い。
「そんなの、パーリーの高原さんの仕事じゃないか。なんで僕が」
「私は集中して吹きたいし、ほらヒロの方が教え方うまいし。なにより部長サマだし」
サマは余計だ。
「部長だからってなんでそんなことまでやらないといけないんだよ。それにヒロって呼ぶなよ、恥ずかしいだろ」
「あら、では相葉弘樹部長。哀れな我がトランペットパートを指導してはいただけないでしょうか?」
大仰にポーズをつけて僕に指導しろという。途端に周りからクスクス笑い声がもれる。トランペットの子だけでなくうちのパートの子達もだ。となりのソプラノサックスの一年を軽く睨むと、首をすくめて自分の練習に戻る。
パーリー。パートリーダーとしての責任をあっさりと放棄した高原志穂は同じ二年生だ。基本的に僕は彼女に逆らえない。戦友である前に、僕が彼女を好きだからだ。そんな僕の気持ちをしってか知らずか、彼女はよく、こういう仕事を僕に押し付ける。
もちろん本人に僕の気持ちを伝えたことはない。周りの誰にも言ったことのないトップシークレットだ。彼女がトランペットで僕がアルトサックス。彼女が後ろの楽器で本当に良かった。前に居たら気になって絶対演奏に集中できない。きっとドキドキして息が持たない。
「わかったよ。本当に、高原は強引だよな」
嬉しい気持ちをぐっと隠して、僕はうんざりしたふりをしながら席を立つ。
パート練習に付き合うのには訳がある。練習の時、僕は七人いるトランペットメンバーの前に立つ。必然的にみんなの顔がよく見える。もちろん彼女の顔も。
そしてパートリーダーと息を合わせて指揮をする。彼女と見つめ合い、息を合わせる。僕の手が振り下ろされるのに合わせて、彼女がトランペットに息を吹き込む。その時、彼女と一体になった気がして、僕はいつもたまらない気持ちになる。
クレッシェンド、デクレッシェンド、スタッカート、裏拍遅れないで。スフォルツァンド大事に。頭揃えて、ファーストに寄り添って。サード、しっかり支えて。
僕は彼女を見つめ、彼女が僕を、僕の指揮を見つめる。僕にとってそれは、 密かな至福の時間。練習の時だけ見ることができる、アップでまとめた濡れたような長い髪。意志の強さを体現したようなすらっとした眉。僕を見つめる勝気な吊り気味の大きな瞳。真剣な表情でうっすら汗を滲ませ、パートを引っ張る凛とした姿。
やっぱり高原は、今日もキレイだ。そして僕は、そんな高原が心の底から大好きだ。
「じゃあ、細かいところを見ていこうか。まずはリハーサル記号Aの――」
今、練習しているのは文化祭のステージ向けのものだ。流行りのポップスを吹奏楽向けにアレンジしたもの数曲と、「アルメニアン・ダンス パートI」。吹奏楽の父、アルフレッド・リードの代表曲と言ってもいいこの曲はアルメニアの民謡五曲からアレンジされているラプソディー。僕が吹奏楽を始めるきっかけとなった曲でもあり、僕には特別思い入れのある曲だ。
でもそれ以上に、この曲を演奏することを高原も喜んでいたことは、僕にとっても望外の喜びとなった。
◇ ◇ ◇
昼休みはいつもの腐れ縁メンバーでご飯を食べることが多い。今日もいつもの四人で丸テーブルを囲んだ。
「なあ、ヒロ。お前、よくあんなところに居れるな」
昼休み、唐突に正面に座るイチが僕に尋ねた。僕は最初何のことかわからず、焼きそばパンを食べようと開けた口を開いたまましばらく考え込んでしまった。
「え? ……あ、なんだ。部活のこと?」
ばかばかしい。好きでやってるに決まってるじゃないか。もちろん、音楽のことだ。
そしてようやく焼きそばパンをほお張れる。うん。おいしい。
「イチだってよく何もしないでそのまま家に帰れるね」
右隣のユージが援護射撃をしてくれた。いいぞ、この不良にもっとなんか言ってやれ。
「俺は無駄なことはしない主義なの! てかイチっていうな。ヒ・ロ・カ・ズ。つか、まだやんのかこのやり取り。いい加減あきたぜ、ユージ」
「はは。そうだな。でも慣れちゃったからさ、もうこの際イチでいいじゃん」
「ああもう、どーでもいいよ、くそ」
二人は僕のクラスメートで中学校からの腐れ縁の悪友だ。
イチ。進藤広一。自称、栄えある帰宅部部長だ。無駄なことをしないのがモットーらしい。でも趣味はもっぱらゲーム。時間の無駄遣いの最たるものだと思うんだけれど。
そして僕を援護してくれたのは田原雄二。ユージだ。こいつはサッカー部。レギュラーって言っていたけど、ポジションはどこだっけ?
「えーっと、ユージってクォーターバックだっけ?」
「えっ、ナンバーエイトとかじゃないの?」
左隣に座るかえでが、話をさらに混ぜっ返す。
「お前らもいい加減サッカーのルール覚えろよ。クォーターバックはアメフトだ。俺はミッドフィールダー。むしろアメフトのポジション知ってる方がレアだよ。てか谷川もバスケ部なんだから、他のスポーツにもちっとは感心持てよ」
小バカにしたような口調でユージが言う。ああ、それそれ。そんなにあきれた顔で見なくてもいいだろ。
「玉蹴りなんかに興味ないからわかりませ〜ん」
隣に座る谷川かえでがムスッとした顔をしながら舌をベッと出し、抗議した。
こいつは僕の幼馴染。家も隣で幼、小、中、高と同じだ。ちなみにイチとユージとは小学校からの付き合いだ。
「お前、嫁のしつけはきちんとしとけ」
ユージが僕に文句をいう。まったく意味が分からない。そして僕にも選ぶ権利がある。
「誰が嫁だ。だいたい、お前だってサックスとクラリネットの違いもわからないくせに」
悔しいから今度はこっちのホームに引きずり込む。
「わかるぜ」
「マジかよ」
意外な答えに、うっかり僕がびっくりした顔をすると、ユージは満足そうにニヤリと笑った。
「とーぜん。黒いのがクラリネットで、金色のがサックスだ!」
そして期待にそぐう答えをしゃべってくれる。
よし、今度黒いサックス持ってきちゃる。ジャズ用でキャノンボールというメーカーのカッコいいサックスを兄が持っている。高いからなかなか触らせてくれないけど。今度どうやってこっそりと持ってくるかなぁ。
「で、なんでブラバンなんかにいるんだよ、男ってお前だけなんだろ?」
イチがつまらない質問にこだわる。
そんなの、決まってるだろ? 好きな音楽ができることと、そこに好きな女の子がいるからだよ。などとキザったらしいことは口には出せず。
「楽しいからに決まってるじゃないか。イチもやればいいじゃない。体格良いから、チューバとかいいな。どうよ」
「そうだな、俺が六十歳になってやる趣味がなかったら、考えるわ」
「そりゃいい。老後の趣味だな」
そういってユージが笑った。
「あなたたち、いつも仲良しさんね。わるいけど、ちょっと相葉くん借りていい?」
そこに割って入ったのは高原だ。ユージが「いいよ、どうぞ」と少し身を引いて僕との間をあける。くそ。イケメンは何をしても絵になるな。
高原はかえでと「やっほー」とあいさつを交わしている。
「腐れ縁と言ってほしい」
僕のささやかな抗議は高原にあっさり無視される。
「はいはい。ね、相葉くん。今日の練習のことなんだけど」
高原は部活以外では僕のことを名字で呼ぶ。以前理由を聞いたけれど、はぐらかされてしまったまま、今に至るまできちんと理由を聞けずじまいだ。
「で、サードの一年なんだけれど、曲の完成度が今一つで」
と高原が楽譜を机に広げ身をかがめる。僕の視界の端に高原のサラサラとした髪が流れ落ちるが見えた。同時に女の子特有のいい匂いが漂う。落ちた髪をかき上げ、耳にかけるしぐさを、僕はぼうっと眺めていた。
「で、手伝ってほしいんだけどどう? ね、ちょっと聞いてる?」
「あ、ああ。うん、そうだね。そこは全員じゃないの」
僕の取り繕った言葉に、高原は大きなため息をつく。
「やっぱり聞いてない。 ヒロっ、相葉君、手伝ってくれるかって聞いてるのに」
「あー、ダメダメ。今、コイツ高原さんをぼーっと見てただけだもん。頭に入ってないよ」
かえでめ、余計なことを。
「あー、今日の夜の警察二十四時の録画、してたかなーって考えてた。ごめん」
「なによそれ」
高原はぷっと吹き出した。
高原が僕に頼んできたことは、サードの一年について、サードだけの練習に付き合ってほしいという内容だった。サードは三人。うち一年が二人だ。なぜセカンドに入れなかったのかと文句の一つも言いたくなるが、そこはぐっとこらえる。
一般的にトランペットのパートはファースト、セカンド、サードの三つに分かれている。ほとんどの場合、ファーストが高音域でメロディーを担当することが多く、サードが低い音域でハモリや裏メロを担当することが多いパートだ。
担当ごとに優劣は、実はあまりない。個人の適性、演奏負担の軽減のために、演奏中にローテーションをすることもままある。
しかし上級生になると、サードを吹きたがらない。大事なパートにもかかわらずだ。理由は簡単、目立たないからだ。
今回の編成ではファースト二年二人、セカンド二年二人、サード二年一人に一年が二人。セカンドの一人を入れ替えるべきだがおそらくは無理だろう。高原もそれを理解して黙っている節がある。まったく、パートリーダーなんてなるもんじゃない。部長ともなればなおさらだ。
ため息をつきたくなるのをぐっとこらえ、不安そうにしている一年ににっこりと笑いかける。
「それじゃ、最初からゆっくり押さえていこうか」
パートの練習も終わり、高原は教室の机を一人片づけようとしていたので僕も手伝う。
ガタガタと机を戻しながら、高原はぼそりと語りだす。
「あの。ごめんね、ヒロ。いつも手伝ってもらっちゃって。練習、できないでしょ?」
「いや、僕は家で練習できるし。それに何度かやった曲だしね」
お互い机を黙々と片付けながら会話を進める。
「そうなんだ。いつもありがとう。ホント助かってる」
とりあえず「気にしなくていい」、と返した。
「先輩が部活卒業して、パーリーになって。六人引っ張って行かなきゃって思ってるんだけどうまくいかなくて。今日もファーストの子に一緒に後輩の練習見てあげようってお願いしたんだけど、練習したいからって、断られちゃって」
机はとっくに片付いてしまっていた。けれども彼女の言葉は止まらない。
僕は沈黙で次の言葉を促す。
「でも私ひとりじゃ見切れないし、でも見ないと曲にならないし。だからあたし」
彼女の声に、徐々に湿り気が加わってきた。
えっ。と思って顔を上げると、高原はうっすらと涙を浮かべていた。かと思うと一筋、頬に零れ落ちた。
「ヒロしか頼れなくて。迷惑ってわかってるけど、でも」
完全に泣き声となっている彼女に、僕はどうすることもできない。だって、女の子が泣く場面に遭遇するなんて、小学校四年生以来だぞ。何を言えばいいのか。何をしてあげればいいのか。そんなのわかるわけない。
「あ、ああ。気にしなくていいよ。僕は大丈夫だから」
オロオロしつつ、そう声を絞り出すのが精いっぱいだった。
◇ ◇ ◇
あっという間に本番当日。演奏の日となった。朝一で一通り確認した後、顧問の先生は後よろしくと、着替えるために慌ただしく職員室に戻った。
「さて〜。じゃそろそろ移動しようか」
音楽室の指揮台の傍らで顧問から引き継いだ僕の第一声だ。本番まであと三十分。体育館に移動する時間だ。
「なにそれ部長。もう少しみんなの気持ちを高めるような言葉とかないの」
クラリネットの子が笑いながら僕に抗議する。だけれどもそれは無理な相談だ。僕にはアレンジスキルが壊滅的に足りない。
「そういうの、苦手なんだよ。それに真面目に何か話そうとしたら、今度は僕が緊張しちゃうから」
今度は音楽室に大きな笑いが起こった。そしてそれぞれ体育館に向かうために席を立ちあがる。
「ま、いいか。部長にそんなこと期待しても難易度高すぎだしねー」
「え、でも相葉先輩もそれなりに頑張ってますよ」
「なにアンタ部長が好みなの」
「誰もそんなこといってませんー」
ああ、みんな好き勝手言いやがって。どうせ対人スキルはゴミレベルですよ。
みんなが忘れ物をしていないか確認して回っていると、不意に声がかかった。
「ヒロ」
聞きなれた声に心臓がドクンとはねた。
「高原。びっくりした。まだ移動してなかったの」
振り返り、にっこり笑う。やばい、舞台の上よりよっぽど緊張する。
「うん。ひとこと、言いたくて。練習、付き合ってくれてありがとう。とってもうれしかった。本番、頑張ろうね」
「ああ、うん。いいコンサートにしよう」
「じゃ、先、行ってるね」
「うん、また後で」
高原は笑顔と残り香をおいて、風のように音楽室を出て行った。
よし、やる気出てきた。
演奏というのはあっという間だ。この『アルメニアン・ダンス パートI』。たった十分余りの本番。膨大な練習時間をその短い時間に結晶させる。
冒頭の主題は『あんずの木』。
最初に金管楽器によるファンファーレ。キラキラとしたトランペットの音が高らかに響き渡る。続いて木管のパッセージ。躍動的なメロディーと装飾的な動機が表情豊かに歌いあげる。
それぞれの楽器が様々な旋律を奏でたのち、やがて静かなオーボエのメロディーに引き継がれていく。
次の主題は『ヤマウズラ』。ヤマウズラがヨチヨチ歩きまわる様子をクラリネットやオーボエ、フルートがかわいらしく演奏し、コルネットのソロに引き渡す。何度か木管同士でついばみ合った後、最後はホルンが締めて終わる。
恋の主題。ある若者がナザンという名の恋人を讃えるための歌。アルトサックスの見せ所だ。快活で、軽やかな愛の歌。
「部長、ここだけいつも妙に色っぽいんだよね」
と言われる部分だ。僕はいつも、密かに高原を想って謡う。色っぽいのは当然だ。
四つ目の主題も愛の歌。女性がアルメニアにあるアラギャズ山と恋人を重ね、愛しく思うさまをトランペットやユーフォニアムが謡い、木管が後を継ぎさらに優しく奏でる。
背中から聞こえる、高原の雄大な雰囲気のトランペットが、優しく耳に心地いい。
曲ももはや終盤。何度も練習した曲。意識せずとも指が勝手に動いてくれる。四分の二の楽しい旋律。同じ音型の繰り返しは、登場人物が笑っているところを表している。クラリネットやフルートが早いパッセージを紡ぎ、多くの楽器が面白おかしく踊る曲。
だがいよいよ楽しい時間も終わる。先ほど僕が吹いたメロディーを、高原が持ち替えたコルネットでなぞる。全員で陽気な音楽を作り上げ、頂点に達したところで木管とホルンのグリッサンドの後、金管の八分音符の連なりで演奏は終了した。
直後割れんばかりの拍手。この瞬間がたまらなく好きだ。顧問に促され全員立ち上がる。
いつもそうだが本番が終わると汗でぐっしょりになる。荒い息を整えながら、礼をするとゆっくりと緞帳が下がる。
文化祭コンサートは成功裏に終わった。最高だ!
思わず僕は高原に振り返った。僕に気づいた彼女は、ニコッと笑顔をくれた。超、最高だ!
演奏が終わっても文化祭は終わらない。クラスの出し物の当番があるからだ。ウチのクラスは街の成り立ちの展示。その展示物の説明係として駆り出されている。分担は三十分。これがとてつもなく長い。早くほかのクラスの展示を見に行きたいのに。
何気なく窓の外、校舎の中庭を見るとウチのクラスの連中がいた。直後、冷や水を掛けられた気分になった。
じゃれ合うように歩く男女。ユージと、高原。周りの連中も楽しそうだ。
何やら話しながら、その一団は体育館のほうに歩いて行った。三年生のバンド演奏でも聞きに行くのだろうか。先ほどまでのカラフルな景色は一転、白と黒、あとちょっと青の味気ない色味になってしまった。
その後も部活のことやら何やらに呼びつけられ、結局最後まで、他のクラスの展示を見ることは叶わなかった。
◇ ◇ ◇
十一月も終わりに差し掛かった時だった。部活もしばらくは目立った活動もなく、基礎練習や一部の部員だけが参加する。
バッドニュースを運んでくるのはいつもこいつだ。朝の朝礼前に、イチの奴が僕の前の椅子に向い合せで座るなり口を開いた。
「なぁなぁヒロ、聞いたか?」
「何をだよ」
「ユージが高原さんに告ったらしいぜ」
「えっ」
「いや、まあ噂なんだけどな。実際のところは俺にも話さないからさ、アイツ」
イチの目線の先には別の男子と話しているユージの姿があった。
教室の前に目を向けると、自分の椅子に座って単語帳を広げている高原の後ろ姿が見えた。
「なになに、朝から男二人でひそひそ話? いやらしいなぁ」
かえでだ。こういう時に限ってこいつは絡んでくる。今は正直そっとしておいてほしかった。
「おう、おっす。谷川」「おっす、イッチ」
毎朝恒例の掛け合いをしてから話に戻るイチは、案外段取りにこだわるタイプかもしれない。
「噂だけどな。田原が高原さんに告ったらしい」
「ええ? それホント?」
そしてチラっと僕を見る。だからなんでそこで僕を見る。
「ま、あくまで噂だけどな。けど案外お似合いかもな。両方イケてるからなぁ」
ユージを眺めながらイチがつぶやく。
「それを言うなら、アタシら全員イケてるっつーの」
かえでがポーズをとりながら口を尖らせる。
「谷川、お前。やさしいな。一目見た時から決めてました、俺と付き合ってくれ!」
「まずはジャムおじさんに頭、作りなおしてもらってから来い」
高原はユージと付き合ったりするのだろうか。二人の掛け合いと笑い声が、とてつもなく遠い世界のことのように、うすぼんやりと聞こえた。
放課後になってもなんだか体が重く、部活に出る気が起きなかった。
部活に出たら高原に会ってしまう。今、彼女にあってもいつものように話をできる自信がない。
この日、僕は本当に久しぶりに部活をずる休みした。
僕は所詮、彼女の幸せを素直に祝福できない小さい男だった。そしてさっさと思いを伝えなかった自分に、激しく怒りを覚えた。
でも一晩考えて、何とか気持ちに整理ができた気がする。二人はお似合いのカップルになるだろう。友人同士、本当にそうなら、喜んでやれると思う。
次の日は普通に部活に行くことができた。次の日も、その次の日も。
高原とも普通に話せた、と思う。必要以上に話さないように、でも冷たくならないように。
部活に波風が立たないように。慎重に、本当に慎重に。
そうした結果。中学に入ってからこっち、かかってなかった風邪を引いた。
「皆勤逃したなぁ」
三十八と表示している体温計を恨めしく見上げ、僕は持っていた体温計ごと右手をベッドに投げ落とす。午前中に病院には行ったが、インフルエンザではないらしかった。一週間も休んでしまったら勉強の進度にかかわる。今日一日でしっかり休んで治し切らないと。熱でうまく働かない頭がもどかしく、薬の影響もあってか、早々に眠りに落ちた。
「ヒロ〜、かえでちゃんきたわよ」
母さんの声に、はっと目を覚ましたがまだぼうっとしている。はっきりしない意識の中、何とか時計に目をやれば、時間は十六時を五分ほど過ぎていた。間もなくドアをノックする音が響く。
「ヒロ、起きてる? 入るよ」
僕の返事を待たずに、そろり、ドアが開いた。なぜかとっさに僕は寝たふりをしてしまった。
直後にするり、とかえでが部屋に入ってくる気配がした。その後すぐにパタン、と小さくドアが閉じる音がした。
「なんだ、寝てるのか」
なんだか気が抜けたような声でつぶやくと、かえではそっと僕のベッド脇に歩み寄ってきた。
そのまま僕を見下ろしているような体勢でいるのが夕日の影の具合で分かった。
「ね、ヒロ。寝てるの?」
もう一度そっと確認してくる。もう寝てるんだからさっさと帰ればいいのに。
「ねぇ、ヒロ。もう十二年だよ。一緒にいるの。いい加減、気づいてもいいんじゃない?」
そしてベッドの端に体重をかけたらしい、沈み込むような感覚を感じる。同時に瞼の裏を覆う影の色が濃くなってくる。さらにどんどん影が濃くなり不意に。
ちゅ。
触れるか触れないか。唇に触れた感触があったかと思うとパッと影は晴れた。
「バカ。鈍感」
それだけいうとまた静かに部屋を出て行った。
「あら、かえでちゃんもう帰るの?」
「ええ、よく寝ていたようなので、起こすの悪いかなって」
階下で母さんとかえでが話しているのが小さいながらも聞こえる。僕は唇に指をあて、先ほどの感触を反芻する。心臓はこれでもかというほど早鐘を打ち、熱のせいなのか、頭はますますぼうっとして。けれどもしばらくは眠れそうになかった。
◇ ◇ ◇
あれからも高原とはいち部員として以上に話す機会は特になく、かえでもあれから変わったそぶりは見せない。
先輩への送別コンサートも無事終わり、今年の部活イベントはすべて消化したこともあり、部員たちの関心事はもっぱらクリスマスだった。
僕はというと高原と、かえでのことを交互に考え、思考の迷路に囚われつつあった。
そんなとき、高原が話しかけてきた。
「あの、ヒロ。ちょっと、いいかな」
「えっ、あ、うん」
まさか、高原から話しかけてくるなんて思っていなかったから、僕はきっと素っ頓狂な声を上げていたと思う。実際周りの部員がクスクス笑っていた。
高原は僕をさっきまでパート練習で使っていた教室に誘った。
「急に呼び出して、ごめんね」
高原は謝りながら、教室のドアを閉めた。「気にしないで」と僕は答える。
「部のイベントも終わって、最近、あんまり話せてないなって」
教室の奥に歩きながら、僕を見ずに若干早口で話す。
「そう、だね」
「先輩への送別コンサート、良かったね」
今度は振り返って、僕を見ながら。やっぱり早口だった。
「あ、ああ。そうだ、ね」
どうして今までのように話せないんだろう。あんなに高原と話したかったはずなのに。
沈黙が痛い。高原と話せて、嬉しいはずなのに、なんでこんなに辛いんだ。
「ね、今さ。やっぱり、かえでと付き合ってるの?」
高原は手をぎゅっと握り、視線を左右にさまよわせながら、僕に聞いてくる。そんなことを聞くために僕を呼んだのか?
「え、なんでそういう事になるんだよ」
多少いらだちを感じながら、僕は答えてしまった。
「だって、いつも一緒だし」
少々非難めいた色が聞こえたのは気のせいだろうか。いらだち紛れに、ついつい強い言葉で応酬してしまう。
「別につきあってないし。それに高原こそ」
ユージとつきあってるんだろ。という言葉は飲み込んだ。
「わたしが、なに。まさか、噂、信じてるの。私が田原くんと付き合ってるって」
「違うのかよ」
「違うよ、告られたけど、わたし、キッチリ断ったもん。ことわったんだよ?」
そこで彼女は大粒の涙をながした。
「話ができなかったの、すごく辛かった」
僕は頭をハンマーで殴られた。それくらい、彼女の言葉はうれしかった。と同時に抑えきれないほどの罪悪感が僕の心を覆い始めた。
「ごめん。でも僕もそうだった。高原ときちんと話したかった。でもユージと付き合ってると思って。迷惑かなと思ってさけてた。ホントごめん」
「そんなんじゃイヤ」
ハンカチで片目を押さえながら、高原は抗議の声を上げる。
「え?」
「そんな言葉じゃ納得できない」
さっきぬぐったはずの涙は、とめどなく彼女の頬をつたう。
夕暮れの日の光に照らされ、彼女の涙がキラキラと輝く。まるで心の宝石を涙に変えて流しているかのようだ。
ああ、泣きはらした顔もとっても可愛い。今なら自信を持って言える。僕は本当にこの人が好きなんだ。
「カッコ悪いなぁ、僕」
ようやく出せた言葉がこれだった。ホントさえてない。
「そんなこと、ないけど」
高原はそんな僕のさえない言葉をしっかり掬って、また僕に優しく投げ返してくれる。
「うん。じゃ言い換えるね。高原さん。ずっとずっと。初めて会った時から今まで、ブレない想いを君に伝えます」
「はい」
高原は僕の改まっての言葉に大事な何かを感じてくれたのか、しっかり向き直って、胸に手を当て、頷いてくれる。夕日が、さらに赤みを増して教室を染め上げる。
絶対、茶化してはいけない。逃げてはいけない。僕の本当の気持ちを正直に、真摯に伝えたい。
「僕、相葉弘樹は、高原志穂、君の事が好きです。それは何に対しても一生懸命なところ。いつもみんなの中心にいて、周りを明るくしてくれる太陽なようなところ」
「うん」
「変に意地っ張りなところ、負けず嫌いなところ、演奏する姿が綺麗なところ」
「な、なんだか恥ずかしい」
頬を両手で包んで、恥ずかしそうに。少し目を泳がせたけれど。でも、彼女の目は、再び僕をしっかりとらえ、僕の言葉を受け止めようとしてくれているかのようだ。
「まだまだ色んなシホがいて、きっとその度に驚かされて。そんなドキドキをずっと与えてくれそうなところ。いっぱいいっぱいステキなところがあるって思うから」
僕は一世一代の勇気を奮って、彼女の肩にそっと両手を添える。
「そんなシホが好きです。付き合ってください」
精いっぱいの気持ちを込めて、思いを伝える。
「ヒロぉ。こんなのでいいの? うるさいよ、面倒くさいよ、いっぱい頼っちゃうよ?」
もう高原の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。あとでキレイにしてあげないと。
「僕は、シホじゃなきゃ、イヤだ。ダメかな?」
「ううん、私も、ヒロじゃなきゃイヤ」
また頭の中でいくつもの大輪の花が咲くように、僕の心は高揚感に包まれる。
「それじゃあ」
「うん。よろしくおねがいします。私も好き、ヒロ」
そっと抱き寄せ。徐々にしっかりと抱きしめる。太陽はゆっくりと山陰に隠れ、二人を優しく隠した。