訪問者
静かな執務室にある長椅子に横たわり、ロタールはぼうっと天井を眺めていた。
「ほんとうに、静かだなぁ……」
彼の呟きは、音一つない執務室に溶けていく。
領主の仕事をクルトに一任してから、ロタールは滅多にここに入らなくなった。入ってきても仕事をせず、クルトが仕事をしている傍ら、こうやって長椅子に横たわり、居眠りしていた。
紙が擦れる音、羽ペンを動かしている音、インクと本の匂い、そしてクルトの息遣い。
それらはロタールにとって、最高の子守歌だった。不思議と落ち着き、昼寝には最高の環境だ。
子供だった頃も、父の仕事中にここに寝転がっては、昼寝をしていたものだ。父は面倒くさがっていたが、出て行け、とは言わなかった。子供の頃のロタールは不眠症だった。
たとえ仕事の邪魔であっても、少しでも寝て欲しいと思っていたから、寝かしておいてくれていたのかもしれない。
あるいは、眠れない我が子が、自分の傍で良い子で寝てくれるのが嬉しくて幸せだったから、起こしにくかったのか。
多分、両方だ。今のロタールには、あの頃の父親の気持ちが少し分かるような気がする。
音がないからだろうか。横たわっても、全然眠気がやってこない。
その時、扉から、こんこん、という音が聞こえてきた。
「旦那様」
アナの声だ。
「なんだい?」
「アルファ君が起きました」
アルファは保護された後、泣くだけ泣いて、泣き疲れて寝てしまい、客室に運んで寝かしておいていたのだ。
「わかった。向かうよ」
ロタールは起き上がって、執務室を出た。
アナと一緒に、客室に入る。アルファはベッドに腰を掛けて、俯きながら啜り泣きをしていた。
「アルファ君」
声を掛けると、アルファがびくっと肩を震わせた。おそるおそる顔を上げて、ロタールを見ると、顔を歪ませた。
「領主、さまぁ……」
弱々しく自分を呼ぶ。
前会った時は、正直生意気そうな子供だと思っていたのだが、それが見る影もない。無理もないのかもしれない。少年は先ほど、恐怖体験をしたのだから。
アルファの瞳の縁が、みるみるうちに涙で溜まっていく。
「ごめ、な、さいぃ」
口にしたのは、謝罪の言葉だった。
アンジェリカが誘拐されたことに対する、謝罪だろう。
「謝ることはないよ。君、脅されていたんだろう?」
「でも、でも、姉ちゃんがぁぁ」
溜まっていた涙が、ぼろぼろと溢れ、頬を濡らしていく。
ロタールは笑みを浮かべながら、アルファの頭を撫でた。
「大丈夫。クルトが助けに行ったから」
「クルト、様が? 姉ちゃん、たすかるんですか?」
クルトの名前を出すと、涙が少しだけ止まった。ロタールはさらに笑みを深くする。
「ああ。クルトが絶対に助けてくれるから、安心しなさい」
鼻を啜りながら、アルファがこくこくと頷く。涙は一応止まったようだ。
「よし。親御さんのところまで、送り届けよう」
立ち上がろうとすると、アルファがロタールの袖をぎゅっと握った。
「領主さま、おれ、ここで姉ちゃんたち、待ってちゃだめです、か?」
ロタールは目を丸くした後、にっこりと笑った。
「いいよ。皆で帰りを待とうか。アナ、悪いけど、親御さんに知らせてくれないかい? 適当に誤魔化しといて」
「分かりました。アルファ君、君はどこの子なの?」
「お、おれの家は」
アルファが場所を言おうとしたそのときだった。
聞き覚えのある大声が、聞こえてきたのは。
「あの子は……禁止されているというのに」
ロタールは溜め息をついた。
「アナ、この子の家の場所を聞いておいて。僕はあの子の対応に行くから」
「かしこまりました」
ロタールは客室から出て、玄関のほうに向かった。案の定、そこには二日前帰ったばかりのエマが、困り顔の使用人に吠えていた。何故か、乗馬の格好をしている。自分か、クルトを出すように要求しているようだ。
さらに深い溜め息をついて、使用人を助けるべく姿を現す。
「やぁ、トリューゼ嬢。こんばんは」
笑顔で声を掛けると、エマがこちらに振り向いた。
「グレーウェンベルク侯爵、突然の訪問、申し訳ございません」
エマが頭を下げる。
「それで、何の用だい? クルトは今留守だよ」
「今回はクルト様に用はありませんわ」
ロタールは目を見開く。クルトに用がないと言ったのは、これが初めてだ。
「では、どのような用で?」
「アンジェリカ様はおられますか?」
「あの子にどのような御用が?」
仲良くなったと聞いたが、急に来るほどの大事な用事とは何なのか、想像が出来ない。
「御用というより、いるかどうかの確認だけですわ」
「……まるで、いないことを予測しているような言い方だね」
若干、声色が低くなった。だが、エマは怯えている様子もなく、剣呑な目でロタールを見据えた。
「つまり、おられない、ということですか?」
「あの子がいなかったら、君にどんな関係が?」
訊くとエマの顔色が少し悪くなった。
「間に合わなかった……」
「え?」
「アンジェリカ様は、連れ去られてしまったのでしょう? それをクルト様が助けに向かわれたのでは?」
「……どうして、知っているんだい?」
確か、エマの護衛をしていた男が、怪しい男と密会していたと、ヘルツが言っていた。それが関係しているのだろうか。
「わたくしの婚約者、セリウス・ジュータがアンジェリカ様をなにかするような発言をしたと、彼の執事から情報を貰ったのですわ。それを止めに行く前に、アンジェリカ様の安否を確認しに来たのですわ」
「なるほど。目的は訊いていないのかい?」
「目的はさっぱり。わたくしが聞いたのは、家を介さない、彼の独断による、他組織を介入させた犯行であるということ。そして、彼の不可解な発言ですわ」
「どんな?」
「クルト・グレーウェンベルクの婚約者をどうにかしたら、叶えられるのかな。そう呟いていたと、執事は言っておりましたわ」
「叶えられる……?」
ロタールは首を傾げる。
グレーウェンベルク家とジュータ家は、あまり関わったことがないといっても過言ではない。つまり、政敵ではない。クルトもジュータ家のことは知っていても、その一族のことに関わったことがないはずだ。
政治的にも個人的にも、接点はない。叶えられる、とはどういう意味なのか、ロタールには思い付かない。
「アンジェリカ様が今どこにおられるのか、分かっていますか? 教えてくださいまぜ」
「分かっているけど、知って君はどうするんだい?」
「セリウス様を説得します」
「できるのかい?」
「できるのか、できないかではありませんわ。やってみせます」
強く言い放ったエマに、ロタールは目を丸くする。
じっとエマの瞳を見据え、エマもじっとロタールの瞳を見据える。
見つめ合ってしばらくして、折れたのはロタールのほうだった。
「……わかったよ」
エマは一度決めたら、断固として譲らない。彼女が折れるのを待つだけ無駄だ。
肩をすくめて、身体の力を抜く。エマの目が見開かれたが、すぐにぱあっと明るい笑顔を浮かべた。
「本当ですの!?」
「ただし、もうすぐクルトたちが襲撃するだろうから、それの邪魔はしないこと。そして、無理はしないこと。分かったね?」
「もちろんですわ!」
力強く頷くエマに、ロタールは苦笑する。
彼女の性格的に不安だが、約束は守るほうだからそこを信じるしかない。
ロタール自身、彼女に場所を教えることに不安に思ってなどいない。
彼女に場所を教えるのは、何故か自信ありげな彼女に賭けてみたくなったのと、そのほうがいいだろう、という自分の直感に従ったまでのことだった。




